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特殊公安執行局  作者: the 春


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20/49

#20 不在の証明

 久世が身体を反転させた時には、照明架台の落下が始まっていた。

 天井から剥がれた鋼製の骨組みは、残された給電ケーブルに一度だけ吊り留められ、

 その反動で通路の壁面へ大きく振られた。

 数十キロはあるだろう構造体が、金属製の手すりを巻き込みながら下降していく。


「左へ!」


 久世の声に反応した牧野は、負傷者を支えていた腕の位置を変えると、

 相手の脚に負担を掛けないよう身体ごと壁際へ倒れ込んだ。

 もう一人の職員も反射的に身を屈めるが、架台の端から外れた照明器具が、その頭上へ向かっていた。

 久世は床に散乱していた破片を跨ぎ、職員の肩を掴んで壁際へ引き寄せた。

 直後、照明器具が二人の間を掠め、床で砕ける。

 遅れて本体の架台が通路へ衝突し、床材を押し潰しながら横転した。

 強烈な振動が足元を貫いた。


 飛散した部材の一つが久世の左肩を捉え、AOFの衝撃緩和機構が作動する。

 衝撃の一部は分散されたものの、肩関節には骨の芯を揺さぶられるような痛みが残った。

 久世は歯を食いしばりながら、腕の中の職員を見た。


「怪我は?」


「……だ、大丈夫です」


「立てますか?」


「はい、何とか」


 職員の返答を確かめ、久世は牧野たちへ視線を移した。

 牧野は負傷者を庇う形で床に片膝をついていたが、

 頭上に新たな落下物がないことを確認すると、すぐに相手の身体を起こした。


「こっちは大丈夫っす! ただ、このままだと出口まで運べないっすね」


 落下した架台は通路の半分近くを塞いでいた。

 骨組みの一端が壁面に食い込み、損傷した配線からは白煙が漂っている。

 さらに、その向こうには先ほどから火花を散らしているケーブルが横たわっていた。

 退避経路は二重に妨げられている。

 久世は天井を見上げた。

 落下した部分の周囲にも、変形した支持具が残っている。

 少なくとも、この場所に長く留まるべきではなかった。


「榊さん、電源は?」


「非常用の遮断器に接続できました。今、対象の回路を切り離してます!」


 榊は壁際の端末を操作しながら答えた。

 その表情には焦りが滲んでいたが、指先の動きは正確だった。損傷した設備の系統番号を照合し、避難用の照明や扉まで停止させないよう、遮断する範囲を限定している。


「……これなら」


 画面の警告表示が切り替わった。


 《EMERGENCY POWER ISOLATION》

 《CIRCUIT:DISCONNECTED》


 通路に散っていた火花が消え、床へ垂れ下がったケーブルから音が失われた。


「切れました! ただ、復旧の確認ができるまでは触らないでください!」


「了解!」


 久世は落下した架台の横に、人が一人ずつ通れる空間が残っているのを確認した。

 牧野が負傷者を抱えて通るには狭い。

 だが、骨組みの一部を僅かに動かせば、搬送のための幅は確保できそうだった。

 その時、久世は背後に気配を感じた。

 振り返る。

 黒いコートの男が、先ほどとほとんど変わらない位置に立っていた。

 砲口は閉じられている。

 男の周囲には、架台の落下で飛び散った破片が散乱していたが、

 その身体に新たな損傷は見当たらなかった。

 久世は一瞬、呼吸を忘れた。

 自分が負傷者へ向かった間、相手には攻撃する機会があった。

 それどころか、避難経路を塞がれた今なら、こちらの行動をさらに制限することもできたはずだった。

 しかし、男は何もしていない。

 損傷した右肩を僅かに下げ、ただ久世の方を向いている。

 久世はバトンを構え直しかけたが、そこで手を止めた。

 今は相手の不可解さを考えるより、優先すべきことがある。


「架台の右端を少し動かせる?」


「やってみます。久世さんは奴を見ててください」


 久世は頷き、改めて男と向き合った。

 負傷者の呼吸、牧野が架台に触れる音、榊が操作する端末の電子音が、背後で入り混じっている。

 男との間に遮蔽物はほとんどない。

 それでも久世は、再びAOFで接近することを選ばなかった。

 勝てる見込みの薄い戦闘を続けるよりも、ここから全員を生還させる方が重要だった。

 少なくとも、その判断だけは揺らいでいなかった。


 *


 牧野が架台の一端を持ち上げると、壁面に食い込んでいた金属部材が数センチだけ動いた。

 その下に挟まっていた破片を久世が取り除き、榊が折れた支持具の先端を確認する。


「その角度なら通れそう。もう少しだけ上げられる?」


「あと少しなら大丈夫っすよ。ただ、これ以上は反対側が落ちるんで、早めにお願いします」


 榊が頷き、負傷していない職員を先に通した。

 続いて牧野が負傷者の身体を抱え直し、久世の補助を受けながら架台の脇を抜ける。

 金属部材と壁との隙間は狭く、通過する際には負傷した脚を慎重に持ち上げる必要があった。

 全員が障害物を越えたところで、牧野は架台をゆっくりと床へ戻した。


「……よし。これで一つ片づきましたね」


 久世は東側の非常扉を確認した。

 避難口を示す表示はまだ点灯している。

 榊が回路を遮断したことで通電異常も収まり、少なくとも足元の危険は取り除かれていた。

 残る問題は、通路の向こうに立つ侵入者だった。

 久世が振り返ると、男はすでに歩き始めていた。

 その足取りは一定で、胸部や右肩の損傷を補うための不自然な重心移動が見られるものの、歩行速度そのものは落ちていない。

 久世はバトンを握り直す。

 こちらとの距離を縮められれば、再び戦闘になる。

 それを避けるため、久世は退避方向を確認しながら男の進路へ身体を向けた。


「……ここから先は通せない」


 男に向けた言葉だった。

 返答はない。

 しかし男は、久世の正面で歩みを止めた。

 先ほどまでとは違い、左腕の射撃機構を展開する様子もなかった。

 久世は警戒を解かず、相手の姿勢を観察した。

 右脚には荷重が掛かっている。左腕は自然に下ろされ、視線はこちらの顔へ向けられていた。

 攻撃に移るための予備動作は見えない。

 だからといって、安全であることを意味しない。

 機械の身体を持つ相手に、人間の運動予測がどこまで通用するのか。

 先ほどの交戦で、その不確かさは十分に思い知らされている。


「久世さん!」


 背後で榊が呼んだ。


「中央管理室と繋がりました!」


 久世は視線を動かさずに応じる。


「状況を伝えて」


「はい!」


 榊は端末の通信回線を切り替えた。


「こちら第四執行部、榊美月です。東側待機区画で不明対象と接触しました。負傷者一名を搬送中、ほかの職員一名も同行しています。現在、避難経路を確保しています!」


『こちら中央管理室、久我。全員の位置を確認したよ。東側の非常扉は開放してある。そのまま退避して』


「侵入者はまだ同じ区画にいます!」


『確認してる。西側との境界を封鎖するから、隔壁の東側へ移動して』


 久世は通路の上部を見た。

 区画を分割する鋼製の隔壁が、まだ完全には閉じていない。

 その手前を抜ければ、侵入者との間に物理的な障害を設けられる。

 ただし、相手が転移能力を持っているなら、それだけで安全が保証されるわけではなかった。


「先に行って」


「久世さんは?」


「すぐ追う。隔壁を越えたら救護班に引き継いで」


 牧野は短く頷いた。

 負傷者を抱えた牧野が東側へ向かう。

 榊も残る職員を誘導し、非常扉の先へ移動した。

 久世は最後までその場に留まった。

 男の姿勢に変化が生じたのは、牧野たちが隔壁を越えた直後だった。

 左腕が持ち上がる。

 久世は瞬時に身体を低くし、砲口が展開される位置を警戒した。

 だが、男の手首から現れたのは射撃装置ではなかった。

 指が僅かに開き、掌がこちらへ向けられる。

 何かを掴もうとしているようにも、単に手を伸ばしかけただけのようにも見えた。

 久世はその動作の意味を測りかねた。

 拘束するつもりなのか。

 別の武装を展開するのか。

 それとも、こちらの反応を誘っているだけなのか。

 どの仮説にも、確かな根拠がなかった。


「……久世さん、早く!」


 榊の声に、久世は後方を確認した。

 隔壁はすでに半分以上下降している。

 ここで相手との接触を続ければ、退避できなくなる可能性があった。

 久世はバトンを下ろさないまま後退し、隔壁の東側へ移動した。

 移動する際、確かに聞こえた。


「マタ、オアイシマショウ」


 低く、抑揚に乏しい声だった。

 人間の発声を精巧に模倣しているにもかかわらず、言葉の切れ目にあるはずの呼吸が存在しない。

 音節の長さだけが不自然なほど均一で、その問いが疑問なのか、

 単なる情報の確認なのかさえ判然としなかった。

 降りていく鋼板の向こうで、黒いコートの裾が僅かに動いた。

 そして、隔壁の下端が男の膝の高さに達した時、その姿が唐突に失われた。

 久世は思わず足を止めた。


 数秒後、隔壁が床面に達し、重い固定音が連続して響いた。


 《SECTION ISOLATED》

 《LOCKDOWN COMPLETE》


 榊が端末を操作し、隔壁の向こう側を確認する。


「……反応がありません」


「別の区画は?」


「まだ分かりません。今、中央が確認しています」


 久世は閉鎖された通路を見た。

 男が消えた場所には、照明架台の残骸と焼けた床材が残されている。

 交戦の痕跡は確かに存在するのに、その中心にいたはずの相手だけが、

 最初からそこにいなかったかのように消えていた。

 久世はゆっくりと息を吐いた。

 安堵するには、まだ早い。


 *


 中央管理室では、第三演習棟の封鎖状況を示す立体図が更新されていた。

 緊急隔離の完了した区画が順に灰色へ変わり、

 避難経路には職員の識別端末から送られてくる位置情報が表示されている。

 久我静は操作卓に片手を置いたまま、東側待機区画の監視映像を確認していた。


「対象の最終確認位置は、久世たちがいた通路。そこから先の移動記録がない」


 御堂彰子が隣へ歩み寄る。


「外周監視は?」


「今、照合してる。建物の出入口にも反応はない。ただ、あの移動能力を考えると、監視に映らないこと自体は不自然じゃない」


「内部に潜伏している可能性は残るな」


「そういうこと。少なくとも、施設外へ逃げたと判断できる材料はない」


 久我は区画図を拡大した。

 各監視装置からの情報は少しずつ復旧しているが、

 侵入者が最後に確認された通路では、一部の記録が欠落していた。


「録画そのものが破損してる箇所もある。通信障害の影響だと思うけど、発生した順序を整理しないと断定できないね」


 御堂は映像を見つめた。

 黒いコートの男が、久世の数メートル手前に立っている。

 次の瞬間には姿を消している。

 移動の過程を示す映像は存在しなかった。


「八神の交戦記録と照合できるか」


「できる。ただ、あちらも完全じゃない。妨害電波の影響で、転移の前後に情報の欠落がある」


「分かった。第三執行部に映像の復元を依頼してくれ。装備の破片が見つかれば、第五執行部と技術管理室へ回す」


「了解」


 御堂は腕を組み、改めて施設の損傷状況を確認した。

 西側連絡路では複数の防火扉と構造材が破損し、九名の局員が負傷している。

 東側待機区画でも設備損傷が発生し、救助された職員一名が搬送された。

 幸い、現時点で死亡者は確認されていない。

 だが、それは被害が軽微だったことを意味しなかった。

 相手は通常の局員を短時間で無力化し、

 ネームドホルダーである八神紅音との交戦を経ても行動を継続している。

 戦闘能力だけを考えても、極めて危険な存在だった。


「……八神の容体は?」


「救護区画で処置中。意識ははっきりしてるけど、REDLINEの負荷が大きいみたい。しばらく安静が必要だって」


「そうか」


 御堂は僅かに息を吐いた。


「戦闘の詳細は、本人の状態が落ち着いてから確認する」


「分かった。でも、さっき短い報告が届いてるよ」


 久我が画面を切り替える。

 八神が残した音声記録だった。


『対象は私との交戦を継続する能力があった。それなのに、何度も進路を変えようとしてた。何かを探してたのか、別の目的があったのかは分からないけど、少なくとも私を倒すことだけに執着してたわけじゃないと思う』


 記録が終わる。

 御堂は少しの間、口を開かなかった。

 やがて、静かに尋ねる。


「久世たちとの交戦でも、同様の行動があったのか」


「それを確認したいところなんだけどね」


 久我は東側の映像を再生した。

 久世がAOFを起動し、侵入者の側面へ接近する。

 制圧器具による攻撃は防がれ、男の反撃で姿勢を崩されていた。

 その後、男は追撃を行わず、久世が立ち上がるまで同じ位置に留まっている。

 御堂は映像を停止させた。


「この場面、相手に攻撃能力は残っているな」


「そう見える。左腕の武装はその後も作動してるし、歩行機能も維持されてる」


「なら、追撃しなかった理由は?」


「分からない。損傷した装備の処理を優先していたのかもしれないし、何らかの制御上の制約があった可能性もある」


 久我は画面の中の男を指した。


「ただ、結果だけを見れば、久世はここで仕留められていてもおかしくなかった」


 御堂の表情が僅かに硬くなる。


「……そうだな」


 八神の報告と、久世たちの戦闘記録。

 両者には共通する部分があった。

 侵入者は明らかな戦闘能力を持ちながら、それを最後まで行使し続けようとはしていない。

 しかし、そこから相手の目的を推定するには情報が足りなかった。

 重要なのは、何をしなかったかではない。

 なぜ、その行動を選ぶ必要がなかったのか。

 御堂はそう考えたが、結論を急ぐつもりはなかった。


「現時点で、侵入者が何かを持ち去った形跡は?」


「確認できてない。重要設備への不正アクセスも、今のところ検出されていない」


「つまり、目的を果たせずに撤退した可能性もある」


「あるね。逆の可能性も否定はできないけど」


 久我の言葉に、御堂は頷いた。

 侵入者の意図が不明である以上、撤退をもって事態が収束したと考えるのは危険だった。


「施設全域の警戒レベルは維持する。封鎖解除は各区画の安全確認が済んでからだ」


「了解。第三試験の扱いは?」


「中止だ。再開時期は未定と伝えてくれ」


 御堂は立体図を見つめた。

 事件は収束へ向かいつつある。

 しかし、侵入者がなぜ執行局へ現れ、何を成そうとしていたのか。

 その問いに対する答えは、依然としてどこにも存在しなかった。

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