#28 夏季休暇
処置台に置いた左手は、藍沢の意思より僅かに遅れて動いた。
人差し指を曲げたつもりが、中指まで一緒に引きつる。
もう一度試そうとしたところで、向かいから伸びた手に手首を押さえられた。
「動かすのはあと。今は私に預けて」
そう言って一人の女性は、傷口から目を離さずに言った。
黒に近い茶色の髪を襟足で短く結び、濃い灰色の診療着を着ている彼女の名前は真壁灯里
患者がどこで何をしてきたかより、何に傷つけられたかを先に聞く。
その順序に、藍沢は何度も助けられていた。
「ちゃんと繋がってるか気になってな」
「繋がってる。だから、余計なことをしないで」
左前腕に走る傷は浅い。
それに釣り合わない運動障害が、灯里の表情から余計なものを取り除いていた。
倉庫を離れてから、痺れは肘の近くまで広がっていた。
今はそれ以上進んでいないものの、処置台の冷たささえ、厚い布を隔てたように遠い。
「何にやられた?」
「虎」
灯里の手が止まった。
「……動物の?」
「ほかにいるのか?」
「あなたなら、人間につけた妙なあだ名の可能性もあるから」
「今回は本物だ。もっとも、中身までそうかは怪しいが」
藍沢は、肩や前脚に人工部品の入った巨体について説明した。爪が掠めた直後には動けたこと、その後に指が利かなくなったことを伝えると、灯里は採取した検体に識別番号を付けた。
「自分で何か処置した?」
「傷を押さえたくらいだ」
「ほかに身体の変化は?」
「鳥に妙なものを見せられた。光と音を浴びたあと、棚の位置が分からなくなった」
灯里は顔を上げた。
「それ、先に言って」
「腕の方が急ぎかと思ってな」
「急ぎかどうかを判断するために聞いてるの」
照明を向けられ、藍沢は大人しく顎を上げた。
診療室に窓はなかった。壁際の検査装置だけは新しいが、丸椅子の表皮は割れ、戸棚には手書きのラベルが残っている。換気設備の低い音に交じって、奥の冷蔵庫が時折短く唸った。
灯里は藍沢の目の動きを確認し、照明を戻した。
「痺れの範囲は今のところ変わっていない。でも、何が入ったか分からない以上、傷を塞いだから終わりにはできない」
「明日の朝には帰れるか?」
「明日の朝、判断する」
返答の隙を探すように藍沢が彼女を見たが、灯里は取り合わず、傷の周囲を確かめた。
「朝食は?」
「食べられる状態なら出す」
「宿としての評価は保留だな」
「口コミは要らない」
藍沢は笑い、右手で上着の内側を探った。
取り出した端末には、倉庫から抜き出した搬入記録が残っていた。部品の規格、入庫日、輸送に使われた管理番号。必要な情報が保存されていることを確認し、別の記録欄を開く。
灯里がその動きを見た。
「仕事?」
「覚えてるうちに、少し残しておきたい」
「代わりにやってあげる」
藍沢は一瞬だけ彼女を見てから、端末を渡した。
鳥の光と音。虎が飛び掛かる前の姿勢。木箱を避けずに破壊したこと。狭い点検口には入れなかったこと。順に口にすると、戦っている時には整理できなかった出来事が、少しずつ繋がっていった。
「鳥の方は、追ってこなかった?」
「途中で防火扉を挟んだ。向こうが別の出口を使う前に離れたから、追えなかったのか、追わなかったのかは分からん」
灯里はそのまま記録した。
入力を終えても、彼女はすぐには端末を返さなかった。
「また行くつもり?」
「同じ倉庫に用があるかは、まだ分からない」
「場所の話じゃない」
藍沢は左腕へ目を落とした。
蓮見も、こちらを記録していた。何を見られ、どこまで読まれたか。
持ち帰った情報だけを数えて、得をしたとは決められない。
灯里は端末を手の届きにくい台へ置き、寝台の上の薄い毛布を広げた。
*
翌日の午後、第四執行部では、牧野が端末の通知を見て姿勢を正した。
「……ついに来たっすね」
榊が自席から顔を上げる。
「何が?」
「夏季休暇の申請っすよ。そろそろ忘れられてるんじゃないかと思ってたんすよ」
「そんなに気になってたなら、聞けばよかったのに」
「忙しい時に休みの話だけしに行くの、ちょっと勇気が要るじゃないっすか」
御堂が共有画面へ日程表を移した。
「聞いてくれて構わない。申請を出さずに、あとから取れなかったと言われる方が困る」
「今出しまーす」
「希望だけでなく、引き継ぎが必要な案件も一緒に。通常勤務と当番を調整しながら、順番に取ってもらう」
画面には既に会議や出動予定が並んでいた。
侵入事件に関する確認も、その後の捜査も終わっていない。誰かの休暇を入れれば、その間の仕事を誰が受け持つか決める必要がある。それでも、先へ延ばし続ければ空く日が来るという状況でもなかった。
久世は自分の申請画面を開いた。
日付を選ぶところで、指が止まる。
仕事以外の予定を聞かれても、すぐには思い当たらなかった。どこかに行く用事がある者から先に決めた方がいいのではないかと考えていると、御堂に名前を呼ばれた。
「久世も、希望を入れておけ」
「空いている日で大丈夫です」
「調整はする。ただ、予定がないことと、いつでも勤務できることは同じじゃない」
久世が顔を上げると、御堂は既に別の案件へ目を通していた。
隣で牧野が自分の予定表を開いた。
「俺は、でかい風呂に入りに行くっすね」
「どこか遠くに?」
久世が尋ねると、牧野は首を振った。
「いや、近場っす。飯も食えて、上がったらそのまま休めるところ。帰り道まで長いと疲れるんで」
「そこまで近さを求めるなら、家でよくない?」
榊が口を挟む。
「家の風呂は勝手に掃除されないっすからね。あと、足が伸ばせないんすよ」
「なるほど」
「起きる時間も決めず、腹が減ったら食って、眠くなったら寝る。たまにはそういう日が要るっす」
言いながら、牧野は別の日付にも印を付けた。
「それと、新井と飯に行く予定っすね。休みが合えば、ですけど」
「新井さんと?」
「前に、行きたい店の話してたんすよ」
ちょうど入口を通りかかった新井が、その声に足を止めた。
「牧野、あの店、水曜は休みだって」
「マジか。じゃあ別の日にするか」
「そこまでして行きたいんだ?」
「お前が写真見せてきたんだろ。もう食うつもりになってる」
「私もだけど」
端末で候補日を見せた。牧野が自分の予定表と照らし合わせる間、榊が横から尋ねる。
「どんなお店なんですか?」
「炭火焼きの店。前から気になってたんだけど、一人だといろいろ頼めないから」
「残ったら俺が食うよ」
「残る前提で注文するつもりはないけどね」
新井が料理の写真を開くと、牧野はその一枚を指した。
「これも頼もうぜ」
「それ、ほかにも頼むなら多くない?」
「じゃあ店で決めるか。……この日、空いてる?」
「空いてる。休みが確定したら予約しておくね」
「頼む」
新井は久世にも画面を見せた。大きな皿に、切り分けられた肉と焼き野菜が載っている。
「久世、こういうの好き?」
「はい」
「おいしかったら教える。また行けばいいし」
久世が頷くと、新井は片手を上げ、廊下へ戻っていった。
その背中を見送ってから、榊が牧野を見た。
「結構、楽しみにしてるんだ」
「そりゃそうっすよ。写真だけ見せられて、ずっとお預けだったんで」
*
御堂が打ち合わせへ出たあと、榊は自分の端末を操作しながら、久世へ声を掛けた。
「久世さん、映画は観ますか?」
「たまに。最近は観てないかも」
「私もなんです。一本、気になっているのがあって」
椅子を少し寄せ、予告編の画面を見せてくれる。
夜の港を走る車と、老朽化した旅客船。逃走中の男と、事情を知らずに巻き込まれた女が交互に映し出される。派手な爆発のあとで、二人が狭い厨房に隠れ、息を潜めながら言い争っていた。
「こういうの、大丈夫ですか?」
「面白そう」
「よかった。周りに話しても、あまり知られてなくて」
榊は上映期間を確かめたあと、少しだけ指を止めた。
「……よかったら、一緒に行きませんか?」
久世が顔を上げると、彼女は端末を持ち直した。
「休みが同じ日になれば、ですけど。一人だと、今度でいいかと思っているうちに終わってしまいそうで」
「行きたい」
返事が早かったせいか、榊の目が僅かに丸くなった。
「本当ですか?」
「うん」
「じゃあ、日程が出たら決めましょう。上映時間、調べておきますね」
牧野が二人の間を覗き込む。
「それ、俺も気になってきたっす。観たら感想教えてほしいっすね」
「結末まで話していい?」
「そこは普通に遠慮してほしいっす」
榊が予告編を閉じると、久世の端末へ映画の題名が届いた。
リンクを開き、作品紹介より先に上映時間を確認する。
二時間を少し超える長さだった。普段なら、その時間で何が片づくかを考えていたかもしれない。
今は、見終わったあとに榊がどんな感想を話すのかが、少し気になった。
*
遅い昼食を終えて食堂を出たところで、久世は前川と行き会った。
自動販売機の前で、飲み物を片手に端末を見ている。久世に気づくと画面を伏せ、会釈した。
「お疲れさまです」
歩き出した拍子に、久世が持っていた小さなメモ帳から紙片がずれた。
挟んでいた覚え書きを押し戻すと、前川の視線がその手元へ向いた。
「紙でも、メモを取るんですね」
「端末を出すより早い時があるから」
「私もです。あとで整理しようと思って、そのまま増えてしまうんですけど」
前川は鞄の外側のポケットから、自分の手帳を少しだけ覗かせた。
表紙の端に、丸い動物の付箋が貼られている。
久世が目を向けると、彼女は指先で付箋を押さえた。
「これ、駅の向こうの雑貨屋さんで買ったんです。文房具もいろいろあって」
「剥がれない?」
「意外と丈夫です。書くところは少ないんですけど……見つけやすいので」
前川が手帳を開くと、同じ動物が何匹か、別々のページから顔を出した。
久世がそれを目で追うと、彼女は少し照れたように閉じた。
「ほかの形もあるんですよ」
そう言ってから、前川は何かを考えるように口をつぐんだ。
廊下の窓から入る光が、足元へ長く伸びていた。
二人でその上を歩きながら、彼女が改めて尋ねる。
「久世さん、休暇の予定は決まりましたか」
「榊さんと、映画に行くことになった。日付はまだだけど」
「……映画、ですか」
前川の歩幅が僅かに小さくなった。
久世が合わせて足を緩めると、彼女は飲み物の容器を両手で持った。
ラベルの端を親指で撫でてから、顔を上げる。
「それ以外の日は、まだ空いていますか?」
「うん」
「さっきのお店、今度、新しい商品が入るので。私も見に行こうと思っていて」
廊下の分岐へ来ても、前川は曲がらなかった。その場で久世へ向き直り、言葉を続ける。
「もしよかったら、一緒に見に行きませんか。文房具だけじゃなくて、カップとか、部屋に置くものもあるんです」
「自分が行っても、大丈夫?」
「もちろんです」
思いのほかはっきりした返事だった。
前川は一度口を閉じ、今度は少し声を落とした。
「……久世さんが、どんなものを選ぶのかも、見てみたいので」
久世は手元のメモ帳を見た。
必要なものは、近くの店で用が足りればそれでよかった。
部屋に置くものを、誰かと一緒に選ぶという経験はあまりない。
「選ぶのに、時間がかかるかも」
「私もです。いつも何周かしてしまうので」
「それなら、お願いしようかな」
前川の表情がほどけた。
「はい。場所、あとで送りますね」
ようやく第五執行部へ向かって歩き出したが、数歩先で振り返った。
「お休みが決まってから、日付も相談させてください」
「分かった」
今度こそ去っていく彼女を見送り、久世は端末を取り出した。
映画の下に、雑貨屋、と入力する。仮登録のままの二つの予定を眺めてから、画面を閉じた。
*
午後、榊と第三執行部へ資料を届けに行くと、三科の机を二人の職員が囲んでいた。
「三科さん、人数はこれで確定していいですか?」
「まだ一人、返事が来ていません。今日中に確認します」
「二軒目はどうしましょう」
「まず一軒目を決めましょう。そこが取れなければ、集合場所も変わります」
三科は端末から顔を上げ、入口の二人に気づいた。
資料を受け取って保存先を確認すると、職員たちは礼を言い、自席へ戻っていく。
「皆さんで出かけるんですか?」
榊が尋ねた。
「同じ日に休みが取れた者で、食事に行くことになりました。同僚と後輩から声を掛けられたんですが、いつの間にか私が人数をまとめています」
「三科さん、そういうの得意そうですもんね」
「そう見えることと、引き受けたいことは別なんですが」
言葉ほど困ってはいないらしく、三科は届いた返事を確認し、人数欄を更新した。
近くの席から、先ほどの後輩が顔を上げる。
「お店に連絡するのは自分がやりますので」
「お願いします。開始時間と、人数変更の期限も確認してください」
「はい」
榊が久世の方へ小さく笑いかけた。仕事をしている時と似ているが、机の上にあるのは捜査資料ではなく、料理の写真だった。
隣では、東条が椅子を傾けたまま何かを読んでいた。
「東条さんは行かないんですか?」
久世が聞くと、彼は顔を上げた。
「その日は外にいるかもしれないからな。時間が合えば寄る」
「予約が必要なので、前日までには決めてください」
三科に言われ、東条は曖昧に頷いた。
「どこに行くんですか?」
「まだ決めてない。歩いて、気になるところがあったら入る。途中で別の場所に行きたくなるかもしれないし」
「それで前回は、集合時間に反対方向の駅にいたんですよね」
「あれは乗り換えの途中に面白そうな店があったんだよ」
「今回は到着できる時刻を連絡してください。今いる店の写真だけ送られても、席は空けておけません」
東条は口元を曲げ、ようやく椅子を戻した。
「分かった。夕方までには戻るつもりで動く」
「では、参加でよろしいですか」
「……そうだな。入れといてくれ」
三科が名簿を更新すると、東条は横から画面を覗いた。
「この店、定食もあるのか」
「ありますよ。野菜の付かないものを探す前に、集合場所を確認してください」
「まだ何も言ってないだろ」
言い返しながらも、東条は送られた住所を開いた。
久世が部屋を出る時には、既に周辺の地図まで広げていた。
*
廊下の案内板の前では、九条と白石が話していた。
九条は榊たちに気づくと、手元の画面へ視線を誘うように身をずらした。
「第一の人たちで温泉なんだって」
白石が微笑む。
「休みの重なった何人かで、一泊だけです。神谷班長にも声を掛けていますが、まだ調整中で」
「どの辺りですか?」
榊に尋ねられ、白石は宿の写真を見せた。
木々に囲まれた露天風呂と、川に面した客室。
窓際には椅子が二脚置かれ、その向こうに低い山並みが見えた。
「普段は予定を詰める方が多いので、今回は宿に着いたら何もしないことになっています」
「何もしないって、ちゃんと決めたんだ」
「決めておかないと、近くの観光地を全部回る案が出てきますから」
九条が声を立てて笑った。
「昼間からお風呂に入って、夕食まで部屋にいるくらいでちょうどいいんです。誰かが散歩したくなったら、その人だけ行けばいいので」
「私、宿の朝ご飯が好きです」
榊が食事の写真を拡大すると、白石も頷いた。
「分かります。普段よりしっかり食べてしまいますよね」
久世は二人の肩越しに、小鉢の並んだ膳を見た。
牧野が聞けば、それだけで行き先の候補に加えそうだった。
写真を閉じた白石が、九条へ尋ねる。
「九条さんは、どこかへ?」
「電化製品を見に行こうかな。新品も見るけど、中古の店が面白いんだよね。前の型にしか付いていない機能とか、見たことのない付属品とか」
「何か買い替えるんですか?」
「買い替える予定はないよ」
久世が少し考えていると、榊が横から言った。
「でも、帰る時には何か増えてるんですよね」
「美月ちゃん、よく分かってるね」
「置く場所はあるんですか?」
「大きさを見てから考える」
「買う前には考えるんですね」
「持って帰れなかったことがあるからね」
白石まで笑い、九条は悪びれずに肩を竦めた。
「配送を頼めばいいと思ったら、家のどこに置くかは別問題だった」
「何を買ったんですか?」
久世が尋ねると、九条は楽しそうに目を細めた。
「そこ、聞いてくれる?」
「九条さん、その話、長くなりますよね」
榊に言われ、九条は時計を見て残念そうに息をついた。
「続きは今度にしよう。久世くんは、休みの予定できた?」
「映画と、買い物に行きます」
「いいね。何か面白いものを見つけたら教えて」
久世は頷いた。
まだ選んでもいないものに、帰ってから話す相手ができていた。
*
数日後、休暇の日程が決まった。
御堂から確定した日程表が送られ、久世は自分の休みを確認した。隣で榊も端末を開いている。
「上映時間、二つあるんですけど……午後の方でも大丈夫ですか?」
久世が頷くと、榊は候補を送ってくれた。
「それなら、その前にお昼も食べませんか。映画館の近くに何軒かあるので」
「そうしよう」
「苦手なものってあります?」
「特には」
「じゃあ、いくつか探しておきますね」
任せきりになるのが気になり、久世も映画館の周辺を調べた。店の候補は多く、何を基準に絞ればいいか迷った末、営業時間と映画館までの道順を確かめる。
一軒を送ると、榊がすぐにこちらを見た。
「ここ、私も見てました」
「奇遇」
「はい。じゃあ、ここにしましょう」
決まってしまえば短いやり取りだったが、久世は少し肩の力が抜けた。
前川とは、別の日に予定が合った。
送られてきた店の写真には、木の棚に並ぶカップや小皿、窓際に吊るされたガラス飾りが写っていた。文房具の棚には、以前見せてもらった付箋もある。
『見るだけでも大丈夫なお店なので、気軽に来てください』
何を買うか決めていないことまで、察してくれたような文章だった。
久世は場所を確認して返事を送り、当番を引き継ぐための書類をまとめた。
休みの間に確認が必要になりそうな項目へ、参照先を添えておく。
夕方、その書類を見た牧野が頷いた。
「助かるっす。これなら俺でも迷わないっすね」
「分からないところがあれば、連絡を」
「まずはこれ読むっすよ。休みのたびに呼び戻してたら、お互い何もできないんで」
牧野は書類を保存し、椅子から立ち上がった。
「結局、予定できたんすね」
「はい。映画と、買い物に」
「いいじゃないっすか。俺の風呂より、ずっと活動的っすね」
「牧野も、食事に行くんだよね?」
「そっちも決まったっす。予約取れたって、新井から連絡来たんで」
端末を掲げたあと、牧野は鞄を肩に掛けた。
「じゃ、お先っす」
久世はその背中を見送り、机に残った資料を引き出しへしまった。
*
エレベーターの前では、鳴海を見かけた。
「帰るのか」
「はい」
二人で乗り込むと、鳴海の手元の紙袋が僅かに揺れた。
側面には菓子店らしい名前が印刷されている。底が傾かないよう、持ち手を短く握っていた。
「休暇は、どこかに行くんですか」
「行きたい店はある」
「菓子の店ですか」
鳴海は久世を見てから、自分の紙袋へ目を落とした。
「……それもある」
久世は頷いた。
それ以上説明する様子はなかったが、鳴海が甘いものの入った袋を持っていることに、不思議と意外さは感じなかった。
「お前は」
「榊さんと映画に。別の日に、前川さんと買い物へ行きます」
「そうか」
鳴海は階数表示へ視線を戻した。
少し間が空いてから、久世が口を開く。
「雑貨の店には、あまり行ったことがなくて」
「何か必要なのか」
「まだ、分かりません」
「なら、見てから決めればいい」
簡潔な返答だった。
久世は、前川から届いた「見るだけでも大丈夫」という言葉を思い出した。
何を買うか決めずに店へ行くことを、自分だけが難しく考えていたらしい。
到着を知らせる音が鳴り、扉が開いた。
玄関へ向かいながら、鳴海が紙袋を持ち直す。
「気に入ったものがなければ、買わなくてもいい。食い物なら勧められるが」
「その店も、教えてもらえますか」
「ああ」
外には昼間の熱が残っていた。
庁舎の前で別れたあと、久世の端末へ店の名前が届く。地図を開くと、前川に教わった雑貨屋から、それほど離れていなかった。
場所を保存したところで、もう一件通知が表示された。
《個別強化訓練・招集通知》
今度は局からだった。
指定された開始日は、休暇期間のあとになっている。
集合場所は訓練区画。装備を携行し、詳細は当日説明する旨が記されていた。
久世は歩道の端へ寄り、内容を読み直した。
通常の訓練予定とは別に届いた、自分を対象とする通知だった。
何を求められているのか、文面だけでは分からない。
集合時刻を登録し、必要事項に見落としがないことを確かめる。
予定表には、映画館の名前、雑貨屋までの経路、訓練区画の番号が並んだ。
画面を閉じかけた時、榊からメッセージが届いた。
『席、真ん中辺りで大丈夫ですか?』
久世は短く返した。
『うん。楽しみにしてる』
送信したあとで、その文章をもう一度見た。付き合いで添えた言葉ではなかった。
前川との待ち合わせにも、鳴海に教わった店にも、まだ知らない時間がある。
端末をしまい、駅へ向かう人の流れに戻った。
改札へ急ぐ足音の中で、久世は映画の予告編に出ていた、あの二人の言い争いを思い出していた。
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