#13 目前
朝の訓練区画はまだ静かで、床に落ちる靴音だけが広い室内へ薄く響いていた。久世の右手には訓練用ナイフ、向かいの鳴海はいつも通り刀を抜かず、鞘へ手を添えたまま立っている。
久世がAOFを起動する。
《AOF ACTIVE》
《SYNC RATE:98.4%》
昨日まで警告を出していた制御は、もう不安定ではない。
昨夜のうちに榊と何度も調整し、今では意識するだけで再現できる。
開始音が鳴ると、久世は正面から距離を詰め、右へ抜けるように身体を傾けた。
鳴海の視線が肩から腰へ落ち、その動きを追うように鞘が滑る。
しかし、そこに久世はいない。
右から足音が聞こえた直後、床へ伝わる荷重は別の方向へずれ、視界には僅かに遅れて久世の輪郭が残る。どの情報も久世を示しているのに、それらを一人の人間として繋ごうとした瞬間だけ位置が噛み合わない。
鳴海が振り向くより早く、黒い樹脂刃が脇腹へ触れた。
《HIT》
短い電子音が響く。
鳴海は自分の脇腹へ一度目を落とし、それから久世を見た。
「もう一回」
二戦目では、鳴海は最初から視覚を信用しなかった。
足音と床の振動だけを拾い、久世が左右へ揺さぶっても動かず待ち続ける。
それでも久世が一歩踏み込んだ瞬間、鳴海が追っていた位置と実際の動きが僅かに食い違い、
鞘が空を切った直後には、久世のナイフが背中へ触れていた。
《HIT》
「……昨日より厄介になったな」
「褒めてます?」
「かなり」
三戦目。
鳴海はもう何も追わなかった。
右に気配があっても、背後で音がしても、中心だけを守って動かない。
久世の輪郭が揺れる。
それでも鳴海は反応しない。
なら、と久世はAOFを使わず、そのまま真正面から間合いへ入った。
鳴海が気づいた時には遅い。
《HIT》
三度目の電子音。
「今のは使ってないな」
「はい」
「俺が警戒すると思ったからか」
鳴海は少しだけ黙り、それから鞘を下ろした。
「そこまでできれば十分だ」
久世が顔を上げる。
「十分?」
「昨日は技を使ってただけだ。今は相手の反応を見て、使うか使わないかまで選んでる」
鳴海は出口へ向かいながら続ける。
「明日の試験で使うには、もう困らない」
昨日までの偶然は、もう偶然ではない。
久世自身が選び、使える技になっていた。
鳴海は扉の前で一度だけ振り返る。
「あと、あまり自分の手の内は見せないことだ」
それだけ言い残し、鳴海は訓練区画を出ていった。
朝の静けさが戻る。
久世は手に残ったナイフの感触を確かめるように握り直し、さっきまで鳴海が立っていた場所を見た。
もう、自分を消すだけではない。
相手の中に、間違った自分を作る。
その使い方は、すでに久世のものになっていた。
*
午前十時過ぎ。
第五執行部の特殊物品搬入口には、遠征から戻った特殊部隊の装備が次々と運び込まれており、普段なら無機質な灰色の床も、この時間だけは大型ケースや封印済みコンテナで埋まりつつあった。
前川胡桃は、その中でもひときわ大きな黒いコンテナを前にして立ち尽くしていた。
腰ほどの高さがあり、外装にはいくつもの擦過痕と深いへこみが残っている。側面に印字された所属コードを確認すると、そこには第二特殊執行班《FENRIR》の文字があった。
「……これ、私たちで動かすんですか?」
隣で端末を眺めていた九条紗良は、コンテナと画面を交互に見比べる。
「受領先は第五になってるね」
「重そう、っていうか絶対重いです」
「重いよ。百八十六・四キロ」
「無理ですよ」
「私は無理」
「私もですよ!」
九条が当然のように頷いたところで、搬入口の奥から低い足音が近づいてきた。
前川が振り返り、そのまま僅かに身体を固くする。
長身の女性だった。
黒を基調とした重装備に身を包み、顔は艶のないフルフェイスマスクで完全に覆われている。露出している部分がほとんどないせいか、人間というより大型の戦闘装備そのものが歩いてきたように見えた。
胸元には特殊部隊章。
《FENRIR》
その下に刻まれたNAMEを見て、前川は無意識に姿勢を正した。
《JUGGERNAUT》黒瀬凛華。
フェンリルを率いるネームドホルダー。
黒瀬は前川たちの前まで来ると、二人ではなくコンテナへ視線を向けた。
「これ、邪魔?」
「い、いえ。今から運搬機を呼ぼうと思っていて」
「じゃあ大丈夫」
黒瀬が片手で取っ手を掴む。
九条が端末から顔を上げた時には、床へ固定されていた大型ケースが僅かに浮き、そのまま滑るように移動を始めていた。前川は何も言えずに見送る。
黒瀬は十数メートル先の指定位置まで押していき、そこへコンテナを収めると、何事もなかったように戻ってきた。
「……百八十六キロですよ」
九条は黒瀬の腕へ視線を移した。外見だけを見れば強化外骨格の補助を受けているようにも思えるが、関節の駆動音はほとんどなく、装備そのものも重量物を持ち上げるための構造には見えない。
「外骨格ですか?」
「半分くらい」
「残りは?」
「私」
黒瀬が淡々と答える。
九条は納得したように頷いたが、前川には何が半分なのかよく分からなかった。
その時、前川が抱えていた確認票の一枚が腕の間から滑り、床へ落ちた。
「あっ」
屈もうとした瞬間、黒瀬の方が先に手を伸ばしていた。重装備の見た目とは裏腹に動きは静かで、紙を拾う指先にも乱暴さはない。
「はい」
「あ、ありがとうございます」
前川が受け取る。
「試験出るんだよね」
突然そう言われ、前川は目を瞬いた。
「どうして知ってるんですか」
「候補者一覧に名前あったから」
「……見てるんですね」
「一応」
フルフェイスマスクの奥がどういう表情なのかは分からない。それでも声は想像していたより柔らかく、前川の肩から少しだけ力が抜けた。
「頑張って」
「はい」
黒瀬はそれ以上何も言わず、フェンリルの隊員たちがいる搬入区画の奥へ戻っていく。
前川はその背中をしばらく見つめたあと、小さく息を吐いた。
「怖かったです」
「優しかったじゃん」
「見た目がです」
「本人には言わない方がいいよ」
「言いません」
九条は適当に答えながら、先ほど運ばれたコンテナのへこみを指先でなぞっている。
「それにしても、これ結構な衝撃受けてるね」
「中身、大丈夫なんですか?」
「たぶん」
九条は少し離れ、コンテナ全体を見る。
「中身より、運んできた人の方が丈夫そうだけど」
前川は否定できなかった。
*
同じ頃。
本庁舎中央棟では、全局合同執行試験に向けた最終確認が進められていた。
御堂彰子の前には、明日使用される訓練区域の立体図が展開されている。
模擬市街地、高層構造物、地下通路、車両区域。そこへ参加者の想定動線と救護班の待機位置、強制終了ラインが重ねられ、複数部署の担当者が最終的な調整を続けていた。
御堂が見ているのは、評価項目よりもその周辺だった。
「第三区画の救護導線、これだと参加者の移動経路と重なる」
指先で立体図を回転させると、二本の経路が狭い通路で交差する。
「候補者側を迂回させますか」
担当者が尋ねる。
「いや。救護側を変える」
「ですが、そちらだと到着まで二十秒ほど延びます」
「代わりに待機地点を一つ増やせばいい。試験中の選択肢を運営側の都合で狭めるな」
参加者に判断させる以上、選択肢は残す。
ただし、その判断が事故へ繋がった時には止められるようにしておく。
試験を難しくすることと、危険にすることは違う。
「通信断による強制介入基準は?」
「三十秒以上です」
「単独条件?」
「現在は」
「複合に変更しろ。特殊装備使用者なら意図的に通信を切る可能性がある。通信断だけで終了させたら、行動そのものを制限する」
担当者が頷き、条件を書き換える。
その様子を後方から眺めていた人物が、小さく笑った。
「相変わらず細かいね」
御堂が振り返る。
長い黒髪の中に、細く白い筋が混じっている。
黒いロングコートの胸元には、第四特殊執行班《CERBERUS》の部隊章。その下にあるNAMEを確認するまでもなく、御堂は相手を知っていた。
《BASTION》久我静。
「帰ってたのか」
「一時間前にね」
久我は御堂の隣へ立ち、立体図を覗き込む。
「明日はケルベロスが会場封鎖と非常時の区画制御を担当する。だから一応、こっちも全部見ておこうと思って」
「助かる」
「珍しい。素直に言うんだ」
「必要な仕事をしてくれる相手には言う」
「昔からそこだけは変わらないね」
久我は笑いながら図面へ指を伸ばし、地下区画から地上へ抜ける狭い連絡路を示した。
「ここ、第二段階で参加者が集中する可能性がある。二班以上が同時に抜けようとしたら詰まるよ」
御堂も同じ場所を見ていたらしく、すぐに頷く。
「入口を分散させる」
「それがいい」
試験そのものへ介入するのではなく、何かが起きた時に被害を広げないこと。
それがケルベロスの役割だった。
区域封鎖、通信制御、自律兵器の停止、避難経路の確保。
彼らが動く状況は、つまり試験が試験ではなくなった時でもある。
「候補者を見る余裕はあるのか」
御堂が訊く。
「何も起きなければね」
「なら暇でいてくれ」
「それが一番いい」
久我はそう答えたあと、候補者一覧を横へ流していく。
いくつかの名前で指が止まり、そのまま久世湊の欄まで来たところで、御堂が横から画面を閉じた。
「何」
「今見る必要はない」
「取られたくない?」
久我が少し楽しそうに訊く。
「違う」
「即答」
「特殊部隊へ行くこと自体は悪くない。本人に向いているならな」
御堂は立体図へ視線を戻した。
「ただ、明日は名前を売るための試験じゃない。誰かに選ばれるために無茶をする奴が出るなら、そいつは評価以前の問題だ」
「ネームド本人の前で言う?」
「だから言ってる」
久我は一瞬黙ったあと、堪えきれなかったように小さく笑った。
「やっぱり変わってない」
「お前もな」
会議室では次の確認項目が表示され、二人の会話もそこで終わった。
試験開始まで、二十二時間を切っている。
執行局の各部署が候補者を送り出す準備を進める一方で、戻ってきた特殊部隊もまた、
それぞれの立場から明日の試験へ入り始めていた。
*
夜。
地下施設では、古い換気設備の低い駆動音だけが一定の間隔で響いていた。
壁際に並ぶ端末の多くは落とされ、中央の大型モニターだけが白い光を机の上へ投げている。
表示されているのは、翌日に行われる全局合同執行試験の概要だった。
《START 08:00》
《SPECIAL EXECUTION GROUP:ALL UNITS DEPLOYED》
《OBSERVATION / SELECTION》
アダムは画面を見たまま、五つの特殊部隊がすでに本庁舎へ戻っていることと、試験区域周辺の警戒密度が通常より引き上げられていることを淡々と報告した。
机の端へ腰掛けたイブは、その内容を聞きながら僅かに足を揺らしている。
「じゃあ、明日は行けない?」
「行かせない」
短く答えたのは、小柄な女だった。
短く切られた黒髪の片側を眼帯が覆い、白い研究衣の傍らには細い杖が立て掛けられている。
女は端末に表示された警戒区域を一つずつ確認しながら、表情を変えない。
「遠くから見るだけでも?」
「駄目」
「お兄様の試験なのに」
「だから駄目なの」
女がようやく顔を上げる。
「今は余計なものを見せない方がいい」
イブは不満そうに黙った。
少し離れた作業台では、中年の男が古いAOFフレームを分解している。
現行型より厚い接続部から複雑な配線が露出し、工具が触れるたびに小さな金属音が落ちた。
短い黒髪、頬に残る古い傷、片腕には補強用の機械フレーム。
男は手元から目を離さないまま口を開く。
「それ、俺にも言ってる?」
「特にあなたに言ってる」
「信用ないな」
「前に勝手に会ってるでしょう」
工具の音が止まる。
「会ったってほどじゃない」
「AOFの扱いまで教えておいて?」
「見てられなかっただけだ」
「それを余計なことって言うの」
その時、部屋の奥で何かが擦れるような音がした。
アダムが振り返り、作業台にいた男の手も止まる。
そこには誰もいなかったはずだった。
天井近くを走る太い配管の上、その暗がりに人影がある。
細い身体、両腕に巻かれた白い包帯、長い黒髪が顔の半分を覆っている。
どうやってそこへ上がったのか分からない。
そもそも、いつからそこにいたのかも分からない。
アダムの視界に測距表示が浮かぶ。
《TARGET DISTANCE:3.1m》
一瞬後。
《TARGET DISTANCE:5.8m》
《RECALCULATION》
《POSITION ERROR》
表示が揺れる。
イブも同時に顔を上げた。
人影は動いていない。
それでも距離だけが定まらない。
位置推定の輪郭が僅かに左右へ分かれ、次の瞬間には別の場所へ飛ぶ。
《POSITION ESTIMATION:FAILED》
作業台の男の表情が変わる。
「……漏れてるぞ」
返事はない。
暗がりにいる男は、ただこちらを見ていた。
眼帯の女が静かに息を吐く。
「今日は下がってて」
それでも男は何も言わない。
数秒して、人影がゆっくりと動いた。
身体の曲がり方がどこかおかしい。肩と腰の向きが途中でずれ、普通なら体勢を崩す角度のまま、音もなく配管から降りてくる。床へ足が触れた瞬間、部屋の空気が僅かに変わった。
イブの視界にノイズが走り、壁際の距離表示まで狂い始める。
アダムは反射的にイブの前へ半歩出て、作業台にいた男も工具を置いたまま身体を起こした。
誰も武器へ手を伸ばしてはいない。
それでも、その場にいる全員が同じ存在を警戒していた。
男は何もしていない。
ただ立っているだけだった。
それなのに、照明に落ちる影の位置まで僅かに合っていないように見える。
「明日は出さない」
眼帯の女が言う。
「当たり前だ」
作業台の男が返す。
イブが二人を見る。
「そんなに危ないの?」
すぐには誰も答えなかった。
アダムの視界では、いまだに位置情報の補正が続いている。
やがて作業台の男が、目の前の人影から視線を外さないまま口を開いた。
「危ないから出さないんじゃない」
イブが首を傾げる。
「じゃあ?」
男は答えなかった。
眼帯の女が端末の画面を落とす。
久世の名前が消え、部屋が一段暗くなった。
「明日は誰も近づかない。それだけ守って」
アダムが静かに頷き、イブも少し遅れて従う。
細身の男はその間も何も言わず、しばらくこちらを見ていたが、やがて来た時と同じように暗がりの中へ戻っていった。
足音は聞こえなかった。
扉が開いた音もない。
ただ、そこからいなくなった。
アダムの視界に残っていた異常表示だけが、少し遅れて正常へ戻る。
《POSITION ESTIMATION:NORMAL》
イブは誰もいなくなった場所を見つめる。
「……いっつも慣れない」
作業台の男は古いAOFフレームへ視線を戻し、短く言う。
「あいつは特殊だからな、無理もない」
それだけだった。
端末の隅では、試験開始までの時間が静かに減り続けている。
《START 08:00》
久世が明日の試験へ備える頃。
地下のさらに奥では、名前すら語られない一人の気配だけが、しばらく闇の中に残っていた。
日に日に書くペースが落ちてきているので、気分転換にバードウォッチングに行ったんですけど、それのおかげで更新遅くなってます。




