#12 猟犬たち
朝から本庁舎の空気が少し違っていた。
人が多い、というだけではない。廊下を行き交う職員の視線がいつもより外へ向き、搬送区画へ続くエレベーターの使用制限が増え、普段なら静かな本庁舎東側の格納棟から、低く重い駆動音が断続的に響いている。
久世が第四執行部の作戦室へ入った時には、牧野が窓際に立ち、遠くの格納棟を眺めていた。
「何か来るんですか」
久世が尋ねると、牧野は窓の外から目を離さないまま、来るというより帰ってくる、と答えた。
その言い方に、榊も端末から顔を上げる。
「今日でしたっけ」
「予定では昼前」
久世には二人が何の話をしているのか分からない。
その様子に気づいた牧野が振り返り、少しだけ楽しそうに口元を緩めた。
「久世さん、特殊部隊って見たことある?」
「第四も特殊じゃないんですか」
「そういう返しすると思った」
第四執行部は潜入、制圧、救出、特殊装備対処を担当する実働部門であり、一般的な警察組織から見れば十分に特殊だ。だが執行局内部で単に《特殊部隊》と呼ばれるものは、第四とは別に存在している。
本部直属特殊執行群。執行局の猟犬とも呼ばれている。
通常部隊では対処困難と判断された高危険度事案へ投入される五つの部隊で、
第一特殊執行班
第二特殊執行班
第三特殊執行班
第四特殊執行班
第五特殊執行班
それぞれが役割の異なる少数精鋭で構成され、
必ず一人、ネームドホルダー級の執行官が班長として置かれている。
榊が簡潔に説明すると、久世は一度だけ頷いた。
「試験と関係あるの?」
「あります。今年は全班戻るらしいですよ」
牧野が答える。
「特殊部隊は欠員補充だけじゃなく、将来の候補も試験から拾うんですよ。本人が行きたいかどうかは別として」
久世は少し考えた。
「断れる?」
「一応」
「一応なんですね」
「呼ばれ方によるっすけどね」
その言葉が妙に現実的で、久世はそれ以上聞かなかった。
御堂は二人の会話を聞きながら、机上の端末に表示された帰還予定を確認していた。
《本部直属特殊執行群 五個部隊 本日帰還》
《全局合同執行試験 観察・選考任務へ移行》
五部隊が揃って試験を観察する年は多くない。
それだけ今年は各部門から候補者が多いということでもあり、
特殊部隊側に欠員や編成変更が出ているという意味でもある。
「一つだけ勘違いするな」
御堂が画面から顔を上げる。
「声を掛けられることと、そこへ行くことは別だ。特殊部隊からの指名は評価ではあるが、所属変更までその場で決まるわけじゃない」
牧野が肩をすくめた。
「まあ、ネームド本人に直接来いって言われたら断りづらいけどな」
「余計なことを言うな」
「事実ですよ」
御堂は小さく息を吐き、久世と榊へ視線を移した。
「誰に見られていようが、試験でやることは変わらない。特殊部隊へ入るための試験ではなく、執行官として何ができるかを見る試験だ。そこを取り違えるな」
久世は頷いた。
「いつも通り?」
「お前の場合は、少しくらいいつも以上に周りを見ろ」
「分かりました」
「本当に分かった顔には見えないな」
牧野が笑い、榊もほんの少しだけ口元を緩めた。
*
午前十一時十三分。
本庁舎東側の格納区画へ、最初の大型輸送車列が入った。
普段なら関係部署以外は立入制限が掛かる場所だが、この日は試験準備の搬入作業と帰還処理が重なり、第四から第五まで複数部署の人間が周辺を行き来していた。
久世たち第一班も、追加装備の受領確認を兼ねて格納棟へ向かっていた。
床面誘導灯の向こうで大型シャッターが開き、外の白い光が一気に差し込む。
先頭車両は装甲搬送仕様。
その後ろに無人機輸送トラック、医療車両、回収コンテナ。どれも泥と細かな傷を残しており、戻ってきたばかりだということだけは説明されなくても分かった。
牧野が足を止める。
「ライラプスだ」
大型輸送車の後部ハッチが開き、数人の隊員が順番に降りてくる中、最後に姿を見せた女だけは、戦地帰りという言葉から想像する雰囲気とは少し違っていた。
腰近くまで伸びた金髪を揺らしながらタラップを降り、耳元にはいくつものピアス、首筋には細いチョーカー、指にも複数のリングが光っている。黒を基調とした執行装備も、彼女が身につけると戦闘服というよりどこか華やかな衣装に見え、口元には小さな八重歯を覗かせた柔らかな笑みが浮かんでいた。
久世が視線を向けると、隣にいた牧野も同じ人物を見ている。
「派手ですね」
「うん」
胸元に付けられた特殊部隊章と、その下に刻まれた個人識別コードを見た瞬間、表情が僅かに変わる。
「……あれ、ネームドっすね」
久世も改めて女を見る。
ライラプス。
その班章の下に記されたNAMEは、《VAMPIRE》八神紅音。
遠征帰還直後だというのに疲労を感じさせる様子はほとんどなく、部下から渡された端末へ軽く目を通したあと、そのままこちらへ視線を向けた。
一瞬、久世と目が合う。
だが八神の視線は、そこで止まらなかった。
「……」
八神の方が歩いてくる。
距離が近づくにつれ、金属製のアクセサリーが小さく音を立てた。
牧野が少しだけ姿勢を正す。
「ライラプスの方ですよね」
八神は牧野を見ると、初対面の相手を確認するように一度だけ目を細めた。
「そう。八神紅音」
「第四の牧野です」
「初めまして」
握手も敬礼もなく、互いに軽く頭を下げる程度で終わる。
八神の興味は、それ以上牧野には向かなかった。
すぐにその視線が榊へ戻る。
「そっちの子は?」
榊が自分を指す。
「私ですか?」
「そう。あなた」
「榊美月です。第四執行部、技術担当」
「美月ちゃんね」
呼び方が決まるまでが早い。
榊がほんの少し眉を寄せた。
「初対面ですよね」
「うん」
「もう名前呼びなんですか」
「嫌だった?」
「……別に」
八神が笑う。
八重歯が僅かに覗く。
「可愛い」
榊の表情が止まった。
「何がですか」
「反応」
「そういうのいいです」
「冷たいなあ」
言いながらも八神は楽しそうで、嫌がる榊へ無理に近づくことはせず、少しだけ距離を保ったまま顔を眺めている。
久世は二人を交互に見る。
「知り合い?」
「今、初対面って言いましたよね」
「仲良さそうだったから」
「どこがですか」
榊の返答が少しだけ速くなった。
「やっぱり美月ちゃん、好きかも」
「会って五分も経ってません」
「時間って関係ある?」
「あります」
「私はあんまりないかな」
榊は何も返さなかったが、露骨に一歩だけ久世側へ寄った。
八神はそれを見逃さなかったものの、何も言わず、ただ口元だけで笑った。
「またね、美月ちゃん」
「その呼び方、もう確定なんですか」
「気に入ったから」
そう言い残し、八神はライラプスの隊員たちの方へ戻っていった。
榊はその背中をしばらく見たあと、僅かに肩を落とす。
「……苦手かもしれないです」
久世が八神の背中を見る。
「嫌われてはなさそう」
「それが問題なんです」
*
午後。
榊は前日に取得したAOFの訓練ログを抱え、第三執行部の解析区画を訪れていた。
久世が牧野との訓練で発生させた〇・一八秒の認識断絶について、AOF側から取得できるデータだけではなく、外部カメラと視線追跡記録を重ねて確認する必要があった。
普段なら東条へ直接渡すところだが、解析区画へ入っても、いつもの散らかった机に本人の姿はない。
「東条さんは?」
端末へ向かっていた三科が顔を上げる。
「会議です」
「東条さんが?」
「その反応、今日三人目です」
「珍しいので」
「否定はしません」
三科は少し疲れたように眼鏡の位置を直し、榊から端末を受け取った。
「久世さんの訓練ログですね」
「はい。第三側の記録でも確認してほしくて」
三科がデータを開く。
牧野の視線追跡。
久世の位置情報。
外部カメラ。
AOFのレイヤー切り替え。
複数の記録を時間軸へ重ねようとした、その時だった。
「そこ、映像だけ見ても分からないよ」
背後から声がした。
三科の指が止まる。
反応は榊が予想したものより早かった。
三科は振り返ると、わずかに姿勢を正した。
「……鷺宮先輩」
榊もそちらを見る。
白に近い髪に細い銀縁眼鏡、黒い特殊装備の上から羽織ったコートには、
特殊部隊《ARGOS》の識別章。
その胸元には、
《NAME:PANOPTICON》鷺宮伊織。
アルゴス班長にして、ネームドホルダー。
「久しぶり、三科」
「帰還は夕方だと聞いていました」
「予定より早く片付いた」
「それなら先に帰還処理を終えてください」
「終わってるよ」
「健康診断は?」
「終わった」
「装備返却」
「それも」
三科が一瞬黙る。
「……なら構いません」
榊は二人を見比べた。
三科が誰かに対してここまで素直に会話を返す姿は、あまり見たことがない。
「知り合いなんですか?」
榊が聞くと、鷺宮より先に三科が答えた。
「私が第三へ配属された当時、鷺宮先輩が同じ解析班にいました」
「教育係みたいなもの?」
「そこまで立派なものじゃないよ」
鷺宮が笑う。
三科はすぐに首を横へ振った。
「いえ。基礎的な空間解析と多層センサー統合は、ほとんど先輩から教わりました」
「真面目だなあ」
「事実です」
「昔からそこ変わらないね」
三科は何も返さなかったが、否定もしなかった。
普段は東条の雑な仕事ぶりに眉をひそめることの多い三科が、
鷺宮に対してだけは明確に一歩引いている。
榊にはその距離感が少し新鮮だった。
鷺宮が三科の画面へ視線を向ける。
「久世湊?」
「はい」
榊が答える。
「訓練中にAOFを短時間だけ切り替えて、相手側の追跡を外しました」
「〇・一八秒だったやつ?」
「もう知ってるんですか」
「試験候補の公開データに出てたから」
三科が端末を操作し、該当箇所を拡大する。
《TARGET RECOGNITION LOST》
《DURATION:0.18 sec》
《AOF LAYER TRANSITION:MANUAL》
鷺宮は画面を数秒眺めると、別のセンサー記録を指した。
「やっぱり」
「何かありますか?」
榊が尋ねる。
「光学追跡は切れてる。でも床面荷重は残ってるし、空気圧変化も普通に出てる。熱抑制も完全じゃない」
三科も頷く。
「ですから通常の複合センサー相手なら、位置推定自体は可能です」
「そう。ただ、人間相手なら話が変わる」
鷺宮は牧野の視線データを拡大した。
視線が久世を追う。
次の瞬間だけ外れる。
再捕捉。
「人間って、一度見失った対象を再認識するとき、直前までいた位置を基準に探すんだよ。その〇・一八秒で、久世君はその基準そのものをずらしてる」
榊が画面を見る。
「姿を消してるんじゃなくて……」
「相手側の認識を遅らせてる」
三科が続けた。
鷺宮は満足そうに三科を見る。
「そう。それ」
三科がわずかに視線を下げた。
「先輩なら、どう対処しますか」
その問い方には、単なる同僚へ意見を求める時とは違う響きがあった。
鷺宮もそれを当然のように受け取り、少し考える。
「俺なら光学情報を捨てる」
「捨てる?」
榊が聞き返す。
「最初から見ない。荷重、振動、熱、空気、通信。本人が消せないものだけ拾う」
「それだとAOFの優位性がかなり落ちますね」
「アルゴスはそのための部隊だから」
鷺宮はさらりと言った。
榊はそこで、目の前の男がなぜ《PANOPTICON》と呼ばれているのか、少しだけ分かった気がした。
視力がいいわけではない。
目の数が多いわけでもない。
そもそも、彼にとって「見る」という行為の意味そのものが普通とは違う。
三科が別の記録を開く。
「認識断絶時間を延ばす方向で調整するべきだと思いますか」
「俺ならやらない」
鷺宮は即答した。
「長く消したいなら、今までのAOFを強くすればいい。でもこれは別の使い方だろ?」
「では」
「時間じゃなくて、タイミング」
攻撃直前。
方向転換。
踏み込み。
判断の切り替わる瞬間。
相手が「そこにいる」と最も強く確信した瞬間に、それを外す。
「〇・一八秒を〇・三秒にするより、〇・一八秒をどこへ置くか考えた方が怖い」
榊はその言葉を頭の中で整理する。
久世は今、AOFの出力を上げようとしているわけではない。
使う場所そのものを変え始めている。
「久世さんに伝えておきます」
「俺が言ったって言わなくていいよ」
「なぜですか」
「鳴海が教えてるんだろ?」
鷺宮が少し笑う。
「横から口出したって知ったら面倒そうだから」
「知り合いなんですか?」
「こう見えても鳴海とは同期でね」
「先輩とは犬猿の仲ですもんね」
榊はその二人を見ながら、普段の第三とは少し違う空気を感じていた。
東条と三科、天才と秀才、雑と几帳面。
そんな対比ばかり見ていたが、三科にもまた、誰かに教えられ、追いつこうとしていた時期があった。
そしてその先にいた人間が、今はネームドとして特殊部隊を率いている。
鷺宮が帰還したという事実が、試験が近づいていることを改めて実感させた。
*
第三執行部での解析が終わる頃、久世はちょうど本庁舎一階の売店にいた。
榊から追加で頼まれていた冷却パックと、自分用の水。試験前になると細かい備品の消費が増えるらしく、棚の一部はすでに補充待ちの札が掛かっている。
久世は冷蔵棚の前で目的の水を一本取り、次に日用品側へ回ろうとして、通路の先で足を止めた。
女性が二人いる。
どちらも同じくらいの背丈で、腰まで届く紫色の髪。
同型の黒い特殊装備を身につけ、横顔までよく似ていた。
双子だろうか。
最初はそう思った。
一人が菓子棚の前で商品を手に取り、裏面の表示を確認している。
その少し後ろで、もう一人がじっと立っていた。
違和感を覚えたのは、その立ち方だった。
後ろの女だけ、ほとんど重心が揺れない。
呼吸に合わせた肩の動きもなく、目線も一定で、立っているというより、そこへ正確に配置されているように見える。
久世が横を通り過ぎようとすると、手前の女が顔を上げた。
「何か気になる?」
見ていたことは気づかれていたらしい。
久世は二人を見比べる。
「似てるなと思って」
「似てる?」
「かなり」
女性が振り返る。
すると後ろにいたもう一人も、ほぼ同時に久世へ顔を向けた。
二つの同じ顔。
けれど、よく見れば片方の首筋には人工皮膚の継ぎ目が走り、その奥に細い機械構造が覗いている。
「双子ではない?」
「違う」
「姉妹?」
「それも違う」
「じゃあ他人」
「それが一番遠いかな」
久世の選択肢が尽きた。
女は少し笑い、自分の胸元を指先で示す。
《ORTHRUS》
その下には個人識別表示。
《NAME:DOPPELGÄNGER》
「天城双葉。オルトロス」
そこで一度言葉を切り、隣の人型ユニットへ視線を送る。
「こっちも私」
久世はもう一度二人を見る。
「二人いますけど」
「身体が二つあるだけ」
「それは二人って言わない?」
「私は一人のつもり」
天城はそう言いながら右手を上げる。
同時に、隣のユニットが左手を上げた。
動きは完全な鏡写しではない。
別々の動作。
別々の姿勢。
それなのに、どちらにも同じ人間の意図が通っている。
「人型戦闘ユニット?」
「ECHO。正式には《DUAL BODY LINK》で接続された遠隔戦闘ユニット」
天城が答えるより先に、今度は隣のユニットが口を開いた。
「操作してる感覚じゃない」
久世の視線がそちらへ移る。
本人の方は口を閉じている。
「両方とも自分の身体って感じ」
今度は本人が続けた。
久世は少し考える。
「頭、混乱しない?」
「最初はしたよ。右向こうとして片方だけ左行ったり、階段で別々の段踏んで転んだり」
「両方痛い?」
「両方痛い」
「嫌ですね」
「そこは本当に嫌」
天城は苦笑しながら商品を籠へ入れる。
隣の天城は、その間も久世を見ていた。
「近くで見る?」
またユニット側から声がした。
久世は反射的に本人を見る。
「どっちで喋るか選べるんだ」
「両方でも喋れる」
二つの口が同時に開く。
「こんな感じで」
声が綺麗に重なり、久世はほんの少しだけ眉を寄せた。
「聞き取りづらい」
「でしょ。だから普段やらない」
天城が笑う。
久世はECHOの関節部へ視線を落とした。
アダムやイブとは違う。
あの二人には、少なくとも久世から見れば、それぞれ独立した意思があった。
こちらは人型であっても、意識の出所は一つ。
「何?」
天城が訊く。
「似たようなのを最近見たから」
「人型ユニット?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「詳しく分からない」
天城は少し興味を示したが、それ以上は踏み込まなかった。
代わりに、久世の顔を数秒眺める。
「試験、私も見るよ」
「スカウト?」
「それもあるけど」
天城は会計端末へ向かい、その横をECHOが同じ歩幅でついていく。
途中で足を止め、二つの身体が別々の角度から久世を振り返った。
「一人の身体だけで動いてる人って、案外見てる方向が偏るんだよ。私は二つあるから、死角とか、視線の外とか、挟んだ時の反応とか、そういうのが気になる」
「AOFも?」
「もちろん」
天城が笑う。
同時にECHOは笑わなかった。
その差が少し不気味だった。
「消える人を二人分の身体で追ったら、どう見えるんだろうね」
それだけ言うと、今度こそ会計へ向かう。
久世はしばらく二つの背中を見送り、手に持った水へ視線を落とした。
一人。
二つの身体。
理屈は分かった。
理解できたかどうかは、また別だった。
*
夕方。
訓練区画三番へ入ると、鳴海はすでに中央に立っていた。
足元には、黒い訓練用ナイフが一本。
「今日はそれ使え」
久世は拾い上げる。
「当てれば勝ち?」
「一発入れればな」
「鳴海さんは?」
「いつも通り」
腰の実体刀は、今日も鞘に収まったままだった。
久世はAOFを起動する。
《AOF ACTIVE》
《SYNC RATE:98.4%》
前回、鳴海には消えた後の動きを読まれた。
だから今回は、消えてから考えない。
消える前から、どこへ行くと思わせるかを考える。
開始音。
久世が正面から踏み込む。
右へ抜けるように肩を落とし、その瞬間だけ光学層を切る。
鳴海の鞘が右へ走る。
久世は左へ。
だが懐へ入った瞬間、手首を取られ、そのまま体勢を崩された。
「まだ分かりやすい」
「どこが」
「騙す時だけ、動きが綺麗すぎる」
久世は立ち上がる。
「じゃあ、どうすれば」
「お前、まだ自分を消そうとしてるだろ」
鳴海はそう言って、久世がさっきいた場所を鞘で指した。
「お前が消える必要はない。俺が、いない場所にお前がいると思えばいい」
久世の視線がAOFの表示へ落ちる。
光学。
音響。
熱。
今までは全部まとめて消していた。
なら。
「……少し試します」
再開。
久世は右へ踏み込みながら、今度はレイヤーを同時に落とさなかった。
《OPTICAL:SHIFT》
《ACOUSTIC:DELAY》
《THERMAL:HOLD》
光だけが先に消える。
足音は右に残る。
熱も一瞬だけ元の位置へ残る。
久世自身は、すでに左へ動いていた。
鳴海の視線が右へ向く。
鞘も同じ方向へ走った。
空振り。
久世はその隙へ入り、ナイフを胸元へ押し当てる。
《HIT》
短い電子音。
二人とも動きを止めた。
「……入った」
「ああ」
久世は視界に残る警告を見る。
《SENSORY POSITION MISMATCH》
《TARGET POSITION ESTIMATION:ERROR》
「今の、残像ですか」
「違う」
鳴海は首を振る。
「残像なら、そこにいたお前が残る」
そして、さっき鞘を振った場所を見る。
「今のは、最初からそこにいないお前を見せた」
久世も同じ場所へ目を向けた。
自分を消したわけではない。
相手の中に、間違った自分を作った。
それだけだった。
けれど、今までとはまるで違う。
「もう一回やります」
「できるまでやれ」
久世はナイフを握り直す。
AOFの表示が再び開く。
今度は隠れるためではない。
間違わせるために使う。
試験まで、あと二日。
「お願いします」




