9 灰の飛翔
【2025年11月18日未明 コンスタンティノープル、国民代表府、ゲストルーム】
ヴィはモーターの駆動音で目覚めた。
――ジェイがいない。
一瞬パニックを起こしそうになったが、すぐに気がつく。そうだった。もう同じベッドじゃないんだ。
「あーごめん。起こしちゃった?」
ジェイは――ロータスをスピンさせて遊んでる。
「……。ばかじゃないの。やめろ」
ピタリと止まった。
「眠れなくて。まだ慣れない」
「ガキか。もう……何時?」
時計を見る。まだ5時前。
「あーもう。起きる」
「おはよう。眠れないの?」
いや誰のせいよ、全く。
ジェイは再びスピンを始めた。
「これおもしろい」
ばかみたい。こいつはほんとに能天気過ぎる。
ジェイは子どものようにロータスをくるくるスピンさせた。モーター音が高くなって――すぐに低くなり始め、そして止まった。
「……あれ?」
タッチパネルを乱打し始める。
「……まさか、壊したの?」
「――わからない。動かなくなった」
【同日朝 コンスタンティノープル市立病院】
(サラ、ラ…………ラ……ラ…………サラ、ラ…………ラ……ラ……)
Sainte Marie-Madeleine……聖なる、マグダラのマリア様……vous qui, au matin de Pâques, avez été choisie pour être le premier témoin de sa résurrection……
……復活の朝。
(サラ、ラ…………ラ……ラ…………サラ、ラ…………ラ……ラ……)
私は復活する。
全てを思い出した。
私が存在する理由。
私が為すべきこと。
(サラ、ラ…………ラ……ラ…………サラ、ラ…………ラ……ラ……)
マリア様。
あなたが私にしてくださったこと。
全てを思い出しました。
私が誰であるかを。
彼女はベッドから出た。パジャマだ。入院した後に誰かが家から持ってきて、着替えさせてくれたのか。
小さなクローゼットを開ける。黒いスーツ。黒いシャツ。制服。
着替えて鏡を見る。メイクはきれいに落とされ、寝癖でショートアフロが潰れている。
(サラ、ラ…………ラ……ラ…………サラ、ラ…………ラ……ラ……)
簡素な洗面台で水を出して髪を整えてから、持ち物を探す。
何もない。銃も身分証もiPortaも財布も。没収されたか。当然だ。
病室を出ようとすると、警護員がいた。
「カプラン捜査官!お目覚めですか……もう、よろしいので?」
「おはようございます」
落ち着いた声。私の声。
「す……少し、お待ちください。看護師を……執行部にも、報告します」
「承知しました。待ちます」
病室にもどり、ベッドに腰掛ける。
(サラ、ラ…………ラ……ラ…………)
急ぐことはない。
【同日午前 国民代表府、ゲストルーム】
「故障したんちゃいます。生命維持システムはカンペキに機能してます。駆動輪を高回転させ過ぎたせいで駆動用バッテリーを消耗しましてん。そんな使用はソウテイガイやわ」
この娘はフランク?微妙にイントネーションが変。
ヴィとジェイはあの後すぐにCorOA社に連絡した。だが自動音声が営業時間外を告げるだけで、留守電にメッセージを残すことしかできなかった。担当エンジニアのジャンヌが折り返し連絡をよこしたのは9時過ぎで、電話越しにあれこれいじってみても動かず充電もできず。ようやく今、ジャンヌが工具箱を持ってやってきた。それまでベッドに戻って二度寝して、ヴィは思う存分ジェイにしがみつくことができた。
「充電できませんけど」
「駆動用バッテリーが完全に蓄電量ゼロになってしもたんで、交換せな。交換用のは現在本社で急速充電してます。あと……2時間ほどで完了します。交換は30分ほどお時間をいただきます」
「なるほど。つまり、車椅子としては実用性ゼロってことですね。重たくて押しても動かせないし」
「当たり前です。そもそもうち……わたくしは、今回の提供には反対でした。確かに、車椅子だとしたら駆動系はしょぼ過ぎ。低レベルです。でもこれベッド。ハカセは医療機器については天才なんやけど、天才すぎて――」
「あなたは何人?」
ジャンヌがジェイを睨んだ。睨んだんじゃないかも知れないけど、この娘は目力が強い。黒い瞳だから余計に。
「ジャポンとフランクのハーフです。国籍はフランク」
ジェイが顔を近づける。またか?
「瞳が違う。昨日――痛てっ!」
手の甲を思い切りつねってやった。いい加減にしろ。
ジャンヌはニッコリ笑った。
「昨日はカラコンつけてて。そやけど初めてや」
それから、すっと無表情に戻って続けた。
「そんな、チャラくてアホまるだしのナンパ」
この娘……ジャンヌ。気が合いそう。
【同時刻 コンスタンティノープル市立病院】
「……ケイト!どういう……」
ギュネルは驚いてベッドで半身を起こそうとして右肘をつき、肩の激痛で顔をしかめた。
「執行官。ご心配おかけいたしましたが、もう大丈夫です。復帰の許可をお願いします」
ケイトはもうきっちりと身なりを整え、入院患者ではなくディルシズ捜査官の姿に戻っていた。化粧はしていない。
「復帰?……いや、あなたは……」
「医師の許可もございます。検査結果も異常はありません。執行官も既にご存知かと思いますが、被疑者が知人だったもので……」
「それは……ええ……まあ医師が許可したのなら……無理はしないでくださいね。何度でも言います。復帰は許可します」
「ありがとうございます」
踵を返して退室しようとする。
「待ちなさい」
カアン・ギュネルはサイドテーブルの引き出しを開け、身分証、財布、そしてiPortaを出した。
「これを。私が預かってました。こういうこともあろうかと」
カアン・ギュネルは口角を上げた。
【同日昼 国民代表府、食堂】
珠理=ジャンヌ・ロティ
バイオメディカル・エンジニア
CorOA社
ヴィは食堂でコーヒーを飲みながら、ジャンヌが置いていったシンプルな名刺を眺めていた。
このジャポンの漢字は名前?なんて読むんだろう。カナが振られてない。
隣でジェイはiVitraでカラコンを調べている。カラーコンタクトレンズという物を知らなかったらしい。呆れたが、そういえば80年ぶりの地上だった。
「すごい。こんな技術が……」
「カラコンならロクツィオ防げるのね?午後から買いにいこ」
ロータスは結局、返すことにした。バッテリーがないと動かないので、引き取りは夕方になるらしい。
ドクター・セレンには感謝している。スマートピアスはちゃんと作動してるし、iVitraにアプリを入れたので、ジェイのバイタルデータがいつでも確認できた。すごく安心する。
医療キットの他のやつも、まだそういう事態にはなってないから使ったことはないけど、手元にあるだけで安心できる。これで十分だ。車椅子は……あってもなくても正直変わらない気がした。ジェイはちゃんと歩けるし。
コーヒーの湯気でわたしのiVitraがちょっと曇ったので、外してまたかける。昨日、ジェイにいつもかけてろと言われた時は、もしかしてお揃いがいいってこと?とか思っちゃったけど、要するにロクツィオ防御策。カラコンの方が防御力が高いし、無理矢理外されることもない。
「悪い、待たせたな」
ズィが食堂に来た。SPを引き連れて。
「参ったよ。あれ以来、代表府内でもSP付きだ。トイレまでついて来る」
「大変ですわね、国家元首って」
ズィがちょっと目を閉じた。
「これも仕事のうちだ。俺が撃たれたら、ローマの安全が損なわれる。それでな……」
何かを言い淀んでいる。何を言おうとしてるか予想はつく。
「ヴェシレ、ジェイ。謝らなきゃならん。すまない」
「わかってる」
ジェイがぼそっと言った。
「K.K.に行け。そうですね?」
ズィは深いため息。わたしは昨日、ジェイと話をしていた。
人間たちがどんなに頑張っても敵わない。そんなやつがK.K.のバックについてると。つまり、天で生まれた者。
モロー……サマエルの時もそうだったけど、対処できるのはジェイしかいない。同じ、天で生まれた者であるジェイしか。
敵の正体をつきとめる。そのために敵の懐に飛び込む。それも、K.K.の方から来いと言っている。千載一遇の機会だ。
ジェイが行くなら、わたしも行く。当然。
ズィの目を見据えて、言う。
「いいけど、条件がある。あなたにじゃなくて、K.K.に」
「伝えよう」
「わたし達はセット。絶対に別々にはしない、それが条件よ」
「ズィ。おれからもひと言」
ジェイがiVitra越しにズィを見据え、低く重い、真剣な口調で言った。
「カラコンをつけなさい」
【同日午後 国民代表府、国民代表執務室】
『――カラコン、ですか』
「ああ。それで、やつの言う……精神操作、を防げるらしいんだが」
『精神操作。そんなことが可能なんですかね。信じられない。ジェイ・ロルトも確信があるわけじゃないんですよね?』
「まあな。仮に本当だとしても……どうしろと。国民全員にカラコンさせるのか?狂ったと思われそうだな」
苦笑いしか浮かばない。
『現実的じゃないですが……じっくり検討しましょう。もしその精神操作という能力が本当なら、オズヴァルドの犯行も説明はつきますし……ディルシズにはカラコン装備を義務付けます。あなたも』
「国家元首がカラコン。まあ元の色と同じやつなら変じゃないか。全く……おかしなことばかりだ」
デスクトップ・モニターのカアンが頷いた。昨日よりも顔色がよく見えるのは、モニターの解像度のせいか。
『しかし、ジェイとヴェシレが快諾してくれて良かった。精神操作についても確証が得られるかもしれない。国を上げてフォローしましょう。ローマの救いだ』
救いか。人身御供ではなく。
「それがな……向こうも条件を出してきた。ローマではなく、フランクに連れて行くと」
『フランクに?それは随分強気な要求ですね。合意したということは……なんと言ってきたんです?』
「美術館館長の件だ。あっちが本命で、俺の暗殺未遂は自作自演だと、フランク王室が声明を出すと」
『無茶苦茶だ。自作自演?そんな荒唐無稽な話が――』
「いや、そうでもないんだ。あの館長はフランク人で、暗殺は成功してしまった。不可能に近い狙撃でな。不可能を可能にするために俺の暗殺未遂騒ぎを起こした。そう言う見方が国際社会でも、少数だがある。そこに当のフランク、それも王室が賛同するとなると――」
『なるほど。非常にまずいですね。デタラメでも声が大きいと真実にされかねない。国内ならいくらでもフォローできますが、国外……それも、フランクとなると……』
「ああ。我々は当面、国内問題の整理に集中するつもりだったからな。この件を国外で騒がれるのは……」
『あなたが合意せざるを得なかったのも納得です。しかし……2人だけで行かせるのはあまりにも……ズィヤ。ここはひとつ、思い切って切り札を切りましょう』
「切り札?なんだ、言ってみろ」
『チームです。カプランが先程、退院しました。医師が、問題ないと』
「待て待て。それはどうなんだ?」
『彼女はフランク出身です。地の利もある。もし今回の件で入院などしてなければ、迷わず使うでしょう?私ならそうします。そして、彼女は復帰しました。他にカプランほどの適任はいません』
「カプランが有能なのは確かかもしれん。しかし大丈夫なのか?医師はともかくだ。あれほどのショックを受けた人間に、休みも与えずに国外任務?ダメだ。犠牲者はもう十分だ」
カアンは黙ったが、納得したわけではないのは表情でわかる。
「カアン。お前も重傷を負ってまだベッドの上だ。もどかしいのはよくわかるよ。俺も軍にいた頃、似たような思いは何度かした……わかった。カプランと直接話す。それで決める。いいな?」
『ありがとうございます。お気遣い――』
「気遣いじゃない。彼らのために最善を尽くしたい、それだけだ」
【同日夕方 ディオゲネス公園】
「――確かにそうね。あなたはカラコンはつけない方がいい。唯一の武器を捨てられない」
ヴィはカラコンを買って、もうつけている。サファイア・ブルー。深みのある、とても美しい色だ。おれが好きなのは元の茶色い瞳だが。
「ディオと、ここを歩いたことはある?」
ヴィとおれは散歩していた。ディオの名が付いた公園を。ディオの墓があるディオゲネス廟を訪れた帰り道。妻と並んで眠る戦友の墓。
「ないよ。あの時はここには来なかった」
「そうなの?皇帝だったのに?」
「ディオはここに住んでたよ。たまにしか帰らなかったけど。おれはアナドル方面軍。あの頃は馬が一番速い乗り物だったから、行き来できたのは皇帝くらいだった」
「そっか。そうだよね。ディオの奥さんは?アナドルに来たの?」
「2回来た。ディオと結婚してすぐ、その時におれも会ったよ。2回目は会ってないな」
「あなたはここに来たのはいつ?」
「ユリアだった時が最後だな。1500年前。この近くに住んでた。その前はアンティノウスだった時。通り過ぎただけ」
ヴィはおれの腕を離し、伸びをした。オリーブの香りがした。
「何回聞いても全然ピンとこない。スケール大き過ぎ。1500年かー。今と全然違う?」
空を見上げる。アリーが旋回していた。
「そうでもないかな。空は同じだ」
少なくとも昼間の青空は、1500年経っても同じに見える。夜だと、星空はだいぶ変わったが。
「まあそんだけ生きてれば、能天気にもなるかー。……あ!この木!」
ヴィが駆け寄ったのは、葉の落ちた禿木だ。灰白色の、ごつごつした骨のような幹。
「胡桃の木。あの歌の胡桃。知ってる?」
その木は柵に囲まれた小さな緑地に、ポツンと1本だけ立っていた。傍らに、こじんまりとした大理石のモニュメントがあり、詩が刻まれている。
《Ceviz Ağacı(胡桃の木)》
――Nâzım Hikmet Ran
「この公園て、こういうとこあんまりないんだよねー」
モニュメントを眺めているヴィの肩越しに、詩を黙読した。
……胡桃の木になって恋人を見守る詩人の想い。枯れて、老木となっても見守り続ける……。
詩の下に注意書きがある。
*この木は詩に歌われた当時の木ではありません。枯れてしまったので植え替えられた木です。
ただの偶然。
ヴィにはおれの新しい使命については言っていない。ヴェシリアの話は避けているから。
ただの偶然だ。
「はわ、わ!はわわ!」
アリーが聞いたことない声で鳴きながら胡桃の枝に止まった。
「……はわわ?なにそれ。ジャポンのアニメみたい。かわいい声も出せるんだ」
ヴィが笑った。
「…………ラ……ラ……」
ハミングが聞こえた。ヴィも振り返る。
「――ケイト!」
ケイト・カプランが、こちらに向かって歩いていた。
「ヴェシレ・クルチュ、ジェイ・ロルト。こんにちは」
「こんにちはって……もう退院したの?大丈夫?」
黒服。ディルシズの正装に身を固め、しっかりとした足取り。メイクは薄いがやつれた感じはしない。
「はい、えっと……大丈夫です。ご心配ありがとうございます。本日から復帰しました」
「そうなんだ。良かった!さすがディルシズのエリートね」
ケイトは照れたように笑った。事件前と雰囲気が違う。グリーンのカラコンのせいか。
「はい、えっと、エリートとは、選び抜かれた者、という意味ですが、確かに今回は私が選ばれました。あなた方のお供を仰せつかりました。よろしくお願いいたします」
【11月19日12時25分 アンキュラ、エセンボア空港】
「ありがとう」
サマエルは2枚の航空券を受け取り、チェックイン・カウンターを離れた。
エセンボアからコンスタンティノープルで乗り継ぎ、トリノまで。カバーは先日の仕事のをそのまま使う。
アラン・アルヌー、美術品バイヤー。コンスタンティノープル、アンキュラで市場調査後、トリノでのオークションに向かうビジネスマン。
荷物は3wayの安物のバッグひとつ。寒冷地用の衣服を、機内持ち込み可能なサイズにパッキングしてある。アウターはゴアテックスのマウンテンパーカーを着たまま移動する。マウンテンパーカーもチノパン風のタクティカルパンツも、全てシルバーグレイ。武器は必要ない。
保安検査をスムーズにパスし、昼食を摂る。トリノ着は8時間後。ここでがっつり喰っておくのが最も合理的だ。
出発ゲートのエリアにあるビュッフェ形式のテュルキエ・レストランで、ケバブやキョフテ、冷菜、温野菜、ピラフなどを大量に詰め込む。この木偶の肉体維持のための必要物資だ。
今日は移動日に過ぎない。明日、木偶を100%の状態で稼働させるためのメンテナンスに徹する。
気楽な旅になるだろう。
【同日14時30分 コンスタンティノープル国際空港】
ディルシズのRoggが、プライベートジェット専用ターミナルの車寄せに着いた。
いつもの黒服姿のケイトが助手席から降り、リアゲートを開けて荷物を降ろす。ヴィの大きなキャリーケース、ジェイのスーツケース。ケイトのタクティカルバッグ。
出迎えた地上係員に荷物を渡す。銃や武器になるようなものは何もないので、保安検査もスムーズに進む。
ヴィは今日は濃いネイビーのパンツスーツ。サファイアブルーのカラコンに合っている。シャツもアイスブルー。
ジェイは変わらず黒ずくめ、ハット、ミラーのiVitra、肩にはアリー。
「はわわ」
「アリーはケージに入らなくてもいいの?」
「ニースからの帰りの時は大丈夫だった。同じ飛行機だから」
3人と一羽を待っているのは、アルパイン・ブルーのダッソー・ファルコン2000LXS。ガスパールのプライベートジェットだ。
悪魔のカップルとディルシズの黒人女、そしてcorbeauか。嫌なフライトだ。
ダッソーの機長はうんざりしていた。昨日エセンボアからシャンベリまでガスパール副領事を運び、とんぼ返りでコンスタンティノープル、今日はこれからトゥールーズ。こんなに忙しい仕事だとは思ってなかった。だから前の機長も辞めたのか。
まあいい。仕事にあぶれて暇を持て余すよりはマシだ。トゥールーズの後はしばらく予定はない。聞いてないだけだが。
「搭乗完了、ドアクローズ。ATIS確認、滑走路はスリーファイブ・レフト」
「了解。クリアランスを」
「コンスタンティノープル・デリバリー、こちらCotam2835。トゥールーズまでの承認求む」
コパイは前の機長とも飛んでたらしい。後でなんで辞めたのか聞いてみるか。こいつもクレデンテスだろうか?
『Cotam2835、トゥールーズまで承認。TUBOV1X、高度340、スコーク4321』
「この飛行機は、16トンもあるのね」
ヴィは飛行機が初めてだった。シスター時代、使徒職であちこち行ったことはあるが、全部陸路。ローマから出るのも初だが、それよりも16トンもの金属の塊が宙に浮く。それが驚異だ。
座席は本革の高級なキャプテンシート。その割にはシートベルトは腰ひも一本だけ。
もちろん空を飛ぶのは初めてじゃない。ジェイに抱かれて何度も飛んだし、ヘリだって乗った。墜落したけど。
今回がこれまでとは違うのは、前もって準備して手順通りにちゃんと乗ったということだ。ジェイと飛ぶときはいつもいきなり。ヘリだって飛び乗ろうとして落とされ、その後ジェイに放り込まれ、そして投げ出された。考える間なんてなかったから、怖がってるヒマもなかった。ちゃんと乗ったことは一度もない。だから――
「ヴィ?大丈夫?」
「はぁ?何がッ!」
「飛行機は安全な乗り物だよ」
「はわわ」
あなた達は飛べるものね。わたしだって、別に怖いわけじゃないんだから。別に。
「ヴェシレ。航空機は、エンジンの推力によって翼で揚力を発生し、機体重量、この機の場合正確には15400キログラムですが、それを上回ることによって……あー、えっと、これ見てください。綺麗だと思いませんか?」
ケイトがiPadaを見せた。石造りのアーチ橋の写真。茜色の空、それを映した川面、ライトアップされた観覧車。
「ポン・ヌフ。トゥールーズのガロンヌ川にかかる石橋です。全長238メートル、全幅22メートル。7つのアーチ型橋桁。1607年完成。……えっと、形が美しいという評価が多くされています」
え。もしかしてわたしに気を遣ってくれてる?いやその気持ちはありがたいけども。
「綺麗だけど、観光してる暇はないわね。着いたら即、K.K.に――」
「あちらではA.A.A.と略されてます」
「なんでAが3つ?|Ambre Ancien《いにしえの琥珀》なら2つじゃない」
「なんででしょうね?」
ケイトは緑色の瞳で微笑んだ。
『Cotam2835、スリーファイブ・レフト手前で待機せよ。出発順位ナンバー・ツー。ボーイング737が最終進入中』
「了解、手前で停止。左見えるか?ボーイング737」
「はい、最終進入中。まもなくタッチダウン」
直後、機長とコ・パイロットの目の前を、ボーイング737の巨体が横切って行く。減速する爆音、タイヤのスキール音。
「ナイス・ランディング。チェックリストは?」
「完了しています」
『Cotam2835、着陸機通過後、スリーファイブ・レフト進入。待機』
着陸し、タキシングするボーイング737の背後を、ダッソー・ファルコンがフル加速し、離陸した。まるで戦闘機のような鋭角的離陸。アルパイン・ブルーの機体が青空に滑り込んでいった。
サマエルは着陸体制に入る直前まで熟睡していたが、寝覚めは快適だった。タキシングするボーイング737の客室の窓から、ダッソーが小さくなっていくのを眺めた。
青い小鳥。人間たちの手からはすぐ逃げて行く。追いかけるのは無駄なのに、こいつらはやめない。不思議なやつらだ。
(サラ、ラ…………ラ……ラ……サラ、ラ…………ラ……ラ……)
ハミングが、頭の中で聴こえる。
今、ローマを離れ、聖地へ。
お待ちになっていてください、マリア様。
お望み通り、連れて行きます。
私が。
私はディルシズ、ローマの公安捜査官。
名前はケイト・カプラン。
私はマリア様の侍女。
名前は、サラ・ラ・カリ。




