#11 見えているもの
鳴海の刀が鞘へ収まる音だけが、訓練区画の静けさの中に細く残った。
久世は首元へ残った感覚を確かめるように指先で触れ、それからもう一度AOFを起動する。
先ほどと同じように輪郭が空間へ溶け、熱も足音も薄れていくが、
今度は最初から背後へ回ろうとはしなかった。
鳴海は中央から動かない。
視線も、呼吸も、姿勢も変わらない。
久世は正面から距離を詰め、途中で光学層だけを短く落とした。
《TARGET RECOGNITION LOST》
牧野との訓練で見つけた、〇・一八秒の断絶。
相手が自分の位置を追い続けている、その連続性だけを切る。
久世はその一瞬へ身体を滑り込ませるつもりだった。
だが、鳴海の右手はすでに柄へ掛かっている。
抜刀。
今度は見えた。
見えたからこそ、避ける。
久世は上体を沈め、頬の上を走る刃を紙一重で外し、そのまま鳴海の右脇へ入り込もうとした。
ところが二撃目はなく、代わりに鞘そのものが久世の進路へ差し込まれ、
踏み込んだ腰を押し返すように止められる。
久世は接触の瞬間に距離を切り、再び光学層を落とした。
見えていないはずなのに、鳴海の身体は迷わない。
正面を向いたまま半歩だけ軸をずらし、久世が選ぼうとした空間を先に潰してくる。
久世はそこでようやく気づいた。
鳴海は自分を追っているわけではない。
自分が次に来る場所を、先に取っている。
右へ回れば、その先に刀がある。
背後へ抜ければ、鞘が塞ぐ。
距離を取れば追ってこない。
こちらが攻めようとした瞬間だけ、必要な場所へ最短で刃が現れる。
何度か試すうちに、久世はわざと足音を一つ残した。
吸音層を完全には閉じず、右側へ小さな接地音を落としてから、自分は反対側へ回る。
鳴海の刀が右へ走る。
初めて外れた。
久世はその瞬間に左から入り、懐へ潜る。
届く。
そう思った直後、鳴海の膝が僅かに上がり、久世の進路を止める。
久世は肩を引き、そこで無理をしなかった。
距離を取る。
鳴海も追わない。
数秒の沈黙が落ちた。
「今のは悪くない」
初めて、鳴海の方から評価らしい言葉が出た。
久世はAOFを解除する。
「当たってないですけど」
「当てる話はしてない」
鳴海は刀へ視線を落とし、そのまま続けた。
「お前は消えた後、必ず安全な方へ回る。潜入や生き残るためであればその選択は正しい。次までに考えろ」
「次もあるんですか」
「御堂がそう言ってる」
鳴海は淡々と刀を腰へ戻した。
「俺は聞いてないです」
「今聞いた」
それで話は終わりらしい。
戦闘の専門家。
御堂がそう説明した理由が、少しだけ分かった気がした。
*
訓練を終えた久世は、そのまま第四執行部の技術区画へ向かった。
榊はすでに端末を三枚開き、先ほどの模擬戦闘ログを追っていた。
久世が入ってきてもすぐには顔を上げず、鳴海の抜刀速度、久世の移動軌跡、AOFのレイヤー切り替えを順番に重ねていく。
「首、大丈夫ですか」
「当たってないです」
「当たりそうだったから聞いてるんです」
ようやく榊が顔を上げる。
久世は訓練台の端へ腰掛け、首元へ触れた。
傷はない。
それでも、刃が止まった位置だけは妙に鮮明に覚えている。
「鳴海さん、見えてないのに当ててきました」
「映像見ました」
「どうやってると思います?」
「床振動、気流、音、衣擦れ、呼吸、重心移動……候補だけならいくらでもあります。でも、あれ全部を人間の感覚だけで処理してるなら、私はあまり考えたくないです」
「褒めてます?」
「引いてます」
久世は少しだけ笑った。
榊はまた画面へ戻り、久世がわざと足音を残した場面で映像を止める。
「ここ、久世さんが自分でやったんですよね」
「はい」
「昨日の〇・一八秒もそうですけど、最近、AOFの使い方増えてません?」
「怒ってます?」
「引いてます」
榊は椅子ごと少しだけ久世の方へ向き直る。
「でも、悪い意味じゃないです」
これまではAOF側が想定している制御範囲の中で、久世が異常な精度を出していた。
今は違う。
MANUAL LAYERを使い始めてから、久世自身が各機能を分解し、
必要な瞬間に必要なものだけを繋ぎ直している。
それは機器側が想定した正しい使い方とは限らない。
けれど、久世にはそれができる。
「私が怖いのは、できるからって全部やろうとすることです」
榊はそう言いながら、久世の右腕へ簡易センサーを貼り付けた。
「神経負荷、昨日より上がってます。ORIONほどじゃないですけど、細かい切り替えを連続でやると脳の方が先に疲れる」
「自覚ないです」
「それが一番困るんです」
久世は黙った。
しばらく機器の作動音だけが続く。
榊はデータを確認しながら、何度か何かを言いかけては止めていた。
久世の方が先に気づく。
「何ですか」
「……久世さん」
「はい」
「最近のこと、怖くないんですか」
久世は少しだけ目を動かした。
何のことかは聞かなくても分かる。
ORION。
旧型AOFを使っていた男。
アダムとイヴ。
自分を知っている存在ばかりが増えているのに、自分は何も知らない。
「怖いっていうより」
久世は少し考えた。
「気持ち悪いです」
榊が手を止める。
「自分のことなのに、俺だけ知らない感じがするので」
それだけ言って、久世は視線を落とした。
榊もすぐには返さなかった。
彼女はAOF担当として、久世の装備を誰より近くで見ている。
同期率、出力、レイヤー制御、ORION発動時の異常なログ。
それでも最近は、見れば見るほど分からない部分の方が増えていた。
「私もです」
久世が顔を上げる。
「榊さんでも?」
「私でも、です」
榊は少しだけ悔しそうに笑った。
「前までは、分からないログが出たら調べればだいたい分かりました。でも今は、調べても分からない。仕様書にない。設計記録にもない。問い合わせても権限が足りないって返ってくる」
そこで一度言葉を切り、久世の右腕に貼ったセンサーを外す。
「だから、分からないままにしないようにします」
「どうやって?」
「調べます」
「普通ですね」
「普通が一番強いんです」
榊は少しだけ胸を張った。
「久世さんが自分のことを自分で見られないなら、私が横から見ます。変なログが出たら止めますし、危なかったら怒ります」
「怒るんですか」
「怒ります」
「怖いな」
「鳴海さんの刀よりは安全です」
久世はまた小さく笑った。
その反応を見て、榊も少しだけ表情を緩める。
*
同じ日の夕方。
御堂は第四執行部の自席に一人残っていた。
第一班のメンバーはすでに訓練や試験準備へ散り、
作戦室には端末の冷却音と空調の低い唸りだけが残っている。
御堂の画面には、中央管理室へ送った照会申請が表示されていた。
内容は三つ。
アダム、イヴと名乗る未登録自律型機械の侵入経路に関する情報共有。
久世のAOFに記録された《EXTERNAL MODULE INTERFACE》およびORIONの開発記録。
久世本人へ設定された一時的監視強化の根拠。
現場責任者としては、どれも確認して当然の内容だった。
返答は短い。
《ACCESS DENIED》
《CLEARANCE INSUFFICIENT》
《REFER TO CENTRAL MANAGEMENT》
御堂は表情を変えず、申請理由を追記して再送する。
第一班所属局員の安全管理上必要。
未登録兵装の発動は作戦運用へ直接影響する。
対象局員本人へ説明できない制限を、現場責任者だけが運用することは適切ではない。
数秒後。
《REQUEST DENIED》
御堂の指が止まる。
もう一度、別経路から関連資料を開こうとする。
《CLASSIFIED》
《CENTRAL AUTHORITY ONLY》
久世湊の個人記録へ戻る。
《AOF SYNC RATE:98.4%》
《SPECIAL OBSERVATION:――――》
最後の項目だけが伏せられていた。
御堂は椅子へ深く座り、画面を見たまま動かなかった。
秘密があること自体は珍しくない。
執行局には扱う情報の性質上、部門を跨いでも共有されない案件はいくらでもある。
だが今回は違う。
秘密の中心にいるのが、自分の部下だった。
本人は何も知らない。
現場の班長にも知らされない。
それなのに、中央だけが久世の装備と行動を必要以上に細かく見ている。
御堂は端末を閉じようとして、止めた。
もう一件だけ送る。
《REQUEST:DISCLOSURE BASIS FOR SUBJECT MONITORING》
返答は今度こそ早かった。
《NECESSARY INFORMATION HAS BEEN SHARED》
御堂の眉が僅かに寄る。
「……必要かどうかを決めるのは、誰だ」
誰に聞かせるでもなく呟き、ようやく画面を閉じた。
*
その日の夜、帰り支度をしていた牧野が御堂の席へ寄った。
「まだ残るんですか」
「少しだけだ」
「試験前に班長が倒れたら、俺ら全員迷子になりますよ」
「お前がいるだろ」
「それはもっと迷子になります」
雑談もそこそこに、牧野はそのまま帰ろうとして、ふと思い出したように止まる。
「班長、久世さん、ちょっと変わりましたね」
御堂が顔を上げる。
「どういう意味だ」
「前より、なんていうか人間臭くなったっていうか」
御堂は少し黙る。
以前の彼はどこか無機質で、ロボットのように任務を完遂していた。
今は四班の面々とも交流を増やし、外部の局員とも言葉を交わしている。
インターンの彼を知っている御堂は感慨深いものがあった。
彼の中で、何かが変わり始めているのかもしれない。
「そうだな」
彼女の口元は微かに緩んでいた。
*
夜の技術区画で、榊は久世のAOFへ最後の調整を入れていた。
〇・一八秒の認識遮断についても、試験中にログを追えるよう個別タグを付ける必要があるらしく、 榊は仮称を入力する欄で手を止めている。
「名前、何にします?」
「必要ですか」
「ログ管理上」
「じゃあ榊さんが適当に」
「それ一番困るやつです」
榊は少し考え、端末へ文字を打ち込んだ。
《BLIND STEP》
久世が画面を見る。
「ちょっと恥ずかしい」
「技名ってだいたいそういうものです」
「変えたい」
「仮称なので、もっといいの思いついたら変えます」
榊はそう言いながら調整を終え、AOFの接続を解除した。
久世が立ち上がる。
「終わり?」
「今日は」
榊は端末を閉じたあと、少しだけ言いにくそうに続ける。
「試験、お互い頑張りましょうね」
「もちろん、榊さんや四班の皆がいてるし」
榊の手が止まった。
ほんの一瞬。
「……そういうこと言えるんですね」
「変でした?」
「別に」
榊は久世から視線を外し、閉じたばかりの端末を意味もなくもう一度開いた。
久世には理由が分からない。
ただ、これ以上聞くと怒られそうだったので黙っておく。
技術区画の照明が一列ずつ落ちていく。
試験まで、あと三日。
鳴海から与えられた課題。
そして、自分にはまだ見えていない何か。
久世はそれらを抱えたまま、静かに技術区画をあとにした。




