13 めまい
【2025年11月21日午後 トゥールーズ、ポン・ヌフ】
「ヴィヴィーッ!!」
ゴシックなアイメイクをしているが、マドレーヌの瞳はピンクのハート型だった——比喩ではなく、カラコンだ。
いきなり抱きついてきたマドレーヌを、ヴィは受け止めるしかなかった。乱れた繊細なライトブロンドが頬や鼻をくすぐる。マドレーヌの首には細いチョーカーが巻かれていたが、そこから薔薇の香りがした。
「マ……マドレーヌ?!」
「ヴィヴィ!私の1番の親友!会いたかったですわ!」
「……は?」
マドレーヌはヴィを思い切り抱きしめる。腕は細く、力も弱いが、押し付けられた剥き出しのデコルテから伝わる体温がヴィを包み込む。数秒、ヴィは息が苦しくなるほど。それからやっと離れた。
「ヴィヴィ!私18才になりましたの!おとなですわ!」
「は?……はい……」
「私……気づきましたの!おとなって……とっても難しいですわ!ですからヴィヴィ!教えてくださいまし!どうしたらヴィヴィみたいな、優しくて素敵なおとなの女性になれますの?」
「……あの……ジェイ……は?」
マドレーヌの表情が、寂しさと嬉しさで破顔した。その潤んだ瞳をジェイに向ける。ジェイは唖然としていた。
「ジェイさま……ジェイさま!もちろん大好きですわ!でも……わかってしまったのです……」
涙が一条、こぼれた。
「……ジェイさまに相応しいのは、私みたいな子どもじゃなくって……あなたですわ!ヴィヴィ!私の親友!覚えていますわ!」
ぱぁっと、明るく輝くピンクのハート。
「病院でのこと!ジェイさまのお身体を気遣って私に託して身を引いたヴィヴィの、究極の愛!あれこそ大人の女性。私の理想……憧れてしまったのです!」
何を言ってるのかわからない。いや確かにあの時はそうだったかもだけど、そんな、急に。どうしちゃったの?この子?
「ヴィヴィ!……おねえさまとお呼びしてもよろしくて?私のおねえさま!」
マドレーヌがまた抱きつこうとしたので、ヴィは思わず後ずさった。
「まあ!そうですわね。大人の女性は、むやみやたらと抱きついたりしない。勉強になりますわ、おねえさま!」
「お嬢様……寒いですから、これを」
アンジェリック・ヴェスパー。ふさふさのファーの付いた紺色のコートを手に持ってニコニコしている。領事館では見た事ない顔。こいつもおかしくなったの?
「マドモアゼル・ヴェシレ……ムシュウ・ロルト。お久しゅうございます」
アンジーはお辞儀をした。
「あれから、お嬢様は……大変なご経験をなさって。それで、お気づきになられたのです」
そしてアンジーは深々と頭を下げた。ヴィに向かって。
「お嬢様を、よろしくお願い申し上げます」
一方マドレーヌはジェイに頭を下げていた。
「ジェイさま……その節は、大変ご迷惑をおかけいたしました。私……恥ずかしいですわ、ジェイさまに、あんなこと……どうか、小娘の若気の至り、お許しくださいまし……」
許さない。
ジェイは困惑はしていたが、理性はあった。
アヴィエル。お前はアヴィエルに間違いない。見え透いている。恐らく……この3ヶ月の間のどこかで、マドレーヌを……殺し、その身体に転生した。
許せない。
サマエルもモローを殺したが、あれは元々地獄に落ちる罪人だ。だがマドレーヌは……身勝手な理由で殺され、身体を奪われた。
絶対に許せない。
背中が疼いた。ゆっくり、ジャケットのボタンを外す。ヴィが気づき、おれの左腕を掴む。
「何する気。だめよ!」
ヴィの手を振り解き、ジャケットを脱ぐ。セーターの背中が、翼に押されて盛り上がってくる。
おれはマドレーヌを知っている。確かにわがままで独りよがりで、他人の気持ちなど微塵も気にしない独善的な人間だったが、それはまだ幼い子どもだったからだ。無邪気さ故の行い。直接他人を傷つけたりはしていない。それを罪に問い裁く法など、天の理にもないはずだ。彼女には殺される理由などなかった。おれはあの緑色の虹彩を何度も絡めた。マドレーヌの無垢で純真な意識を、何度も見た。
アヴィエル。絶対に許さない。
「ジェイ!だめッ!それ以上——」
突然、脳髄が痺れるような感覚に襲われ、強烈な眩暈で世界が捩れた。頭蓋にも直接振動がきた。同時にセーターの中で翼が引っ込んだ。
ドクター・セレンのA.C.O.のアラートだった。前庭電気刺激と骨伝導による内耳への直接振動。最大レベルでは強烈な眩暈を引き起こす。これ以上心拍数が上昇すると危険たという警告。もちろん一時的なものだが、ジェイの衝動的な変身を止めるには十分だった。
ジェイが頭を抑えて膝をついた。
ヴィはiVitraのアプリでアラートを止め、ジェイのバイタルをチェックしていた。
「ごめんね、ジェイ。ピアスのアラート、最大にしておいたの。大丈夫……落ち着いてきた」
「ジェ……ジェイさま??……お医者様。アンジー!お医者様を!」
「大丈夫。マドレーヌも落ち着いて……大丈夫」
ヴィは既に、ドクター・セレンのキットのポーチを用意していた。アプリに表示されるジェイのバイタルは安定し始めていた。ヴィも膝をつき、ジェイの髪を撫でる。
「……ごめんね。大丈夫……大丈夫……」
「ヴィ……頼む。アヴィエルだ……マドレーヌを殺した……許せない……」
「だめ。あなたが死んでしまう」
「……証拠……やつの虹彩を……」
ハートのカラコン。
「ジェイさま……大丈夫ですの?」
ヴィはマドレーヌの瞳を見つめた。ピンクのハート。
「マドレーヌ。そんなにジェイが心配?」
「あたりまえですわ!私……愛していました……ジェイ……今でも……」
「だったら」
ヴィはマドレーヌの腕をガッチリと掴んだ。
「今すぐ、そのふざけたカラコンを外しなさい」
マドレーヌは悲しげに眉を曇らせる。
「……おねえさま?」
「わたしはあんたの姉さんじゃない。早くカラコンを外しなさい!」
マドレーヌの表情は暗かった。演技?そうだとしたら天才的だ。だけど騙されるもんか。
「……ヴィヴィ……ひどいですわ。私……」
「お嬢様……」
アンジーがマドレーヌの肩を抱いた。
「もう……よしましょう。お嬢様のお気持ちを……。ヴェシレ・クルチュ!その手を離しなさい!」
もちろん離しはしない。逃がさない。ジェイの分まで、わたしが。
マドレーヌの二の腕を掴む指で、二頭筋と三頭筋の境目を探る。その溝の奥。
「大人の女になりたい?じゃあ最初のレッスンよ。アスラン道は知ってるでしょ?」
指を筋肉の隙間に滑り込ませ、正中神経と上腕動脈を見つけた。
「このまま、ほんの少し力を入れると、あなたの右手はしばらく動かなくなるわ。もちろん、すごく痛い」
マドレーヌはもう涙を溢れさせていた。
「そんな、ヴィヴィ……そんな怖いこと……わかりましたわ。カラコンを外せばいいんですのね?……アンジー、ケースを」
「お嬢様!いけません!お嬢様がどんなに辛い思いをされて——」
ヴィはアンジーを睨んだ。
「お嬢様の右腕が、どうなっても?」
ヴィがいい終わる前に、アンジーは慌ててハンドバッグを探る。いつのまにか近くに来ていたケイトが、アンジーの横に立つ。
「ゆっくりよ。ゆっくり、手を出して。ケイト!確認して」
ケイトはアンジーの手首を掴み、取り出した物をチェックした。
「はい。えっと。コンタクトケースです。危険はありません」
ヴィはジェイの腕を離し、その手でマドレーヌの腰を掴んで二の腕は離す。
「さあ。カラコンを外して。早くしないと歩けなくしてやるから」
「ヴィヴィ……わかりましたわ。私も、子どもっぽいって思ってましたもの……」
マドレーヌは諦めたように頷くと、下を向いたまま目に手をやって——カラコンを外した。顔を上げたマドレーヌの瞳は、涙の奥にエメラルドの炎が小さく燃えている。
「ジェイ!」
ジェイがiVitraを外してマドレーヌを正面から見据えた。赤黒いオーラが陽炎のようにゆらめく。
エメラルド。透きとおった緑の灯。小さな蝋燭のゆらめき。繊細な、星雲のような複雑な虹彩——どこまでも無垢な宝石。
夏の地中海の色。深い青緑の海。ニースの夏と——変わらぬ、純真な少女の心。マドレーヌ。
ジェイは愕然とした。
マドレーヌだ。変わってない。あの無邪気な、あどけない少女。だが——
寝室。父親。嗚咽するガスパール。ベッド。胡蝶蘭。
横たわる女性。母親。琥珀。歪む顔。父親の顔。
母親の……死。安らかな死。
光。光の中の影。シルエット。
奇跡。琥珀。窓から差す陽光。反射する琥珀の輝き。天への導き。母親の笑顔。
「母親が……」
「ジェイ?どうしたの?アヴィエルは——」
「マドレーヌだ。この子はマドレーヌ。アヴィエルじゃない」
ジェイは思わずマドレーヌを抱きしめた。小さな、か細い悲鳴。マドレーヌの涙がさらに溢れた。
ヴィは長く息を吐き出し、マドレーヌの腰を掴んでいた手を離した。立ち上がり、ガロンヌ川の水面を眺める。川は穏やかに流れていた。
私は抱きしめられてる。ジェイ——ロルトの腕に。ジェイエル。
違う。
これは偽りの抱擁に過ぎない。
そう、自分に言い聞かせる。
肉体の接触なんかどうだっていい。所詮仮のボディ同士。だけど……瞳は。
ジェイエルの瞳と同じ色。黒曜石と、赤黒いオーラ。天の梢から私を射すくめた、あの瞳。
似てるけど、同じじゃない。
私が欲しいのはこの瞳じゃない。
きらきらと涙をたたえた瞳、澄んだ緑色の湖のようなマドレーヌの瞳を通して、アヴィエルはヴェシレ・クルチュの背中を見、そして無表情に自分を見ているケイト・カプラン——サラの瞳を見た。黒い虹彩を縁取る細いグリーンのライン。
それから視線を動かし、アンジェリック・ヴェスパーの瞳を見た。深い青緑の円を囲む、濃緑のリング。
簡単だった。
ジェイエルがもしアンジェリック・ヴェスパーの精神を覗いても同じ。同じものが見えるだけ。
ロクツィオ。
私が、アンジェリック・ヴェスパーと創った記憶と意識。偽りの仮面。
それを被っているだけ。
もう一度ヴェシレ・クルチュの背中を見る。そして想像する……髪に隠された、首筋を。
アンジェリック・ヴェスパーにとって、笑みが漏れないようにするのには大変な努力を要した。
ガスパール夫人。腎臓移植で弱りきった哀れな老婦人。胡蝶蘭に看取られて死んだ。誰もいない部屋で、たったひとりで。
誰がそんな病人を気にかける?世話を任された私以外に?私もその時はニースだったけれど。
完全無欠な絵。私が描いた、お嬢様の記憶。
ケイト・カプランは無表情のまま、サラ・ラ・カリとして思考を巡らせた。
プルミエ・ボン。
「皆様。ここは寒いですから、私どものホテルへいらっしゃいませんか?」
アンジーがマドレーヌの肩にコートをかけた。
「マドレーヌ。お母さんのことを——」
「ムシュウ・ロルト。お願いいたします。お嬢様がお風邪を召してしまいます」
アンジーはマドレーヌをジェイから離すと、ファー付きのコートを着せ始める。マドレーヌはまだ瞳を潤ませ、されるがままにコートに袖を通した。ジェイもiVitraをつけ、ジャケットを着た。
『どういうこと。何を見たの?』
ヴィはジェイにメッセージを送った。
『母親が亡くなった』
『母親?マドレーヌの?確か療養中だった?』
『病死。マドレーヌが看取った』
病死。お父様は事故死。お父様も、わたしの目の前で。死を忘れない。
『そう。それであの子は』
『天使の顕現があった。ガスパールは信仰のおかげで奇跡が起きたと信じてるのかも』
『天使?アヴィエル?』
『たぶん』
『顕現。どういうこと?』
『転生せずに地上に来る。ロクツィオもできる』
『そんな。じゃあアヴィエルは転生してないってこと?』
『わからない。確かなのは、マドレーヌじゃないということだけ』
「マドモワゼル、ムシュウ。いかがなさいますか?私どもはホテルに戻りますが」
『ついていきましょう。アンジーの可能性はまだある。確かめなきゃ』
ジェイが頷いた。
母親の死。18歳で。マドレーヌ……だからあんなに……。
ガロンヌ川の水面は穏やかだ。それでも水は流れていく。
わたしは29だ。もうとっくに大人だった。でも、マドレーヌは……わたしはなんてひどいことを。
わたしの右腕はジェイにしがみついてる。でも、左腕は空いている。
「マドレーヌ……ごめんなさい、ひどいこと言った」
「……ヴィヴィ?」
「お母様……知らなくて。ごめんなさい……」
「ヴィヴィ!そんな……謝らないでくださいな」
「その……よかったら、わたし……」
「おねえさま!」
マドレーヌは涙を弾けさせて、ヴィの左腕に抱きついた。
「お母様は……お気の毒ね……」
「いいえ……ママ……母上は、安らかに亡くなりましたわ。病気は辛かった、とても。でも最後は、琥珀に導かれて……病気の苦しみからも解放されて。微笑んでらした。お迎えがいらしたのですわ」
川の対岸にあるテラコッタの建物。豪華な高級ホテルだが、アーチ型の大きなステンドグラスやそのデザインが、昔、カトリックの慈善病院だった頃の面影を残していた。
マドレーヌはヴィの肩に頬を寄せ、穏やかに微笑んでいる。やはり信仰に執われたのか。
マドレーヌの重みをずしりと感じた。
この子はわたしを頼っている。わたしにしがみついて。
わたしがジェイにしがみつくのは、ロクツィオで強制されたから。でもそれは、わたしを救うためだった。まあもう慣れたし?悪い気は……しないけど。
そうなんだ。わたしはいにしえの琥珀が悪いとは、思ってない。エンデューラは論外だけど、それは強制だからというだけじゃなく、自分たちを正しいと思いたいというただそれだけの、勝手な押し付けだからだ。
無垢な心を、人間の心を利用する。それが悪魔。いえ、何でもいい。そいつらが……わたし達の敵。
「寒い〜。早く暖かいところへ行きましょう!ラテが飲みたい〜」
無邪気に、もうはしゃいでるマドレーヌ。
コートのキツネ色のファーが、ヴィの頬をくすぐった。フェイクファー。動物の毛皮なんて、A.A.A.の教義だと絶対忌避だ。ラテ。ミルクが入ってるけど——
「オーツミルクのラテ。とってもいい香りですの!もちろん、味も大好きですわ!」
なるほど。わたしと同じだ。
マドレーヌの趣味は贅沢だし、贅沢は教義に反するけど、それを拒絶しないで自分の中で都合よく解釈して。
それが人間たちの弱さ。そこにつけ込み、利用するやつら。
「早く〜!寒い〜!ラテ〜!」
マドレーヌがヴィを引っ張り、ヴィがジェイを引っ張る。前をアンジーが、後ろをケイトが歩いて、5人はポン・ヌフを西へ渡った。
歩きながら、ケイトは——サラは、くっついて前を歩く3人を、ただ見ていた。
なぜだろう?寒いから体温で暖めあうためか。寒いのは確かだ。今日の気象データによれば、トゥールーズの最高気温は5℃より高くはならない。しかもここは石橋。地熱による気温上昇が望めないから、恐らく5℃よりさらに気温は低い。
寒いなら、暖かいところに行けばいい。温室とか。
ホテル・デュー・サン=ジャック。立派なホテルだが、温室はない。モンテンポ・シテからなら近かったのに。マリア様のなさることだ。何かお考えがあるのだろう。
ヴィは振り返ってケイトを見た。無表情で歩いてる。しっかり前を見て。
友人を、仕事とはいえ撃ち殺した。ショックで錯乱した。
仕方ないよ。わたしだったら……考えたくもない、そんなこと。たぶん気が狂ってしまう。生きていられないかもしれない。
ジェイの腕を抱く手に、無意識に力が入る。
何千年も、無垢な心を利用するやつらと戦ってきた。何度も何度も失敗し、それでも折れずに、使命を果たすために。わたしなら……。
ジェイはヴィを見た。
ミラーのiVitraをかけ、その奥の瞳にはサファイアブルーのカラコン。ロクツィオに対する防御は万全だ。アヴィエルが受肉してないなら、まだ戦える。
おれは……ドクター・セレンの機械が邪魔をする。肉体では戦力にならない。ロクツィオで敵を見極めることしかできない。
アヴィエルが受肉していたら——物理的な攻撃を仕掛けてきたら。
翼。翼でヴィを、できるならマドレーヌも包んで守る。そのくらいならまだ制御できる。依代に負担をかけずに。それくらいしか……できない。
『ヴィ。大丈夫だ。アヴィエルが転生してないなら、変身しなくても戦える。心配しなくていい』
『ばか男。油断するな。あなたこそ、心配し過ぎよ。あなたもマドレーヌも、わたしが守る』
みんな傷がある。でも大丈夫。庇いあって、戦って、わたし達が勝つ。たとえ相手が天使だろうと、負けるもんか。
「マドレーヌ。さっきのハートの目、カッコいいね」
「……ジェイさま?ほんと?嬉しいですわーっ!もう一度付けても……よろしくて?」
ヴィがにっこりと頷く。マドレーヌはその場で足を止め、ホテルの敷地を隔てる石壁に寄りかかって、再びピンクのハートの瞳になった。
ジェイはその奇妙な瞳を見つめて、口角を上げた。ぎこちなく。
……これでマドレーヌもロクツィオされない。大丈夫だ。
アンジェリック・ヴェスパーがおれたちを見ている。黒く縁取られたその目を細め、笑みを浮かべて。
無駄なことを。瞳を隠して守りを固めたつもりか。愚かな悪魔め。
ハート型の、遠目でもはっきりわかるカラコン。赤いロングドレス。全て、悪魔を揺さぶるため。思惑通りに悪魔はお嬢様の意識を覗いた。見せたいものを見せてやった。
アンジーは目を細めたまま、前を向いてホテルのエントランスへ入っていく。一歩、一歩ごとに、その口元は歪んでいった。
【10分後 ホテル・デュー・サン=ジャック、アトリウム】
オーツミルクのカフェラテ。
ヴィたちはマドレーヌに勧められ、オーツミルク・ラテを飲んでいた。その香りに満たされたサロンで、ソファに座って。アンジーとケイトは、レモンバーベナのハーブティー。
マドレーヌはラテの熱さに大袈裟な反応を見せて皆を和ませながら、アトリウムを見回した。
ホテル。王室御用達の迎賓館。
消毒液と血の匂いが充満していたこの場所が。
ヴェシレ・クルチュが座っている足元には毛足の深いカーペットが敷かれているが、その下には血の海の跡がまだ残っているだろうか?まさか。800年前だ。
私の鱗のような色の血溜まり。エスパーザの斬撃で腕を失くした者。背に受けた矢を抜こうともがく者。看護婦たちが走り回る足音。悲鳴と呻き声。蝋燭の炎。
それらは全て、800年前の記憶。だが瞼を閉じれば浮かぶほど、鮮明な記憶。
「あら。バッテリーが切れそうですわ。アンジー?」
iPortaの画面を見るふりをしながら手を伸ばす。アンジーが、ハンドバッグから取り出した箱をその手に載せる。暖かい箱。
「モバイルバッテリー?用意がいいのね」
「ええ、おねえさま。用意周到ですわ。おとなですもの!」
マドレーヌはケーブルを繋ぐと、その暖かい銀色のペンケースのような箱を膝の上に置いた。準備ができた。
「アンジェリック・ヴェスパー。頼みがあるんですけど」
「ムシュウ?なにか?」
「あなたの瞳を見せて欲しい。よろしいですか?」
アンジェリック・ヴェスパーは怪訝な顔をする。あまり上手とは言えないが、この女はメイクのせいで表情は読み取りにくい。
「ジェイさま?瞳を見るのがお好きなの?でしたら、私の瞳を——」
「ありがとうマドレーヌ。カッコいいハートの瞳。いろんな瞳が見たいんだ」
ヴェシレ・クルチュが私から離れて、ジェイ・ロルトの左手首を握った。2人とも、アンジェリック・ヴェスパーの方を見ている。くっついて。
ヴェシレ・クルチュ。
人間の女。
あのボディは仮じゃない。
(キジャーナ。起きてる?)
顔を上げたまま、手探りで暖かい箱の横の合わせ目に爪を立てると、薄い上蓋が音もなく開く。
「……ありがとう、アンジェリック・ヴェスパー。あなたも、ガスパール夫人を看取られたんですね」
「え……ええ……長く、お勤めさせていただきました」
(キジャーナ。寒い?大丈夫よね?)
少しだけ冷たい感触が、左手のひらから腕へと上がってくる。そして、脇へ。
「ジェイ……」
ジェイ・ロルトがヴェシレ・クルチュに首を振った。当然だ。
(止まって、キジャーナ。ちょっと待ってて)
マドレーヌが左脇を締めると、キジャーナの小さな体はマドレーヌの脇の下に隠れた。ちょっとくすぐったいが、何度も練習をしているので問題はない。
「……。ごめんなさい、わたし、ちょっとお手洗いへ」
ヴェシレ・クルチュがソファから立った。
「おねえさま!私も!」
マドレーヌも後を追った。左脇はしっかりと締めて。
すぐに左隣に並び、右手でヴェシレ・クルチュの腕を取る。そのままトイレへ歩いて行く。
(キジャーナ。お散歩しましょ)
キジャーナはマドレーヌの体温、一番大好きな温度に包まれ、おとなしくしている。
トイレには年配の女性が1人、化粧をなおしていたが、マドレーヌたちと入れ違いに出て行った。2人は空いている個室にそれぞれ入った。
(キジャーナ……おいで)
脇を緩めると、キジャーナがその金色の眼を見せた。小さな黒い舌をチロチロさせ、周囲を調べながら。
頭を撫でる。優しく。
トイレの水を流す音。ヴェシレ・クルチュが個室を出る。マドレーヌは再び脇を締めて個室を出た。ヴェシレ・クルチュは手を洗い、鏡を見ている。また左隣りに行き、左脇に気をつけながら手を洗い、鏡越しにヴェシレ・クルチュを見た。
ダークブラウンの肩まで届く髪、同じ色の真っ直ぐな眉。整った頬骨。サファイアブルーのカラコンに飾られた偽の瞳。
ウールのスーツとシルクのシャツで隠した扇情的な肉体。マドレーヌより背が少し高い。
ふん。確かに見た目は美しい。だが、穢らわしい情欲に塗れたボディ。
くっきりとした、生意気な顎。その下。
無防備で、柔らかそうな喉。
ヴェシレ・クルチュはiVitraを装着すると、鏡の前を離れた。マドレーヌは自然な動作でターンして、その右後ろから抱きついた。
「おねえさま!大好き!」
「マドレーヌ。ふふ、どうしたの?」
左腕を背中に。
(キジャーナ。行け)
キジャーナは速やかにマドレーヌの二の腕を這い、手を伝ってヴェシレ・クルチュの背中へ向かった。あと数センチ。
世界最小の毒蛇、ナムクアドワーフアダー。しかも、キジャーナはまだ子どもだ。体重は僅か数グラム。肌に直接触れなければ何も感じない。
マドレーヌの左手はヴェシレ・クルチュの左肩にあり、そこから襟元までは一瞬で到達する。
そして、口を大きく開き、2本の牙をヴェシレ・クルチュの柔らかい首筋に突き刺す。
牙もまた細く小さい。だが注入されるその神経毒は、少量でも凄まじい激痛を——
その時。
背後から見えていたヴェシレ・クルチュのiVitraの内部が、赤く明滅した。
「ジェイ!」
いきなりヴェシレ・クルチュが駆け出し、マドレーヌの左手から逃れた。その左手にはまだ、キジャーナが残っていた。
「……ちっ」
(戻れ、キジャーナ)
まあいい。ちょっと試したかっただけだ。気づかれてもいない。またいつでもやれる。
キジャーナは素早くマドレーヌの脇の下に戻った。そこは大好きな温度、大好きな感触のする、大好きな場所だった。マドレーヌが脇を締めると、キジャーナはその場所でおとなしく休んだ。
「ジェイ!どうしたの?」
iVitraにジェイのバイタル・アラームが大きく表示されていた。
ヴィがサロンに駆けつけると、ジェイはソファで胸を押さえていた。ケイトが寄り添っている。
「心臓?!おかしい、アラートはSpO2の——」
「……え?……いや……ちょっと咽せて——」
「——呼吸困難?酸素スプレーを——」
「えっと……ヴェシレ。落ち着いてください」
「お医者様をお呼びいたします」
アンジーはフロントに向かった。
「いや待って!大丈夫、咽せただけだから!」
バイタルデータはもう正常値に戻って落ち着いていた。
「……咽せた……だけ?ほんとに?」
「うん。全然大丈夫」
「胸。胸を押さえてた」
「あ?……いや、ラテをこぼしたから——」
ジェイのシャツは茶色になっていた。
……は?ほんとに咽せただけ?
「はい、えっと……ジェイは咽せて、ラテをこぼしたので、私がティッシュでシャツを拭こうとしていました。それ以上のことは何もありません」
「おねえさま?どうしましたの?急に駆け出して……びっくりしましたわ!」
……びっくりしたのはわたしなんだけど。
アンジーが呼んだお医者さまにも一応診てもらったけど、ほんとに咽せただけだった。人騒がせにも程がある。こんなんじゃ……。
「おねえさま……大丈夫?ジェイさまが心配ですわね……そうだ!おねえさま達、今日からこのホテルにいらして?」
「え?いや、そういうわけには……」
「ここは王室の迎賓館。お医者様もいらっしゃるし、安心ですわ!」
「ヴェシレ。ちょっとよろしいでしょうか」
ケイトに促され、みんなから少し離れる。
「……この際、こちらのホテルに移りましょう。その方が調査が進みます」
「そんなことできる?わたし達は琥珀の——」
監視下にある、と言いかけてやめた。今のところ、全くなんの制限もされてない。監視されてるのかどうかも定かじゃない。なにより……医療体制が整ってるホテルというのは、わたしにとっては捨てがたい魅力だ。
たとえそれが敵陣だとしても。
「あの……マドレーヌ?気持ちはすっごく嬉しいんだけど、ひとつだけ教えてくれる?」
「おねえさま!なんでもお聞きくださいな!」
「あなたは……なぜ、ここに来たの?いえ、その、変な意味じゃなくって。まさか、わたし達に会うため?」
「もちろんですわ!……と、言いたいところですけど、ほんとは他にも用事があって——」
マドレーヌはラテを啜った。焦らすかのように。
「——お目にかかりに参りましたの!ペルフェクタスさまに!」
「……ペルフェクタス、さま?」
ジェイが身を乗り出した。
「マドレーヌ。教えてくれ、そいつのことを」
「ここに来るの?!もしかして、もう居る?」
マドレーヌは小首を傾げ、きょとんとした。
「ペルフェクタスさまが?まさかですわ!琥珀の導き手であるペルフェクタスさまが、こんな世俗的なところにいらっしゃるわけがありませんわ!」
「……どこで会えるの?」
「ええ、それは……モン……なんでしたかしら……」
アンジーが引き継いだ。
「モンセギュールでございます」




