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15 天使の夢

【2025年11月21日夕方 トゥールーズ、ヴェテリネール・デNAC病院】

「……はわわ……」

 とんでもないことになった。

 病院?なんで?ケガしてないのに。

 

 アリーはジェイを睨んでいた。

 確かに翼は欠けた。あのヘビ怪獣のせいで。でもそれだけだ。どこも痛くないし、具合も悪くない。


(アリー。大丈夫だ)

 

 正気か。大丈夫なら病院に用はない。また騙す気か。


(アリー。来年まで飛べなくなってもいいのか?次に羽根が生え変わるのは来年だよ?)

 

 来年まで飛べない?

 ……。それは……病院より嫌だ。

 

(びょういん。

 はねはえる?

 いつはえる?)


(お医者さんに診てもらえば、春まで我慢すれば飛べるようになる。カッコよく。ほっとけば、一年飛べないぞ?)


 カッコよく?……罠の匂いがする。騙されるものか。


(アリーが一年も飛べないと、すごく困るんだ。アリーが偵察してくれないと、おれは何もうまくはできないから。アリーが頼りなんだ。だから早く飛べるようになって)


 ……。そうか。私が偵察できないと、ジェイは困る。

 最初からそう言えばいいのに。


(おねがいして)

 

(……お願い?何を?)

 

(ていさつしてほしい

 だからなおしてと

 おねがいしたら

 なおしてやる)


 ジェイが急に笑った。大笑い。なんでだ。おかしいことなんかひとつも言ってないのに。


 

 アリーが連れてこられた病院は、トゥールーズの西寄りにある、新愛玩動物(N.A.C.)専門病院だった。犬猫以外のウサギや鳥類専門の動物病院だ。

 

 鳥類の羽根は、動物の冬毛のように毎年冬になる前に生え変わる。アリーは今年の換羽が終わったばかりだった。羽根が根元から抜けるとすぐに新しい羽根が生えてくるのだが、抜けずに途中で千切れてしまった羽根は、次の換羽期までボロボロのまま一年待たなければならない。アリーにとっては耐えがたい一年になる。

 

 羽根を抜くというのは、人間に例えるなら歯や爪を抜くようなものだ。激痛や出血を伴い、下手すれば命に関わる。専門の医師の技術が必要だった。

 

 ジェイには、本当にアリーが無事だったのかを確かめたい気持ちもあった。


「ケイトよりもカラスか。さすが」

 ヴィが苦笑した。ヴィだっておれの心臓のことばかり気にしてるくせに……と思って、急にヴィの気持ちがわかった。

 胸が締めつけられる思い。人間がそう表現する気持ちがわかった。

「ヴィ。いつもありがとう」



 ……は?なに急に。ばか男。

「ケイトは鎖骨骨折。全治3ヶ月だって。さっき病院からメッセージきた」

「そう」

「……もう少し、心配そうな顔しなさいよ。アリーの方が大事なのはわかるけど」

 ジェイらしい。アリーは家族だし。気持ちはわかる。

「月曜日手術だって。無事終わったら1週間で退院できるけど……しばらくは安静ね」

 

「……ケイト・カプランは、なんで怪我したんだろう?」

「そうね。わたしも考えてた。わたし達にタックルしてきた。なぜ?ヘビの攻撃をかわすためかなと思うけど……わたしは何も見えなかったからわかんない」

 たぶん、わたし達を守ろうとしてくれたんだろう。結果うまくいかなかっただけかも。ケイト、かわいそう……。

「アリーも入院ね。人獣共通感染症の検査とかあるし、最短でも一日は」


 

 アリーはヴィの言葉を聞き逃さなかった。

 ……やっぱり騙す気か。入院。いつもジェイがしてるやつ。外に出れない。嫌だ。

 

(ジェイも。

 にゅういん

 いっしょに)


(アリー?それは無理。ここには仲間がたくさんいるよ?少しゆっくり休んで、早く飛べるようになって。おれのために)


 ……。ずるい。



 アリーは納得したようだ。

 ケイト・カプラン。

 あのタックルの意味。

 そして——

 

「あのヘビはなに?……ブラックマンバ。インウェニ(Google)ったけど、アフリカのヘビでしょ?冬のトゥールーズに……まさか、使い魔?」

「そうだ。たぶん、サマエルの」

「サマエル。あのクソキザフランク。なに考えてるの?わたし達を殺す理由は?邪魔しなければ構わないって……あ、そうか」

 ヴィの瞳が輝きを増した。カラコン越しにわかるくらいに。

「アヴィエルよ。やっぱりアヴィエルがペルフェクタスで、サマエルはアヴィエルを守ってる。妹なんでしょ?」

 

「サマエルが……アヴィエルを守る……」

 ありえるだろうか。

 人間なら、妹を守るのは普通だろう。あのヴェシリアでさえそうだ。だが……おれ達はどうか。

 おれ達の親父は1人だ。おれ達は人間でいうなら、全員兄妹みたいなものだ。ミカエルもルシフェルも、アザズェルやスリエル、そしておれとサマエル、アヴィエルも。

 

 そんなふうに思ったことは一度もない。家族とか兄妹、そんな概念がない。

 サマエルとアヴィエル。この2人だけ特別だった。なぜかはわからない。本人たちも周りのおれ達も、それを普通に受け入れていた。確かに、身体に蛇の特徴があるのは共通しているが……。

 

 サマエルは何のために地上に来たのか。使い魔まで連れて。しかも2人も。いや、あの感電した蛇もいれたら3人か。

 アヴィエルを守るため?本当にそうだろうか?

 おれ達がターゲットかどうかもわからない。おれとヴィではなく、マドレーヌ?ケイト・カプラン?なぜだ。何のために。


「明日。どうする?ケイトとアリーが入院というのは……痛いわ——」

「おねえさま?!やっぱりおケガを?」

 マドレーヌが、トイレから戻って来ていた。

「その痛いじゃないから。明日のことなんだけど」

「ええ。わかりましてよ。アリーが心配ですもの。ペルフェクタスさまには、いつでもお会いできますし」

「……え?いや、マドレーヌは行けば?」

「まあ。おねえさまのいじわる。私はもう、おねえさまから離れませんわ!」

 そしてマドレーヌは、ヴィに抱きついた。


 モンセギュール。延期すべきだろう。

 サマエルのことが気になる。



【同時刻 アンキュラ、イブン・シーナ病院】

 サマエルは正面玄関から病院に入った。電動車椅子で。たった1人で。

 看護師が走って横切った。ピンクの髪。声をかけようとしたが行ってしまう。

 柔和な表情の老婦人が微笑みかける。

「よかったらお手伝いしましょうか?」

「Non, merci. 大丈夫です——」

 サマエルも笑顔で返す。

「——あ、受付はどこですかね?」

「はい、こちらですよ。一緒に行きますね」

「ありがとうございます。| Vous êtes une bonne personne.《とても親切な方だ》」

「ほほほ。フランクからいらしたの?お怪我?」

 包帯が巻かれ、水平に保持された右脚を顎で差す。

「ちょっと、足をね。|Rien de bien méchant.《たいしたことはないんですが》」

「大変ね。はい、ここが受付ですよ」

「Merci!あなたにはきっといいことがありますよ!」

「まあ。お優しい紳士ね。お大事に」

 老婦人は満足気に離れて行った。

 

「次の方どうぞ」

「Bonsoir!入院したくて来ました」

 受付の女性が少し腰を上げ、サマエルの足を見る。

「……ご予約は……なさそうですね。お名前は?」

 サマエルはパスポートを差し出して名乗った。

「シルヴァン・ド・モロー。国際指名手配犯です!」

 受付の女性はこういう手合いには慣れていた。美人の前だとくだらない冗談で気を惹こうとするチャラ男。まあアタシが美人だから仕方ないわね。ちょっといい男だけど。

 無視してパスポートを見ながらキーボードを叩く。ID。名前は——

 画面が突然赤くなり、アラートが表示された。キーボードの上で指が固まる。

 こ……国際、シメイテハイ……犯?嘘でしょ?!

 

 顔を動かさないように気をつけて、目だけで犯人を見た。綺麗な白い歯を見せてニコニコしてる。いえ、こういうやつは、平然と恐ろしいことをするのよ。映画で観た。どうしよう。バ……バクダンとか、持ってるかも——

「|Ma petite BOMBE !《お嬢さん!》」

 受付の女性は飛び上がって椅子からずり落ちそうになり、必死でこらえながら思考を巡らした。

 ま、間違いないわ。テロリストよ。どうしよう死にたくない誰か——

 モニターが点滅していた。内線番号。気づかれないように平静を保ち、内線へ連絡してください。

 そうよね?平静!平静を保つのよ。死にたくなければ。

「あああああの、し、しししばばば——」

「しばらくお待ちください、ですかね?|Mais évidemmentもちろんですとも!」

 受付女性は彼女史上最大の勇気を振り絞り、死にものぐるいで内線番号を押した。二度間違い電話をかけ、三度目でやっと繋がった。

 

 サマエルは笑顔を絶やさず、辛抱強く待っていた。十数秒後、年配の警備員がやって来た。

「——何かトラブルでも?」

 サマエルは手元にかけていた白い布を指で摘んで取り払った。警備員の目が丸くなる。

「そ……それは……えー、あちらに行きましょうか……どなたか、付き添いの方とかは……」

 サマエルは手錠を両手にかけ、しかも車椅子の肘掛けにチェーンで繋がれていた。小さな鉢植えを持って。警備員が車椅子の向きを変える。

 受付女性は恐怖と緊張、そして興奮に震えた顔つきで、その様子を見つめていた。あの鉢植えが爆弾なのでは?

 

 サマエルは小さく手を振ってウインクした。

 


【同日夜 コンスタンティノープル、国民代表府、代表執務室】

「モローは確保した。本人はそう思ってないようだが」

 ズィヤはギュネルとミーティングをしていた。スペクルム(秘匿ビデオチャット)で。


『わかりませんね。指名手配中の男が、堂々と素顔で。出頭してきたも同然です』

「何を企んでいるかはまだ不明だが……特別病棟(オゼル・セルヴィス)に入れた。所持品に危険物はなかった。所持品といっても、土だけの小さな鉢植えひとつだがな。フランク政府には、24時間監視データを提供するということで話をつけた。下手なことはできん。お互いに」

『それにしても……わざわざイブン・シーナ病院に。厄介ですね。サフィーエ・サナルには?』

「重要指名手配犯であることを告げて、関わるなとは警告した。パヴル暗殺未遂については触れずにな。全く、厄介極まりないよ……サフィはアジル(ER)看護師だから、接点はないとは思うが」

 

『右下腿銃槍。当分は動けません。全治2ヶ月、入院予定は2週間。その間に落とすしかないでしょうね』

「ああ……カアン、お前の方はどうだ?」

『その言い方だとまだご心配のようですが、行けます。いや、行かせていただきます。私が直接尋問します』

 ズィヤは腕組みして唸った。

「……無理はさせたくないんだ。だが……そうしてくれると、本当に助かる」

『ご命令の必要はありませんよ。そろそろ病院食にも飽きましたし』

「カプランのことは聞いたか?」

『ええ。負傷者ばかりでご迷惑を』

「何を言う。名誉の負傷だ。可能ならおれも行きたいくらいだ」



 ギュネルは笑って通話を終えると、iPada(タブレット)をサイドテーブルに戻した。

 ケイトは……。


 モローを尋問する前に、まずケイトと話さなければ。

 明日になれば話せるだろうか。



【同時刻 トゥールーズ、ラングイユ病院】

(サラ、ラ…………ラ……ラ…………サラ、ラ…………ラ……ラ……)

 

 ケイト……起きなさい、ケイト……


 ……誰?私は……あなたは、誰?


 ケイト……私はサラ・ラ・カリ。私はあなた。


 私は……ケイト、ケイト・カプラン!サラ?……サラじゃない。そんな名前じゃ——


 いいえ。あなたは私。私はサラ・ラ・カリ。マグダラのマリア様にお仕えする、忠実なるしもべ。


 マリア様……マリア様は、私に……失望された。私が……失敗したから。彼が……マウティが……


 ……サラ。マリア様は……


 私はケイト!サラはあなたでしょう?私は……ケイト・カプラン……


 あなたはサラ。サラ・ラ・カリ。マリア様の侍女……


 私は……失敗した。マリア様はお怒りになった……私に、罰を


 罰ではない。あれは愛よ。受け入れなくては。マリア様の愛


 愛なんて!私にそんな資格はない!私は失敗した。マリア様は失望された!


 サラ……サラ。起きなさい。ケイト。起きるのよ……起きて、償いを


 償い……どうやって……どうすれば……


 ケイト。起きなさい。サラ……


(サラ、ラ…………ラ……ラ…………サラ、ラ…………ラ……ラ……)


 ケイト・カプランは目を開けた。病室。時計。

 窓。外は暗いが、喧騒が聞こえる。


 まだ早い。

 無性に、コーヒーが飲みたかった。



【同時刻 モンテンポ・シテ】

「ケイトの荷物……明日、持ってってあげなきゃ。お見舞いも」

「さすがですわ、おねえさま。大人の女!」

 ヴィはうんざりしていた。

 マドレーヌはシテの部屋までついて来て、ほんとに1秒も離れない。正直うざい。

「ベッド。ベッドですわ!」

「……は?ベッドくらい……あなたならもっと豪華なベッドで——」

「ここで、おねえさまが……ジェイさまと!」

 鼻息が……また変なこと考えてるに違いない。無視しよう。

 

「は、早く、荷物をまとめなきゃね。ええ。ここはもう引き払って——」

「おねえさま?お引越しは明日にいたしませんこと?」

「え?なんで?おれ達をあのホテルに——」

「今夜。このベッドで。3人でするためですわーっ!」

「3人でする?なにを?」

 ジェイお願いだまって。3人でする、なんてことを——

「お話ですわ?いろんなお話。3ヶ月も、離ればなれだったんですのよ?たくさんお話することがありますわ」

「……。そ、そうね。お話。ええ、お話ね」

「ええ、ええ!朝までお話したいですわ。……カラダのこととか!……あら?」

 マドレーヌはわざとやってるんだろうか。わたしをからかってる?

「——アンジーからメッセージが来ましたわ」

 

 スン、としてiPorta(スマートフォン)を見てる。やっぱり絶対、わたしをからかってるんだこの子。

「お迎えの車がついたみたい。参りましょ!お話はホテルでもできますし」

「え?ここで朝までするんじゃ——」

 頭をひっぱたいた。ばか男の。

「まあ、おねえさまったら。そういうのはお2人だけの時になさって?目の毒ですわ」

「うるさい!」

「おねえさま?」 

 マドレーヌが両手で鼻から下を覆った。

「——カワイイ!真っ赤になって!」

 

 ……。完全に、おもちゃにされてる。



【同時刻 アンキュラ、ジェベジ北倉庫】

 倉庫の裏口ドアに電子ロックをかけた瞬間、ガスパールは我に帰った。

 ……ここは?どこだ?

 全く見覚えがない景色。月明かりしかない、薄暗い倉庫街。私は、何を——

 ライトに照らされた。ヘッドライト。車のLEDライトだ。これは見覚えのある車だ。領事館の公用車のルノー・ラファール。

 

 ラファールが、スッと目の前に横付けした。運転手が降りてきて、リアドアを開ける。いつもの運転手。

「……旦那様?」

「あ……ああ、すまん」

 後部座席に乗り込み、運転手がうやうやしくドアを閉める。その僅かな時間に、ルームライトで自分の手を見た。

 少し濡れている。なんだ?赤茶けて。

 匂いを嗅ぐ——血だ。血の匂い。

 驚いて自分の体を弄った。怪我を……していない。どこも痛くない。

 この血はなんだ。


 運転手はいつものように、無言でラファールを走らせる。

 ガスパールは肘掛けの物入れからティッシュを出して血を拭った。

 なぜ血が。何をした——記憶がない。


 飛行機。機内で寝ていて、目を覚ましたのは覚えている。いや待て。その前だ。その前は……雪。山道。車——この車ではなくバン。助手席に乗っていたら、ドアが開けられて……モロー。

 そうだ。モローだ。思い出した。

 モローを始末するためにアルプスに行った。DGSE行動部の大尉と一緒に。作戦は成功した。そう思った矢先、モローが突然現れて……それから、記憶がない。


 その後は飛行機。アンキュラへ帰る、と誰かが言った。隣の席の男——モローだ。そしてまた、眠ってしまった。


 ここはアンキュラか。公用車、運転手。間違いない。モローはいない。まさか、血。血は、モローか?私がモローを?この手で?


「旦那様……お加減が?車を止めましょうか?」

 ルームミラー越しに運転手と目があった。普段はデジタルミラーだ。気になって鏡に変えたのか。

「……いや、大丈夫だ。デジタルミラーに戻せ」

「はっ。申し訳ありません」

「いや……いい。すまん。ちょっと疲れたようだ……今日の予定は、どうだったかな?」

「……今日は、もうご予定はございません。このまま領事館に戻ります。よろしいでしょうか?」

「ああ……もちろんだ。すまん……ちょっと飛行機で疲れた。空港から……私は、寝てたのかね?」

「は?いえ、旦那様は、空港ですぐに先程の住所をご指示されまして、それから途中で肉屋に寄られて、こちらへ。2時間ほど、お待ち致しました」

 肉屋?どういうことだ。肉など……全く覚えていない。よほど疲れたのか……眠い。また眠くなってきた。3分眠る。

 モロー。そうだった。モローが全部教えてくれる。大事なことは全部。

 忘れたって構わん。モローの言う通りにしていれば良い。


 ガスパールはそのまま眠りにつき、15分後に領事館に着くまで起きなかった。車を降りた時には、倉庫のことも肉屋のことも、手についていた血のことも全て忘れていた。


 モローのことは忘れなかった。次に何をすべきか、モローが教えてくれるからだ。

 それまでは……眠ろう。3分。

 起きていても、することがない。



【同時刻 イブン・シーナ病院】

 モローだ。間違いない。

 サフィは仮眠室で、外の更衣室から聞こえたおしゃべりに反応していた。


 最初は、うるさかっただけだ。こっちは貴重な睡眠時間中なのに。マジ勘弁して。

 フランクのいい男がどーのこーの。しょーもな。テロリスト?ありえん。時間のムダ使い乙。


 でもそういえば。

 さっき一般病棟の急変対応で呼ばれてロビーを駆け抜けた時に見た車椅子の男。どっかで見たよーな?って気になってたら、今思い出した。フランク人のテロリスト。重要国際指名手配。ズィヤさんからメッセージ来てたっけ。名前は書いてなかったけど、今聞いた。モロー。


 パブちゃんが言ってた名前だ。

 なるほど。キミョーなグーゼンってやつか。これが映画やドラマなら、あたしはかれぴの仇を討つためにシュツドーすんのかな。

 残念ながらヒマじゃないんだよね、あたし。休みの時だったらわからんけど、仕事中はムリ。

 ズィヤさんが近づくなっていうのはこれか。心配してくれてんだ、あのおっさん。まあね。同じ牢屋にパクられてた仲だもんね。

 今度パブちゃんに会ったらネタにしよ。


 さてー。マジで夜はここからが本番。ぶちかましていっちゃれちゃらちゃっちゃー!


 ……はぁ。眠い。



【同時刻 トゥールーズ、ホテル・デュー・サン=ジャック】

 アンジェリック・ヴェスパーは眠くなかった。

 まだ早いというのもある。だが何より、お嬢様がまだお帰りにならない。眠くなるわけがなかった。


 ディナーの時間はとうに過ぎているが、それは構わない。ディナーを抜くのはよくあることだ。パーティーでもなければ酒をお召しになることもないし、ボディのためには夜は食事をしない方がいい。

 だが……温室で、サラはなぜ失敗したのか。

 

 やはり、私も行くべきだった。あの忌々しいカラスを始末するなら、この目で見たかったのに。

 サラを責めるつもりはない。失敗の原因は、恐らく……お嬢様だ。温室でのことは、計画から雑過ぎた。私は反対したのだが。

 この3か月。あの方の気まぐれと激情。そして……悪魔に対する執着。


 悪魔には構うなとおっしゃっていた頃は、あの方の思い描く理想に憧れた。あの方の教えは崇拝に値する素晴らしい教えだ。もちろんそれは、今でも揺るぎはしない。

 悪魔め。悪魔が、あの方の目を曇らせている。


 ローマ教皇庁が消え、カトリック教会が衰退したこの千載一遇の機会に、あの方はいらっしゃった。そして瞬く間に王室を跪かせ、フランクとローマの両政府もほぼ手中に収めた。もうあの方の理想の世界は目前だというのに……。


 あの方は、時を待てとおっしゃる。だがなぜ、あの日にこだわるのか。まだ半年以上先だ。マグダラのマリアに……なぜ、こだわるのか。まず先に世界に理想をもたらし、その後では遅いのだろうか。


 そして、悪魔。

 悪魔を殺すことはできない。あの方が不死であらせられるように、悪魔もまた不死だからだ。だから、心を殺すと。あの悪魔の心を。そして……あの方は決しておっしゃらないが、私にはわかる。

 あの方は……アヴィエル様は、悪魔の心を殺し、その代わりになるおつもりなのだ。あの方の真のお望みは、世界ではない。


 よろしい。それがあの方のお望みなら、この私が叶えて差し上げよう。この私の頭脳で。あの方に授かった知恵で。

 それしかない。それさえ叶えば……アヴィエル様は真の神となるため、世界を支配するだろう。理想の世界が訪れるのだ。


 アンジーはハンドバッグからモバイルバッテリーに艤装したキジャーナの携帯ケースを取り出した。ケースを開けはしない。キジャーナがなついているのはマドレーヌだけだからだ。

 

 そう。マウティとは違う。



【同時刻 アンキュラ、イブン・シーナ病院】

 マジヤバ。息継ぎ忘れるレベルで忙しいんですけど。なんなん?なんななんななん?


 サフィは病院内を駆けずり回っていた。

 一般病棟で急変。アジルチーム対応。血液パック不足。ダッシュで取りに行く。おじいちゃんが転けた。アジルチーム呼んで。

 ガチで休むヒマがない。まあいつものことなんだけど、今夜はスペシャルヤバい。

 今も3階で急変で呼ばれた。あたしは2階にいたからとりあえず走った。階段ダッシュ。鬼ダッシュ。病室着いたらもう終わってた。あたしが死ぬ。もームリ。少し休ませて。息継ぎ。


 サフィは少しだけ、呼吸が整うまで、3階一般病棟のベンチに腰掛けて深呼吸した。

 そこは、あの事件——ウラシュさんのいた病室の、すぐ側だった。今夜も、病室の前にはディルシズが立ってる。


 特別病棟。

 病室の入り口、スライドドアの前にディルシズ。それだけ。それ以外、ほかの病室となんも変わらん。

 あくびが出た。さっき寝れんかったもんなー。眠い。疲れた。ネガ入ったら寝るっしょ。一瞬。

 サフィは瞼を閉じた。



 サマエルは眠っていた。

 天の野原。

 大きな樫の木。

 その木陰で、とぐろを巻き、自身を抱きしめるように身体を縮こませて座っている——アヴィエル。

 空は琥珀。そこに閉じ込められた虫のような、小さく黒く飛ぶもの——ジェイエル。


 天の夢。

 瞬きする。


 炎の回廊。

 ミカエルの光の柱。

 ルシフェルの玄衣の翼手。

 黒い渦。赤い蛇腹。

 石を掲げて立つ——アヴィエル。


 瞬き。


 灰色の空。

 炎。燃える城。人々が……城に向かって山道を登っていく。長い列。

 城壁の上に立つ女。白いローブのような布を巻いた、金髪の女。炎に赤く染まる金髪。

 マグダラのマリア。そう名乗る女。

 手に持つエスパーザ()は折れている。人々は、あの女に呼ばれて歩いていく。

 炎の中へ。

 目についた、地面に刺さっている槍を抜き、投げる。炎に向かって。

 翼を広げ、炎に向かって、舞い上がる。


 瞬き。



 サフィは鏡の箱にいた。

 告解箱。狭い、四角い、鏡の箱。

「第二悔悛者」

 男の人の声。

「第二悔悛者」

 鏡が消えた。

 フラッシュ。眩しい。たくさんのフラッシュ。青い回転灯。パトライト。TVカメラ。フラッシュ。

 虎。虎の仮面。



 城壁の上空から、白い金髪の女を見下ろす。

 あの女を殺す。殺さなければ。

 死をもたらす者。あの女ではない。

 俺だ。俺こそが、死をもたらす者。


 女の立つ城壁に、俺も立つ。舞い降りる。死をもたらすために。

 足。

 槍だ。槍が刺さる。ふくらはぎに。だが痛くはない。これは夢だから。

 その槍が——赤く染まり、そして、ぐにゃりと曲がって巻きついた。

 赤い蛇。

 蛇が俺のふくらはぎを喰い破る。そして……傷口に頭を突っ込んだ。


 激痛。

 撃たれたのか?銃声は——

 激痛。脚が爆発した。


「ッウォオオオオァーーッッ!!」

 あまりの痛みにサマエルは絶叫した。なんだこれは。夢なのに痛い。

 違う。LEDの冷たい光。天でも、13世紀の南仏の空でもない。病室。病室の天井。


 脚を見た。

 目に飛び込んできたのは脚ではなく、真っ赤なシーツだった。



「ッウォオオオオァーーッッ!!」

 その悲鳴に、サフィは瞬時に覚醒した。人の悲鳴。助ける。あたしが。

 それはもう条件反射だった。看護師として、プロとしての条件反射。人が苦しんでいる。助ける。

「どいてっ!」

 悲鳴に驚きながらも病室に入ろうとしていたディルシズを押し除け、飛び込む。ベッド。鮮血。活動性動脈出血か。出血点は——右下腿。

 ベッドの横にはディルシズがもう1人いたが、吹き出す鮮血に固まっている。

「邪魔っ!」

 黒服を払いのけ、ベッドに飛び乗る。



 なんだこの血は。俺の血か?どうして急に。

 サマエルはこれまで、木偶の大怪我を経験したことはなかった。かすり傷か即死。どっちかだった。他人のではなく、自分の血。止めなければ。木偶は血を失うと死んでしまう。死が……もたらされる。この俺に。

 サマエルはかけていたタオルケットを両手で掴み、血の噴水を押さえつけようとした。

 血は止まらない。噴き出している。


「邪魔っ!」

 その時突然、ピンクの頭が飛び込んできた。水色の尻がのしかかる。



 サフィは患者の腹に馬乗りになった。血が噴き出している脚の方を向いて出血箇所には見向きもせず、患者のスモックの上から鼠径部に組んだ両拳をあてがう。そして垂直に、全力で押しつけた。患者を潰すが如く。

 血の噴水が止まった。


 だがまだだ。まだこれから。

 助ける。絶対に助ける。

 あたしの拳が患者の大腿動脈を押し潰している。脚への血流を止めている。これ以上、患者の血液を減らさないために。

 あたしが一瞬でも気を緩めれば。力を抜けば。バランスを崩せば。

 再出血。そしたら終わりだ。この患者は死ぬ。

 いや助ける。あたしが助ける。絶対に助ける。

 腕。腕が震える。だめだ。止まれ、あたしの腕。助けるんだ。絶対。あたしが助ける。

 全体重を両拳に乗せ垂直に押し潰す。鼠径部を。大腿動脈を。

 血を止める。全力で。

 汗。震えが腕から肩へ。背中へ、あたしの脚へ。

 だめだ。倒れそう。だめだ。倒れるな。

 目が霞む。汗。全身の毛穴から汗が吹き出す。

 腕。震えが。もう限界。

 違う。まだだ。助ける。あたしが助ける。

「よし!変わるぞ!」

 手。あたしの手の上に。ドクター。助け——


 駆けつけた医師が、サフィが押さえていたすぐ上を押さえつけた。

「いいか!交代だ!せーのっ!」

 力を。抜く。

 サフィの上体がふらっと横に傾いた。別の医師が支える。

「よし、降ろすぞ。慌てるな。ゆっくり」

 看護師が止血帯を患者の太ももに巻いている。

「オペ!オペ室を!」

 ドクターが叫んでる。

 誰かに支えられてベッドから降ろされた。もう力がない。脚に力が入らない。そのまま床に崩れ落ちる。

「よくやった……大丈夫、患者は助かる」

 助かる。よかった。助けた。助けられた——


 よかった。寝れる。



【同時刻 トゥールーズ、ホテル・デュー・サン=ジャック】

 寝れなかった。

 ジェイはキングサイズのベッドの右端で仰向けになり、天井を見つめていた。

 もう暗さに目が慣れて、明かりがないのに天井の模様が見える。左腕にはヴィ。いつものようにしがみついて眠っていた。そして、その背中にへばりつくように……マドレーヌが眠っている。

 メイクを落として、ライトブロンドが少し顔にかかっていた。ニースでの最後の夜を思い出す。

 あの夜と同じ。すっぴんで、子どものような安らかな寝顔。あの夜と違うのは、間にヴィが寝ていることだけだ。


 この寝顔のせいだろうか。ニースの海辺の夢。アリーとはしゃぐ、空と海のはざまのマドレーヌ。人間が絵に描く、天使の笑顔。


 恐ろしい悪夢だった。

 さざなみがマドレーヌの足に、くるぶしから脛、そして白くて細いふくらはぎに絡みつき、膝、太ももへ這い上っていく。

 蛇。無数の赤い蛇。

 腰から腹。そして胸のふくらみを覆い隠し、肩から首、天使の笑顔を這いまわり、それは——

 大きな、太い蛇腹。

 赤い大蛇。


 ジェイは翼を広げて空へ逃げようとした。だがその翼は。

 羽根が変わる。

 蛇。無数の、赤い蛇。

 おれの身体を……顔を、覆い尽くす。


 ヴィの髪が頬をくすぐり、目が覚めた。それから眠れない。


 何時か。時計がなくてわからない。サイドテーブルにiPortaがあるが、身体を動かせないから届かない。ヴィを起こしたくなかった。


「……おねえ……さ……ま」

 マドレーヌの寝言。


 天使の寝顔。

 夢でも見ているのか。


 どんな夢を。

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