#25 過去の約束
新井香が合同試験の実施予定を確認するのは、これで何度目になるだろう。
端末に表示されている内容は、数日前から変わっていない。
《第三試験:中止》
《再実施日程:未定》
新井は画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「……せめて、いつ頃になるかくらい決めてよ」
訓練施設で発生した襲撃事件について、詳細は知らされていない。
ただ、複数の負傷者が出ており、第三試験の継続が困難になったという事情は理解していた。
不満があるとすれば、試験を中止した判断そのものではない。
そこへ至るまでに積み重ねてきた時間が、何の見通しもないまま宙に浮いてしまったことだった。
合同試験は、希望すればいつでも参加できるものではない。
部門ごとの推薦や勤務評価が必要で、通常の業務と並行して準備を進める必要もある。
新井にとって、今回の試験はようやく掴んだ機会だった。
もちろん、試験を通過しただけでネームド保持者になれるわけではない。
その先にも適性審査や装備への適合確認が待っている。
だが、今いる場所から前へ進むためには、まず目の前の機会をものにする必要があった。
「……考えてても仕方ないか」
新井は通知を閉じ、第二執行部の捜査資料を呼び出した。
画面に並んだのは、押収された違法特殊義肢の流通に関する記録だった。
異なる企業名で登録された複数の荷物が、同じ配送業者を経由している。
納品先もそれぞれ別の住所になっていたが、搬入に使用された車両の識別情報には共通点があった。
新井は取引履歴を時系列に並べ直し、不自然な経路を一つずつ洗い出していった。
目の前の情報に集中している間は、余計なことを考えずに済む。
書類上は別々の取引であっても、実際には同じ人物が手配している可能性がある。住所、時間、支払い方法を突き合わせれば、表面上の違いに紛れた共通点が見つかることも珍しくない。
新井は一件の配送記録で指を止めた。
「……あった」
三つの企業が使用していた搬入車両が、同じ日に同じ倉庫へ出入りしていた。いずれも短時間の停車で、荷物の引き渡し記録は残っていない。
新井は関連資料をまとめ、担当案件の共有領域へ登録した。
《RELATED TRANSACTION:DETECTED》
《ADDITIONAL VERIFICATION:REQUESTED》
情報を送信したところで、ようやく椅子の背もたれへ身体を預ける。
時計を見ると、予定していた作業時間を大幅に過ぎていた。
仕事に没頭していれば、少しは気が紛れる。
しかし、手を止めた途端、試験のことが頭を過ぎるのだから厄介だった。
「……ほんと、しつこいな。私」
自分に呆れながら呟いた時、机の引き出しに入れていた私物が目に留まった。
使い古された、小さな写真だった。
今より少し若い自分と、その隣に立つ一人の執行官が写っている。
写真の端は何度も触れたせいで擦り切れ、当時の所属を示す文字も薄くなっていた。
それでも、そこに写る表情だけは鮮明だった。
『いつかさ、二人ともネームドになろうぜ』
不意に、懐かしい声が蘇った。
思い出したのは、まだ執行官として十分な経験を積んでいなかった頃のことだ。
任務を終えた帰り道、相棒が突然そんな話を始めた。
『何それ。そんな簡単になれるわけないじゃん』
『だから目指すんだろ。俺たちがもっと強くなれば、助けられる人だって増える』
『それで?』
『この国を、少しでも良くしていくんだよ』
新井は当時の自分が、どんな顔でその言葉を聞いていたのか覚えている。
大げさな理想だと思った。
現実を知らない人間が口にする、安っぽい正義にも聞こえた。
けれど、相棒は笑っていなかった。
だから新井も、冗談では返さなかった。
『……いいよ。じゃあ、約束ね』
あの日、二人は本気だった。
この国を変えられるほど強くなろうと、疑いもなく信じていた。
新井は写真を裏返し、引き出しへ戻した。
今となっては、ずいぶん無謀な約束だったと思う。
それでも、忘れるつもりはなかった。
*
「新井、まだ残ってるん?」
聞き慣れた声に顔を上げると、執務室の入口に牧野征士郎が立っていた。
大柄な体格に似合わない気安い表情で、片手には第四執行部からの確認資料を持っている。
「牧野じゃん。どうしたの?」
「押収装備の引き継ぎで確認したいことがあって。第二の担当に聞こうと思ったんだけど、もうほとんど帰ってて」
「それ、こっちで見られるよ。貸して」
新井が手を伸ばすと、牧野は礼を言って資料を渡した。
必要な項目を確認し、引き継ぎ先を修正する。数分も掛からない作業だったが、その間、牧野は何か言いたげに彼女の様子を眺めていた。
「……何?」
「いや、珍しいなと思って」
「私が仕事してるのが?」
「そういう意味じゃないけど」
牧野は苦笑した。
「最近、ずっと残ってるって聞いたからさ。試験のこと、まだ気にしてるの?」
新井の指が止まった。
「……そりゃ、気にするでしょ」
「そうか」
「せっかくここまで来たのにさ。中止は仕方ないとしても、次がいつになるか分かんないっていうのが、一番きつい」
牧野は頷いた。
「ネームドか」
新井は返事をしなかった。
牧野とは長い付き合いになる。
今でこそ所属する執行部は違うが、互いに経験の浅かった頃には、同じ任務へ参加したこともあった。
その中には、二人とも積極的に話題にしない出来事がある。
牧野は少し考えるように視線を落とした。
「……あいつとの約束、まだ覚えてるんだな」
新井は顔を上げた。
普段なら、余計なお世話だと笑い飛ばしていただろう。
だが、今の牧野を前にすると、そんな言葉は出てこなかった。
「忘れるわけないじゃん」
新井が答えると、牧野は静かに頷いた。
二人の間に、しばらく沈黙が落ちた。
牧野が何気なく姿勢を変えた時、その表情がほんの僅かに硬くなる。
あの日の任務で負った傷が、今も彼の身体に残っていることを、新井は知っていた。
「……ねえ、牧野」
「ん?」
「たまにさ、思わない?」
新井は机の上で両手を組んだ。
「あの時、私たちのどっちかがもっと強かったら、何か変わってたんじゃないかって」
牧野はすぐには答えなかった。
やがて、いつもの軽い調子を少しだけ抑え、口を開いた。
「……考えたことは、ある」
新井は視線を落とした。
「だよね」
あの任務について話すのは、随分と久しぶりだった。
当時のことを正確に覚えている人間は、もう多くない。
けれど、少なくともここには二人いる。
そして、二人とも知っていた。
あの日、三人で向かった任務から、帰ってきたのは二人だけだったことを。
*
朝倉陽介。
新井香の相棒であり、第二執行部の期待の新人と言われていた。
負けず嫌いで正義感が強くて、いつも仕事に熱心だったのを牧野は覚えている。
牧野は新井の向かいに椅子を引き寄せ、ゆっくりと腰を下ろした。
執務室には空調の低い駆動音が響き、廊下を行き交う職員の足音が時折聞こえてくる。
勤務時間を過ぎた第二執行部は、昼間の慌ただしさが嘘のように静まり返っていた。
「……最後の任務の時もさ」
新井が静かに口を開いた。
「出発する前、陽介はいつも通りだったんだよね」
「そう見えたな」
「私、何か変わったことなかったかなって、後から何度も考えたんだけど……結局、何も思い出せなくて」
牧野はすぐには答えなかった。
朝倉と共に参加した三度の任務。その最後の日だけが、今もほかの記憶とは違う重さを持っている。
現場で何が起きたのか、すべてを把握できていたわけではない。記録を読み返したところで、分からないことの方が多かった。
「俺も、あいつが何考えてたのかまでは分からないよ」
牧野は言った。
「ただ、あの時、俺たちは運が悪かったんだよ」
「……うん」
新井は俯いた。
今でも忘れられない瞬間がある。
朝倉の声。
何かを伝えようとした表情。
そして、二度と戻ってこなかった時間。
それらを一つずつ思い返せば、いくらでも後悔する理由を見つけられた。
牧野が姿勢を変えようとして、僅かに顔を顰めた。
新井はその変化に気づいた。
「……あの傷、まだ痛むの?」
「たまにな。もう大したことないよ」
「ちゃんと診てもらってる?」
「診てもらってるって。心配しすぎだろ」
「心配くらいするよ。あんな怪我したんだから」
牧野は困ったように笑った。
あの日の任務で負った傷は、今も彼の身体に残されている。
普段はそれを意識させることもなく、第四執行部の現場要員として仕事を続けているが、新井には彼が負傷した時の記憶があった。
「……私、あの時何もできなかった気がするんだよね」
「またそれか」
「だって、陽介は死んじゃったし、牧野も大怪我したし。自分だけ普通に立ってたのが、ずっと嫌だった」
「でも、お前がいなかったら、俺はあそこから帰ってこられなかったかもしれないだろ」
「……何それ」
新井は返す言葉を探したが、結局何も言えなかった。
牧野は、あの日の出来事を忘れろとは言わない。
自分が覚えていることがすべて正しいとも言わなかった。
ただ、彼自身が見ていたものを、そのまま伝えている。
「……牧野ってさ」
「ん?」
「たまに、妙にいいこと言うよね」
「たまにって何だよ」
「褒めてるんだから素直に受け取りなよ」
「それ、褒め方に問題あるだろ」
二人は小さく笑った。
しばらくして、新井は机の上に置いていた端末へ目を戻した。
合同試験の再実施日程は、未定のままだった。
「陽介との約束もあるけど、それだけじゃないんだよね。今の自分にできないことがあるって、分かってるから」
新井は一度言葉を止めた。
「次に同じようなことが起きた時、何もできないまま終わりたくない」
牧野はその表情を見て、静かに頷いた。
「だったら、試験が再開するまでできることをやればいいだろ」
「……そうだね」
「訓練なら付き合うよ。俺も身体動かしたいし」
「言ったね? 後で嫌だって言っても知らないから」
「おい、少しくらい手加減しろよ」
「無理」
「即答かよ」
新井は笑った。
その顔を見て、牧野もようやく肩の力を抜いた。
朝倉が生きていれば、二人のやり取りを聞いて何と言っただろう。
新井には、すぐにいくつかの言葉が思い浮かんだ。
けれど、それを牧野に説明することはしなかった。
新井は端末を手に取り、未定と表示された通知を閉じた。
待っているだけでは、約束には近づけない。
ならば、今できることを続けるだけだった。




