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10 灰の降雪

【2025年11月19日17時08分 トゥールーズ・ブラニャック空港】

 薔薇色の空。

 ダッソーのタラップを降りたヴィ達を待っていたのは、2台のプジョーのSUVだった。黒塗り。

 クソキザがわたし達を領事館に運んだのと同じ車種だ。フランクの公用車か。

 

 プジョーの横に、濃紺のトレンチコートの男が4人。襟や袖口に金糸の刺繍。胸に百合の紋章のピンバッジ。王室の紋章。

「|Soyez les bienvenus. 《ようこそ、王国へ》」

 ピンバッジがもうひとつあった。

 

 赤いウロボロス。



【同日18時56分 トリノ空港】

 鈍色の空。

 サマエルはターミナルビル直結の立体駐車場から、グラファイト・グレーのファルト・レネゲードで走り出た。レンタカーだ。

 路面が濡れている。外気温は5℃。北の空には暗雲。

 雪になる。


 集合地点のポイント・シリスがあるのは、ここからアルプス山脈、つまりローマとフランクの国境を越えてさらに先の、シュヴルという小さな村だ。アルプス越えと言っても今はトンネルがあるが、悪天候だと日中は渋滞の恐れがある。

 今夜中にアルプスを越えよう。


 せっかくのお誘いに遅刻するのは失礼というものだ。

 サマエルは必要な物を買い揃えると、初冬のアルプスへ向けて230キロのドライブを始めた。



【同日20時42分 トゥールーズ、モンテンポ・シテ】

シテ(共同住宅)って、ローマだけじゃないのね」

「はい、えっと……もともとフランクの言葉です。語源はラテン語のcivitas (都市)で――」

 ヴィはケイトを制して笑った。

「始まった。カプランペディア」


 空港から20分ほど走った。ガロンヌ川を渡り、テラコッタのオレンジ色の建物を眺めながら街の中心部へ。テラコッタはアンキュラを思い出した。こっちは屋根だけじゃなくて壁も。この壁の色が薔薇色の街と言われる所以らしいけど、アンキュラの方が綺麗だ、と思った。あちこちにある、赤いウロボロスの張り紙のせいかもしれない。口には出さなかったけど。

 

 大きな公園の外周を周るロータリーを抜けて、ヴィ達はこのシテに連れて来られた。アンキュラでもよくある、3、4階建の共同住宅が何棟か連なる団地だ。ホテルのようなロビーやフロントはない。その一室に3人一緒に入れられた。


 監禁されると思っていたのでちょっと意外だった。外出も自由にできそうだ。

 どういうことなんだろう。逃げる理由はないけど。

 部屋にはキッチンや冷蔵庫、電子レンジがあり、ダイニングテーブルもある。冷蔵庫は大きくて、開けると新鮮そうな野菜が詰まっていた。肉や卵はない。


「このシテは、『A.A.A.(いにしえの琥珀)』の貸し切りみたいですね」

「シテだけじゃないかも。街全体がそんな気がする」

 ジェイはベッドに仰向けになり、目を閉じていた。アリーの映像を見ている。

「いたるところにマークがある。公園や公共施設、お店、官公庁らしい建物にも。今何時?」

「9時よ」「21時です」

「車もひと気も全然ない。早過ぎ」

「そうね。こんな大きな街なのに」

「はい、えっと、王室の人たちは普通でしたね」

「うん……まあ。不気味な感じはなかったわね、少なくとも。無口だったけど、おしゃべりよりはマシ」

「はい、えっと……ネットも普通に繋がります。執行官には定時連絡済みです」

 ヴィもネットは確認済みだった。iPorta(スマートフォン)でサフィとメッセージのやり取りもできた。iVitra(スマートグラス)は充電中。


 ジェイがベッドから起きた。

「アリーは外で寝るって。まだあちこち探検したいらしい」

「そっか……え。わたし達、どうする?ベッドひとつしか――」

 ケイトが不思議そうにわたしを見た。

「はい、えっと。ベッドはひとつ。私達は3人ですね。この場合、3人並んで寝るのが妥当かと。ジャポンではこれを、"川の字になって寝る"と表現し——」

「ケイト、ストップ。そうね、大丈夫!わたし達、そういうんじゃないから!ただ、その……スペースを節約して寝るだけだから!ケイトはほら、ベッドの左半分使って?」


 それから、わたし達3人は、ひとつのベッドで寝ることになった――ジェイはど真ん中で秒で寝た。わたしとケイトはカラコンを外した。

「あれ?ケイトの瞳って……元々グリーンなのね?黒だと思ってた。綺麗ね!」

「はい、えっと……光を当てるとグリーンに見えるらしいです」


 ケイトの瞳は、エメラルドの様に光を反射していた。


 

【同日23時23分 サヴォア県、サン=ジャン=ド=シュヴル】

 サマエルはポイント・シリスに直行はしなかった。パーティー会場に早く行き過ぎるのは、粋じゃない。

 ポイント・シリスとは厳密には、サン=ジャン=ド=シュヴル公立小学校の向かいの駐車場のことだった。廃校ではなく、普通に子ども達が通っている小学校だ。もちろんこの時間には住み込みの用務員がいるだけだが。

 

 集合時間は明日、標準時の1400時、時差があるので今この場所、小学校の700メートル手前のシュヴル湖畔キャンプ場の時間だと15時。まだ子どもたちがいる時間だ。DGSEらしい。子どもたちを盾にして、銃火器を封じるつもりなのだ。無意味な作戦だ。銃など持っていないし、子どもなど盾にはならない。

 明日も丸腰のまま時間通りに正面からやつらに会いにいく。堂々と。今夜は車中泊だ。明日はいろいろ忙しい。


 キャンプ場にレネゲードを駐車し、公衆トイレで小便をする。雪は降っていなかった。雲は多いが、南の空は晴れている。

 オリオンベルトがはっきり見えた。それを右上にたどるとアルデバランが輝いている。その少し右。


 モローの視力でも7つ、サマエルが集中すればその3倍の星が固まって見える。

 プレアデス星団。


 またここ(アルプス)あの星々(プレアデス)を眺めている。ハニーと共に眺めて以来だ。

 ハニー。俺が果たした最後の使命だった。その後、俺は天から堕ちた。同時に使命も無意味となった。


 またここからあの星々を眺めている。

 2200年ぶりに。


 

【11月20日13時04分 サヴォア県トレセルヴ、ホテル・ランコンパラブル】

 一泊1万フランを超える超高級ブティックホテルでの滞在を、グレゴワール・ド・ガスパールは満喫していた。

 アルプスのゲンチアナ。フォアグラのポワレ。テラスから一望するブールジェ湖のマスのパヴェ。野ウサギのア・ラ・ロワイヤル。どれも絶品だった。

 デザート。ポワール・ベル・エレーヌは素晴らしかった。洋梨とバニラアイスとチョコレート。マドが歓喜しただろう。

 

 マド。ペッシュ・メルバが大好きだったマド。あのマドはもういない。私の宝石。私のマド。

 あの方がマドをお選びくださった、それはとても光栄なことだ。父として……マドが選ばれたことを、父として……私は……喜ばなければならない。マドは……真の神になったのだから。


 それがなんだというのか。私のマド。あの笑顔は……偽物だ。真の神の、偽の笑顔。何が正しいのか。私のしたことは……間違いだった。私は間違えた。私のマド……マド……。


 もう遅い。今更。こんな辛い思いをすると、なぜわからなかったのか。私は……いや、違う。私は違う。こんな思いをしたからこそ、私には受けるべき称賛がある。この世界を統べる真の神の父として。マドではない。私が、私こそが選ばれたのだ。

 

 一昨日から2泊。アンジェリックは下水道がどうとかほざいていたが、ここが私のような選ばれた者にとっての下水道だ。やつらとは違うのだ。

 


「ムシュウ。そろそろ参りましょう。モローが待っておりますよ」

 DGSEサヴィス・アクシオン(行動部)CPISコマンド隊長の大尉は痺れを切らしていた。

 ド・ガスパール男爵、在アンキュラ副領事。肩書きなんざどうだっていい。こいつは金持ちだ。この2日、こいつに付き合ってこのクソ高いホテルでクソ高い飯を食ったが、飯の味はともかくこいつのことはよくわかった。

 

 こいつはクソだ。クソ金持ち。そして金遣いが荒い。おまけにビビり野郎ときた。いまもプルプル震えてやがる。この作戦は表向きは公務だから報酬はないが、美味しいのはそのあとだ。この違法作戦をネタにクソすら出なくなるほど搾り取ってやる。


「大尉。今回の作戦を、もう一度説明してくれんかね。まだ時間は大丈夫だろう?」

 ビビり野郎。現場に行くのがそんなに怖いか。クソの匂いが鼻につく。ゲリグソでもちびったか?

 作戦についてはなんの心配もなかった。モローのことはよく知っている。あいつは一流だ。あの身体。若い時から計画的に鍛え上げた骨と筋肉、運動神経、反射神経。

 あいつと素手で向き合う勇気はない。身体能力では、勝てる要素が見つからない。

 武術に限らず何でもいいが何かひとつ真剣にスポーツに打ち込んでいれば、必ずやその競技でトップに立てただろう。奴が選んだのは射撃だった。スポーツとしてではないが。

 あいつの射撃、特に長距離狙撃は超一流だ。少なくともDGSEではやつの右に出る者はいない。

 教えたオレですら。



「車でお話しします。雪が酷くなったら間に合いませんよ?」

「……そうか。わかった」

 仕方あるまい。DGSEは、私が立ち会うことをモロー抹殺の条件として提示してきた。優秀な工作員を1人失うのだから、と。信じ難いが、モローはまだ利用価値があるらしい。マドを突き飛ばした男。絶対に許せないことだ。私のマドを。

 

 それであいつは終わった。そのはずだったのにあいつはまだ生きていて、DGSEは高給を支払っている。王国民の税金を。パヴル・エルギュン暗殺を失敗して国際指名手配までされたというのに、DGSEはそんなに人手不足なのか?ところが先日は不可能と言われた暗殺を成功させたらしい。あの腰抜けのドブネズミがまた這い上がって来るなど……。

 まして……あの方の邪魔をするかも知れないだと?そうアンジェリックは言っていた。あの方はモローなど相手にしないだろうが、それを企むことすら、許しはせん。

 

 マドを……マドを失ってまで、あの方にお越しいただいたのだ。マドの身体をこれ以上傷つけることは、絶対に許さない。


 

 雪がチラついていた。この辺では今季の初雪だ。気温は1℃。トラヴェール(湖畔の強風)も吹き、これから荒れそうだ。

 ガスパールを助手席に乗せ、作戦指揮車輌に改造されたプジョー・ボクセールの四駆でブールジェ湖を南にまわり込む。この辺はまだ平坦で、路面もセミドライ。凍結はしていない。

「モローは……お嬢さんを突き飛ばして逃げたんでしたっけ。あいつならやりそうだ。それで()るんですか?」

「おまえらが理由を知る必要はない。モローを知ってるんだな?」 


「ええ」 

 モローのことはよく知っている。もちろん、欠点も。

 モローの唯一の、そして最大の欠点。それはあいつがクソだということ。

 胆力。肝が座ってない。根性がない。追い込まれるとへなへなと折れる。訓練中、何度逃げ出したか。しかも、モローはそれが自身の欠点であることに、未だに気づいていない。いや気づいてはいるかも知れないが、認めようとしない。自省して自分を追い込むことすら出来ずに逃げてしまうからだ。 

 クソ情けないやつ。それさえ克服できれば無敵だったろうに。

 

 だがそれは逆にまだ可能性を残しているということでもある。モローは本当の瀬戸際まで追い込まれたことがない。そうなった時、クソ恐ろしい底力を見せる可能性はある。それだけの能力があるのは間違いない。

 だから今回は徹底的にやる。たとえやつが丸腰だろうが見縊らず、一切の甘さを排除して、あらゆる可能性を考慮する。最後の瞬間まで気を緩めず、完璧を期す。


「もうシュヴルに来てるんだな?」

「昨夜のうちに。小学校の近くのキャンプ場で車中泊しました。監視はしてますが到着後はトイレ以外動いてません。寝てるんでしょう」

「……呑気なやつだ。罠だとも知らずに」

「まさか。もちろん気づいてますよ。あいつはバカじゃない。臆病だが、それだけ慎重な男です」

「罠と知ってて飛び込んで来たのか。なぜ」

「さあね?私たちにとってはそんなことはどうでもいい。この罠にかかってくれさえすれば、わざとだろうが何だろうが結果は同じです。まあ、あなたのことまでは知らんでしょう。サプライズだ。驚かせてやりなさい」

「子どもたちの前で荒事はせんだろうしな。いい作戦だ」


 空港の時点ではモローは丸腰だった。その後武器を調達したかどうかは今のところ不明だが、小学校で全部わかる。ゲームにログイン、ビビり野郎はチュートリアルガイドだ。


「なるべくダラダラ話してください。怒らせるのもいいですね。その場ではなにもさせないのでご安心ください」

「そのあとは?」

「夜までには終わります。お望み通り、首をお届けします」


 ゲームにログインしたら、早速キルゾーンに誘導する。キルゾーンまでは数キロ、モローと車の戦力の最終チェックを行う。

 

 キルゾーンではLバンド、Ku/Kaバンドの広帯域アクティブ・ジャミングを、モローが圏内に入り次第起動する。衛星電話もシドゥネクサス(スターリンク)も全てクソになる。外部から完全に遮断される。

 

 まともなやつならありえないが、万一モローが車を捨てたとしても対応は万全だ。山と断崖に挟まれた狭道。踏破可能な箇所にはクレイモア(対人地雷)を敷設してある。幸運にも地雷を踏まなかったとしてもやつの居場所はサーマル(体温)センサーで簡単に感知できるし、逃げ場などない。


 キルゾーン。 

 コル・デュ・シャ(シャ峠)がモローの死に場所だ。一昨日から冬季封鎖中。積雪はまだだが、例年通り春まで車は通れない。人も来ない。山林の断崖。自然の密室だ。

 

 頂上付近に2箇所、サーマル・チェッカー兼狙撃手を配置済み。 

 封鎖区間の出口。そこに我がDGSE最新兵器、アケロンMP(対戦車誘導ミサイル)などを搭載したパナールVBL(軽装甲車)がいるが、まあこれは保険のようなものだ。恐らくそこまでは辿り着けない。我々本隊、10名の精鋭が背後からやつを仕留める。


「首は必ず頼む。持って帰って、献上せねば」

 首、か。最悪の場合、やつは首すら残らんかもしれん。そうなったら……一番役に立たなかったクソ部下を1人、焼き殺して首だけ持って帰るか。おみやげさえあれば、本物かどうかなんて問題ではないはずだ。不運な部下の死は想定内。遺体はどうせ春までは発見されないし、もちろん後始末の準備もできている。

 しかし、献上だと?こいつはビビりで、しかもイカレたクソ野郎だ。

 


「このトンネルを抜けたら、サン=ジャン=ド=シュヴル。4分で着きます」

 雪だ。吹雪。真っ白な世界。マドが大好きだった色。私のマドの心のように純白の世界。


『ええ、パパ!』

 白いクリノリン・スカートに埋もれて笑うマド。ジャカランダの上ではしゃぐマド。アンキュラの石畳、緑の草原を、ブロンドを長くなびかせて走るマド。

『パパのせいじゃないわ!見て!パパの買ってくれたミニドレス!』

 白いミニスカートのマド。くるっとターンして笑うマド。パーティーのために髪をシニヨンにまとめ、うなじが輝いていたマド。


 あの日……最後の誕生日。妖精のような、妖しくも美しいドレスではにかんで戸惑いながら、私がつけてやった30カラットのダイヤを涙を浮かべて見つめていたマド。そのエメラルドの瞳で私を見つめ、ありがとうと動いた唇。


 私のマドが私を見たのはあれが最後だった。あのマドはもういない。


 首を、献上せねば。



【同日14時55分 サン=ジャン=ド=シュヴル公立小学校、駐車場】

 雪がしんしんと降る中、ガスパールを乗せたプジョー・ボクセールは、きっかり5分前にポイント・シリスに到着した。

「ターゲット・パッケージは覚えましたか?」

「ああ。これでも暗記は得意だ」

「そりゃよかった。まあたぶん、やつはもう罠だということには気づいてます。クソみたいにボロを漏らしても大丈夫。安心してください」

「私の前で汚い言葉を使うな」

 クソ貴族。お上品でいられるのも今のうちだ。


 2分前。大尉は観察に集中した。

 ドブネズミ色のレネゲードが駐車場に入ってきた。こういう几帳面なところもモローらしい。遅れたらまずいとビビっているのかもしれない。だが油断はしない。

 レネゲードは車高もノーマル。タイヤを見ても、重量物を積んでいる様子もない。まあ昨日空港で借りたばかりのレンタカーだ。車に細工はできまい。

 オレ達から最も遠い位置に駐車した。そこしか空けておかなかったから当然だが。車を降り、雪の中フードも被らずに歩いてくる。シルバーグレイのマウンテンパーカー。環境を予測しての選択。これも予想通り。

 小学校の鐘がなった。1500時。"午後のお休み(レクレアシオン)"の時間だ。鐘が鳴り終わる前から子どもたちが窓に顔を出した。わらわらと。


 

 予想していなかった。ガスパールがいるとは。


 サマエルは顔には出さずに驚いた。

 嬉しい誤算。ガスパールは近いうちにしとめる予定だったが、手間が省けた。

 この罠の餌はなにか、とくと拝見させてもらおう。



 モロー。以前と雰囲気が違う。逞しさと自信を感じる。成長したということか。

 大尉は足音や肩の動きを注意深く観察した。体重は増えたようだ。太ったのではなく、筋肉で。だが銃器は携帯していない。



 黒サングラスの男。かなりの使い手だ。フードを被らないのは、耳を塞ぎたくないからだろう。プロだ。見覚えはないが、モローの身体はこの男を知っているようだ。僅かに萎縮しようとしたのを感じる。DGSEの同僚……いや、教官か。木偶の記憶も引き継げたらよかったが。

 ガスパールはアザズェルの記録で見た。小心者。瞳が泳いでいる。そんなに心配するな。どんな三文芝居でも、今は騙されたフリをしてやるから。


 

「モロー。まだ生きていたとはな」

 私を見て驚いたな?無表情を装っても、私にはわかる。何年政治家をやってると思っているのだ。

「まあそう構えるな。マド……娘のことはもういい。十分な罰は受けたようだしな」

 無機質な、鉄のような灰色の眼。人を見下しおって。だが返す言葉はないらしい。ふん、口では私に敵うまい。

「おまえを指名したのはこの私なのだ。おまえにしか出来ない仕事だ。ターゲットはこの男だ」

 iPada(タブレット)を渡す。画面に映る老人の顔を、モローは興味なさげに見ている。

 

「知っている顔だろう。そうだ。エクスでの私の元上司。今は隠居して、あの峠の――」

 東の山を指差す。大尉が用意した罠の山だ。

「――先のコテージで余生を送っている。もう長くは――」

「ここに書いてあること以外で、まだ必要な情報があるのか?」


 ガスパールはその声にたじろいだ。もちろんモローの声だが、夏に会った時とは重さが違う。腹に響くような重さ。

「……い、いや、全てそこに――」

「なら、少し黙ってろ。質問に答えろ。なぜだ」

 な……なぜ?なぜ罠を、という意味か?何と答えたらいいかわからず、大尉をチラ見する。だが大尉は唇を閉じたまま、口角を僅かに上げただけだ。

 

「動機だ。なぜこの男を殺す?余命僅かと書いてある」

 ふっと、息が漏れた。

「あ……ああ。なぜかというとだな……そいつが天寿を全うするのが、許せないからだ。そいつは……私をこづいた。バカにしおって……この私を」

 これは芝居ではなかった。私はこの上司が本当に許せない。殺してやりたいのも本心だ。嘘なのは、こいつが余生を送っているのはカナダだということだけだ。

 

 モローが笑った。ニヤリと。

「だから素手でやれと」

「ああ……そうだ。おまえは突き飛ばすのは得意だろう」

 モローの笑顔が広がった。歯を見せて笑ってやがる。

「おもしろい。いいジョークだ。そうだろう?」

 大尉を見ている。大尉はまだ、口角を少し上げたまま微動だにしない。

「わかった、引き受けよう」

 モローは笑うのをやめ、大尉を見ながら言った。

「全部な」



「よかろう。ボディチェックをさせてもらうぞ。素手が殺しの条件だからな。車も調べさせてもらう」

 大尉は自らの手でモローの身体を触り始めた。


 ゴアテックスのマウンテンパーカー。インナーも|タクティカル・ベースレイヤー《軍用防寒下着》かなにかだ。防弾ベストを着ていない。それよりこの筋肉……あれからさらに鍛えあげ、使い込んでいる。武器はない。


 袖口に隠していたGPS及び赤外線マーカーを背中に付着させる。マウンテンパーカーを脱がない限り、この筋肉では届かない位置に。

『"グリ(レネゲード)"チェック、マーキング完了。非武装確認』

 片耳に装着したイヤホンに無線が入る。本当に丸腰で来たのか。ナイフ一本すらなしで。いい度胸だ。精神面も相当鍛えられたようだ。侮れない。


「いろいろ、経験を積んだようだな。いいことだ」

 ボディチェックを終えてそう言うと、モローがウインクした。同時に、小学校の鐘が午後のお休み(レクレアシオン)の終わりを告げる。

「ああ。|数千年な《milliers d'années》」

|地獄でな《Misère damné》だと?まあそうかも知れん。おまえが地獄を見るのはこれからだがな。


「"グリ"移動開始。|"シャ・アストロ《指揮官車》"、追尾する」

 モローは指示通り駐車場を出てD210Eを北上していく。集落を避けろというのは真っ当な指示だから、疑われる理由はない。

 

 

ルシュ(了解)。グループを動かします」

 セルジャン=シェフ(曹長)は無線に応答すると、エネディスのロゴが入った青い電力会社のプジョー・ボクセールで指揮車に続いた。ダンジェルのオフロード4駆。指揮車と同型車だが、こちらはシェフと運転手を含む10人のグループ(精鋭部隊)で満員だ。

 全員、青地に赤白の反射ストライプ、エネディスのロゴ入りの防寒ワークジャケット。その下に防弾チョッキを着込み、ヘルメットにはごついサーマルセンサー・バイザー。手にはやはりサーマルセンサー・スコープとサプレッサーを装着したFN SCAR-L(アサルトライフル)、腰にはグロック。

 屈強な8人の兵士がフル装備で後部に乗るとかなり狭苦しいが、全員この手の移動には慣れており、文句どころかひと言も喋らない。


 吹雪は徐々に激しさを増していた。3台は適度な車間を開け、前後のフォグランプを点けて曲がりくねった道を北上する。センターラインもガードレールもなく、小学校の集落を抜けてからは勾配もきつくなる。



「モローのやつ。安全運転だな」

「慎重だということですよ。この吹雪ですから」

 クソ貴族が。おまえなら最初のカーブも曲がれなかっただろうよ。

 大尉は黒いサングラスの奥で、レネゲードのリアフォグの赤い光を注視していた。雪道は好きじゃない。特に吹雪は。

 数年前の任務中に爆風で飛び散ったガラスを顔面に浴び、両眼を負傷した。粉のようなクソガラス片で眼球が傷つき、大きな障害は残らなかったが眩しさに弱くなった。以来、黒いサングラスは必須だった。


 民家もなくなり、林と畑しかない山道はやがてT字路に突き当たった。

 モローは指示通り右折していく。大尉は左にウインカーをあげた。これもモローには説明済みだ。我々は今夜はシャトー・ドゥ・ラ・マールに宿泊する。仕事が済んだらおまえも来い。高級ワインで乾杯しよう。

 

 もちろんクソワインなど飲む気はない。ここから別ルートで、キルゾーン手前の指揮拠点に先回りするのだ。モローに指示したルートは一旦南下し、シャ峠を迂回して東へ抜けるシャ・トンネルの出入り口のロータリーを横切ってから折り返しで来るのだが、このロータリーは交通量が多く渋滞する。余裕で先回りできるはずだ。後続の曹長(シェフ)の車はそのまま追尾を続けるし、最悪間に合わなくても作戦に影響はない。


 雪が少し小降りになり、大尉はスピードをあげた。



 サマエルはルームミラーで、大尉とガスパールの車が離れていくのを確認した。シャトー・ドゥ・ラ・マールか。古城を改築したホテルらしい。その古城の記録は最古で1244年だという。それだけだが、おもしろい偶然が続くものだ。今夜のワインが楽しみだ。


 もちろんワインを味わうのは俺1人だが。

 ガスパール達はホテルに行くわけではない。その前にD44で折り返して、コル・デュ・シャ(シャ峠)の手前の合流地点に先回りする気だ。そこから先が、やつらの作戦のキルゾーンなのだ。

 つまりパーティーのメイン会場というわけだ。


 もう一度ルームミラーを確認する。吹雪で見えにくいが、青いバンが付いてきている。ガスパール達のではなく、電力会社のバン。


 バルバロイ(山賊)どものお出ましだ。

 


【同日15時34分 コル・デュ・シャ】

「停めろ」 

 シェフが命令する前から運転手はブレーキを踏んでいた。グリ――ターゲットの車が、路肩に寄せて停まったからだ。青いプジョー・ボクセールも10メートル手前に停車した。

 キルゾーンに入ってすぐの左ヘアピンカーブ。ここから勾配角が急になり、シャ峠の頂点まであと500メートル程だった。アウトサイドの路肩に乗り入れ、運転席側をこちらに晒している。

Alerte (警戒待機)

 

 どうするつもりだ。シェフはレネゲードを注視したが、雪のせいで車内の様子はわからない。左右が森なので風はさほどでもないが、雪は降り続いている。

 小便かも知れない。監視班の報告では、昨夜から今日にかけてターゲットは車は動かさなかったが、頻繁にトイレに行っていた。十数分出てこなかった時も数回に及んだ。遠方から監視はしていたからトイレにいたのは間違いない。歩いてどこかに行ったはずはない。腹を壊しているのか。野グソする気か。


「シェフ――」

 運転手が促す。テールランプが消えたからだ。もちろんシェフも見ていた。エンジンを止めたようだ。背後からガシャッと金属音。8人が一斉に銃を構えた。

 

 車を捨てるというのか。だが、我々の存在はわかっているはずだ。

 峠の頂点より以前で車を捨てて徒歩に切り替えるならここが最後だろう。このヘアピンを曲がったら、道幅はさらに狭くなるし路肩もないに等しい。それにここには林道がある。獣道のような細い林道だが、その気になれば人里まで降りることも可能だ。地雷を踏まなければ、だが。

 大尉が言っていた。このターゲットの男は、土壇場で逃げ出す根性なしだと。


 ドアが開いた。

 ターゲットの足が、雪の上に。

Hold(まだだ)


 右手がドアを押さえ、頭が見えた。

 そして……ゆっくりと車を降りる。

 ターゲットが車外に出た瞬間、シェフは目を疑った。シェフだけではなく、スコープ越しに見ていた全員が。思わずスコープから顔を上げた者もいた。


 裸だった。

 上半身裸。

 雪が降る中で。

 

 両手を上げてこちらを見ている。武器はない、と言いたいのか。

「異常なサーマル反応はありません」

 どうする。既にジャミングが起動しているから大尉に判断を仰げない。自分で決断するしかない。

 万一、やつが突然、林道や路外に向けて走り出しても、このヘアピン周囲はクレイモアだらけだ。考えられるのは……投降。罠だと気づいているはずだと、大尉は言っていた。勝ち目がないとこの土壇場で諦めたのか……よし。 


「2名、Débarquez (下車)。確保しろ。残りはカバー」

 待ちかねたように兵たちが動いた。スライドドアが開き、最初の兵が――


 突然、ターゲットの姿がぼやけた。急にそこだけ雪が激しくなったように。灰色の影、影しか見えなく――


 突風が吹いた、そう思った次の瞬間。

「シェ……シェフ!」

 兵たちが叫んだ。

「……き……消えました……ターゲットが」


 なにが起きた?

 雪。突風?影……一体、なにが。


 シェフは呆然とした。なにが起きたか全くわからない。

「サ……サーマル反応、ありません」

「マーカーは?……あーくそ!マーカーは……車内だ」

「どういうことだ?どうなってんだ?」

 兵たちも呆然とするしかなかった。


「……戻れ。戻ってドアを閉めろ!」

 シェフが叫んだ。下車していた2名が即座に戻り、ガーッとスライドドアを閉める。

「無線を確認」

「……だめです。ジャミング続行中……」

 シェフはフロントウインドウ越しに前方を凝視した。ターゲットの姿はどこにもない。雪がしんしんと降っている。プジョーのフォグランプが黄色く雪を照らすだけ。ヘアピンの先の急勾配にはその黄色い光も届かない。

 僅かに開けたサイドウインドウの隙間から聞こえるのは、自車の低いアイドリングの音だけだ。

 ヘアピンの先へ走って逃げた。それしか可能性はない。

 

「微速前進」

 青いプジョー・ボクセールはゆっくりとヘアピンに進入する。アスファルトに薄く積もった雪をタイヤが踏み締める。 

 ギュゥッと。


 ルームミラーの横のタクティカルライトを点け、手動でヘアピン出口の勾配を照らす。

 路面に降り積もったばかりの新雪。その外側の土手。

 人影も足跡も、何も見えない。

 

 降雪がライトの光軸に浮かび上がっていた。

 レースのカーテンのように。

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