↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/25

11 もたらすもの

【2025年11月20日15時37分 コル・デュ・シャ】

 サマエルは飛び立った。

 灰色の、鷲の翼で。

 

 雪は降り続いているが、問題ではない。羽ばたきは上半身の筋肉を全力で動かさなければならないので、体温が急激に上がる。翼自体も。雪は触れるか触れないかのうちに溶けてしまう。 

 DGSEのサーマルセンサーなら、この温度の翼長3メートル超の飛行物体を感知するのは容易かっただろう。だが誰も、どのセンサーも、上空など見向きもしていない。


 顔に当たる雪は冷たいが、快適だった。気持ちいい空だ。

 昨夜から何度か公衆トイレの陰から飛び立ち、コル・デュ・シャ上空を飛び回って、DGSEの兵たちの配置は把握済みだ。後は狩るだけだ。

 効率だけを考えれば、すぐ後ろにいた青いバンの兵たちから始めるのが正しい。だがそれでは歴史をなぞることにならない。つまらない。ハニーは最初に一番高い場所を攻め落とした。俺もそうするべきだ。


 南に岩肌が剥き出しの絶壁。その絶壁の対面がコル・デュ・シャの最高地点、DGSEの設定したキルゾーンのデッドエンド。パナールVBL(軽装甲車)が待ち構えている。それをめがけて一直線に飛ぶ。

 

 爽快だ。

 筋肉を使うことにも快感を覚えた。激しい運動だが、呼吸も心臓の鼓動も、荒いが辛くはない。アドレナリンが駆け巡り身体が喜んでいる。

  

 地獄の赤く熱い空ではない、鈍色で冷たい空。地獄以外の空を飛ぶのは正確には781年ぶりか。

 

 この辺はイヌワシの生息地だ。パナールの乗員が数百メートル先から飛んでくる俺を目撃しても、イヌワシだとしか思わないだろう。目撃自体、鬱蒼とした木々に遮られて不可能だ。

 

 ブナやナラの木の森の梢を掠めて、コル・デュ・シャを見降ろす。

 CE迷彩のパナール。装甲車といっても見た目は大型のRVだ。2ドア。ルーフにミサイルランチャーが載っている。右側を西——俺がレネゲードで登ってくるはずの方向に向けて、峠を斜めに封鎖している。

 真裏に降りる。木々の隙間を縫って森の中で翼を畳むと、パナールの左斜め後ろから森を出た。


 その瞬間に操縦士がサイドミラーを見ていれば、翼を広げる俺と目が合ったかもしれない。だが操縦士はミラーを見てはいなかった。強く羽ばたいて、一瞬で左ドアに取り付く。左手でドアノブを掴む。

 ガンッ!と右足がパナールの分厚いボディを蹴り、後輪の前にあるフックを踏む。

 

 操縦士は驚愕した。目が見開かれ、聞こえなかったが悲鳴を上げたかのように口を開けた。今度は目が合ったが、分厚い防弾ガラス越しで虹彩は捕まえられない。

 

 右手を振り上げてミサイルランチャーを掴み、ルーフによじ登る。 

 パナールのディーゼル・ターボが低く唸った。パナールは急発進、すぐ急ブレーキ、急バック、また急前進。左側の路肩ギリギリにステアリングを切って急加速、左右にウェービング。俺を振り落とそうとする。

 

 ディーゼルエンジンの太いエキゾーストノート、ブレーキローターの鋭い軋み、大径タイヤが雪を噛む。操縦士はステアリングと格闘しながら加速する。

 掴まっていたミサイルランチャーがモーター駆動音と共に左右に旋回し始めた。射手がリモートで操作しているのか。振り回される。

 峠の直線は300メートル、その先は直角に下る左カーブ。

 

 フルブレーキング、激しい減速G、ミサイルランチャーの不規則な動き。濡れたルーフで足が滑る。

 落とされはしない。

 暴れるミサイルランチャーを抑えつけ、翼も使ってバランスを取る。パナールは少し滑って右フロントがガードレールに接触して火花が散った。衝撃、激しい金属音、振動。

 すぐにまたRが大きな緩めの右カーブが迫る。急激な下り坂。左は土手だ。

 パナールはスピンしかけ、滑りながらその土手に突っ込んで行く。


 そのまま乗り上げて横転するかという刹那、土手はなくなり、左フロントタイヤがなだらかな路肩に落ちた。雪を被ったツゲの木の枝がパナールを引っ掻く。そしてその先は――低い岩壁だ。

 操縦士が必死のドライビングでパナールを舗装路に引き戻したが、下り勾配がきつい。雪の斜面。もう走っているというより滑り落ちて行く。

 

 前方。

 光。白、黄色。

 突き当たりに、雪に埋もれかけたレネゲード。ヘアピンだ。

 その右奥、ヘアピンのアペックス。


 青いバン(プジョー・ボクセール)がそこにいた。

 激突する——

 その寸前、翼を広げて上空へ。


 


「……停車!何の音だ?」

 シェフ(曹長)の命令に、運転手がガツンとブレーキを踏んだ。乗員たちがGで揺さぶられる。

「シェフッ!!」

 運転手の絶叫。

 光。


 突然暴力的な光がシェフたちを襲い、次の瞬間。

 激突。


 激しい衝撃。エアバッグが爆発した。後部の兵たちが折り重なって倒れた。グォオーッとエンジンが吠え、すぐに消えた。

 呻き声。後部の兵たち。

「無事かっ!……報告ッ!」

 エアバッグの火薬の煙に咽せながらシェフは周囲を確認した。運転手。エアバッグに潰されているが息はある。後部の兵たちも動いている。

「リアだ!リアゲートから脱出!」

「足ィッ!足が……」

 運転手の悲鳴。突っ込んできた車はまともに運転席を直撃していた。

「ここにいろ。後で必ず助けてやるから」

「……うご……動けません……」

 シェフは運転手の肩に軽く触れると、座席の間に体を捩じ込ませて後部へ移動した。

「車から離れるな!Alerte(警戒)!」


 兵たちは冷静に行動していた。迅速に整然とリアゲートから——

「グッ……」「な……」「おいっ……」


 やつか。ターゲットの奇襲。兵たちが倒れる。リアゲートから引きずり出されて。青いジャケットが宙に舞う。シェフは銃を構え——


 その銃身がいきなり掴まれ、信じ難い力でもぎ取られた。

 影。灰色の石像。

 その石像がシェフの銃を強奪した。

 腰に手を伸ばしてグロックを掴む。だがグロックを抜く前に、石像が眼前に。

 眼。

 灰色の瞳。

 Acier(鋼鉄)

 眼球が動かない。捉えられた。


『|File chez toi 《フィルシェトワ》』

 家に、帰れ……?


 そうだ。帰らねば。家に。我が家に。


 シェフはこの瞬間から、命令も任務も部下のことも全て忘れた。

 家に帰らねば。何をしてるんだ、こんなところで。

 石像の脇を抜け、車外に出る。


 男が数人倒れている。転んだのか?ドジなやつらだ。雪。寒い。早く帰ろう。

 家。暖炉。フランはもう帰ってるかな?飯。暖かいシチューがいい。暖炉。


 シェフは笑みを浮かべて雪の舗装路を歩き出した。青いジャケット、赤白のラインの男が3人、先を歩いている。


 エネディス(電力会社)か。吹雪だしな。停電は困る。シチューがあればいいか。暖炉。暗い部屋で、炎の灯りでフランと愛し合うのも悪くない。


 シェフは雪の降る山道を歩き出した。愛する妻とシチューと、暖炉の炎が待つ我が家へ。



【15時42分 サン=ジャン=ド=シュヴル、D44】

「今の音はなんだ?」

 ガスパールはお茶を飲んでいた。サーマルボトルに入れて持ってきたらしい。

「パナールでしょう。アケロンを使ったのかも」

「そうか……終わったのか?無線を……」

「まだです。この目でやつの死体を見るまでは、まだ終わってない」

 大尉はセレクトレバーをDに入れた。

「ま、待て!私はここで——」

「あなたも行くんです。あなたの目の前で、モローの首を獲ってやりますよ……そうだ。あなたがやりますか?」

「ふざけるな。それはおまえの仕事だ」

 ガスパールはお茶を飲み干した。

「……わかった。その前に用をたしてくる」

 

 大尉の返事を待たずに、ガスパールは指揮車(プジョー・ボクセール)を降りた。森に入っていく。立ち小便か。全く……車に小便を漏らされるよりはマシだが。

 大尉はサングラスを外し、目頭を揉んだ。乾燥しているせいか、眼球が痒い。目を擦りたかったが、それは出来ない。

 日没は17時07分だがもう暗い。サングラスをグローブボックスにしまう。

 ガスパールがズボンを直しながら戻って来た。

「……。では、参りましょう」

 大尉は指揮車をコル・デュ・シャへの一本道に乗り入れた。


 木が伐採され開けた合流地点から、道はすぐに森の中へ入っていく。森に挟まれた道の上だけ空が見える。ちょうど正面の山がコル・デュ・シャのはずだが、雪で何も見えない。路面は既に真っ白。ほんの30分前のモローらの走行跡も雪に埋もれている。


 道幅も狭く、ちょっと滑ったら路肩に落ちそうだった。この辺はまだカーブは緩やかだし勾配も——

 前方で何かが光った。反射のような光。スロットル・ペダルを離し、ブレーキ・ペダルに足を乗せる。一瞬ハイビームにするが、降る雪に反射して眩しいだけだ。指揮車を停める。

 

 人影。複数の人影だ。反射したのはあれか。ここはもうキルゾーンだ。モローと我々以外は誰もいるはずがない。

「おまえの兵じゃないか?あの派手な青いジャンパー」

 ガスパールの方が視力がいいらしい。クソ野郎のくせに。

 だがガスパールの言う通りだった。道幅いっぱいに広がって、エネディスのジャケットを着た男が4人……いや、もう1人後ろにいる。5人の兵たち。

 

 どういうことだ。車はどうした。なぜ作戦中に。徒歩による帰投など……ありえない。

 もう一度ハイビームにする。見るためではなく、止まれという命令だったが、兵たちは足を止めない。眩しそうに腕で顔を隠して近づいてくる。

 クソ野郎ども。どうしたというのか。

 

「おまえたち!止まれ!」

 サイドウインドウを半分おろして叫ぶと、兵たちはやっと止まった。

「大尉殿!」

 ……曹長(シェフ)か?グループリーダーがなにをしている?

「ライト消してくださいよ!眩しい!」

 ロービームに戻す。そうしないとこちらも眩しいからだ。曹長が小走りで運転席まで来る。

 

「迎えに来てくれたんですか!助かるなあ!」

「なんだと?何を言ってる。持ち場に戻れ」

「はあ?嫌ですよ。家に帰らなきゃならないんで!」

「な……どうした。何が……報告しろ」

「報告?うるさいなあ。乗せてくださいよ。寒くて」

 他の兵たちも側まで来ていた。全員……笑っている。いったいどういう——

 曹長が急に横に動いた。いや違う。曹長の後ろにいた兵が曹長を押し除けた。異常事態どころではない。反乱か。

 即座にグロックを抜き、ドアロックを——

 遅かった。曹長を押し除けた兵が運転席のドアを開けた。大尉はグロックをその兵に向けた。

「貴様!姓名階級を——」

 兵がサーマルバイザーを上げた。

「モロー!」

 灰色の目。オレを睨む、灰色の目。


 どういうつもりだ。睨んでどうするというのだ。

 大尉はグロックのトリガーを引いた。



 サマエルはグロックが火を吹く寸前、異常に気づいて身を伏せた。

 なぜだ。こいつの虹彩。捕まえられない。

 銃口が光り、凄まじい轟音。

 弾丸が容赦なく飛び出しサマエルのヘルメットを掠める。

 失敗した。こいつはロクツィオ(精神操作)が効かない。

 グロックが再び光る。銃声。右に転がり、そのすぐ脇の路面から火花が散る。そのまま転がり続けて指揮車の後部に隠れた。


 無機質で人工的な虹彩。カラーコンタクトレンズというやつか。アザズェルが言っていた、人間へのロクツィオ(精神操作)を妨害する技術。ファッションのための技術と聞いたが……あんな男でもするのか。サングラスなら簡単に外せるのに、厄介な技術だ。


「モロー!諦めろ!オレの腕は知ってるだろう!諦めて出て来い!」

 運転席から降りたようだ。


 出て来い、か。仕方ない。お望み通りにしてやろう。

 青いジャケットを脱ぐ。また上半身裸になると、指揮車の右側に周り込んだ。助手席のドアを開ける。

「ひっ!……モ、モロー!」

 ガスパールの胸ぐらを掴み、引き寄せて視線を捕まえる。


『眠れ。3分だけだ』


 ガスパールは瞬時に眠った。引きずり降ろす。

 視界の片隅でグロックの発射光。

 ガッガッガァァァンッ!3発。

 翼で受け止め、ガスパールを掴んだまま飛び上がる。空へ、ではなく、指揮車の屋根へ。


 翼を広げたまま、屋根に沿って水平に勢いよく回転する。ひと振りで翼は屋根の上の突起物を全て薙ぎ払った。


 また銃声が響き、足に激痛が走った。撃たれた。翼を振った瞬間だったので防御出来なかった。まあ今は、足は使わない。


 ガスパールを抱える。デブめ。だが必要なのだ、計画のために。

 ガァンッ!弾丸が飛んでくる。

「血が出たぞ!おまえはなんだ!おまえはモローじゃない!何者だ!」

 何者か。そう聞かれた時の答えは、昔から決まっていた。羽ばたきながら呟く。

「死をもたらすものだ」


 同時に。

 南の森から白煙が上がった。その先端で閃光、それは白煙を引きながら急上昇して行く。それに合わせて、俺も高度を上げる。


 森から上がった閃光は、数秒で高度150メートルに達するとどんどん大きくなりながらこちらに飛んでくる。そして急降下。

 キィーン……と、空気を切り裂く音。白煙の中に細い糸のようなものがキラリと光って見えた。


『無線を聞いてろ。ジャミングのノイズが消えたら、指揮車を射て』

 そう、パナールの射手にロクツィオ(命令)してあった。 


 アケロンMP。第5世代有線誘導対戦車ミサイルが、指揮車を正確に直撃した。


 閃光。

 爆音。

 火の玉。

 タンデム成形炸薬弾頭が炸裂し、爆風と金属片が吹き上げてきたが、既に俺はそれが届かない高度まで上がっていた。

 蟲螻どもが吹き飛ばされ、森に呑まれた。

 恐らく即死だろう。どうでもいい。


「な……なにが……どういう……」

 南に飛び、ヘアピンのレネゲードのそばに降りようとした時、ガスパールが目覚めた。3分たったらしい。着地した時、右脚に力が入らず膝をつく。ふくらはぎを撃たれていた。

「運転してくれ」

 助手席のドアを開けてマウンテンパーカーを取り出しながら、ガスパールに言う。

「……運転……無理だ……雪。山道。したことがない……」

 めんどうなやつ。

 

 マウンテンパーカーの背中に異物を見つけ、むしり取って捨て、はおる。それから、ガスパールの虹彩を捕まえてロクツィオ(運転技術)を叩き込む。

「おお……簡単だ。任せろ」

 ガスパールは運転席に乗り込むと、手際良くポジションを合わせてシートベルトを締めた。俺は右脚を引きずりながら助手席に座る。

 

「行くぞ。ベルトをしてつかまってろ」

 ガスパールの顔つきが変わっていた。

 スロットルペダルを踏みつけると同時に左にステア。雪煙を上げてレネゲードがターマックに戻る。絶妙なアクセルワークで、僅かにタイヤを滑らせながら、パナールと青いバンの横を加速する。

 ガスパールの卓越したドライビングで、レネゲードはキルゾーンを駆け抜けコル・デュ・シャを後にした。


 まだ煙をあげている指揮車の残骸の横を、片輪を路肩に落としながら全開で通過した。左直角コーナーではブレーキング・ドリフト。

 

 助手席から背後を振り返る。

 雪はやんでいた。雲は厚いが、コル・デュ・シャがある山が遠ざかって行くのが見えた。


 どうだった?少しはおまえの域に近づけたか?

 感想を聞かせてくれ、ハニー。

 地獄で待ってろ。



【18時55分 シャンベリー、サヴォア県立病院】

 弾丸は右ふくらはぎを貫通していた。骨や動脈は無事だったが、全治2ヶ月、少なくとも2週間の入院。

 アンキュラに帰らなければヘビクイワシが餓死する。ジェベジのでかい貸切倉庫にいるが、自動給餌器の餌は3日分。明日までだ。


 警察沙汰もめんどうなので、ガスパールをロクツィオ(精神操作)で動かして空路搬送を手配させた。金持ちの外交官は便利だ。ヘビクイワシの世話もやらせよう。

 

「その鉢植えはそこのテーブルに置け」

「はい……アンキュラ……あまり長くは居られない」

「なぜだ?おまえは副領事だろ」

「マド……アンジェリックが……」

 ガスパールの思考にまとまりがなくなって来た。眼も虚に泳いでいる。短時間にいじり(ロクツィオ)過ぎたか。今日はもう休ませるか。

 虹彩を捕まえ、記憶を読み取ってから眠らせる。ガスパールは俺のベッドの足元に突っ伏した。


 鉢植えにシュロシムの追悼のカディッシュを唱えながら、ガスパールの記憶を咀嚼する。


 アンジェリック・ヴェスパー。マドレーヌ……アヴィエル。

 動き出すのか。



【20時23分 アンキュラ、フランク王国領事館】

「キジャーナ!ご飯だよ」

 マドレーヌはテラリウムのガラス蓋を開けて、中央に茶色いプラスチックの仕切りを差し込んだ。ヘビは捕食時は興奮して共喰いや喧嘩の可能性が高いので、その予防だ。

 仕切りの右側の砂で、キジャーナが眼だけ光らせている。左側のインファナはどこにいるかわからない。

 

 湯煎して小皿に載せてあるカットマウスの小片をひとつピンセットで摘み、キジャーナの眼の前で猫じゃらしの様に動かす。砂の中から、黒い小さな舌がチロチロと突き出た。

 瞬く間にキジャーナがカットマウスを捕らえた。自分の頭より大きい肉片に喰らいつく。

「上手!えらいね、キジャーナ!」

 

 この瞬間が楽しい。何度もやりたくなるが、ヘビたちは少食だ。

 マドレーヌはエメラルドの瞳をキラキラさせニッコリしてカットマウスの肉片をもうひとつ摘むと、それをインファナの側の砂に置いた。

 インファナは慎重派なのですぐには飛びつかない。翌朝までには食べるだろう。


 キジャーナは肉片を頬張って、じっとしたまま下顎だけを小刻みに動かしている。これから時間をかけて、ゆっくりと呑み込んでいく。


「美味しい?ゆっくりお食べ」

 ガラスの蓋を戻し、空の小皿とピンセットを持って離れる。

「お嬢様。それは私が」

 部屋の入り口で待っていたアンジーに渡す。

「キジャーナだけ連れてくわ。インファナにはまだ早い」

「かしこまりました。そのように」

「明日の飛行機は何時?」

「エセンボア空港を11時に離陸の予定です。朝はゆっくりできますわ」

「トゥールーズに着くのは午後ね。キジャーナ、だいじょぶかな」

「携帯ケースを造らせました。こっそり、持っていけます」

「サラは?迎えに来る?」

「いえ。サラはまだ、ケイト・カプランですので」

「ケイト・カプラン。知らないフリしなくちゃね。マウティは元気かしら?私も少し、明日からの練習しなくちゃ」

 マドレーヌは軽く咳払いした。

「……ジェイさま。ヴィヴィ。……ンッンーッ……ジェイさまー!」

 

 アンジーが微笑む。 

「お上手ですわ。あの頃を思い出します」

 


【同時刻 トゥールーズ、モンテンポ・シテ】

『ジェイさま!』

 青い空。眩い太陽。波しぶき。青緑の海。

 その狭間で踊るように跳ねる白い肌、ライトブルーの水着。陽光よりも煌めくライトブロンド、地中海よりも輝くエメラルドの瞳。

 墨を引くようにアリーが舞う。弾ける、あどけない少女の笑顔。


 ジェイの心の片隅にあった一枚のスナップ写真が動き出す。


 フルカラーの記憶。


「……ジェイ。ジェイ?」

 居眠りしていたわけではなかった。

 突然甦った記憶の断片に一瞬気を取られただけだ。

「……ああ。なんだっけ?」

 ヴィは呆れた顔をして、おれの目の前にiPorta(スマートフォン)を突きつけた。おれの左腕を抱えたまま。

「なにぼけっとしてるのよ。アルビジョア・ハチュル(十字軍)の時なにしてたのって聞かれたの」

「アルビジョア……800年前か。インドにいた」

 

『インド?!——』

 iPortaからパヴルが叫んだ。ビデオチャット中だった。ケイト・カプランはひとりで周辺調査を続けている。悪魔だと告発されているおれとヴィでは調べられないことも、ケイト・カプラン単独なら調べられるからだ。

 パヴルはケイト・カプランとは面識がない。おれ達だけと話がしたいと、このタイミングで連絡してきた。

『——インドで、なにしてたわけ?』

「正確には、チベットかな。牢屋に閉じ込められてた」

『……どういうこと?』

「あーその時か。ブッキョウの僧侶を狩りに行って捕まったんだっけ?」

『……ブッキョウ。よくわかんないけど、そんなこともしてたんだ。すごいね。よくわかんないけど』

「おれもよくわからない」

『……は?』

「アルビジョア。そのことを知ったのは百年後だ。ヴィルヌーヴにいた時」

「アヴィニョン虜囚の時ね。絵描いてた時」

 

『ストップ!話を戻すよ。えーと、つまり、ジェイさんはアルビジョア・ハチュルのことはリアルタイムでは知らない、と。カタリ派のことも知らない?』

「あとから勉強したよ。エーミット(動画配信サービス)で。きみ(バビュール)の動画も見た」

『……そりゃどうも。じゃあ、K.K.がカタリ派の生き残りってことはわかってるんだね?』

「わたしは、生き残りっていうのは違う気がする。誰だか知らないけど、K.K.……こっちじゃA.A.A.か。ともかく、『いにしえの琥珀』を広めた人は、カタリ派の信徒だったわけじゃないと思う。エンデューラだって拡大解釈し過ぎだし」

『うん、そうかもね。ヴェシレさんたぶん正解。利用したんだろうね。カタリ派の教義をパクった。トゥールーズ伯と一緒だ』


 トゥールーズ伯。

 この街の名前にもなっている、12世紀の南仏の領主。

 今日一日、おれ達はケイト・カプランと3人でシテの周辺を散策し、歴史資料などもいろいろ調べていた。なぜトゥールーズなのか、なぜここに連れてこられたのかを探るためだ。

 このシテの数百メートル北にある立派な建物、トゥールーズ高等裁判所は、古代ローマのガリア属州時代からの要塞を拡張した古城だった。その古城を中世に宮廷としたのが、トゥールーズ伯だ。


『昔っから、教皇庁は国際政治にガッツリ介入して利権を貪ってたからね。教皇庁やカトリック教会に反発する人も少なくなかった』

「トゥールーズ伯もその1人ってわけね。革命じゃなくて独立を目指したみたいだけど」

『で、清貧を教義としてカトリックへの批判を強めていたカタリ派を利用し、民衆を扇動したと。おんなじことを僕らもやろうとしてた。ほんとに人間って変わらないんだよね』

 

「当時のローマ教皇もインノケンティウスよね?3世だっけ」

 インノケンティウスか。ヴィの実の父であり、ヴェシリアがダニに変えたあのインノケンティウスではなく、昔のインノケンティウス。

 昔のインノケンティウスはカタリ派を異端として弾圧、フランク王国内に十字軍を派遣した。これが現代ではアルビジョア十字軍と呼ばれている。その時おれはチベットの牢屋で死にかけていたが。肺炎で。


「パヴルくん。あなた達は戦争はしなかった。誰の血も流さず、歴史を変えたのよ?えらいと思う」

『まだそんな風には考えられないんだよね。ズィが暗殺されかけて、僕だってやられるとこだったらしくて。今度はヴェシレさんたちまで……なんか、怖いよ。大変なことしちゃったんじゃないかな、僕たち』


 トゥールーズ伯は息子の代までローマ教皇庁と戦ったが、最終的にはローマとフランク王国の強大な権力に屈した。それから800年の時を経て——教皇庁が消滅し、カトリック教会が衰退した途端に、カタリ派の流れを汲む『いにしえの琥珀(A.A.A.)』が今、改宗した王室の権力によってトゥールーズの街を支配している。

 トゥールーズ。フランク王国。ローマ。そして、世界。


 もしおれが今ジェイエルとして地獄にいて、アザズェルの観察記録でこの世界を見ていたら——使命のために、『いにしえの琥珀』を主導した者を狩りの獲物に選んでいたかもしれない。

 

 そして人間たちは……何を裁くのか。異端か。

 『いにしえの琥珀』の言う異端とはカトリックのことであり——そしてたぶん、悪魔と呼ばれるおれたちのことだ。

 

 おれと、ヴィ。

 ヴィだけは護らなければならない。約束を果たすために。


「パヴルくんは、誰だと思う……?」

『……は?何が?』

「わたし達を呼びつけたやつよ。本当の悪魔。あなたやズィを殺そうとしたやつ」

『あー、うん……ロクツィオ(精神操作)が出来るやつだよね……今んとこはっきりしてるのは、それが出来るのが少なくとも2人。ジェイさんと……サマエル、だっけ』

「サマエルじゃないと思う。サマエルなら、パヴルはもう死んでる」

 また頭をひっぱたかれた。ヴィに。


『そうなの?!』

「ごめんねパヴルくん!こいつノンデリだから」

『はは……サマエルじゃないとしたら誰?』

「アヴィエルだ」 

『……アヴィエル。そいつも地獄から来てるってこと?』

「アヴィエルは堕ちてない。天使だ」

『……。天使でも悪魔でも、なんでもいいけどさ。そいつもやっぱり、誰か、人間に化けてるってことだよね……ジェイさんが見ても、わかんないってこと?』

「わからない……サマエル以外、地上で他のやつに会ったことがないんだ」

 モロー。見た目はなにも変わってない。虹彩も、見分けはつかない。

 

「わかるかどうかも……わからない」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。