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8 灰の休息

【2025年11月17日 コンスタンティノープル、ファティ地区上空】

 「……サラ、ラ……ラ……ラ……サラ、ラ……ラ……ラ……」

 そのハミングは、古い方の病院の鉄格子のある窓から聴こえていた。初めて聴く歌だったが、アリーは気に入った。

「はわ、わ。はわわ、はわわ!」

 ニシコクマルガラスの舌と口内構造では、これが精一杯だ。


 アリーの眼下には病院がたくさんあった。ハミングが聴こえる病院は古くて、背も低い。きれいじゃない。でも木がたくさんあって、窓の近くにもいけて、人間たちもアリーのことを気にしない。


 だけどその北側にある新しい病院は違う。

 木はあるけど病院の建物がでかすぎる。ガラス張りでピカピカ眩しくて、遠くからならきれいだけど、近づくと人間たちがうるさい。追い払われる。窓には留まるところもないし、風がめちゃくちゃな吹き方なのでホバリングもできない。だからアリーは、古い病院の方が好きだった。

 

 ジェイも古い病院に行けばいいのに。



【同日午前 ファティ地区、私立エウドキア総合病院】

 エヴが病院の名前になるとは。ディオが偉人として称賛されるより驚きだ。本人たちは鼻で笑うだろう。少しヴィに似てるかもしれない。

 ジェイは左腰をさすりながら、千年前を思い出していた。


 今日この病院に来たのは腰のせいではない。月2回の心臓の定期健診。エウドキア病院は最新医療設備が整ったこの地区最大の総合病院で、ドクター・セレンの指定だ。


「やめてよ、その……腰、痛がるの」

 いつものように、ヴィは左腕にしがみついている。

「あの時は必死だったんだから。またあなたが変身したら――」

「わかってる。ごめん、つい」

 わかってはいる。ヴィは悪気があったわけじゃない。だけど、やられた瞬間はめちゃくちゃ痛かった。あの後しばらく左脚は使いものにならず、今もまだヴィが松葉杖代わりだ。

「つい、じゃない!そんなにいつまでも効くはずないんだから」

 エヴはディオより9歳年上で、死刑囚だったディオを皇帝に育てた、従順な妻というより厳格な姉だ。まるでヴィ。

 

 サマエルとの不可解な食事の最中、国民代表府で起きていた事件については、いろんな話を聞いた。

 真面目な新人秘書の突然の蛮行。プロのテロリスト顔負けの手際良さ。3人の屈強なSPを瞬く間に射殺し、国家元首暗殺を成し遂げかけた。犯人の動機や背景は全く不明。理解できない犯行――人間の常識では。

 おれの常識だと、思い当たるフシはなくもない。

 

 ロクツィオ(精神操作)だ。暗示。事前に行動を指示し、実行させる。

 だが、こんな複雑な操作が可能だろうか?予め周到に準備し、綿密に調査して、状況に即応できる緻密な計画を立てて、それを人間に。少なくともおれには無理だ。実行させる前にその人間の精神を壊してしまうだろう。


 サマエルならできるだろうか?可能かも知れないが、性格的にはこんなまわりくどいことはやりそうにない。サマエルならもっと直接的な――狙撃とか、そっちの方が確実だ。事実、今回のような狙撃が可能なら、ズィだってやれる。

 

 ケイト・カプランは錯乱して搬送され、カアン・ギュネルも重傷を負ったが意識ははっきりしていて、ズィが無理矢理救急車に乗せるまでストレッチャーから捜査の指示を出していたらしい。実直。

 

 カアン・ギュネルにロクツィオのことを言うべきか?人間を自由に操れる悪魔がいると――信じないだろう。立証したくてもおれのロクツィオは下手過ぎて、逆に無理だと証明するだけだ。仮に信じたとしても、そうなるともう誰も信用できなくなる。虹彩を絡ませなければ防げるが、国民全員に強制できるか?サングラスなんて、強引に外すのは簡単だ。そんなに複雑なロクツィオを使えるやつなら、一瞬でも目が合えば終わりだ。

 パニックになるだけ。人間たちには対処不可能。

 おれがやるしかない。


「ロルトさん。お待たせしました。こちらへ」



 赤毛の、秘書風の若い女性スタッフに案内されて、ジェイとわたしは応接室みたいな部屋に入った。

「やあ、ヴェシレ、ロルトさん」

 ドクター・セレンがソファから立った。白衣ではなく、明るいグレーのスーツ。今日はCorOA社(最新医療機器ベンダー)C.T.O.(最高技術責任者)なのね。

「ドクター・セレン。わざわざありがとうございます」

 ドクター・セレンは笑みを浮かべて首を振った。

「いやいや。実はこっちの方が家から近いんですよ。設備もチャムさくらと同レベル。ここにも拠点を置こうか検討中です」

 笑顔で返事する。

 

「どうぞ座って。どうですかな?その後は」

 ノートPCを操作しながら、黒縁眼鏡の奥の眼は鋭くジェイを観察していた。

「腰は問題ありません。ヴェシレのアスラン道は超一流ですな。差し上げたキットより信頼できそうだ」

 皮肉に聴こえなくもない。恥ずかしい。

「私のキットも、ちゃんと作動してますよ。事件の時のバイタルも全部チェックしました。それは心配ない」

「……それは?」

 

「うむ……あなた達は覚悟ができているから、はっきり申し上げます。非常にまずいですな、今日の検査結果は」

 ずしん、と体が重くなった気がした。覚悟はできてる……はずなのに。

「医師としてなら、即刻再入院させます。ベッドに縛りつけたい。だが――」

 ドクター・セレンは両手を横に広げる。

「――ご覧の通り、私は医師ではなくビジネスマンだ。あなた方の意志を尊重します。データもとても役に立っていますしな」

 

「ありがとうございます」

 ジェイは1ミリも表情を変えない……こいつ。他人事みたいに。

「絶対安静、ということですか?」

「ヴェシレ。その通りです。心筋の瘢痕が着実に拡大している。今この場で心不全に陥っても私は驚きませんよ」

 声が出ない。

「心臓に負荷をかけたらどうこうという段階はもう過ぎました。平穏に過ごした翌朝、目覚めない可能性も十分あります」

 ドクター・セレンはわたしを見つめる。明るい茶色の瞳で。ジェイではなく、わたしを。

 

「申し訳ない……ちょっと言葉がきつすぎた。もちろん、まだ望みは――」

「手術はしませんよ。決めました」

 耳が変。聞こえない。聞きたくない。でも……でも。

「ええ。この人が決めたので……仕方ありませんわ」

 長いため息。ドクター・セレンも冷静を装ってる。胸ポケットからiPorta(スマートフォン)を取り出し、操作し始めた。

「……。でしょうな。そう言うと思ってましたよ」

 

 ドアが開く音がして振り返った。モーター音がする。

「失礼します」

 さっき案内してくれた女性が入ってくる。その後ろから――機械。渋い緑色に黄色いライン。未来的な……椅子?

「ジャンヌ。ロルトさんに説明を」

 ジャンヌと呼ばれた女性が立ち止まると、椅子――車椅子?もその横に停まった。

「Lectulus Obtemperationis Tuendae Universae Salutis.統括制御用生命維持簡易ベッド。試作ですがカンペキに機能してます」

 ドクター・セレンが胸を張った。

L.O.T.U.S.(ロータス)だ」



 おれはその車椅子を見た。ちらっとだけ。

 蓮華(ロータス)。緑。絵でよくシドが座ってる葉っぱか。救済。苦しみからの解放。あれはただの葉っぱ。飾りだ。

 パッチAEDやスマートピアス。たくさんの薬品。ドクター・セレンは技術者でビジネスマンだが、同時に医師でもある。気持ちはとてもありがたい。本心から。

 だがこれでは解放どころか束縛だ。ヴィは――少し安堵した目で車椅子を観察している。

 

 腰を上げた。ヴィも一瞬驚いたが、すぐにおれの腕を取って立った。左脚を引きずりながらゆっくり歩いて、車椅子に座る。

 座り心地は悪くはない。

「どうですかな?ロルトさんの身体にフィットしているはずだが?」

 おれは横に立つ女性に言った。わざと小さな声で。

「……ぁの……ぃぃですか、質問」

 

 女性がニッコリして、屈んで顔を近づける。

「とても美しい赤毛ですね。銅線のようだ」

 そして瞳を覗き込む。女性は少し引いたが、逃さない。


 琥珀。中心は漆黒。その周りが切り取られたようにくっきりと金色に変わり、蜂蜜かスコッチが溢れ出したように広がっている。金粉が散りばめられたようにキラキラして……だが、不思議と無機質な、不自然な均一さが気になる。

 虹彩を絡められない。意識……精神が見えない。

 さらに顔を近づける。女性が後退り、明らかに嫌悪のしわを鼻に寄せる。

 

 いきなり頭をはたかれた。ヴィに。

「ふざけんなッ!」

 

 

【同日午後 アンキュラ、フランク王国領事館】

《ローマ共和国執行部 テロ指名手配犯リスト》

 手配カテゴリー Gri(灰色)


 [顔写真]


 氏名:シルヴァン・ド・モロー

 年齢:36

 所属:外国情報機関関係

 罪状:計画殺人(謀殺)、火器取締法違反



「これがどうした、アンジェリック」

 アンジーはデスクのガスパールを見下ろしていた。

「何の価値もない情報だ。この写真も、領事館の人事ファイルの写真。この国の捜査機関は無能過ぎる」

「おっしゃる通りでございます、旦那様。ですが……その無能な捜査機関に何も言えない旦那様は、無能以下でございますか?」

 

 ガスパールが唾を呑む音が聞こえた。全く情けない男。

「ア……アンジェリック。何も言えないわけではない……様子を伺って――」

「この男は腰抜けのドブネズミ。そうおっしゃっておりましたわね?」

「……社会的に終わったやつに構うことはなかろう?ドブネズミだ」

「それが甘いというのです。おわかりになりませんか?ああいう男は、自省などしません。自分の惨めな状況を他人のせいにして自己憐憫にあけくれる。それだけならほっとけばいい、旦那様のおっしゃる通り。ですが」

 口をだらしなく半開きにして。知性の欠片もない。おまえもモローと大差ないではないか……いや、モローの方がまだましか。エルギュンの件は随分大胆なやり方に思える。証拠をあんなに残すとは。窮鼠猫を噛む、というやつか。

 

「モローは少なくともまぬけではありません。DGSE工作員としては優秀な方。エルギュン暗殺未遂が、領事館に捜査の目を向けさせる擬装かもしれないとは、お考えになりませんか?我々に対する復讐だとは?」

 

「モローを……なんとかしろ、というのか。しかし――」

「復讐の対象が、お嬢様だったら?それでもそんな悠長なことをおっしゃる余裕がおありですか?それとも、ご自身の保身の方が大事だと?」

 ここまではっきり言わねば気づけないのか。まぬけはお前だ、ガスパール。モローを野放しにしておくのはお嬢様にとって危険だと、なぜわからないのか。逆恨みされている可能性はかなり高い。

 

「そ、そんなことは!モローなんかより大事なことがあるのだ!そのためにあの秘書を――」

「ジャズ・オズヴァルドのことでございますか?ええ、あのお人形は、私達の指示通り、役目を果たしましたわね。でも旦那様は?せっかくのお人形劇がなんのご褒美もいただけないと、お嬢様はがっかりなさりますよ?」

 

 ガスパールは今や顔面蒼白だった。

「……そ……それは、これから……政治というのは、そんな――」

「ジェイ・ロルト。あの悪魔は、じきにお嬢様に献上できます。お嬢様ご自身のお力と私の計画によって。ですから旦那様は、モローを献上なさってはいかがでございましょう?一刻も早くお嬢様の御前に差し出しなさい。あのヘビたちはまだ、あんなに小さいですけれど、牙も毒もちゃんとあるのですよ?旦那様が最初に噛まれたいのですか?」  


「わかった!わかったから……何とかする!モローは……そうだ、DGSEに――」

 

 ガスパールは怖がっている。

 私も恐ろしい。

 アヴィエル様が忍耐の限界を超えてしまわれたら……私でも、抑えきれない。


「グレゴワール・ド・ガスパール」

 アンジーのスモーキーアイが、ガスパールを威圧した。

「……政治のことは、私にお任せなさい。あなたは、ドブネズミを捕まえてくるのです。ドブネズミは下水道におりますわ」



【同日夕方 コンスタンティノープル市立病院】

「捜査は進んでる。カアン、お前は少し休め。無理するな」

「ズィヤ、ありがとうございます。しかし何度目ですか、そうおっしゃるのは」

 カアンは笑ったが、すぐに顔をしかめた。傷が痛むのだ。

「何度だって言う。無理するな」

 

 カアンはまだしばらくは寝たきりだろう。それは仕方ない。いや、いい機会だから本当に休んで欲しかった。この男は身を挺して俺の命を救ってくれたのだから。

「お心遣い、感謝いたします。でも負傷したのは肩ですし、頭は大丈夫ですから。捜査の指揮はここからでも可能です」

 

「休めと言ってるんだ。命令して欲しいのか?」

 カアンは俺に輪をかけてクソ真面目だ。だが、こういうタイプは仕事がないとそれがストレスにすらなる。自分自身そうだからよくわかる。

「心配するな。捜査はお前なしでは進めない。リモートで指揮を取れ。現場はなんとかする」 

「……カプラン捜査官は、どうですか?」

 

 ため息をつく。部下の前ではよくないのはわかっているが。

「カプランは……彼女の方こそ、復帰は難しいかもしれん。初めて人を撃ち殺したんだ。しかも友人だったそうだな」

「彼女の能力に注目し過ぎていました……申し訳ございません。私の落ち度です」

「気にするな。カプランが優秀だったのは確かだ」

 

「ジェイ・ロルトとヴェシレ・クルチュは?確か今日――」

「ああ。約束通り、定期検診を手配した。SPをつけてな。会ってはいないが、報告は受けた。あの男は……車椅子だそうだ」

「心臓ですか……」

「元々、余命一年と宣告されていたからな。K.K.の件がなければ、ゆっくり余生を……」

「それですが、K.K.については何も報告がきておりません」

「お前だけじゃない。何も動きがないんだ。引き渡し拒否を告げたら、それっきりだ。よくわからん」

「私も……初めてのことばかりで」

 

「美術館の件は聞いてるな?あれはどう思う?」

「我々の立場では、まず陽動を疑うべきでしょうが……」

「そうではない、と?まさか、俺たちが……いや、それは傲慢というやつだな。もしかしたら美術館が本命で――」

「あの館長はフランクのスパイだったという仮説があります。DGSEあたりが始末した。それが事実なら、陽動の可能性もなくはないですが……陽動だとするとタイムラインがおかしい」

「どういうことだ?」

「狙撃時刻です。館長は昼食後にバルコニーに出た直後に狙撃されました。少し遅れてバルコニーに出た夫人の証言で、僅か数分の出来事です。その時刻は、あなたが襲撃された時刻の直前。同時といってもいい。陽動にはなりません」

「ではなんだ。まさかただの偶然ではあるまいし」

 

 カアンが遠い目になった。何かを思い出した目。

「これは……ケイトが言っていたことの受け売りですが。人は稀に――」

「コインなんとかだろ?あの会話は俺もビデオで見たよ。ちょっとハラハラしながらな」

「そうでした。とにかく、ただの偶然という可能性も捨ててはいけません。あくまで可能性ですが」

 またため息をつきそうになった。

 

「……そうだな。偶然とか奇跡とか……悪魔とか、な。信じられないことでも、起きることはある」

「その悪魔の話ですが。少々、過激なことを申してもよろしいでしょうか」

「過激なこと?」

「はい。この機会に、言うだけ言わせてください。ローマを第一に考えての意見です」

「前置きが長い。言ってみろ」

「ありがとうございます。ジェイ・ロルトですが……引き渡すべきです」


 血が昇るのを感じた。逆流する、というのか。

 怒り。ではなく。

「……。つまり、今回のテロは、K.K.の仕業だと。引き渡し拒否の回答がこの襲撃だと。そういうことだな?」

「そうとしか考えられない。K.K.にも、悪魔がいる。あの秘書を洗脳した、悪魔のような人間が」

「あの異常な襲撃。俺は目の前で見た。狂信による洗脳か。ありえなくはないが……」

「オズヴァルドはカプランの友人だった。カプランは気づかなかった。他の同僚や友人知人、家族も、ただ驚くばかり。オズヴァルドがこんなことをするなんて、直前まで誰も気づかなかった。我々もです」

「俺もお前も、あの秘書のことは知らないだろう」

「ええ。事件前は名前も知りませんでした。でも同じことでは?ズィヤ。私が今突然、あなたを襲わないと確信できますか?」

 

「……なに?どういう意味だ」

「私が実はK.K.の信徒で、洗脳されていたら?あなたは気づきますか?」

「それは……しかしそうだとして、どう対策――」

「おわかりになりましたね。そうです。洗脳などには対策のしようがない。我々では。でも、あの男ならどうです?あの悪魔なら?ジェイ・ロルトなら、対処できるのでは?私の本名を言い当てた。悪魔の目で見抜いた。どこまでわかるのかは知らないが、洗脳されてるかどうかはわかるかも知れません。毒をもって毒を制す、というやつです」

 

「そうだとしても、洗脳しただけで超人になるわけじゃない。そんなことができるならどこかの国の軍がとっくにやってる」

「おっしゃる通りです。だから調査が必要です。私は実は最初から、あの悪魔は引き渡すべきだと考えておりました。あなたが拒否すると決めたその時からです。悪魔かどうかはさておいても、あの男には我々にはない特殊能力があります。それを引き取ってくれるというのです。堂々と潜入できます」

 

「だが病人だぞ?それも、余命いくばくもない……」

「そうです。さらに冷酷なことを言わせていただければ……あの男には、もう残された時間は僅かだ。しかし我々は……ローマは違います。国民には、これからまだ長い時間があります。未来が」

「……。しかしな……」

「ズィヤ……これは、口に出すべきではないのはわかっていますが、あえて言います。SP3人が命を落としました。あなたの部下。あなたの国民です。あなたを守ろうとして」

 

 とどめ。

 反論の余地はない。

「……。わかった。だが、決めるのはヴェシレとジェイだ。俺が頭を下げる。謝罪もしたい」


 その後は何も言えなくなった。カアンの病室を出た。逃げるように。

 廊下ではSPが4人待っていた。俺の国民。俺を守るために。

 俺の……責任。


 前後左右をSPが歩く。俺の歩調に合わせて。

 望んだわけじゃない。

 だが。なるべくしてなった。

 俺も守らなくてはならない。

 ローマを。

 国民を。

 代表として。



「…………ラ…………ラ…………」

 公用車に乗り込もうとして、微かな声が聞こえた。耳を澄ます。

 

「……サラ、ラ…………ラ……ラ…………サラ、ラ…………ラ……ラ…………」



【同日夜 アンキュラ、ドルク・ホテル】

[Tchap - Message sécurisé]

REF: DGSE-OPS-2025-1117

HASH:e3b2c44798fc1c169afbf4c8936fb92227ae41e4619b934ca495971b7852b853 

PAYLOAD: 7B8A395F4D32c5021f34673a407c6989d551e22100b4d105f


 iPortaに着信。Tchap(仏政府暗号通信)。サマエルがホームボタンに親指を乗せると、表示が変わる。


[Tchap - Déchiffré]

 ACT:DÉPL

 DTG:201400NOV_Z

 LOC:POINT_SILICE

 

 メッセージは5秒で消えた。

 20日の14時にポイント・シリスに来い。

 ポイント・シリスは――アルプス。国境のフランク側だ。


 ローマで指名手配中のモローに国境を超えろという指示。罠なのは明白。この時期のアルプスはもう冬だ。ヘビクイワシは連れて行けない。


 同じことだ。どうせヘビクイワシの出番は春以降。それまでは使い道はない。DGSEは……もういいだろう。用は済んだ。

 アルプスでけりをつけ、春まではヘビクイワシの育成に専念する。


 アルプス。この時期。

 おもしろいことになるだろう。


 部屋の南側の壁を見る。何もないただの壁。その向こうは廊下で、すぐにまた壁。その先は――


 フランク王国領事館。

 蟲螻どもはまだ眠っている時間だ。


 アヴィエルもあそこで眠っている。

 ゆっくり休んでいろ。妹よ。

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