#22 死者からの
全局合同執行試験の中止から、二日が経過していた。
第三演習棟の一部は依然として立ち入りが制限され、施設内では復旧作業と警戒態勢が続いている。
試験の再開時期についても正式な発表はなく、受験者たちは未完了となった評価の取り扱いが決まるまで、各執行部の通常業務へ戻るよう指示されていた。
侵入事件については、御堂彰子からの正式な依頼を受け、第三執行部が監視映像や通信記録の解析に着手している。しかし、侵入者の身元や目的に関する新しい情報は、まだ報告されていなかった。
その一方で、被害を免れた執行部では、事件以前と変わらない日常が戻りつつあった。
捜査資料の確認、所轄警察との連絡、継続案件の進捗報告。
執行局の活動は、一つの事件が解決しないからといって停止するわけにはいかない。
第一執行部もまた、そうした日常の中にあった。
「……神谷班長、少しいいですか」
執務室の扉を開けたのは、一人の女性執行官だった。
肩より少し長い栗色の髪を後ろでまとめ、片手には薄型の端末を持っている。
整った顔立ちには穏やかな印象があるものの、相手を見据える目には、
些細な変化も見逃さないような鋭さがあった。
白石志穂。
第一執行部に所属する捜査官で、関係者への聞き取りや供述の照合を主に担当している。
先入観を持たずに相手の話を聞くことを重視する一方、
証言に生じた小さな不整合を拾い上げることにも長けていた。
神谷直人は作業していた端末から顔を上げた。
「どうした?」
「〇〇県警から、少し妙な照会が届いています。通常の犯罪相談として受理された案件なんですが、確認を進めるうちに、こちらへ回すべき内容が見つかったそうです」
「特殊技術が関係しているのか?」
「その可能性があります。ただ、正直なところ、どこから説明すればいいのか迷う案件でして」
白石は端末を差し出した。
神谷が受け取ると、画面には一件の保護要請に関する情報が表示されていた。
申請者は、水原直紀。三十六歳。
民間の医療機器開発会社に勤務する技術者で、
特殊義肢の運動制御システムに関する研究へ従事していた人物だという。
「保護要請の内容は?」
「本人の生命に危険が迫っているため、速やかな身柄の保護を求めるというものです。申請は今朝七時十六分、所轄の緊急保護受付システムへ送信されています」
「脅迫の具体的な内容は?」
「そこが問題なんです。申請文は短く、相手の名前も記載されていません。ただ、通常の脅迫案件とは少し違う表現が含まれていました」
白石が画面を操作すると、送信された文章が表示された。
『未認可の義肢制御装置に関する情報を保持しています。関係者から接触を求められていますが、応じることはできません。身の安全を確保したいので、至急保護をお願いします』
神谷は文章を読み終えると、表示されている申請者情報へ視線を移した。
「未認可の義肢制御装置か。勤務先との関係は確認したのか?」
「所轄が照会中です。ただ、申請者の勤務先では数年前から高出力義肢の制御技術を研究していた記録があり、本人もその開発部門に所属していたようです」
「それだけでは違法性の判断はできないな」
「はい。研究そのものは適法だった可能性がありますし、申請文にある装置が実在するかも分かっていません」
神谷は端末を机へ置いた。
「なら、まずは本人と接触して事情を聞くべきだろう。保護の必要性があるなら所轄に対応してもらい、違法技術が確認された段階でこちらが介入すればいい」
「私も最初はそう考えました」
白石はそう答えたが、端末を受け取ろうとはしなかった。
「ただ、申請者本人への連絡が取れないんです。それで所轄が身元情報を詳しく調べたところ、もう一つ問題が見つかりまして」
神谷は白石へ目を向けた。
「何だ?」
「水原直紀は、四日前に死亡しています」
神谷の手が止まった。
白石は申請者の情報を切り替え、死亡記録を表示した。
そこには死亡確認日時と、身元照会に使用された識別情報が記されている。
「四日前?」
「はい。自宅で意識のない状態で発見され、搬送先の医療機関で死亡が確認されています。事件性については現在も所轄が確認していますが、死亡に関する行政手続きはすでに進められています」
「本人確認に誤りがあった可能性は?」
「当然、考えられます。ただ、病院側の記録と所轄が保有する身元情報は一致しています。詳細な照合結果については追加確認を依頼していますが、単なる同姓同名の取り違えという説明は難しそうです」
神谷は再び保護要請の画面へ目を落とした。
死亡確認から四日後。
その人物の名義で送信された保護要請。
これだけなら、第三者によるなりすましという説明も成立する。
死亡記録に何らかの誤りがあった可能性も、現段階では排除できない。
「認証情報は?」
神谷が尋ねると、白石は別の資料を呼び出した。
「それが、今回こちらへ照会された理由の一つです。保護要請の送信には、本人の登録端末が使用されていました。端末の電子署名も有効で、生体認証の通過記録まで残っています」
「記録が正しいことと、本人が操作したことは別だな」
「ええ。電子署名の複製や認証情報の不正利用は考えられます。生体認証についても、登録データが悪用された可能性がありますから」
白石はそこで一度、言葉を切った。
「ただ、所轄が調べた限りでは、端末の紛失届も不正利用の報告もありません。今のところ、誰がどのように申請したのか説明できていないんです」
神谷は椅子の背へ身体を預けた。
「……なるほど。それで、特殊技術を扱うこちらへ照会が来たわけか」
「はい。申請文にある未認可の義肢制御装置についても、通常の医療機器の範囲を超える技術が使われている可能性があります」
「だが、まだ第四を出す段階ではないな」
神谷の判断に、白石は頷いた。
「私も同意見です。現時点では、身元詐称か不正認証の可能性を含めた捜査案件として扱うべきでしょう。本人が生存している可能性もありますが、差し迫った武装脅威が確認されたわけではありません」
「まずは死亡記録と申請経路を照合する。勤務先への聞き取りも必要だな」
「すでに所轄には協力を依頼しています。それと、可能なら私が直接、関係者への聞き取りを担当したいと思っています」
神谷は少しだけ眉を上げた。
「珍しいな。普段なら、もう少し情報が揃うまで待つだろう」
「今回の案件は、最初の説明に少し引っ掛かるところがあります」
「どこだ?」
白石は保護要請の文章を指した。
「『関係者から接触を求められている』という部分です。一般的な保護要請なら、脅迫や暴行、監禁の危険など、被害の内容を直接伝えることが多いと思うんです。でも、この人は接触を求められているという事実を説明しながら、相手が誰なのか、何をされたのかについては一切触れていません」
「文章が短いからというだけでは、異常とは言い切れないな」
「そうですね。ただ、助けを求めているのに、相手の情報を伝えていないのは気になります。名前を知らないのか、書けない事情があるのか、それとも意図的に伏せているのか。そこは確認しておきたいです」
神谷は資料を見つめた。
白石の指摘には一理ある。
もっとも、短い申請文だけで送り手の心理を断定することはできない。相手が何らかの危険に晒されていたとしても、記載する時間がなかっただけかもしれなかった。
「……分かった。関係者への聞き取りは任せる。ただし、最初から脅迫事件と決めつけるな。申請者の生死も含めて、事実を一つずつ確認してくれ」
「承知しました」
白石が端末を受け取ろうとした、その時だった。
机の上に置かれていた通信端末が短く振動した。
画面には、〇〇県警からの追加連絡が表示されている。
白石は内容を確認すると、先ほどまでの落ち着いた表情を僅かに変えた。
「……班長」
「どうした?」
「保護要請を送信した端末の位置が確認されたそうです」
「どこにある?」
「水原の勤務先が以前使用していた研究施設です。現在は閉鎖されていて、通常は人の出入りがない場所だと聞いています」
「端末だけが残されている可能性もあるな」
「はい。ただ、所轄が施設の管理者へ確認したところ、昨日の夜から警備設備に異常が発生しているようです」
神谷が顔を上げる。
「侵入の痕跡か?」
「まだ確認できていません。監視装置の一部が停止し、外部から施設内の状況を把握できなくなっているそうです」
白石は続けた。
「それと、管理者が一つ気になることを話していたそうです」
「何だ?」
「施設の閉鎖前、最後に搬出する予定だったものがあったそうなんです。未完成の特殊義肢用駆動ユニットで、研究資料上はすでに廃棄されたことになっているんですが、実際の搬出記録が見つからないと」
神谷は画面に表示された施設の名称を確認した。
死亡した技術者。
その名義で送信された保護要請。
そして、閉鎖された研究施設に残されているかもしれない未認可の装備。
それぞれはまだ、確かな因果関係で結ばれていない。
しかし、調べるべき対象が単なる認証情報の不正利用だけではなくなったことは確かだった。
「白石、所轄に伝えてくれ。施設の現地確認は慎重に進めるように。特殊義肢の駆動装置が残っている可能性がある以上、内部の安全が確認できるまで不用意に立ち入らせるな」
「分かりました。技術資料の提供も求めておきます」
「ああ。それと、施設の所有者と当時の研究責任者を調べてくれ。装置が実在するなら、誰が管理していたのか把握する必要がある」
白石は指示を記録し、立ち上がった。
「了解しました。まずは関係者に当たってみます」
扉へ向かいかけた彼女が、不意に足を止める。
「……班長、一つだけ」
「何だ?」
「今回の保護要請、仮に本人のなりすましだったとしても、誰かがわざわざ死亡した人間の名義を使って助けを求めていることになりますよね」
「そうなるな」
「だとしたら、その人はどうして、自分の名前を使わなかったんでしょう」
神谷はすぐには答えなかった。
白石の問いは、身元詐称の手口ではなく、そうする必要があった理由へ向けられていた。
死亡記録が正しいのなら、水原直紀が自ら保護要請を送信することはできない。
だが、別人が送信したのだとすれば、その人物には身元を偽るだけの理由があるはずだった。
神谷は再び申請文を開いた。
「……それも含めて、調べる必要があるな」
白石が退室すると、執務室には端末の操作音だけが残された。
神谷は閉鎖された研究施設の所在地を確認し、
所轄からの追加報告を待つため、案件の監視設定を変更した。
現段階では、第四執行部へ支援を求める理由はない。
しかし、保護を求める人物が施設内に存在し、
なおかつ危険な特殊装備が稼働しているのだとすれば、状況は一変する。
神谷は最後にもう一度、申請者の氏名を見た。
水原直紀。
四日前に死亡が確認された男。
その名前で送信された保護要請には、連絡先も具体的な避難場所も記載されていなかった。
ただ一つ、見落としようのない事実がある。
誰が送ったにせよ、その文章は確かに、助けを求めていた。
*
白石志穂が研究施設へ到着したのは、正午を少し過ぎた頃だった。
市街地から離れた工業地区の一角に、三階建ての研究棟が建っていた。
敷地の奥には実験設備を収容していたと思われる別棟があり、
建物同士を結ぶ渡り廊下には、長い間手入れされていない蔦が絡みついている。
施設を囲むフェンスには立入禁止の標識が掲げられ、
正門の企業名は風雨によって一部が判読できなくなっていた。
かつては先端医療機器の研究拠点だったというが、現在の外観からは、
そうした華やかな経歴を窺い知ることは難しい。
白石は正門の手前で車を降り、所轄警察の担当者に身分証を提示した。
「特殊公安執行局、第一執行部の白石志穂です。施設管理者の方はいらっしゃいますか?」
「はい。門の脇にある管理室でお待ちです。現在、建物内部への立ち入りは制限しています」
「ありがとうございます。まずは管理者の方からお話を伺います」
担当者に案内され、白石は敷地の隅に設けられた小さな管理室へ向かった。
その途中、研究棟の外壁に取り付けられた監視カメラが目に留まった。
二台あるうちの一台は、レンズが地面を向くほど大きく傾いている。
もう一台も固定位置から僅かに外れていたが、外装に目立った破損は見当たらなかった。
長年の劣化による故障かもしれない。
しかし、二台とも同じ方向へ傾いていることが気になった。
白石は端末で設置位置を記録すると、管理室の扉を開いた。
「失礼します」
室内には、六十歳前後と思われる男性が一人、古い操作卓の前に座っていた。
矢野と名乗ったその人物は、施設が閉鎖される以前から設備管理を担当しており、現在も定期的な点検を任されているという。
「遠いところ、わざわざすみませんね」
「いえ。お時間をいただき、ありがとうございます」
白石は向かいの椅子へ腰を下ろした。
「最初に、昨夜発生した警備設備の異常について教えていただけますか?」
「十一時を過ぎた頃だったと思います。警備会社から連絡がありまして、監視カメラの映像が何台か途切れていると言われたんです」
「それ以前に、似たような不具合はありましたか?」
「たまにはありましたよ。もう古い設備ですから。ただ、今回は少し様子が違いましてね。普段なら遠隔操作で復旧できるものが、何度試しても戻らなかったんです」
「建物内で警報は鳴りましたか?」
「いいえ。少なくとも侵入警報は作動していません」
矢野は操作卓に保存された記録を開いた。
白石が画面を覗き込むと、監視装置の通信状態と、各区画の施錠履歴が時系列で並んでいた。
昨夜二十三時十二分、研究棟二階の監視装置が通信不能となっている。
その数分後には隣接する通路のカメラも映像を失い、深夜に一度だけ復旧したものの、
現在は再び接続が途絶えていた。
「二階に限って異常が集中しているようですね」
「そうなんです。ほかの階は特に問題ありません」
「二階には何があるんでしょうか?」
「昔の実験室ですよ。義肢の動作試験や、制御装置の調整に使っていた場所です」
「現在も設備は残っていますか?」
「大型の装置はほとんど処分したはずです。ただ、倉庫に残された部品までは、私もすべて把握しているわけではありません」
白石は端末に内容を記録した。
警備設備の異常と、保護要請の送信地点。
どちらも同じ二階に集中している。
偶然として片づけることもできるが、少なくとも確認を優先すべき区画であることは間違いなかった。
「矢野さん、水原直紀さんという方をご存じでしょうか?」
その名前を聞いた途端、矢野の表情に変化が生じた。
「……水原さんですか」
「はい。こちらの施設で義肢制御システムの研究に携わっていた方です」
「もちろん知っています。ずいぶん長く一緒に働いていましたから」
矢野は懐かしむように目を細めたものの、すぐに困惑した表情へ変わった。
「でも、あの人は亡くなったんじゃ……」
「そのように伺っています。今回は、水原さんが以前担当されていた研究について確認したくて」
白石は意図的に、保護要請の詳細には触れなかった。
相手が事件に関係しているかどうか不明な段階で、捜査側の情報を必要以上に示すべきではない。それに、こちらから説明を与えてしまえば、相手が本来覚えていたことと、説明を聞いて思い出したことの区別が難しくなる。
「水原さんは、どのような方でしたか?」
「真面目な人でしたよ。仕事熱心で、実験が終わっても一人で残っていることがよくありました。ただ……」
矢野が言葉を止めた。
「ただ?」
「施設が閉鎖される少し前から、周囲と揉めているようでしたね」
「具体的には、どなたと?」
「研究室の人間だと思います。私も詳しい事情までは知りませんが、廊下で言い争っているのを一度だけ見かけました」
「話の内容は覚えていますか?」
「それが、はっきりとは……。ただ、水原さんが『まだ処分するべきじゃない』と話していたのは覚えています」
白石は顔を上げた。
「処分、ですか」
「ええ。何かの試験装置だったと思います。研究所の閉鎖が決まってからは、設備の整理で随分揉めていましたから」
「その装置が何だったのか、確認できる資料はありますか?」
「古い管理台帳なら残っているはずです」
矢野が操作卓から資料を呼び出した。
施設閉鎖時に作成された設備一覧には、研究用の義肢制御装置や高出力駆動ユニット、
神経接続実験用の測定機器などが記載されていた。
大部分には廃棄済み、あるいは別施設への移送完了を示す記録が付いている。
しかし、一件だけ処理内容を確認できない項目があった。
《HIGH-OUTPUT ACTUATOR UNIT》
《MODEL:HA-07》
《DISPOSAL STATUS:COMPLETED》
処分済みとされている一方で、その装置に対応する搬出確認書が見当たらない。
「……この装置だけ、引き渡し記録がありませんね」
白石が尋ねると、矢野は画面を覗き込んだ。
「おかしいですね。廃棄済みになっているなら、業者へ渡した記録が残っているはずなんですが」
「別の施設へ移された可能性はありませんか?」
「それもあり得ます。ただ、私の手元にある資料では確認できません」
白石は表示を保存した。
廃棄記録に不備があるだけかもしれない。
だが、水原が処分を巡って周囲と揉めていたという証言と、
処理経路の不明な装置が存在するという事実は、調べる価値があった。
「この装置について、当時の担当者を確認していただけますか?」
「少し待ってください」
矢野は別の管理台帳を開き、装置の登録情報を検索した。
数秒後、画面に担当者の氏名が表示される。
水原直紀。
白石はその名前を見つめた。
四日前に死亡が確認された技術者が、処理記録の欠けた試験装置を管理していた。
そして今朝、その人物の認証情報を用いた保護要請が、この建物から送信されている。
まだ、それぞれの出来事を一つの事件として結びつける証拠はない。
それでも、偶然だと切り捨てるには、重なり方があまりに具体的だった。
*
管理室の操作卓から警告音が鳴り響いたのは、白石が追加の質問を始めようとした時だった。
矢野が反射的に画面へ向き直る。
「……何だ?」
それまで灰色で表示されていた研究棟二階の一角が、突然赤く点滅し始めていた。
《LOCAL EQUIPMENT:ACTIVE》
《SAFETY INTERLOCK:ERROR》
「設備が動いてる……?」
矢野は椅子を引き寄せ、急いで操作を始めた。
「おかしい。実験設備の主電源は、施設を閉鎖した時に切り離したはずなんです」
「装置の種類は分かりますか?」
「識別番号は出ていますが、現在の設備一覧には登録されていません。古い装置の情報が残っているのかもしれません」
白石は表示された番号を確認した。
先ほど見ていた試験装置の登録番号とは一致していない。
同じ装置なのか、別の設備が動いているのかは不明だった。
「遠隔で停止できますか?」
「やってみます」
矢野が制御命令を送る。
しかし、画面には短いエラー表示が現れた。
《REMOTE CONTROL:REJECTED》
「……受け付けない」
矢野の額に汗が滲んだ。
その時、別の通知が画面に重なった。
《EMERGENCY CALL》
《SOURCE:LABORATORY 02》
二階の実験室から、非常通報が発信されていた。
白石は椅子から立ち上がった。
「矢野さん、通話を接続できますか?」
「え、ええ……」
接続音が鳴り、管理室のスピーカーから微かな雑音が流れ出した。
最初に聞こえたのは、不規則な呼吸音だった。
続いて、男の声が響く。
『……誰か、聞こえますか』
白石は操作卓へ近づいた。
「こちら特殊公安執行局、第一執行部の白石です。聞こえています。あなたは今、二階の実験室にいるんですか?」
『……はい』
「お名前を教えていただけますか?」
相手はすぐには答えなかった。
通信回線の向こうで、何かが床へ接触するような音が聞こえている
。
『……それより、早く……』
声が途切れた。
「落ち着いてください。今、状況を確認しています。怪我をされていますか?」
『怪我は……していません。でも、ここから出られないんです』
「扉が開かないんでしょうか?」
『違うんです。廊下に……』
その直後、スピーカーから鈍い衝撃音が響いた。
白石は思わず顔を上げた。
『……また、動き始めた』
「何が動いているんですか?」
『装置です。止めようとしたんですけど、もう操作が……』
男の声が切迫したものへ変わる。
背景では規則的な駆動音が続いていた。それは空調機や発電設備のような一定の回転音ではなく、重い機械が何度も動作と停止を繰り返しているように聞こえた。
白石は通話を維持したまま、矢野へ目配せした。
「二階の監視映像は確認できますか?」
「一台だけ、繋がりそうです」
矢野が操作すると、壁面のモニターに映像が表示された。
研究棟二階の廊下だった。
照明は数か所で消えており、床には何かを引きずったような傷が幾筋も残されている。
映像の奥には、実験室の扉が映っていた。
分厚い防護扉の前で、黒い金属製の構造物が動いている。
最初、白石にはそれが何なのか分からなかった。
人間の腕にも似ているが、前腕に相当する部分は異様に長く、
複数の関節が外装の内側で独立して動いていた。
床から伸びる支持機構の先端に取り付けられているようだが、装置全体は画面の外に隠れている。
その先端が扉の縁を掴んだ。
次の瞬間、厚い金属板が変形する。
扉の固定部分に大きな負荷が掛かり、蝶番の周囲から細かな破片が飛び散った。
「……そんな」
矢野が呟いた。
「こんな装置、まだ残っていたのか……?」
白石は映像から目を離さなかった。
装置の動作には、単なる故障とは異なる印象があった。扉を押し潰すだけでなく、固定部を掴み直し、抵抗の少ない位置へ力を加えようとしている。
もっとも、それが自律的な制御によるものなのか、外部から操作されているのかは判断できない。
確かなのは、通常の人間が容易に対抗できる出力ではないということだった。
「矢野さん、この装置を管理室から停止させる手段はありますか?」
「分かりません。そもそも、何の装置なのか……」
「では、これ以上操作しないでください。ほかの設備へ影響が出る可能性もあります」
白石は通話回線へ向き直った。
「聞こえますか。現在、廊下に危険な装置があることを確認しました。救助を手配しますので、扉から離れて安全な場所に身を隠してください」
『……分かりました』
「室内にほかの方はいらっしゃいますか?」
『……いません』
「ありがとうございます。できるだけ通話を繋いだままにしてください」
相手から短い返答があった。
白石はその声を聞きながら、先ほどまで抱いていた疑問を整理した。
今朝の保護要請は、死亡した人物の認証情報で送信されている。
そして、その送信地点から助けを求める男の声が聞こえている。
しかし、今話している相手が水原本人なのか、それとも別人なのかは確認できていない。
白石は意識的に結論を保留した。
今、優先すべきことは一つだった。
実験室にいる人物を安全に救出すること。
そのためには、あの装置へ対処できる専門部隊が必要になる。
白石は通信端末を取り出し、神谷直人へ連絡を入れた。
『神谷だ。現場はどうなっている?』
「班長、研究棟二階で危険な特殊装備の稼働を確認しました。高出力の機械式駆動装置と思われますが、詳細は不明です。実験室内には救助を求めている人物がおり、現在も通話を継続しています」
『救助対象の身元は?』
「まだ確認できていません。ただし、保護要請の送信地点と同じ区画から通報が発信されています」
『装置による危険は差し迫っているのか』
「はい。監視映像では、装置が実験室の防護扉を破壊しようとしています。このままでは内部の人物に危害が及ぶ可能性があります」
神谷は短く状況を確認すると、落ち着いた声で答えた。
『分かった。第四執行部へ救出支援を要請する。第五にも装置の情報を共有して、安全な停止方法を確認させよう』
「ありがとうございます」
『白石、お前は現場の状況把握を続けろ。ただし、単独での突入は認めない。所轄と連携して周囲への立ち入りを制限し、救助部隊の到着まで監視を維持してくれ』
「承知しました」
通信を終えた白石は、所轄の担当者へ現状を伝え、建物周辺の警戒を強化するよう依頼した。
その間にも、監視映像の中では金属製の腕が動き続けている。
扉の上部に取り付けられた固定具が一つ外れ、重い金属板が僅かに傾いた。
白石は管理端末に表示された実験室の構造を確認した。
非常出口は別に設けられているが、室内の人物がそこへ移動できるのかは分からない。
通話を続けながら避難経路を確認する必要があった。
「……矢野さん」
「は、はい」
「この実験室には、廊下以外に出入りできる場所がありますか?」
「奥に非常用の搬出口があります。ただ、通常は施錠されていて……」
「内側から開けられるか、確認できますか?」
矢野が施設図面を開こうとした、その時だった。
スピーカーの向こうから、先ほどの男の声が再び聞こえた。
『……あの』
「はい。どうしましたか?」
『助けに来てくれるんですよね』
白石は少しだけ声を和らげた。
「はい。救助のための部隊を手配しています。今はできる限り安全な場所で待っていてください」
通信の向こうで、相手が息を吐くのが分かった。
やがて、男は躊躇うように続けた。
『……一つだけ、お願いがあります』
「何でしょう?」
『もし、ここから出られたら……』
その時、監視映像の中で、防護扉の上部が大きく変形した。
金属製の腕が固定具を引き剥がし、扉の隙間へ指先を差し込む。
強烈な破砕音が通話へ流れ込んだ。
「聞こえますか!」
白石は思わず声を強めた。
返答はない。
代わりに、床を叩くような重い音が響いた。
映像の中では、防護扉がゆっくりと開き始めている。
白石は端末を握り直した。
施設の閉鎖から数年。
四日前に死亡した技術者。
その人物の認証情報で送られた保護要請。
そして、研究施設に残されていた正体不明の装置。
まだ何一つ解明されていない。
しかし、今この瞬間にも、扉の向こうには助けを求めている人間がいる。
白石は通話回線を維持したまま、監視映像を見つめ続けた。
やがて、ノイズの向こうから微かな声が聞こえた。
『……お願いです』
男の声は震えていた。
『……私のことを、信じないでください』
その言葉を最後に、通信が途絶えた。




