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特殊公安執行局  作者: the 春


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19/49

#19 試験外

 崩落した天井から、大小の破片が降り注いでいた。


 八神紅音は血液の外套を頭上へ広げ、傾いた梁の一部を受け止める。

 膜に加わった荷重が制御領域へ伝わり、赤黒い表面に細かな亀裂が走った。

 その向こうで、黒いコートの男が視界から消えた。


「……逃がした」


 八神は低く呟き、崩れた防火扉の先へ目を向ける。

 男が最後に狙ったのは自分ではなかった。

 構造柱を破壊し、天井を崩落させることで八神の進路を塞いだ。

 交戦を継続するよりも、そこから離脱することを優先したのだ。

 ただし、それが逃走を意味するとは限らない。

 男は交戦中、何度も第三試験の待機区画へ向かおうとしていた。

 転移によって障害物を越えられるのであれば、あえて損傷した通路を進む必要もない。

 八神は視界の端に残る警告へ目を向けた。


 《EXTERNAL BLOOD RESERVE:21%》

 《REGALIA SYSTEM LOAD:83%》


 外部血液の残量が心許ない。

 REDLINEを維持したまま追跡すれば、次に交戦した際、十分な防御領域を形成できない可能性がある。


「……ったく、厄介な相手」


 血液の外套を縮小させ、八神は崩落した通路へ視線を巡らせた。

 瓦礫の向こうから呻き声が聞こえる。

 負傷した局員の一人が、倒れた梁の下で身動きを取れずにいた。


「聞こえる? 意識はある?」


「……はい」


「脚、動かさないで。今そっち行くから」


 八神は残された血液を細い帯状に変え、梁の下へ差し込んだ。

 制御領域を局所的に圧縮し、梁を支える。

 局員の脚が自由になったところで身体を引き寄せ、崩落範囲の外へ移動させた。

 拘束を解除すると、梁は鈍い音を立てて床へ沈んだ。


「骨折してるかもしれない。救護班が来るまで動かないでね」


 局員が頷くのを確認してから、八神は壁面の非常用通信盤へ向かった。

 無線通信は依然として不安定だったが、有線の緊急回線には接続できた。


「こちら八神。西側連絡路で侵入者を見失った。第三試験待機区画方面への移動が疑われる。各区画の封鎖状況は?」


『現在、第三演習棟全域で緊急隔離を実施しています』


「相手は転移能力を持ってる。隔壁だけで封じ込めたつもりにならないで」


『了解しました。対象の特徴をお願いします』


「全身に機械構造。生体反応は未確認。胸部と右肩に深刻な損傷を与えたけど、運動機能は維持してる。左腕には高出力の射撃装置がある」


 八神は通信を終え、負傷した局員へ肩を貸した。

 崩れた通路の先には、第三試験の待機区画がある。

 男がどこへ消えたのかは分からない。

 ただ、あれほどの損傷を受けながら進み続けた理由が、単なる逃走ではないことだけは、八神にも理解できていた。


 *


 第三演習棟、東側待機区画。

 久世湊は壁面の表示を見上げていた。


 《THIRD EXAMINATION:SUSPENDED》

 《SECURITY LEVEL:RED》

 《REMAIN IN DESIGNATED AREA》


 第三試験の開始予定時刻はすでに過ぎている。

 しかし、試験内容の通知は届かず、施設の各所では非常警報が断続的に鳴っていた。

 これまでの試験では、参加者の判断力を測るために意図的な情報制限が行われていた。

 今回も同様の形式である可能性は残っている。

 だが、先ほどから床を伝わってくる衝撃は、模擬戦闘のものとして片づけるには大きすぎた。


「久世さん」


 背後から声がした。

 振り返ると、隣接する待機区画から榊が歩いてきていた。


「何か分かった?」


「西側で保安設備が作動してるみたいで、しかも試験管理系統じゃなくて、施設防衛用の独立回線です」


 榊は端末を操作し、第三演習棟の簡易図を表示した。

 西側の一部が赤く塗り潰されている。


「管理側が想定していた試験なら、この系統まで使う理由はないと思うんです」


「……何かあったのかな?」


「可能性は高いですね。でも詳細が来ない。通信障害なのか、意図的に情報を制限してるのかも判断できないので、なんとも」


 久世は表示を確認した。

 立ち入り禁止の領域が、少しずつ東側へ広がっている。


「待機命令は継続中?」


「はい。少なくとも、まだ解除されてないです」


「なら、勝手には動けないか」


 榊が頷こうとした時だった。

 通路の奥から、何かを叩く音が響いた。

 続いて、人の声が聞こえる。


『誰か! 聞こえませんか!』


 久世と榊は顔を見合わせた。

 声は設備点検用の通路からだった。

 久世が扉へ近づく。


「聞こえます。状況を教えてください」


『二人います! 棚が倒れて、一人が脚を挟まれてるんです!』


「意識はありますか」


『あります。でも動かせなくて!』


 榊が扉の認証パネルを確認した。


 《EMERGENCY LOCK》

 《LOCAL CONTROL:DISABLED》


「中央からロックされてる。通常の認証じゃ開かない」


「非常解放は?」


「ありますけど、確認しないと危険です。室内側に何か寄り掛かってたら、扉が動いた時に二次被害が出ちゃいます」


 榊は扉越しに室内の状況を聞き取り、安全を確認してから非常解放装置を操作した。

 久世が手動レバーを引く。

 機械的な固定音が解け、扉が徐々に開いた。

 内部では設備ラックが横倒しになり、作業服姿の男性が脚を挟まれていた。

 久世は床へ膝をつき、ラックの下を覗き込む。


「これ動かせる?」


「重量だけなら。でも、上部の配線が引っ張られてる。先に給電を止めないと」


「分かった」


 その時、通路の向こうから足音が近づいてきた。


「久世さん! ああ、ここにいたんすね」


 牧野征士郎だった。


「負傷者がいる。手を貸してほしい」


「了解。どれを動かせば?」


 久世がラックを示すと、牧野は室内へ入り、倒れた棚の構造を確認した。


「……これ、上から持ち上げるより、片側だけ浮かせた方が安全じゃないっすか?」


 榊が顔を上げる。


「どうして?」


「床に接してる脚が四つあるでしょ。全部持ち上げたら荷重がこっちに掛かる。挟まれてる側だけ浮かせて、反対側は支点に使った方が安定すると思うんすよ」


 榊はラックの重心位置を確認した。


「……確かに。その方が転倒方向も限定できる」


「じゃ、電源だけお願いします」


 榊が端末を操作する。


 《POWER SUPPLY:OFF》


「切れた。お願い」


 牧野はラックの一端を持ち上げ、久世が男性の脚を引き抜くための空間を確保した。


「少し動かします。痛みが強くなったら言ってください」


 久世は負傷者の膝を支えながら、慎重に脚を抜いた。

 男性が苦痛に顔を歪める。

 しかし、拘束は解除できた。


「立てますか」


「……すみません、力が入らなくて」


「無理しないでください」


 久世は男性の腕を自分の肩へ回した。

 牧野がラックを安全な位置へ戻し、榊は残る職員を出口へ誘導する。

 全員が扉の外へ出たところで、天井の警告灯が赤く点滅した。


 《SECTION ISOLATION》

 《CLOSING SEQUENCE》


「……隔壁が閉まる」


 榊が言った。

 天井に収納されていた防火隔壁が、ゆっくりと降下を始めている。


「牧野さん、負傷者を東側へ」


「了解っす!」


 久世が男性を引き渡した、その時だった。

 通路の奥から、規則性のない足音が聞こえた。

 硬い靴底が、床を叩く。

 一歩。

 そして、もう一歩。

 久世は顔を上げた。

 非常灯が照らす通路の中央に、黒いコートの男が立っていた。


 *


「所属と目的を申告してください。特殊公安執行局、第四執行部の久世です」


 声は廊下の奥まで届いた。男は視線を上げただけだった。

 榊の端末が震える。


 《BIOLOGICAL SIGNAL:NOT DETECTED》

 《MECHANICAL STRUCTURE:DETECTED》


「生体反応なしです」


「完全義体」


「外見だけでは分からないですが、既知の義肢規格とも構造が違うかもしれないです」


 牧野は負傷者を抱え直した。


「俺はこの人たちを連れて下がる。相手がこっちを狙ったら教えて」


「東の出口へ。立ち止まらないで」


 男の前腕が開き、皮膚に見えた外装の内側から砲口が露出した。


「伏せて!」


 青白い閃光が空間を横切った。久世が職員を壁際へ押すのと、背後の防火扉に衝撃が走るのはほとんど同時だった。表面の塗装が焼け、金属の縁が内側へ反る。溶けた樹脂の甘い臭いが鼻を刺した。


 久世は支給品のスタンバトンを抜いた。

 制圧対象を人間と想定した装備で、あの構造体に通用する保証はない。

 目的は撃破ではない。相手の注意を集め、退避の余地を作る。


 《AOF ACTIVE》

 《SYNC RATE:98.4%》


 久世の輪郭が廊下の光景へ溶ける。右で足音を鳴らし、光学像だけを半拍遅らせた。

 視覚と音の位置が食い違えば、相手の認識には迷いが生じる。


 ところが、男の瞳は偽の位置を追いながら、砲口だけが久世の進路へ回った。

 久世は床を蹴って射線を外れた。光弾が床材を焼き抜き、破片が制服の裾に当たる。


「可視光だけじゃないな」


「そう。別系統の観測を重ねてる。熱か音か、まだ絞れない!」


 榊の声を聞き、久世は壁面の消火器を見た。

 収納箱を開き、白い粉末を通路へ噴き出させる。

 粒子は灯りを散らし、男の姿を滲ませた。

 自分のAOFにも粉が付く。隠蔽精度は落ちるが、相手の観測にも余計な情報を混ぜられる。

 久世は噴射を止め、柱の陰から低く移動した。

 損傷した右肩側へ回る。

 男が左腕で迎撃するには、胴体ごと向きを変える必要があるはずだった。

 バトンを露出した駆動部へ運ぶ。

 届く直前、男の左脚が後ろへ滑った。

 踵が久世の膝の外側を捉え、重心を崩す。続いて前腕の外装から短い刃が現れた。


 久世はバトンの側面で刃を受け、押し合わずに角度だけを変えた。

 相手の肘へ左手を添えた瞬間、関節が人間にはあり得ない方向へ回転する。

 すぐに指を離した。

 刃先が袖を裂き、布切れが床へ落ちる。

 久世は柱のそばまで退いた。男は追わず、こちらの構えが戻るまで動かなかった。

 息を整える。自分には追撃を防ぐ余裕がなかった。相手には、その一手を打つ余地があった。


「……何を待っている」


 男の瞳が、久世の右腕から脚へ移った。

 答えは言葉にならない。沈黙だけが、妙に意図を持って見えた。


 *


 遠くで隔壁の駆動音が続いていた。閉鎖が完了するまで、そう長くはない。

 久世は通路の配置を頭に入れ直す。

 正面に侵入者、右奥に榊、東側の出口へ向かう牧野と二人の職員。

 退路の途中には、先ほどの砲撃で損傷した配線が垂れ下がっている。

 火花は断続的だった。だから安全なのではない。絶縁が破れたまま通電している可能性がある。


「東側の給電を局所遮断できる?」


「試してます。でも中央の制御権が残ってて、私の権限では通りそうにありません」


「手動は?」


「配電盤が向こう側に。相手の射線と重なりますね」


 牧野が床を見た。


「壁際に足場を作れれば通れます。でも、脚を傷めた人を抱えてる以上、跳び越す選択はないっすね」


「うん。安全な経路と、通れそうな経路は違う」


 榊は制御系統図を拡大した。


「非常用の遮断器なら別回線にあります。そこへの操作権を取れるか試してみます。その間、相手を近づけないで」


 久世は頷き、バトンを持ち替えた。

 撃破できない相手を止める方法は限られる。

 だからこそ、何を守るための数秒なのかを誤るわけにはいかない。


「牧野さん、退避の準備を。榊さんの合図で動いて」


「久世さんは?」


「砲口をこちらへ向けさせる」


「無茶は承知っすけど……任せました」


 久世は敵の正面へ出た。AOFの輪郭補正を小さく揺らし、進路を二つに見せる。男の左腕が追随する。

 だが、砲口は久世を通り越した。

 牧野たちの方へ向いている。


「……っ!」


 久世が走り出す。その瞬間、頭上で固定金具が弾けた。

 先ほどの熱衝撃で歪んでいた照明架台が、天井から剥がれかけていた。

 一本だけ残った支持具が曲がり、金属の骨組みが斜めに傾く。

 その真下には、牧野が支える負傷者がいる。

 男の右肩の駆動部は、今も剥き出しだった。

 久世からは数歩の距離。バトンを押し当てれば、動作を鈍らせられるかもしれない。

 しかし、照明架台が落ちるまでに残された時間は、それより短かった。

 訓練で与えられた選択肢は、いつも整っていた。

 危険の範囲が示され、失敗の結果さえ設計されている。

 今は違う。

 見えないところにも人がいて、判断を誤れば取り返しがつかない。

 久世は男の顔を見た。

 損傷した人工皮膚の奥で、暗い瞳がこちらを捉えている。

 砲口の光が強まったのか、非常灯が揺れたのか。判別する暇はなかった。

 天井で最後の支持具が外れた。

 久世はバトンを握る力を緩める。

 敵に向けていた身体を、負傷者の方へ反転させた。

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