#21 波紋
全局合同執行試験の中止が正式に通達されたのは、
第三演習棟の封鎖が完了してから間もなくのことだった。
各執行部の端末へ一斉に配信された通知は、簡潔なものだった。
《JOINT EXECUTION EXAMINATION》
《DAY 3:CANCELLED》
《RESUMPTION:UNDECIDED》
《REASON:SECURITY RESTRICTIONS》
第三試験の中止と、再開時期の未定。
そこに記されていたのは、その二点と、保安上の理由による措置だという説明だけだった。
しかし、その短い通達が持つ意味は決して小さくない。
全局合同執行試験は、各執行部の能力を横断的に評価するための制度であり、単なる昇進試験や技能検定とは性質が異なる。個人の専門能力に加え、所属の異なる局員との連携、予測困難な事態への対応、限られた情報から判断を下す過程までが評価対象となる。
その結果は、今後の人員配置や任務への適性判断にも影響する。
すでに二日間の試験を終えた受験者たちにとって、最終日の中止は、それまで積み重ねてきた評価がどのように扱われるのか分からなくなることを意味していた。
第三試験を延期するのか。
別の評価方式を採用するのか。
それとも、今回の試験そのものを無効とするのか。
いずれについても、正式な説明はなかった。
各待機区画では、通知を確認した局員たちが戸惑いを隠せずにいた。
「再開未定って、いつまで待てばいいんだ?」
「昨日までの結果はどうなるんだよ。まさか最初からやり直しなんてことはないよな」
「そもそも、何があったんだ? あれだけ警報が鳴ってたのに、保安上の理由ってだけじゃ説明になってないだろ」
不満と困惑が入り混じった声が、施設の各所で聞かれた。
だが、その疑問に明確な答えを持つ者はほとんどいない。
受験者の大半が把握しているのは、第三演習棟で何らかの異常が発生し、
試験が停止されたという事実だけだった。
外部からの侵入者が局員を負傷させ、八神紅音と交戦したこと。
さらに東側待機区画で久世たちと接触し、その後、所在が確認できなくなっていること。
事件の具体的な経緯は、直接対応した局員や保安指揮に携わる関係者の間で共有されるに留まっていた。
*
中央管理室では、御堂彰子が試験管理部門から送られてきた報告に目を通していた。
画面に並んでいるのは、第三試験の中止によって発生する運用上の問題だった。
未実施の評価項目。
受験者の再招集。
使用不能となった演習設備。
そして、現時点で確定できない最終評価の扱い。
御堂は資料の一部を拡大すると、隣の操作卓にいる久我静へ問いかけた。
「試験管理側から、何か追加の連絡は?」
「再開日程の問い合わせが相当来てるみたい。もっとも、施設の被害状況すら確定してない段階だから、答えようがないと思うけど」
「当然だな。安全が確認できない施設で試験を再開するわけにはいかない」
「問題は、それだけじゃないんだよね」
久我は端末を切り替え、受験者の評価状況を表示した。
「二日目までの記録は残ってる。でも、三日目に予定していた評価項目は実施できていない。この状態で結果を確定させれば、受験者によって評価の前提が変わってしまう」
御堂は頷いた。
「未実施の項目をどう扱うか決めなければ、評価の公平性が保てないということか」
「そう。延期なら再招集が必要になるし、代替方式に切り替えるとしても、元の試験と同じ能力を測定できるとは限らない。どちらにしても簡単な話じゃないよ」
久我の説明には、試験そのものを軽視する響きはなかった。
全局合同執行試験は、各部署が独立して活動する執行局において、
異なる専門性を持つ局員たちを同じ基準で評価する数少ない機会でもある。
その一日が失われることは、単に日程を調整し直せば済む問題ではなかった。
「受験者への説明はどうする?」
久我の問いに、御堂はすぐには答えなかった。
試験が中止された理由を説明するには、今回の事件へ触れざるを得ない。
しかし侵入者の身元はおろか、侵入経路や使用した技術、撤退先についてさえ判明していない。
何より、相手がまだ局内に潜伏している可能性を完全には排除できていなかった。
そんな状況で未確認の情報を広めれば、混乱を招くだけでなく、
今後の捜査にも支障を来すおそれがある。
「現段階では、保安上の理由による中止という説明を維持する」
御堂は言った。
「ただし、評価の取り扱いについては試験管理側から早急に方針を示すべきだ。詳細を明かせないことと、受験者の不利益を放置することは別だからな」
「同感。再開できないなら、少なくとも何が未定なのかは明確にしてあげないと」
久我はその内容を連絡事項へ追加した。
御堂は別の画面を開く。
第三演習棟の被害報告だった。
負傷者の搬送は完了しているが、破損した設備の安全確認は続いている。
侵入者の行方に関しても、新しい報告は届いていなかった。
「……久世たちの状態は?」
「身体検査は終わってる。軽傷はあるけど、三人とも大きな問題はないみたい」
「そうか」
御堂は椅子の背に身体を預けることなく、端末の表示を閉じた。
「三人から直接話を聞きたい。現場で何が起きたのか、記録だけでは判断できない部分がある」
「事情聴取なら、これから?」
「ああ。ただし、事情を知らない受験者と同じ場所で話すわけにはいかない。第四執行部の会議室を使う」
「分かった。呼び出しは私から手配するね」
久我が連絡を送ろうとしたところで、御堂が付け加えた。
「榊には、当時の端末記録を保全するよう伝えてくれ。改めて解析する必要があるかもしれない」
「第三執行部に回す?」
「必要ならな。ただ、先に当事者の証言を揃える。現場で誰が何を見て、何を判断したのか。それを確認せずに解析結果だけを求めても、重要な情報を見落としかねない」
久我は小さく頷いた。
「了解。映像復元の依頼はすでに出してあるけど、詳細な調査についてはまだ保留にしておく」
御堂は立ち上がり、壁面の大型モニターへ目を向けた。
そこには、第三演習棟の区画図が表示されている。
封鎖された通路、使用不能となった設備。
そして、侵入者が最後に確認された場所。
今回の事件は、全局合同執行試験という重要な機会を中断させた。
その影響は受験者の評価だけに留まらず、今後の執行局の活動にも及ぶ可能性がある。
だが、御堂が何より懸念していたのは、被害の規模ではなかった。
侵入者は姿を消した。
にもかかわらず、何を目的としていたのかが分からない。
目的の不明な相手に対しては、何を防げばよいのかさえ定まらない。
御堂は最後にもう一度、侵入者の最終確認地点を見た。
あの場所にいた久世たちは、監視映像に残されていない何かを見聞きしているかもしれない。
少なくとも、そうした可能性を一つずつ確かめることが、今できる数少ない手段だった。
*
第四執行部の会議室には、普段とは異なる静けさが漂っていた。
壁面に設置された大型モニターは消灯しており、長机の中央には三台の記録端末が並べられている。
遮音設備の作動を知らせる小さな表示灯だけが、
室内の会話が外部へ漏れない状態にあることを示していた。
久世湊は椅子に腰を下ろし、机の上で右手を握った。左肩には先ほど受けた打撲の痛みが残っていたが、救護班からは安静を条件に通常の行動を認められている。
隣では榊が端末を抱え、牧野は背もたれに身体を預けながら、閉ざされた扉を眺めていた。
「しかし、まさか試験そのものが中止になるとは思わなかったっすね」
牧野が口を開いた。
「昨日までの評価って、結局どうなるんすかね。あれだけ大掛かりにやっといて、全部やり直しってことになったら、さすがに笑えないっすよ」
「まだ再開の方針も決まってないみたい。施設の修復だけじゃなくて、試験内容を変更するかどうかも検討しないといけないだろうし」
榊は端末に届いた通知を確認しながら答えた。
「それに、今回の第三試験が何を評価する予定だったのか、私たちには知らされてないでしょ。別の方法で代用できるものなのかも分からないんだよね」
「……確かに。受験者の立場じゃ、判断のしようがないっすね」
牧野は腕を組んだ。
「でも、ほかの部署の連中は納得しないでしょうね。原因も教えてもらえず、予定だけ白紙にされたわけですから」
久世もその点は気になっていた。
自分たちは実際に侵入者と交戦したため、試験を続行できない理由を理解している。
しかし、別の区画で待機していた受験者たちにとっては、突然警報が鳴り、
何の説明もないまま重要な試験が中止されたことになる。
全局合同執行試験が人事や適性評価にも関わる以上、その影響を軽視することはできなかった。
「……早く理由を説明できればいいけど」
久世の言葉に、榊が小さく頷いた。
「そうですね。でも、あの侵入者がまだ見つかっていないなら、簡単には公表できないと思います」
その時、会議室の扉が開いた。
御堂彰子が入室すると、三人は自然と姿勢を正した。
「待たせたな」
御堂は長机の上座へ向かい、手元の端末を接続した。
「先に伝えておく。今回の第三試験は正式に中止となった。再開時期は未定だが、それまでの評価記録については保全されている。最終的な取り扱いは試験管理部門が協議中だ」
「やっぱり、すぐには決まらないんすね」
「ああ。施設の安全確認も終わっていない状況で、再開日程だけを先に決めるわけにはいかない」
御堂は三人の表情を確認してから、話題を切り替えた。
「もっとも、今日集まってもらったのは試験の件ではない。第三演習棟で遭遇した侵入者について、改めて話を聞きたい」
端末を操作すると、東側待機区画の簡易図がモニターに表示された。
「現時点で、事件の詳細は必要な関係者に限って共有されている。三人が見聞きした内容も、確認が済むまで不用意に口外しないでほしい」
「分かりました」
久世が答え、榊と牧野も頷いた。
「まず確認する。お前たちが侵入者を最初に認識した時、相手はどこにいた?」
久世は画面を見た。
「設備通路から負傷者を出した直後です。隔壁の西側、通路の中央に立っていました」
「そこへ現れる過程は見たか」
「いいえ。足音が聞こえて、振り向いたらいました」
「榊、牧野。二人も同じ認識か」
「はい。私が確認した時には、すでに久世さんの正面にいました。端末で生体反応を調べましたけど、検出できませんでした」
「自分も同じっす。あの時は負傷者を支えてたんで、侵入者がどこから来たかまでは見えてないです」
御堂はそれぞれの証言を記録した。
「つまり、三人とも出現した瞬間は確認していない。移動手段については推測の域を出ないということだな」
「はい」
久世は頷いた。
御堂は次の記録を開いた。
「その後、お前たちは交戦している。久世、相手の能力について、実際に確認できたことを話してくれ」
久世は少し考えた。
「左腕に射撃装置と刃がありました。右肩は壊れていたようですが、歩行には大きな問題がなかったと思います」
「AOFへの反応は?」
「位置をずらしても、進行方向を予測されました。ただ、完全に見えていたわけではないと思います」
「根拠は?」
「視線と砲口の向きが一致していなかったので。僕が偽装した位置を目で追いながら、別の方向へ撃ってきました」
御堂が榊へ視線を移した。
「技術的にはどう考える?」
「複数の観測方式を組み合わせていた可能性があります。久世さんのAOFは光学情報だけでなく、音や熱の認識位置もずらせますけど、相手が何を優先して測定していたのかは分かりませんでした」
「単一のセンサーではなかった、と?」
「その可能性は高いと思います。ただ、詳しい仕様までは外から判断できません。装備の破片や記録を調べないと、確かなことは言えないです」
御堂は頷いた。
それ以上、推測を重ねさせることはしなかった。
侵入者の性能を正確に把握するには、専門部署による検証が必要になる。現場で交戦した当事者の証言は重要だが、それだけですべてを説明できるわけではない。
「では、最後の場面について聞こう」
御堂は区画図の東側を拡大した。
「お前たちが負傷者を退避させ、隔壁を閉鎖する直前だ。侵入者はどう動いた?」
「……僕の方へ手を伸ばしました」
久世が答えた。
「武器を使おうとしたのか?」
「分かりません。砲口も刃も出ていませんでした」
「その時、お前は?」
「後退していました。隔壁が閉まりかけていたので」
御堂は指先で机を軽く叩いた。
「つまり、相手が何かをしようとしたのは確かだが、その意図は判断できなかった」
「はい」
「榊は見ていたか」
「左腕を上げるところまでは確認しました。でも、私は非常扉の近くにいたので、指先の細かい動きまでは見えていません」
「牧野は?」
「自分は負傷者を運んでたんで、ほとんど見えてないっす。久世さんが下がってくるのを待ってました」
御堂は三人の証言を照合した。
侵入者の動作について、直接確認できた範囲には差がある。
榊と牧野の証言が久世の見たものと矛盾しているわけではないが、同じ現象を別の角度から十分に確認できているわけでもなかった。
その時、久世が口を開いた。
「……御堂班長」
「何だ」
「あの男、最後に喋りました」
御堂の手が止まった。
「……何?」
「隔壁を越える直前です。確かに声が聞こえました」
御堂は姿勢を改め、久世へ向き直った。
「それは報告書に記載されていなかったな」
「すみません。退避した後、詳しく説明する機会がなくて」
「構わない。今、確認できればいい」
御堂は記録端末の入力画面を開いた。
「何と言った?」
久世は記憶を辿った。
あの時、男は手を伸ばしかけていた。
銃口でも刃でもない、五本の指を開いた掌が、こちらへ向けられていた。
そして、隔壁の駆動音に混じって聞こえた声。
「……また、お会いしましょうと」
御堂は黙って久世を見ていた。
「声の特徴は?」
「低くて、抑揚がありませんでした。機械が喋っているような……でも、聞き取れないほど不自然ではなかったです」
御堂は榊と牧野へ視線を向けた。
「二人は聞いているか?」
榊は首を横に振った。
「私は聞こえませんでした。隔壁の音も大きかったですし、中央との通信に対応していたので」
「自分も聞いてないっす」
御堂は端末に追記した。
榊が遠慮がちに口を開く。
「班長、一つ気になることがあります」
「言ってみろ」
「久世さんが聞いた言葉が正確なら、侵入者は少なくとも何らかの発声機能を持っていたことになりますよね」
「ああ」
「それなのに、それ以前の交戦では一度も要求を伝えてこなかったんです。私たちの所属も、退避命令も理解していたように見えましたけど、最後まで会話には応じませんでした」
御堂は榊の言葉を聞きながら、最初の接触記録へ目を戻した。
「言語を理解できることと、応答する必要があることは別だ」
「はい。ただ、もし意思疎通の能力があったのなら、最後だけ言葉を発した理由が気になります」
「……確かにな」
牧野が腕を組んだ。
「自分は、あの相手に交渉する気があったとは思えないっすね。こっちが警戒してるのも分かったうえで撃ってきてますし、話し合いでどうにかなる雰囲気じゃなかったっす」
「その認識も重要だ」
御堂は言った。
「相手の発言を、善意や交渉の意思として解釈する必要はない。言葉を使えることと、対話が成立することは同じではないからな」
久世は黙って聞いていた。
あの男が、なぜ最後に言葉を発したのか。
考えても答えは出ない。
ただ、あの声音には怒りも焦りも感じられなかった。
こちらへ向けられた言葉でありながら、何かを求める響きも乏しかった。
それがかえって、奇妙な印象として記憶に残っている。
「現時点では、侵入者が何を目的として施設へ侵入したのか判明していない。八神との交戦記録も含めて調査しているが、確かな結論は出ていない」
御堂は三人を見渡した。
「ただ、お前たちの証言から、確認すべき点は増えた。特に最後の発言については、監視装置に音声が残っていないか調べる必要がある」
「……第三執行部ですか?」
榊が尋ねた。
「ああ。映像の復元だけでなく、音声や通信記録の照合も必要になるだろう。ただし、今回の事件には機密性の高い情報が含まれる。担当者と開示範囲は、こちらで判断する」
御堂は端末を閉じた。
「今日はここまでにしよう。三人とも、よく対応した。負傷者を全員退避させられたのは、お前たちが状況に応じて役割を変えた結果だ」
御堂は久世へ視線を向けた。
「久世、お前が最後に選んだのは、負傷者を守ることだったな」
「はい」
「その判断を軽く考えるな。敵を制圧できる保証がなく、背後に救助対象がいる状況で、何を優先するかを決めるのは簡単ではない」
久世は小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
「ただし、今回の経験だけで相手の能力を理解したつもりになるな。次に遭遇した時、同じ行動を取るとは限らない」
「はい」
御堂は席を立った。
「試験の再開方針が決まるまで、通常の待機命令に従ってくれ。必要があれば、改めて連絡する」
三人が会議室を退出すると、室内には御堂だけが残された。
御堂は記録を保存し、中央管理室への連絡画面を開いた。
監視映像の復元依頼はすでに提出されている。
次に必要なのは、そこから何を明らかにすべきか、調査の対象を具体的に定めることだった。
そして、そのためには現場を知る者の証言と、記録を扱う専門家の判断を結びつける必要がある。




