#10 消えるだけでは
アダムとイヴが執行局へ侵入してから、一日が経った。
昨日と同じように第四執行部へ出勤した久世だったが、同じなのは見慣れた机と室内の景色くらいで、 本人を取り巻く状況は明らかに変わっていた。
端末を起動すると、通常の勤務情報より先に新しい通知が表示される。
《TEMPORARY SECURITY PROTOCOL》
《SUBJECT:MINATO KUZE》
《SOLO EXTERNAL ACTIVITY:RESTRICTED》
《AOF LOG STORAGE:MAXIMUM》
《UNKNOWN ENTITY CONTACT:IMMEDIATE REPORT》
久世はしばらく画面を見たあと、隣の席にいる榊へ視線を向けた。
「増えてる」
榊もすでに内容を把握していたらしく、少し申し訳なさそうに頷く。
「増えてますね」
「昨日より?」
「昨日は事情聴取だけだったので」
「今日から正式?」
「正式というか……暫定です」
暫定という言葉ほど長く続くものもない気がしたが、久世は口には出さず、表示を下へ送っていく。
単独での局外行動は原則禁止。
任務時は同行者を付けること。
AOFを使用した場合は通常より詳細な神経同期ログを保存。
未登録AI、あるいは昨日の二体に類似する存在と接触した場合は、
本人の判断で追跡せず、直ちに第一または第三へ報告。
そう書かれている。
しかし、自分の名前の下に並んでいる項目だけを見れば、あまり自由になった気もしない。
後ろを通りかかった牧野が久世の画面を覗き込み、吹き出した。
「久世さん完全に要注意人物じゃないっすか」
「保護対象です」
「言い方変えただけじゃないっすか?」
「俺もそう思ってたところです」
そのやり取りを聞いていた御堂が、作業端末から顔を上げた。
昨日から何度も同じ説明をしているのだろう、表情こそいつも通りだったが、
声には少しだけ疲れが混じっている。
久世に何らかの疑いが掛かっているわけではないこと、行動制限は本人の保護と再接触時の情報確保を目的としたものであること、アダムとイヴが何者なのか判明するまでは解除時期も決められないこと。
久世も内容そのものには納得していた。
「班長」
「何だ」
「一つ聞いていいですか」
御堂が作業を止める。
「昨日の二人が、また来たとして」
そこまで言って、言葉を選ぶ。
「俺が逃げれば、他の人は大丈夫なんですか」
御堂の視線が僅かに変わった。
榊も手を止める。
「さあな」
返ってきたのは、それだけだった。
御堂は曖昧に誤魔化さず、そのまま続ける。
あの二体が久世をどのような存在として認識しているのか分からない以上、
久世の周囲をどう扱うかも予測できない。
保護対象なのか、障害物なのか。
「今日、訓練区画空いてます?」
突然の問いに、御堂が眉を僅かに寄せる。
「珍しいな。牧野手伝ってやれ」
牧野が横から顔を出した。
「俺っすか?」
「お願いします」
「なんだかんだ初めてっすね」
「お願いします」
「分かってるって」
牧野は楽しそうに笑った。
*
第四執行部の訓練区画は、実任務を想定して壁、床、障害物の位置を自由に変更できる。
ただ、今日は何も設定されていない。
灰色の床、白い壁、中央に久世と牧野。
観測室には榊。
久世はAOFスーツを着用し、牧野は軽い保護具だけを身につけていた。
『出力は通常訓練設定です。保護制御も有効。AOF側に異常が出たらすぐ止めます』
久世が軽く頷く。
向かいの牧野は肩を回しながら、何をすればいいのか尋ねた。
「俺を止めてください」
「止めるって?」
「動けないように」
「殴っていいすか?」
「痛くないくらいで」
「難しい注文するなあ」
開始音。
久世が消えた。
正確には、消えたように見える。
周囲の光景をAOFが読み取り、久世の身体へ重ね、熱、音、センサー反射まで同時に抑制する。
牧野は目だけを左右へ動かす。
何も見えていない。
久世はその外側を回る。
右。
背後。
距離を詰める。
肩へ手を伸ばした瞬間、牧野の身体が回った。
久世は触れる前に腕を引き、拳を避ける。
床を滑るように距離を取る。
牧野が笑った。
「やっぱ逃げるの上手いっすね」
「逃げてないです」
「今のは逃げたでしょ」
久世は答えず、そのまま再び牧野の死角へ滑り込んだ。
今度は姿勢を低くし、背後から膝裏へ足を差し入れ、同時に腰の位置をずらして重心を崩す。
牧野の身体が僅かに傾いた瞬間を逃さず腕を取ったが、そこで動きが止まった。
体格差が大きすぎる。
筋力も、体重も違う。
接触したことで位置まで完全に知られ、次の瞬間には牧野の手が久世の腕を捕まえようと伸びてくる。 久世は無理に拘束へ移らず、その手が届くより早く腕を離し、身体を捻って再び距離を取った。
それでも終わらない。
背後へ回り、踏み込んでくる腕を避け、離れた直後にはまた視界の外へ潜り込む。肩へ触れ、重心を崩そうとしては押し返され、掴まれる前に離脱する。
同じことを何度繰り返しても、結果だけは変わらなかった。
牧野は久世をまともに捉えられない。
久世も攻撃をほとんど受けない。
死角へ入る回数だけなら、明らかに久世の方が多い。
それなのに、そこから先へ進めない。
見つからないことはできる。
避けることもできる。
だが、相手の動きを止めることができない。
数分続いたところで、牧野がようやく片手を上げた。
その合図を見て、久世も動きを止めた。
「一回止めよう」
訓練が停止する。
牧野は区画の端まで歩き、壁際に置かれていた人型ダミーを一体引っ張ってきた。
そのまま中央へ置く。
「次、これ守ってください」
久世がダミーを見る。
「要救助者?」
「そういうことで」
ルールは単純だった。
牧野がダミーへ触れれば終了。
久世はそれを阻止する。
牧野を倒す必要はない。
「分かりました」
開始音と同時に久世の輪郭が背景へ溶けたが、牧野はその姿を探そうともせず、
最初から久世などそこにいないかのようにダミーへ向かって一直線に踏み込んだ。
背後へ回った久世が肩を掴み、進行方向から引き剥がそうとするものの、牧野は身体を捻るだけでその手を振り払い、返す腕で大きく薙ぐ。久世は拳が頬を掠める寸前で身を沈め、そのまま横へ抜けたが、その回避に使った一瞬の間にも牧野の足は止まらず、ダミーとの距離がまた一歩縮まった。
ならばと今度は側面から腕へ絡みつき、肘と肩を押さえて重心を崩そうとする。だが体格差はあまりに大きく、牧野が腕を強引に引いただけで久世の身体まで持っていかれ、すぐに手を離して距離を取らざるを得ない。
その間にも牧野は前へ出る。
久世は回り込んで正面を塞ぎ、足を止めさせようとした。牧野の肩が沈み、次の瞬間には大きな身体が真正面から迫る。反射的に久世が横へ滑ると、牧野はその動きを追わなかった。久世を倒す必要など最初からない、そのまま空いた道を抜け、伸ばした手がダミーの肩へ触れる。
終了音が響いた。
久世は数メートル先で足を止めたまま、ダミーへ手を置く牧野を見つめる。
自分は一度もまともな攻撃を受けていない。それなのに、負けていた。
二回目も大きくは変わらなかった。姿を消して進路へ入り、背後から押し、横から足を止めようとしても、牧野は久世を追わず、ただダミーへ向かって前へ進み続ける。
三回目には久世も力で止めることを選び、真正面から肩をぶつけたが、踏ん張った足ごと押し戻され、床を滑った分だけ牧野との距離が開いた。
四回目。
久世は開始と同時に完全な光学迷彩へ移行し、今度こそ一切気配を見せずに背後へ潜り込むと、そのまま首元へ腕を回して上体を引いた。牧野の足が一瞬だけ止まる。
いける――そう思った直後だった。
牧野の太い手が久世の腕を掴み、迷いなく腰が沈む。背中越しに身体が浮かされる感覚を覚えた瞬間、久世は拘束を解き、自分から床へ落ちるように身体を捻って投げを逃れ、そのまま肩から転がって距離を取った。
だが顔を上げた時には、牧野はもう久世を見ていなかった。
前へ。
ただ真っ直ぐ、守るべきダミーへ。
久世が立ち上がるより早く、その手が肩へ届く。
終了音が、再び訓練区画に響いた。
「……俺を無視してます?」
「うん」
牧野は悪びれもしなかった。
「だって、久世さん倒さなくていいもん」
久世は黙る。
牧野はダミーの肩へ手を置いた。
「久世さんをを見失っても、守るもんの場所は消えないですもん」
簡単な言葉だった。
だからこそ、久世は返せなかった。
自分だけが消えても。
自分だけが避けても。
誰かを守る必要があるなら、それだけでは足りない。
「もう一回」
観測席から榊が休憩を勧めたが、久世は首を振った。
開始位置へ戻る。
今度は消えなかった。
牧野が僅かに眉を上げる。
久世の視界へAOFの設定が開く。
《MANUAL LAYER》
《OPTICAL》
《THERMAL》
《ACOUSTIC》
《SIGNAL》
牧野の視界では、正面にいた久世が一瞬欠け、次の瞬間には右斜め前へ移動している。
「――」
久世はそこで動きを止めなかった。
一度目よりも短く、今度は本当に必要な瞬間だけAOFの光学層を落とす。
完全に姿を消す必要はない、牧野の視線が自分を捉え、
その位置を確定しようとした瞬間だけ認識の糸を切ればいい。
輪郭が一瞬だけ揺らぎ、牧野の目がそのずれを追う。
その僅かな遅れへ、久世は身体を滑り込ませた。
真正面からぶつからない。
肩へ触れ、そこから腰へ圧を移し、さらに足元へ重心を流す。
三つの動きを別々に仕掛けるのではなく、一つの連続した崩しとして繋げ、
牧野が踏み込んだ勢いごと前へ流れた瞬間、その膝裏へ足を差し込んだ。
大きな身体が揺れる。
牧野もすぐに踏ん張ろうとしたが、視線を外された直後では体勢の修正がわずかに遅れ、その一瞬だけ久世の方が早かった。
床が鈍く鳴る。
倒れたわけではない。
それでも、これまで一度も崩せなかった牧野の片膝が、初めて床へ触れた。
『停止!』
榊の声と同時に終了音が響き、久世は反射的に距離を取る。
牧野は片膝をついたまま数秒ほどその姿勢を保ち、自分がどう崩されたのか確かめるように足元を見たあと、少し遅れて口元を緩めた。
「……今のは、ちょっと効きました」
牧野は片膝をついたまま久世を見上げ、今のは何だったんだと半分笑いながら尋ねた。
久世自身にも、まだうまく説明できない。
「分からないです」
観測室では、すでに榊が直前のログを呼び出していた。
視線追跡、牧野の眼球運動、久世の位置情報、AOF各レイヤーの切り替え、
そのすべてを同じ時間軸へ重ねていく。
数秒後、表示の中央に一つの結果が浮かんだ。
《TARGET RECOGNITION LOST》
《DURATION:0.18 sec》
《AOF LAYER TRANSITION:MANUAL》
「〇・一八秒……」
久世が呟く。
「短いですね」
『いいえ』
榊はすぐに否定した。
『人間相手なら十分です。むしろ、かなり長い』
久世は表示を見つめた。
移動速度が上がったわけではない。
完全に姿を消したわけでもない。
ただ、牧野が久世の位置を認識し続けていた、その連続性だけが〇・一八秒途切れている。
たったそれだけ。
けれど、その一瞬があったからこそ、久世は懐へ入り、重心を崩し、
これまで一度も床へつかなかった牧野の膝を落とせた。
たった〇・一八秒。
それでもその時間だけは、誰かに与えられた力ではなく、久世自身がAOFから引き出したものだった。
その感覚は、数字以上にはっきりと手の中へ残っていた。
*
訓練後。
久世は壁際に座り、水を飲んでいた。
榊は少し離れた端末で先ほどのデータを整理している。
隣へ牧野が腰を下ろす。
少しの間、どちらも何も言わなかった。
先に口を開いたのは牧野だった。
「良い動きでしたよ」
久世は水のボトルを下ろす。
「でも止められなかった」
「いやいや、そうじゃないでしょ」
久世が見る。
牧野はしばらく前を向いたまま黙っていたが、やがてぽつりと。
「今までの久世さんは戦わなくて済むならそれが一番だと思ってたでしょ?」
「今もそうです」
「それでいいと思います」
「自分だって殴らずに済むならその方がいいし、班長もきっと同じ考えです」
久世の脳裏に、いくつもの場面が連続して浮かんだ。
自分に向けられた好意と、他人へ向けられた無関心。
あの二つの温度差が、今になって妙に生々しく残っていた。
「……戦えるようになった方がいいですね」
「違いますよ」
牧野の声が重なる。
久世が顔を向けると、そこにいつもの軽い笑みはなかった。
「守れるようになった方がいいっすね」
第四には戦える人間ならいくらでもいる。牧野自身もそうだし、他の班にもいる。ただ、勝つことと守ることは同じではない。
勝つだけなら相手を見ていればいい。
けれど守るなら、その相手の向こう側にいる人間まで見なければならない。
久世は返事をしなかった。
言われてみれば、自分はこれまでずっと、どうすれば見つからないか、どうすれば避けられるか、どうすれば任務を終えて帰れるかばかりを考えていた。
それは間違いではない。
でも、それだけでは足りない場面がある。
牧野は自分でも少し真面目なことを言い過ぎたと思ったのか、
急にいつもの調子へ戻り、空になったボトルを離れた回収箱へ放った。
綺麗に収まり、ガッツポーズをしながらこちらに手を振ってこの場を後にした。
久世はもう一度ログへ視線を落とした。
《TARGET RECOGNITION LOST:0.18 sec》
これまでは、AOFを正しく使うことしか考えていなかった。
用意された機能を使い、決められた設定で動き、潜入し、見つからず、帰る。
けれど。
機能が決められていることと、使い方まで決められていることは、同じではない。
久世はその表示を見つめたまま、ほんの少しだけ考え方を変えた。
*
夕方。
久世は御堂の席の前に立っていた。
近接戦闘を、きちんと学びたい。
そう伝えると、御堂は手元の端末から顔を上げた。
「試験のためか」
久世は首を振る。
「ネームドホルダーのためでも?」
「違います」
少し考える。
「俺だけ逃げられても、意味がない時があるので」
御堂は久世を見る。
すぐには何も言わなかった。
やがて端末を置く。
「なら、牧野とは別の人間にも教わった方がいい」
御堂が端末を操作する。
一件の人員データが久世の画面へ送信された。
見覚えのない男。
三十一歳。
第四執行部、第三班。
黒髪。
細身。
正面写真でも、表情はほとんど動いていない。
《鳴海 冬真》
その下へ資格と専門分野が並ぶ。
《CLOSE QUARTERS EXECUTION》
《ANTI-AOF COMBAT》
《PHYSICAL BLADE USER》
最後の文字で久世の指が止まる。
「実体刃?」
「刀だ」
思わず御堂を見る。
「刀?」
「そうだ」
「今?」
「今だから使う」
御堂によれば、鳴海が使用する装備は電子制御への依存が極端に少なく、通信妨害、EMP、外部侵入、AIジャミングの影響をほとんど受けない。
対義肢、対ドローン、対強化装備。
そして、対AOF。
銃器なら射線が必要になる場面でも、対象の駆動部や関節、武装だけを物理的に切断できる。
古いから残った武器ではない。
新しい技術が増えた結果、再び意味を持った武器。
「強いんですか」
「強い」
御堂はそこだけ即答した。
「牧野さんより?」
「比べるものじゃない」
「俺と相性は?」
「悪い」
また即答。
久世は少し黙った。
御堂は明日の午前、訓練区画三番へ行くよう伝える。
どんな人なのか尋ねると、少し考えてから面倒な男だとだけ言った。
牧野とは違う種類の面倒さ。
それ以上は教えてくれなかった。
*
翌朝。
訓練区画三番へ入った久世は、中央に立っている男を見つけた。
黒い訓練着、細身ではあるが、立ち姿には無駄がない。
腰には一本の刀。
鞘も柄も黒く、装飾らしいものはほとんど見当たらなかった。
銃器、外部フレーム、補助端末。
そういったものは何も装備していない。
久世が名前を確認するより先に、男がこちらを見た。
「久世湊」
「はい」
「鳴海冬真」
最低限。
御堂の言っていた意味が少し分かった気がする。
鳴海は久世のAOFスーツへ一度だけ視線を落とした。
「使え」
「AOF?」
「他にあるか」
久世がAOFを起動すると、光学層が周囲の景色を取り込み、熱反応と足音、信号反射まで順に沈んでいく。輪郭はじわりと空間へ溶け、数秒もしないうちに、そこに人が立っていた痕跡すらほとんど残らなくなった。
《AOF ACTIVE》
それでも鳴海は構えなかった。
刀へ手を掛けるでもなく、視線を動かすでもなく、
ただ中央に立ったまま、久世が消える前と何も変わらない姿勢を保っている。
久世はその反応のなさを確かめるように右へ回り込み、さらに背後へ移る。
鳴海の目は追ってこない。肩も動かない。呼吸の乱れさえない。
完全に見えていない。
そう判断した久世は、そのまま静かに距離を詰めた。
三メートル。
二メートル。
一メートル。
あと一歩踏み込めば、手が届く。
その瞬間だった。
視界を銀色の線が走った。
何が起きたのか理解するより先に、久世の身体が止まる。
首筋から、ほんの数センチ。
冷たい刀の切っ先が、正確にそこへ置かれていた。
抜刀の瞬間は見えなかった。
音もほとんど聞こえない。
ただ、気づいたときには刃がそこにあった。
久世はゆっくりAOFを解除し、首元に浮かぶ切っ先を見たあと、
その向こうに立つ鳴海へ視線を移した。
「見えてた?」
「いや」
即答だった。
「じゃあ、なんで」
鳴海は答える代わりに刀を引き、何事もなかったように鞘へ戻す。
乾いた金属音が、静かな訓練区画に一度だけ響いた。
その手が再び柄へ戻る。
久世は返せなかった。
「もう一回」
鳴海はすでに次の構えへ入っていた。
久世も再びAOFを起動する。
同じ景色が身体を包み、輪郭が薄れていく。
けれど今度は、先ほどまでとは違う目で鳴海を見ていた。
消えれば有利になる。
少なくとも、久世はずっとそう思っていた。
だが、目の前の男にはその前提すら通用しない。
久世はそこで初めて、自分のAOFを「隠れるための装備」ではなく、
その先にある何かとして考え始めることになる。




