14 絆
【2025年11月21日午後 トゥールーズ、サン=ミッシェル橋〜ジュール・ゲード並木道】
ヴィたちは、再びガロンヌ川を渡っていた。
ポン・ヌフの上流、600メートルほど南のサン=ミッシェル橋。王室公用車の後部座席の左側にマドレーヌ、右側にジェイ。わたしは2人に挟まって真ん中に。ケイトは助手席、アンジーはわたし達の部屋を準備するためにホテルに残った。
銀色の丸みを帯びた未来的な路面電車が、橋の中央を滑るように追い越して行く。揺れも感じず、モーターの駆動音だけ。車もとても静かで、クラクションやディーゼルエンジンの音で溢れていたローマの喧騒とは別世界だった。
マドレーヌはiPortaを見ている。
「充電、終わったの」
「バッチリですわ!モバイルバッテリーはかさばるので、アンジーに」
「そうか……」
iVitraの電池がもう残り少ない。夜までもつかな。
「おねえさま?この車でも充電できますわよ?」
エアコンの吹き出し口の下に充電ポートがある。
「恐れながら……充電ケーブルでしたら、お手元の肘掛けの中にございます」
運転手が教えてくれた。至れり尽くせりだ。
ジェイも充電する。2人してiVitraを外しているのを、マドレーヌがじっと見ていた。
「うらやましいですわ。それで、お2人で内緒話なんて」
「べ……別に?大した話はしてないから。ジェイの、身体の事とか——」
「まあ。もしかして……エッチなお話?」
「違う!」
「ほほほほほ……おねえさま、カワイイ!お2人ともオトナなんですもの。カラダの話とか、普通ですわ!」
まずい。隠れてメッセージ、やりにくくなった。
「マ……マドレーヌ?その……ペルフェクタスさま、というのは、どんな方?」
「さあ?よく存じ上げなくて。会いに行けばわかりますわ!明日!」
ペルフェクタス。ペルフェクティは元々ラテン語では複数形で、実際K.K.にはたくさんのペルフェクティがいたし、なんならわたしもその1人だった。一瞬だけど。その単数形ということ?『いにしえの琥珀』の教祖……アンキュラの頃からいろいろ調べてきたけど、この名称は聞いたことがない。この宗派を広めた最初の人間ということだろうけど、それはずっと謎だった。マドレーヌもアンジーもアヴィエルじゃないとしたら……その人物が、モンセギュールに。
モンセギュール。13世紀のカタリ派が滅びたとされる場所。『いにしえの琥珀』がカタリ派をモデルにしてるなら、聖地としてこれほど相応しい場所はない。
行くしかない。
マドレーヌと一緒に訪問する。トゥールーズからは車で1時間半。昔は要塞だった山奥の古城。おあつらえ向き過ぎる。
とりあえず今夜はさっきのホテルで休ませてもらって、明日は……一緒にとは言っても、車は別にした方がいいかも。レンタカー借りて……。
そういう話をジェイとしたいのに。まあ、シテで荷物をまとめながらゆっくり話せばいいけど。
「とても素敵な株があるらしくて。楽しみですわ!」
マドレーヌが楽しみにしているのは金融商品ではなく、胡蝶蘭の株らしい。お母様が好きだった胡蝶蘭を、ペルフェクタスへのお土産として持参するという。胡蝶蘭は自然ではこの季節には咲かない。低温でも綺麗に咲く花や、人工的に咲かせた花ではなく、あえて未開花の株を贈る。ちゃんと、『いにしえの琥珀』の教義に従ってる。
その胡蝶蘭を選ぶために、車は今、植物園に向かっていた。わたし達のシテのすぐそばの、アンリ=ゴッサン植物園。大きな温室があるみたい。
温室。まさか、今日。
ケイト・カプランは助手席で、彼のことを想起していた。
131日前。7月13日、日曜日だった。マリア様がいらして、旅行するように言われた。コンスタンティノープルからヨハネスブルク、ダーバン、またヨハネスブルク、そしてパリを経由してトゥールーズ。これを48時間で。
航空券の手配、出入国記録の隠蔽、密輸入。まともに実行するのは無理と判断し、ディルシズの任務を偽造した。急過ぎてかなりリスキーな手をいくつか使わざるを得ず、目的は無事達成したものの、いつディルシズ内部で発覚するかとビクビクしていたら革命が起きた。
私の人生でもトップクラスの受難だったが、私はそれをやり遂げた。マリア様も大変お喜びになって、私はマリア様の侍女として至福の達成感を得た。
その後の私の休日は、彼と会うことができる幸せに満ち溢れた。トゥールーズに頻繁に来るだけなら誰に不審がられることもない。通院だと言えばいいからだ。もちろんそんな必要はとうになかったのだが。
今朝も彼と会えた。だがこれからまた、皆で行くというのか。もう、彼が聖務を果たす時?……早過ぎないだろうか?私達がこの世界に生まれてきた目的。マリア様のための聖務。
【同時刻 トゥールーズ上空】
アリーは嬉しかった。"ぶろんどおんな"が仲間になったから。さっきはあまり遊んでやれなかったけど。"くろいめおんな"がいたから。"くろいめおんな"は嫌いだった。顔が恐いし、いつも追い払おうとする。"くろいめおんな"は仲間じゃない。いつも"ぶろんどおんな"のそばにいるけど。
ジェイたちがホテルにいる間、アリーはホテルの庭で遊んでいた。変な庭。最初に空から見たときはびっくりした。大きなヘビがいると思って。降下して低空で確認したらヘビじゃなかった。ヘビに見える草と木。模様だ。人間が作った庭の模様。人間はよく、ああいう変なことをする。
アリーはヘビが怖かった。毒があるから。アリーみたいに体が小さいと、ちょっとの毒でも死んでしまう。毒がなければ弱いくせに。ずるい。
そのあと、川で水浴びをしたら冷たかったからびっくりしたけど、羽根はすごくきれいになった。嬉しかった。
ジェイたちが車に乗ったけど、"くろいめおんな"は一緒じゃなかった。嬉しかった。"ぶろんどおんな"と遊んでやれる。
ジェイたちは車でまた川を渡って、植物園のところまで来て停まった。
やった。植物園で遊ぶんだ。たくさん遊べる。"ぶろんどおんな"が車から降りてきた。急降下だ。
「アリー!」
急降下からフレア。"ぶろんどおんな"の頭のすぐ上で。
「おいで、アリー!」
"ぶろんどおんな"が手をあげたから、その指先に止まる。そーっと、優しく。"ぶろんどおんな"の指は細いし柔らかいから。ジェイとは違う。子どもには優しくする。
「アリー、いいこにしてた?」
それはこっちのセリフだ。子どものくせに。でもまあいいや。子どもだから。
"ぶろんどおんな"が頭を撫でる。気持ちいい。ジェイと違う、柔らかい指。指は"ぶろんどおんな"の勝ち。
もちろん、一番大好きなのはジェイだ。2番目は、最近ヴィになった。ご飯をくれるから。"ぶろんどおんな"は3番目。でも久しぶりだから。これからもしかしたら2番目になるかも。
「たくさん遊びましょ、アリー」
"ぶろんどおんな"は口元だけで笑った。少しだけ前と変わったみたい。成長したのか。えらい。ちょっとだけ、ジェイと同じ感じがする。
空はまだ鈍色で、雲は厚かった。だが西の空では雲が切れ始め、この数日世界を凍えさせた寒波の終わりを告げていた。地平線に沈む直前の西日が、鋭い黄金のナイフのように空気を切り裂いて、雲は赤く波打っていた。
うねり、渦巻く、赤いとぐろ。
【同日夕方 アンリ=ゴッサン植物園、第一温室】
アンリ=ゴッサン植物園は、トゥールーズ自然史博物館の一部をなすテーマパーク型の植物園だ。
恐竜の骨格復元模型やさまざまな絶滅動物の剥製風の模型、絶滅危惧種や現生動物の剥製。膨大な標本。それらが所狭しと立ち並ぶ博物館を抜けるとトゥールーズや南仏の野山を再現した庭園があり、その奥に、巨大な温室がいくつかある。
マドレーヌが楽しみにしている胡蝶蘭の株は、ここで野生を再現した環境で育てられているらしい。植物園のガイドに案内されて、マドレーヌが熱帯雨林エリアとプレートのある温室に入っていく。
ジェイは左腕にしがみつくヴィ、右肩に留まったアリーと共に、外で待つことにした。
ケイトも温室には入らなかった。今のうちにローマへの報告を済ませるという。
「マドレーヌ・ド・ガスパール。領事館でもお会いしたことがあるんですが、エキセントリックな方ですね」
ケイトがiPortaに報告を入力しながら呟いた。
「まあね……あれでも、前よりは少し大人になったかな。前は、ジェイに夢中だったのよ?イカレてた」
ヴィがiVitraを操作しながら言った。車内で充電できたおかげで、2人のiVitraは30%までバッテリーが回復していた。夜までは持つだろう。
『ピアスのアラート、レベル下げたから。無茶はしないでね。あとメッセージは緊急時のみで』
頷いて返事する。
「いかれてた。精神異常だったということですか?」
ヴィが吹き出した。
「そこまで言う?あれでもいい子なの。ジェイはあの子のおかげでお医者様にも診てもらえたし……なによりお金持ちだから仲良くしなきゃ!」
「……なるほど。利用価値が高いということですね?」
「……。ごめん。今のはジョーダン」
ケイトが下を向いた。
「……冗談。そうですよね、すみません。私は冗談がわからないみたいで」
「あー、ごめんごめん!気にしなくていい。ケイトはケイトらしく……っていうか。大丈夫。まあ利用価値は高いよ。K.K.の教祖に近づける。そのために来たんだし?」
「はい、えっと……明日ですが。レンタカーを手配します。マドレーヌ・ド——」
温室のドアがカチャリと開いた。
「お待たせいたしましたわ!とってもいいお買い物ができました!」
マドレーヌが満足の表情で出てきた。
「今、ギフト包装」してもらってますの。寒いので、暖かく包んでいただいて。明日また寄って、受け取りますわ!」
「よかったね!じゃあ……わたし達はシテに帰るね。ここからなら歩いた方が——」
「いいですわね!お散歩。ご一緒いたしますわ!」
返事を待たず、当たり前のように、マドレーヌはヴィに抱きつこうとした。
「おねえさま!……あっ——」
寸前で立ち止まる。
「——もしかして、おデートですの?」
「違うから!」
「まあ!では、遠慮なく!」
マドレーヌがヴィの左腕にしがみつく。もう定番になりつつある。
おれ達はそのまま植物園の敷地を南に通り抜けるつもりだった。そこからモンテンポ・シテまでは徒歩5分。
その手前に、もうひとつ温室があった。
「おねえさま!ここは……サバンナですって!キリンさんがいますわ!」
「いや、いないから。動物園じゃないから——」
マドレーヌはヴィと腕を絡めたまま、その温室の入り口までおれ達を引っ張っていく。
そこは温室というよりは、ガラス張りの公園だった。『第一温室 サバンナ館』とプレートがある、巨大なテラリウム。入り口に、室内の温度と湿度がデジタルで表示されている。26℃、48%。熱帯のサバンナの自然が再現されているようだ。
マドレーヌは遊園地に来た子どものようにはしゃいでいる。子どもに引きずられる親のように、おれ達は中へ入った。
その景色は、120年前を思い出させた。ナミビアのヘレロ人戦士に転生していた。ロシアで死んだすぐ後だった。
アフリカの植民地化を進めるフランク王国軍の大虐殺。キリスト教の布教という名の侵略。サバンナが戦場だった。キリンやライオン、ハイエナたちが姿を隠したサバンナで、人間たちが殺し合った。
ガラスの天井は10メートル近く、数本の巨木の傘のような枝葉が空を覆って、室内にいることを忘れるほど。長方形で奥行きは深く、100メートル先にやっと出口が見える。そこまでの間に、両脇にはポツポツと巨木が並び、低木がその隙間に植えられている。空洞になった倒木まである。
「ようこそサバンナ館へ!こちらは——」
パークガイドの女性が、営業用笑顔で案内を始めた。
「——アフリカの草原サバンナを再現した、世界一のテラリウムでございまぁす!よろしければご案内いたしまぁす!」
地面は赤土や砂。サボテンのような植物もある。
「こちらは、ユーフォルベス。トゲも鋭いですが、折れると白い乳液が分泌されます。これが実は……猛毒なんです!お気をつけくださいませー!」
パークガイドは台本を暗記しているらしい。
「毒と言えば——」
歩きながら、足元のアロエの低木を指した。
「このような低い茂みには、世界最強の毒蛇が潜んでおりまぁす!」
「まあ。世界最強ですって、おねえさま」
「はぁい!世界最強、世界最速……ブラックマンバ!もちろんここにはおりませんが!」
「おねえさま!怖い。どんな恐ろしい蛇なのかしら?」
「わたし、詳しくないから……」
「私もですわ!おねえさまと一緒!」
ブラックマンバ。
おれはその蛇をよく知っていた。120年前のナミビアでは、フランク軍より恐ろしい存在だったからだ。
オムヴィア。オムゾロンゴンド。
ヘレロ人の言葉で、細長く、黒い生き物。
黒い、というのは体色ではなく、口の中の色。死をもたらす口の色。
世界最速の毒蛇。
動きが最速なだけではない。
毒。ブラックマンバの牙から瞬時に大量に注入される神経毒。あらゆる毒蛇の中で、その毒は最速の即効性がある。全てが、世界最速の毒蛇。ヘレロ人の戦友やその家族が何人も殺された。
噛まれたら終わりだ。ひと噛みで大量の毒が注入され、血清がなければ100%死に至る。
「でも、怖〜い毒ばかりではありません!こちらの鮮やかな色の螞葉をつけたユーフォルビアは、喘息の治療薬や抗がん剤にも——」
「……あの。それは?」
ヴィがパークガイドを遮り、その背後を指差した。おれの左腕が自由になった。
「その……木?は、なんの木ですか?」
ヴィが指差した先は、何もない赤土の狭い通路だった。パークガイドの背後、1メートルほど先の真ん中に、一本の灰色の、細い……木のようなもの。
背中が疼いた。翼が飛び出そうとしていた。
ダメだ。刺激してはダメだ。
ゆっくりジャケットを脱ぐ。
「ジェイ!なにを——」
「動くな。マドレーヌも」
それは木じゃなかった。
灰色。細くて長い。5、60センチ、地面から立ち上がっている。全長はたぶん1メートルを超えるだろう。胴は細く約2センチ。まだ若い。鋼のワイヤーのような金属質の表皮。先端は四角い……頭。棺桶と呼ばれる。
黒い、丸い眼。小さな黒い……舌。それがチロチロと出入りしている。
蛇。
その口が開いた。
2本の、長く鋭い牙。
その奥は……真っ黒。
ブラックマンバだ。
マドレーヌがヴィの腕に強くすがりついた。ヴィの身体がおれにぶつかる。アリーがおれの肩を蹴って舞い上がった。
パークガイドは蛇に気づく前に、間近で急に羽ばたいたアリーに驚いてビクッと体を引いた。そして足元の低木に引っかかり、バランスを崩してその上に尻餅をついた。
翼がセーターを引き裂いて広がった。ピアスが小さく振動する。
パークガイドが尻餅をついた瞬間、ブラックマンバは弾かれたように飛んだ。鋼のワイヤーがしなるように、超高速で。そしてその先端——
ぐわっと、その先端が裂けた。
翼を振り、パークガイドを巻き込みながらヴィとマドレーヌも抱き寄せる。
翼に何かがぶつかり、ビシッと音がした。
パークガイドの絶叫。ヴィたちも叫んだ。
「ジェイっ!」「ジェイさま?!」
すぐにまた、衝撃とビシッという音。ブラックマンバは立て続けに攻撃してきた。
数歩離れて、振り返る。
ブラックマンバは静止し、鎌首を持ち上げたままおれを睨んでいた。舌がチロチロと周囲を伺う。
冬のトゥールーズにブラックマンバ。ヘビクイワシと同じく、いやもっとありえない。この温室のとっておきの見せ物だとでも?
ヘビクイワシと同じ。使い魔だ。
灰色の蛇。
サマエル。
アヴィエルはマドレーヌの心の中で舌打ちした。また失敗だ。
(マウティ。なんで?なんで言うことを聞かないの!)
この温室に入る前から何度も精神リンクで呼んでいたのに、全然反応しない。映像や振動検知、ヤコブソン器官を通じての匂いは受信してるから、起きてるのは間違いないのに。どこに潜んでいるかもわからない。
やっぱりサラに任せたのは間違いだったか。王室の操作で忙しかったから、仕方ないが——
などと考えながらどうしようか策を練っていたら、突然目の前に現れた。なんという愚かな……作戦もなにもあったものではない。
サラ。サラはなにをしている?世話係のくせに。責任を取らせなければ。罰を与えるか。
だが……それは後だ。
ジェイエルの翼に包まれる直前、逆に機会が生まれたのを確認した。
(いいかマウティ……私のいうことを聞け。お前の獲物は——)
ケイトはその時、ジェイたちの後方で怯えていた。
マウティが出てきてしまった。私を見て。
朝、餌をあげたばかりなのに……なぜ。
OPが瓦解した。マウティはもっと奥に進んでから、獲物が気づく間さえ与えず一瞬で命を奪うはずだったのに。練習もしたのに。
やはりまだ早過ぎたのだ。マウティはまだ若過ぎるし、それに……。もっと待つべきだとはわかっていた。わかっていたが……マリア様に意見するなど。無理だった。
マリア様……素晴らしいお方なのに、時々感情や思いつきで判断される。マウティに聖務をさせるなら、もっとマウティのことを知って欲しかった。もっと会ってやってほしかった。もっと……繋がりを確かにしてからにすべきだった。
だが、もう事は起こってしまったのだ。後悔よりも行動だ。マウティのために。そして、マリア様のために。
アヴィエルはマウティに強くロクツィオした。
(お前の獲物は……クソガラスだ!)
アリーは、ヴィよりも先にそのヘビを見つけていた。
アリーの高度に発達した聴力が、ヘビが低木から忍び出てきた音を、草地を這う蛇腹のうごめく音を、赤土の上に出てきた音を全て聴き分けていた。そして動くものを察知する動体視力が、その悍ましい姿を識別していた。
2年の烏生で、ヘビの多くは刺激に反応することをアリーは学んでいた。どうするか。
ジェイに教える。ジェイはアリーの送信に過敏に反応するかも。ダメだ。ヘビを刺激する。
即、攻撃する。飛び立って上空から……ダメだ。飛び立つ動きと振動がヘビを刺激する。
ヘビは刺激されると逃げるか攻撃してくる。逃げてくれればまだいいが、このヘビは……大きい。細いけど長い。アリーよりも大きい。怪獣と言ってもいいくらい大きい。
あいつが攻撃してきても、アリーは飛べば逃げられる。でもジェイは?ヴィは?"ぶろんどおんな"は?
私だけだ。私しかヘビに気づいてない。私がやるしかない。
恐い。怪獣みたいに大きなヘビ。戦ったことなんてない。危ないから。ケガするから。毒があるから。
死んじゃうから。
死んじゃったら、ジェイに会えなくなる。嫌だ。絶対嫌。だから、とても恐い。ものすごく恐い。
でも。
ジェイが死んじゃうのはもっと嫌。あんな、辛くて寂しくて悲しい思いは、二度と。絶対。したくない。
やるしかない。特攻。
上空から急降下して、ヘビが気づく前に頭を潰す。
できるか。気づかれる前に。
気づかれたら……あの牙が。毒。
恐い。死にたくない。
でも……でも。
やるしかないんだ。
アリーの思考は一瞬だった。ヘビが鎌首をもたげて立ち上がった時、アリーは覚悟を決めた。
ジェイの肩を蹴る。同時に"ぶろんどおんな"が動いてジェイも揺れたが、アリーはその前に翼を広げていた。
"おしゃべり"がアリーに驚いて転んだ。そのおかげで、ヘビはアリーを見ずに"おしゃべり"に注意を向けた。
チャンスだ。
スピード。スピードが全てだ。一瞬の勝負。一度きり。失敗したら……たぶん噛まれる。死ぬ。
アリーは最大速度を得るため、温室の天井ギリギリまで舞い上がった。
ジェイ・ロルトとマウティが睨み合っている。どちらも動かない、動けない。動いているのは……カラスだけ。聖務の生贄。
サラはケイト・カプランとしてのカバーをかなぐり捨てた。この聖務。彼のため、マリア様のための私だ。
サラは突進した。翼にくるまれたジェイに向かって。
「アリーやめろッ!」
ジェイが何か叫んだが、サラは無視して赤土を蹴った。
激突。肩からジェイの翼にタックルする。
硬い。数日前に触ったあの柔らかできめ細かい羽毛は、鉄製の壁のように硬かった。肩に激痛。だが怯まず、力ずくで押し切る。
アリーは天井ギリギリまで到達すると、即座に急降下を開始した。
初速を上げるため全力で羽ばたく。それから翼をたたみ、全身を可能な限り細く窄める。流線形になって、その鋭い嘴の先端に全意識を集中する。銀色の瞳は、真下の灰色の、四角い頭を捉えて離さない。
重力がアリーを捕まえ、大地に向けて引き寄せる。
速い。木々や大地が、ものすごいスピードで大きくなり、アリーに迫る。
風。轟音。だが眼は絶対に閉じるもんか。潰れたってかまわない。最高速度で突っ込んでやる。必ず仕留める。
「アリーやめろッ!」
ジェイ。大好き。
(ジェイッ!
たすける!
わたしが!)
(アリーだめだやめろやめ)
ジェイの身体が突然倒れた。ヘビに向かって。
(ジェイっ!)
マウティは激しく反応した。自分に向かって倒れてくる黒い塊。マウティは死の口をガッと開いた。だが同時に、上空から落ちてくる物体にも気づいた。教えられていた獲物。
状況は、マウティのまだ若い頭脳と経験では処理できなかった。頭の中で声が響いていたが、聞いているひまなどなかった。ブラックマンバとしての本能が脳より速く反応した。マウティは鞭のようにしなると横に飛び退き、鎌首を上空に向けた。
アリーも、倒れてくるジェイに即座に反応した。このままではジェイに突撃してしまう。考えるより速く翼が広がり、エアブレーキのように急減速するとフレアした。
急降下からのフレア。一瞬、人間の眼では捉えられない僅か数ミリ秒、アリーの動きが止まった。その瞬間を、マウティの本能は逃さなかった。
ジェイの身体が地面に倒れる。
それを掻い潜って、マウティの口が、大きく裂けた口が、バネに弾かれたかの如く跳ね上がった。
マウティの口、死をもたらす黒い口、2本の鋭利な牙、死の毒の牙。
小さな、黒と銀色の羽毛が散った。
ジェイは倒れながら身体を捻り、仰向けになる。翼の中で3人の成人女性の体を抱きしめながら。
スマートピアスのアラート。眩暈を起こすほどではないが、頭蓋がビリビリと痺れる。
鼓動。心拍が跳ね上がり、激痛が襲う。
そして視界に舞う——小さな羽毛。
「アリーッッ!!」
黒い闇の中で、アヴィエルはその悲鳴を聞いた。
マドレーヌの唇が歪み……笑みが浮かんだ。
やった。
計画とはだいぶ違うが、結果は同じ。
ジェイエルの目の前で、殺してやった——あのクソガラスを。
(マウティ!よくやった!)
黒い闇の中で、ヴィはその絶叫を聞いた。
「ジェイッ!ジェイッッ!!」
ジェイの翼の中、腕に抱かれて。もう何度目だ。ジェイの鼓動。死の激動。
「だめッ!ジェイッッ!!」
衝撃が、アリーの小さな身体を襲った。
バシッと音がした。
突如襲いかかってきた牙、黒い口。
反応が遅れた。
噛まれた。
反射神経がその牙から逃れようと激しく反発した。
羽ばたく。全力で。
羽根が毟れる。
死の牙の先端を感じる。
アリーの小さな身体はめちゃくちゃな軌道で飛んだ。
左の翼がおかしい。空気を掴めない。動かしているのに。
アリーの身体が左にドリフトする。右の翼だけが空気をはらみ、アリーの身体を滑らせる。
噛まれた。
毒。
死ぬ。
まだだ。まだ動ける。
アリーは必死に翼を動かした。左に流れる。どうして。
落ちる。
脚はまだ動く。
鉤爪を全開。赤土を掴む。
着地。だが倒れる。左に。
光。
闇が消えた。ジェイの翼が。
ヴィはジェイを見た。顔。苦痛。
「ジェイ、だめッ!」
マドレーヌともう1人を払いのける。邪魔だ。ヴィは状況など忘れた。どうでもいい。ジェイ。心臓。
首。腫れてはいない。頸動脈に触れる。頻脈?だけど——
「どけ」
ジェイはヴィをも跳ね除け、上体を起こした。
鼓動は速い。だが動ける。ジェイも状況を忘れた。蛇など知ったことか。
「アリーッ!」
アリーは横たわっていた。赤土の上。銀色の瞳。
ジェイがアリーの小さな身体を掬い上げた。軽い。小さな身体。
「……はわわ」
「アリー?」
羽根は抜け、か細くなっていた。ジェイの震える指が傷を探す。翼をそっと持ち上げて広げる。
左の翼。大きく欠けている。
「はわわ!」
「……アリー!」
ブラックマンバの大きく開いた口、そして毒牙は、確かにアリーを捉えた。噛みついた。
その口が閉じて咥えたのは、左の翼だった。
成長し切った風切り羽根には血管がない。
牙は羽根に刺さり、毒が注入された。だが、その羽根が抜け落ちた。
アリーの体内には、毒は届いていなかった。
(アリー。ケガしてない?大丈夫か?)
「はわわ!」
(ジェイ、だいじょぶ
どこもいたくないよ
けがは……つばさが)
翼。私の翼が。ひどい。さっき水浴びしてきれいにしたばかりなのに。あのヘビ。許さない。私の翼を。絶対に許さない。
(アリー……大丈夫だ。よかった!無茶して。死ぬとこだったぞ?アリー。よかった)
ジェイの指が体を撫でる。ごつごつしてるけど気持ちいい。やっぱり指も、ジェイが一番。
ヘビは許さない。
サラは左肩を押さえてうずくまった。ジェイ・ロルトの翼に激突した瞬間に鎖骨が折れたらしい。
マリア様。ご無事か。
激痛。横になる。
マウティ。マウティはどこ?
ジェイはアリーを抱いたまま、辺りを見回した。ブラックマンバはどこにいった?逃げたのか?
(へびいない
あのやろう
かくれてる)
(どこに?いや、アリー、警戒だけしてて。音を聴いてて。蛇を見つけたら教えて)
(あのへび
ゆるさん
つばさを)
ジェイはアリーを撫でながら、やっと自分の鼓動を聞いた。平常に戻っている。ピアスの振動もおさまった。だいぶ制御できるようになってきた。
「ジェイ!大丈夫?」
ヴィ。振り返ると、ヴィはマドレーヌにしがみつかれて赤土に座っていた。ケガはなさそうだ。iVitraをしていない。気がつくと、ジェイのiVitraもなかった。
さっき、後ろから何かにぶつかられた。そのせいで倒れた。ブラックマンバは逃げた。
ケイト・カプラン。
肩を押さえて倒れている。どういうことだ?
iVitraは足元に落ちていた。拾う。シールドはひび割れフレームも曲がっている。画面も何も映っていない。潰してしまったらしい。
投げ捨てようとして思いとどまり、ズボンのポケットに押し込んだ。
もうひとつ落ちている。ヴィのか。拾ってヴィに差し出す。
「ジェイ……大丈夫なの?」
ヴィはiVitraをかけ、バイタルモニターをチェックした。心拍数。まだ少し速いが表示はグリーン、安全圏だ。
「……なにが。なにがあったの?」
「ヘビだ。ブラックマンバ」
「ブラック、なに?どういう……アリー?!」
「アリーは大丈夫……毒にはやられてない」
クソガラス。生きているのか。
なんということだ……また失敗か。
「おねえさま、ジェイさま!アリーは?アリーはケガしたの?」
マドレーヌの顔を歪ませ、目に力を入れて涙を溢れさせてアリーを観察する。翼……翼だけか。だがもう飛び回れまい。とどめをさしてやる。
(……マウティ。どこにいるマウティ。どこだマウティ!)
アヴィエルは赤土に座ったままブラックマンバを探した。いない。姿が見えない。
(マウティ!クソ野郎!役立たずめ!)
「おねえさま!アリーは大丈夫?」
すがりつきながら、アリーに手を伸ばす。
(マウティ……もう一度だ!早く来い!)
「ジェイさま、アリーの怪我は?大丈夫?」
(マウティ!どこに行った!)
「マドレーヌ……あなたは?ケガはない?」
ヴィはマドレーヌを優しく押し返した。
「……びっくりしたね。大丈夫。ケガしてない?」
「アリー!アリーが!」
「大丈夫、アリーは大丈夫だから」
ヴェシレ・クルチュの胸に顔をうずめて泣くふりをしながら、マウティの視界の映像を見る。蛇の視力は人間のそれとは全く違う。茶色と緑のぼやけた映像。歪んだ波紋のような人影が、動きのある部分だけ鮮やかなコントラストで際立つはずだが、今はそれがない。
我々が見えないところにいるのか。こそこそと……どこかに逃げ隠れた。生体情報も感じられない。臆病者……卑怯な下等動物……この無様な失敗。どうしてくれよう……この怒り……。
「……うぅ……」
呻き声。振り返ると、サラが横たわっている。左肩を押さえて。
「……大丈夫でございますか?お怪我なさったの?」
ヴェシレ・クルチュから離れ、サラの元へ。この——
「どこが痛いの?ここかしら」
サラの左肩に手のひらをあてる。
「大丈夫?」
——愚か者。
思い切り力を込めて、鎖骨を握りしめる。
「ああああァッ!!」
サラの顔が醜く歪み、悲鳴を上げた。
役立たずの愚か者め。ジェイエルが見ていることに感謝しろ。そうでなければ貴様など……。
「まあ、ごめんなさい!痛かった?」
「マドレーヌ……どいて。私が」
ヴィはケイトの様子を見て、ひと目で重傷とわかった。なにがあったのかはわからないが、この表情は使徒職で何人も見た。
「骨が折れてるのかも。お医者様を……」
「……そうですわね、大変。誰か……人はいないのかしら?」
ヴィはさらに、近くの木の幹にすがりついているパークガイドに声をかけた。
「あなたは、大丈夫?ケガは?」
「は……だ……だい、だ、だいじょぶです」
顔面蒼白。ケガはしてないようだが、パニックを起こしてる。まあ無理ないか。いきなり、ジェイの翼に覆われたんだから。翼ってわかってないか。
「なら、落ち着いて。怪我人がいます。救急車を」
パークガイドは震えながらiPortaを取り出したが、落としてしまう。
ヴィは短くため息をつくと立ち上がり、温室を見渡すと、壁に赤い表示を見つけた。
駆け寄って、大きな赤いボタンを叩く。
温室内に、けたたましく警報が鳴り響いた。
うるさい。でも、安心できる音だった。




