12 Strange Relationship
【2025年11月21日08時08分 トゥールーズ上空】
アリーにとってトゥールーズはおもしろい街だった。
高く上がって街全体を見るとおもしろい。丸や三角がたくさん。そしてオレンジ。
アンキュラの屋根も似たような色だったけど、ごちゃごちゃしてたしバラバラだった。ここは違う。全部オレンジだ。別にオレンジが好きというわけじゃないけど、きれいだ。
隠れる場所がたくさんなのもよかった。石の壁に穴がたくさんある。隠れ家や寝床がたくさん。
そして川。大きな流れる水の道路。飲める。おいしい。アンキュラにはきれいな川はなかったし、ニースやコンスタンティノープルの水はしょっぱくて飲めない。ここの川の水はおいしい。
これまで口にしたことがなかった新しいおやつもたくさん見つけた。硬い殻のある小さな生き物。最初は変わった小石だと思ったけど、突いたらパカっと開いて、中身があった。他の同類たちが食べていたので、何事も経験だと思って食べてみた。
なにこれ。おいしすぎる。人間の食べ物みたいに柔らかく、ほんのり塩味が効いている。殻を開くコツもすぐに覚えて、夢中になって食べた。
水草の陰には、変な虫もたくさんいた。こっちも殻があるけど、硬くないから殻ごと食べられる。これも味付けがよくて、殻の嘴感触もいい。おいしいし楽しい。
ジェイたちの寝床から東に飛ぶ。古いたくさんの木、きれいな水が流れている滝、大きな公園。アンキュラやコンスタンティノープルにはなかった珍しい木。きちんと分けられていて、空からの眺めがいい。リスもたくさんいそうだけど、今はみんな隠れてる。寒いから。今日は特に。急に冬になった。でも雪はない。
この公園は三角、その先には丸い公園。車がたくさん走ってる。硬くて割れない木の実を置いて割ってもらえる。
トカゲやネズミがいないのはしょうがない。寒いから。石の中身や水の虫はおやつだからごはんはジェイにもらう。ヴィにも。
アリーはガロンヌ川とグラン・ロン公園のロータリーを何度も往復して遊んでいた。川で小さな巻貝や二枚貝、ヨコエビなどをつまみ、グラン・ロン公園で胡桃を拾ってロータリーで車に踏ませ、トゥールーズ植物園でカモやガチョウをからかって遊んだ。
「サラ、ラ…………ラ……ラ……」
「はわわ!」
好きな歌だ。歌が聴こえた方を見た。
"ちゃいろおんな"が歩いていた。
"ちゃいろおんな"が近くにいると、あの歌が聴こえる。"ぶろんどおんな"を思い出す。なんでだろう?"ぶろんどおんな"は歌ってなかったのに。最近見てない。いつもジェイにくっついてたのに、最近はヴィがくっついてるから交代したのかな。"ぶろんどおんな"は子どもだけど友だちだ。たくさん遊んでやった。また遊んでやりたい。
前日から強い低気圧が北極の寒気を引き込み、フランク全土が急激に冬に突入していた。各地の空港で、雪や強風の影響で遅延や欠航が相次ぎ、北部の都市は大雪に見舞われた。トゥールーズも雪こそ降らなかったが、気温は5℃まで下がっていた。
ケイトはいつもの黒服姿で、寒くはなかった。むしろ汗をかいていた。直前まで室温26℃の温室にいたからだ。シテに帰って、もう一度シャワーを浴びなくては。
【08時26分 モンテンポ・シテ】
「ケイト・カプランは……わからない」
ジェイとわたしは、昨夜の続きを話しあっていた。コーヒーを飲みながら。
「わからない?あなたがケイトと、瞳……虹彩を絡ませたのがあの日の午前中。その後は事件が起こるまでズィやギュネルと一緒だったし、ありえないと思うけど」
「ケイト・カプランは……あまり深くは見れなかったから」
「ギュネルもそうよね。あなたはまだ、その……練習中だし。あとはズィね」
ジェイは考えながらぼそぼそと言った。
「……サマエル……モローと目が合った時は何も起こらなかった。ズィとのアレは……また別の異常かも……わからない」
「やっぱり領事館のやつらよ。ガスパールとアンジー」
「うん。特に、アンジェリック・ヴェスパー。あの女が最有力」
「わたしもそう思うけど……マドレーヌは?可能性はある?」
ジェイはまた考える。
「……少なくとも、ニースの時は違った。虹彩も何度も絡ませたし」
何度も。絡ませた。ふうん。
「ねえ、その……絡ませたって言い方。やめない?なんか……いやらしいって言うか……」
「?……物理的な意味じゃないけど?」
「わかってるけどッ!」
ばか男。ノンデリばか男。
【10時44分 アンキュラ、エセンボア空港】
「なぜ?」
「お嬢様……フランクの天候が、よろしくないようで。天候が回復いたしませんと、飛べないことも——」
「天気か。そんなもの、気にしなくてよいのに」
「いいえ。そうは参りませんわ。さすがに——」
「気にしなくてよいと言った」
エセンボア空港のVIPラウンジで、アンジーは緊張していた。マドレーヌが無表情だからだ。ファー付きの紺のAラインコートでソファに沈み込んでいる姿は年相応の少女のようだったが、無表情なのが恐ろしい。
「今、機長がトゥールーズの天候を調査しております——」
アンジーは時計を見た。10時45分。最終判断がされる時間のはずだ。
「——おそらく……そろそろ——」
「お嬢様」
機長がラウンジに現れた。
「お待たせいたしました。ご搭乗お願いいたします」
マドレーヌはアンジーを見た。無表情のまま。緑色の炎がちらっと見えた気がした。
「ほら。気にしなくてよいと言ったでしょ?」
口角があがり、無表情が崩れた。
「私は父上に愛されてるの」
【11時48分 トゥールーズ、カフェ・クラルテ】
「美味しそう!」
ヴィは歓声をあげてチキンのラップサンドを見つめた。鶏肉とチーズがたっぷり、トルティーヤで食べやすいサイズに巻かれている。
ジェイはホットドッグにかぶりつく。アンキュラのホットドッグとは少し違って、ソーセージはダイスみたいに小さくカットされてる。ケチャップと、こっちもチーズがたくさん。薄く切られたゆで卵も。
ケイトはアボガドとサーモンのサラダボウルをつついていた。
シテの冷蔵庫に野菜しかなかった時は、もしかしてもう二度とお肉は食べられないんじゃないかと思ったけれど、インウェニ・ハリタで探したらすぐ近くにこのカフェがあった。いにしえの琥珀の教義に縛られず、普通にお肉や卵が食べられる。
このお店が信徒じゃない、というわけではないみたい。赤いウロボロスが表の看板や店内のあちこちに貼られているし、店員の女の子もピンバッジをつけている。
「ペルフェクティじゃなければ、教義もそんなに厳しくはないみたいね」
「はい。えっと……ヴェシレ、おっしゃる通りです。一般のクレデンテスは飲酒も禁じられてはいません。動物性タンパク質や脂肪、卵なども普通に食します。信徒人口を増やすためには——」
ケイトはサーモンを刺したフォークを持ったまま、A.A.A.がいかに巧妙に信仰を拡大しているかを語り始めた。
一昨日夕方に着いて丸2日。シテ周辺を歩き回って見たけど、国家間取引で身柄を拘束されているという感じは全くなかった。徒歩で散策するくらいなら自由らしい。あからさまな監視者もいなくて、街の人たちがわたし達を見てる。笑顔で。その笑顔が意味ありげに感じられるのは、気にし過ぎだろうか。
「アリーの?」
ジェイが二つ目のホットドッグから、ダイスカットのソーセージをつまみ出し、ケチャップを綺麗に舐めとって、ナプキンの上に並べている。
「うん。もう冬だし」
確かに。今日は朝から寒い。
「そういえば。ケイト、今朝はランニングしてきたの?」
「はい。えっと、日課なので。植物園を走って来ました」
「気持ちよさそう。明日は一緒に走ろ。ウェア買いに行かない?その格好じゃアレだし」
「アレ。アレ、とは?」
「あー、いえ……ウェア!どうする?」
「はい。えっと、この街の状況を確認するためにもキャピトル広場の方まで行ってみませんか?ラファイエットもあります」
「調べたの?それともカプランペディア?」
「はい、えっと、私……10代の頃、トゥールーズの病院に通院してたんです。月2回。大学病院の脳神経外科」
「あっ……ごめんなさい」
ケイトは首を傾げた。
「謝罪。なぜ謝罪を?病気というような自覚症状もなかったので、謝罪は必要ありません。身体はいたって健康ですし、任務遂行に何の支障もありませんので」
ケイトはサーモンを食べた。無表情で。
月2回の通院か。ジェイと同じ。
「10代だったら大変だったね。お家どこだっけ」
「いえ、よい経験でした。TGVにも乗れて。交通費は医療保険で全額還付でしたし」
ケイトはフォークを置いた。チーズを残して。
「家はアルバロンという小さな村です。プロヴァンスの」
【同時刻 プロヴァンス上空12,000メートル】
ダッソーのキャビンには、ローズとライチの香りが立ち込めていた。ピエール・エルメのイスパハン、高高度特別仕様のデザート。香りを高め、甘味も強調されている。
マドレーヌは左側の窓際に座っていたが、見えるのは雲だけだった。穏やかな白い雲海ではなく、波打つ山脈のような雲。地上のどの辺かなど知りようもない。
そうかしら。私にはわかるわ。
——今。
「サント=マリー=ド=ラ=メール」
マドレーヌ——アヴィエルが呟いた。
10年前。
エクスでアンジェリック・ヴェスパーを見つけ、その後ここでケイト・カプランを見つけた。天から。
天使の顕現。人間たちがそう呼ぶ、肉体を伴わない地上への降臨。時間や距離など無関係に、地上のどこへでも行ける。地獄に堕ちたジェイエルや兄さんには出来ないこと。肉体を得た今の私も出来ないけど。
光を背負って人間たちに意志を伝える。何を伝えられるかは、受け取る人間の器によって変わる。
アンジェリック・ヴェスパーは、私の知識と望みを受け取った。
そしてケイト・カプランは、私への忠誠心を。
サント=マリー=ド=ラ=メールで見つけた、特殊な頭脳を持った黒人の少女。
サラ・ラ・カリ。
マグダラのマリアの侍女。
800年前、私はマグダラのマリアを演じようとして失敗した。だが今回は失敗しない。絶対に。
私のサラも見つけたし。
見たものを全て詳細に記憶し、鮮明に伝えてくれるあの頭脳。あの秘書のことも、とても詳しく。サラの起動まで、全て緻密に操作できた。完璧に。
ダッソーが高度を下げ始め、雲の山脈へ突っ込んでいく。
トゥールーズ着陸予定は、12時45分。
【13時04分 トゥールーズ、キャピトル】
ヴィたちはラファイエットには行かなかった。その向かいにあったジャポンのユニクロで買い物を済ませたからだ。
記号みたいなジャポンの文字の看板に惹かれてふらっと入ってみたら3人とも気に入った。価格も手頃。寒かったし3人お揃いでダウンジャケットをと思ったのに、ジェイはいらないみたいだ。寒くないって。こいつは何かと鈍感。
「……えっと。これ、いいですね。洗濯機で洗える」
ケイトが見ているのはニットのパンツだった。部屋着かと思ったけど、縦のリブ編みですらっとしてて普通にジャケットと合わせやすそう。手に取ってみると、柔らかくてすごく伸縮性が高い。アスラン道の動きにピッタリだ。
「いいねこれ。ちょっと試着してみようかな」
こういうお店では、お店の人は声をかけてこない。試着も好き勝手にしてOK。一枚持って試着室に入り、カーテンをしっかり閉めてから上着をフックにかけ、スラックスを下ろした。
「——様。お客様!入れませんよ!」
「あー。すみません、間違えました……」
ジェイの声だ。なにしてんの?
ニットパンツは買うことにした。ピッタリだ。
ケイトの案内でガロンヌ川の方へ歩いた。左手には様々な店が並び、右手は公園やトゥールーズ市役所。ここがトゥールーズの中心街らしい。道路は歩行者専用で、レンガが敷き詰められている。フランクではパヴェというらしい。
「見て。ラーメン屋がある!」
他にも、色んな国のお店があった。インド料理やタイ料理。アジアだけじゃなく、エスニックやロシア料理、もちろんフランクのお店も。
「失敗したわ。先にこっちに来ればよかった」
「はい、えっと……夜にまた来ますか?」
「いいかも!どうせとりあえずはヒマだし。どう?ジェイ。ラーメン食べたことある?」
「いいよ。ヒマだし。ラーメンでも」
どうでもよさそうな返事。いつのまにか、ミラーのiVitraをかけてる。どうせ眠そうな目、退屈そうな顔してるんだ。ばか男。もう少し楽しそうにできないのか。なんかiVitraを指でコツコツしてるけど、なにそれ。
建物の壁はほぼ全部テラコッタのレンガ色だ。そして、赤いウロボロスの貼り紙。
その一枚の前で立ち止まり、改めて観察する。
「ずっと考えてるんだけど……2匹なのは、なんなんだろ?」
「はい、えっと……ウロボロス。通常は一匹の蛇やドラゴンが自分の尻尾を噛んで輪になっているデザインがほとんどですが、このウロボロスは2匹——」
「赤い蛇。アヴィエルだ」
珍しく、ジェイが人が話してるのを遮った。ケイトはピタリと口を閉じ、ジェイを見た。ほんの一瞬、目つきが変わったような気がした。すぐ普段通りに戻ったけど。遮られたから?
「……えっと。アヴィエル。それは人の名前ですか?ヘブライ語だと……私の父……神……」
ケイトは黙ってしまった。カプランペディアでもそこまでなんだ。
お店の人やすれ違う人たちは、ここでもわたし達を見ている。気のせいとかじゃなくて、じっと見ている。悪魔なんだから仕方ないのか。写真撮られたりしたら嫌かも。
そう思ってわたしもiVitraをかけた。ミラーのやつ。ジェイとおそろ……メッセージが来てる。
『やっと気づいた。ちょっとこれで話したい。アヴィエルについて』
『は?』
さっきの指コツコツは、わたしもiVitraかけろっていう合図なの?そんなの前もって決めてないのにわかるか!
『ケイトはまだ知らない話。巻き込みたくない。さっき試着室で話そうとしたら怒られた』
……。呆れてものが言えない。女性用試着室に入ろうとしたってこと?……実行寸前で止められてよかった。下手したら警察沙汰だ。
『……ばか男。で?なによ』
『昨日の話の続きがしたい。アヴィエルが誰に転生してるのか。アンジェリック・ヴェスパーなのか』
『なんで今なの。後でまたケイトが出かけた時でいいんじゃない?夜とか』
『夜はラーメン食べたいから』
『ふざけんな!』
『ごめんなさい。とにかく早く話したい。嫌な予感がする。なんか、嵐が来そうな、そんな感じ』
……このばか男の直感は確かに無視できない。何しろ何千年も直感だけでやってきたようなもんだし。
『わかった。でも、ケイトがこっち見てる。ちょっと待ってて』
ケイトの気を逸らすため。ジェイと2人きりになって……作戦。そうよ、これからの作戦を打ち合わせするため。そう、作戦のため。
「ケイト?あの……ちょっと、お願いがあるんだけど……」
「……はい?えっと……なんですか?」
「……あのね?あの……なんか、この辺って……すごく、ロマンチックじゃない?だから、その……ジェイと、2人きりで歩きたいなって……」
「はい?ロマンチック。確かにこの辺はそういう形容が——」
「あ、あのね?決してあなたが邪魔とか、そういうんじゃないんだけど……」
「……えっと。好意を持った男女がそういうことをするのは、生物の生存本能で——」
「ち、違う!そんな——」
「——私のことはどうかお気になさらずに、繁殖活動を——」
「違うから!ちょっとだけ、2人で歩きたいだけだから!」
「——この先、すぐのところに、ポン・ヌフがあります。夜の方が行為には適していますが、日中も男女がコミュニケーションを深める——」
「わ、わかった!もうわかったから!ポン・ヌフね!ありがとう!じゃあ、行ってくる!」
「はい。えっと……がんばってください」
もういや。どうしてこうなる。
ヴィは耳まで真っ赤にして、ポン・ヌフに急いだ。ジェイの腕を取り、引きずって。
ケイトは急ぎ足でポン・ヌフに向かう2人を、眉ひとつ動かさずに見送った。そして、iPortaを取り出すと、用意してあったメッセージを送信した。
『ルコ/ヌートラ完了。ランコントル/PDC、予定通り進行中』
【同時刻 トゥールーズ、ホテル・デュー・サン=ジャック】
ロイヤルブルーに金刺繍のトレンチコートを隙なく着こなしたシャスールが、プジョー5008のリアドアを開けた。
ワインレッドのスレンダーなシルクサテンに、クラシカルな薔薇の模様のシャンティレースを重ねた波打つようなスカートが僅かな動きで表情を変える。雪のように白い胸元は大胆なハートシェイプ。
細く小さな手がドアにかかり、ライトブロンドをピンクのリボンで分けて留めた緩やかなウェーブがキラキラとなびく。
ホテル・デュー・サン=ジャックはかつては慈善病院だった歴史的建造物で、12世紀からここでガロンヌ川を見下ろしてきた。フランク王国の国家遺産、そして世界遺産にも登録されたその厳粛なファサードは、今は王室によって豪奢な迎賓館として磨き上げられていた。
今、その重厚な歴史を見上げながら車を降りる彼女のその艶やかさは、一千年近くの年月さえもただの背景に霞ませてしまうほどだった。
フランクの華、マドレーヌ・ド・ガスパール。
だがマドレーヌはすぐに車内に引っ込んだ。
「アンジ〜!寒い〜!」
甘えた声でファー付きのコートをはおる。
iPortaの通知を確認していたアンジェリック・ヴェスパーは息を呑んだ。
お嬢様……いえ、アヴィエル様。素晴らしい。本当に、マドレーヌお嬢様が生き返ったかのよう。
目が潤んだ。嬉しさか、それとも……いいえ。今は悪魔たちのことを考えなくては。
「お嬢様。全て、整ったようです。参りましょう」
マドレーヌとアンジーは王室公用車を降りると、ホテルのエントランスではなく外へ向かった。シャスールに荷物を運ぶよう指示し、2人はレンガを敷き詰めたパヴェを歩く。人々が2人のスモーキーアイに気圧され、脇に退いて道を開ける。
空は低い雲に覆われ日差しはなかった。午後になっても気温は上がらず、風は微風だが冷たかった。でも。
このまま……天の草原を這う蛇腹じゃなく、この美しい脚で地上を歩いて行く。私を、この私を……やっと。見せることが出来る。
鼓動が聞こえる。うるさいくらいに、私の胸が高鳴っている。血が脈打つ血管を辿って、首筋から顔へ、頭へ昇る。呼吸。冷たい空気を、吸って、吐いて。肺が、心臓が、痛いくらいだ。
無意識に足が速まる。ふくらはぎがスカートの裏地を跳ね上げる。私。私の脚で、走って、走って。
あの橋へ。
ポン・ヌフ。新しい橋。
前にここに居たときは、ポン・ヴューという名前の木の橋だった。渡るたびに軋んで、ちょっと怖くて、あの時もドキドキした。でもこんな気持ちじゃなかった。苦しくはなかった。
苦しい?ええ、胸が苦しい。張り裂けそう。この姿を見せることができる。
ジェイエル。
【13時19分 ポン・ヌフ広場(ガロンヌ川東岸)】
「ケイトになんて言ったの?ついて来ないけど」
ノンデリばか男。うるさい。
わたし達は橋の手前で、道路を横断するため立ち止まっていた。車が何台か続いている。
「耳が赤いけど……」
「いいからッ!早く今のうちに話しましょ」
「うん。アンジェリック・ヴェスパー。たぶん間違いない」
「証拠は?なんかあるの?まさかまた、直感だけ?」
「証拠……ないけど」
「ガスパールはどうなの?わたし達を悪魔呼ばわりして引き渡し要求までしたのは、全部ガスパール」
「そうなんだけど……覚えてるかな。パヴルと領事館から脱出した時」
「忘れるわけないと思うんですけど?……あ、渡ろう」
車の切れ目を小走りですり抜け、ポン・ヌフへ。
「あの時……グレゴワール・ド・ガスパールは怯えてた。マドレーヌを心配して。本気で怯えてた。でもアンジェリック・ヴェスパーは違った」
「それだけ?ニースではどうだったの?あの女も行ったよね?」
「ニースか……あそこではいつもマドレーヌがくっついてたから。今のヴィみたいに」
ひと言余計。
「……結局、直感だけってことね。まあ確かにあの女は怪しいけど。ガスパールは……なんか、うまく言えないけど……雑魚って言うか」
ジェイが目を丸くした。
「ザコ!酷いこと言うね!」
しがみついていた左腕を捻じる。
「痛い。やめて……」
「……あなたも、もうちょっと……こう、ヒーローっぽいこと言ってよ!カッコいいセリフとか——」
「……ザコパール」
「わかった。もうむしろ黙ってて?全く——」
突然アリーが頭上を掠めて、すごいスピードで橋に飛んでいった。そして、橋の向こう側でくるっと旋回してる。その真下の、橋の入り口に——
「………………ーっ!!」
赤い服の女性が、なんか手を振って走ってくる。
ジェイの左腕がビクッとして、筋肉が強張った。え?
アリーはその赤い服に近づいては離れ、なんだか嬉しそうに飛び回ってる。
「…………まーっ!!」
橋の半分くらいまできた……服がドレスで、ブロンドで……え?まさか?
「……ェイさまーっ!!」
「……マドレーヌ?」
ジェイがぼそっと、でも明らかに驚いた声で言った。もうわたしにも誰か判別できた。
「マドレーヌ?!」
「ジェイさまーっ!!」
どんよりした雲。冷たい風。全然ドラマチックでもなんでもないけど……赤いロングドレスのマドレーヌが、ブロンドをくしゃくしゃに振り乱して、泣きそうな顔で絶叫しながら、懸命に走ってくる。この寒いのに胸から上は丸出しで。ロングドレスだから歩幅が小さくて遅い。まるで……ヘビ?とまでは言わないけど。
ジェイエルはその姿に、天の光景を思い出していた。草原ではなく、アスファルト。石畳の歩道。黄色い点字マーカー。センターラインの白線。空は天の空でも、青空ですらない鈍色の雲天。だが……その灰色の中を這ってくるのは、大きな赤い蛇。
アヴィエル。
……いや、ありえない。ニースで10日間、不本意とはいえ生活を共にした。あのマドレーヌは人間そのものだった。剥き出しの愛情と幼い独占欲。天で生まれた者にはありえない、激しすぎる感情。虹彩を絡ませ、意識の奥も見た。間違いない。
その後?おれがニースを離れて……3ヶ月。その間に?
わたし達はポン・ヌフの上で固まっていた。ロングドレスが纏わりついて小走りがやっとのマドレーヌは、それでも必死の形相で走ってきた。まもなくわたし達のところにくる。その次に起こることは、もうわかってる。
まあ、いいか。ジェイをニースに連れてってとマドレーヌに頼んだのはわたしだ。マドレーヌのおかげで、あの10日間はジェイは無事だった。その後はわたしのところに帰ってきたんだし?
久しぶりだもんね。ちょっとくらいなら、まあいいか。
抱きしめていたジェイの強張った左腕を、そっと離す。そして意識して口角を上げて、目を細めて、笑顔を作って……ジェイから一歩離れる。髪と顔をぐしゃぐしゃにして突っ込んでくるマドレーヌに、差し出すように——
それから、思いもよらない事が起きた。
マドレーヌは——飛びついた。
ジェイ、ではなく——
——わたしに?!




