16 衝動
【2025年12月1日朝 トゥールーズ、ラングイユ病院】
「黒ばっかり。せっかくだから違う色にすればよかったのに」
ヴィは半ば諦め顔だった。
ケイトのベッドの上に並べられた新品の衣服。鎖骨の手術は無事終わり、術後も順調だったが左腕はまだ動かせない。それでも着替えができるケアファッションをWiaで検索して買ったけど、ケイトは黒しか選ばなかった。
今日は退院。手術から1週間というのは標準よりは少し長めだけど、旅行者だからみたい。経過は順調。退院後、ケイトはアルバロンの実家に帰る。怪我が完治するまで休職。元々復帰は早過ぎたし、ケイトのためにはそれが一番だ。
ケイトが搬送されたこのランゲイユ病院は、偶然にもトゥールーズ最高の心臓専門外来、|CEPIC《重症心疾患専門センター》がある。ドクター・セレンも推薦してくれて、ジェイは定期検診を受けていた。
「はい、えっと。黒が好きなので。汚れても目立ちませんし、洗濯も簡単です」
「ふふ。機能第一、ケイトっぽい。似合ってるからいいか」
「ケイトっぽい。それはお褒めくださったのですか?ありがとうございます。では、着替えます」
「うん。手伝うよ?」
「……えっと。1人で着替えできるよう、練習しなくてはいけません。ヴェシレもマドレーヌ・ド——」
「マドレーヌ!マドレーヌでよろしくてよ?いちいちフルネームで呼ばれると、怒られてるみたいですわ」
マドレーヌの口角は上がっている。目は笑ってない気もするけど。
「そうね。じゃあ外で待ってる。呼んでくれたら、すぐ手伝うからね?」
「はい、えっと、ありがとうございます」
「おねえさま!ラテが飲みた〜い!」
「はいはい。後で——」
「い〜ま!今飲みたいですわ!」
「マドレーヌ・ド・ガスパール!」
マドレーヌはにやっと笑った。今度は目も笑ってる。
「ふふん?おねえさまが怒っても、怖くありませんわよ?アンジーは怖いけど!」
言いながら、わたしの腕に絡みつく。
「参りましょう!ラッテ!ラッテ!」
すっかり、甘えるのに慣れさせてしまった。この数日こんなのばっかり。姉ではなく母親になった気分。お母様が亡くなったばかりだから、仕方ないのかもだけど。
「もう……ケイト、ごめん。ちょっと行ってくる」
「はい、えっと、私なら本当に大丈夫です。万一の時はナースコールします」
ケイトは病室に1人になると、素早く窓のカーテンを閉め、さらにベッドを囲うカーテンも閉める。万一にも誰かに見られるのは避けたい。
ヴェシレ・クルチュが買ってきてくれた前開きのパジャマを脱ぐ。左腕はアームスリングと三角巾で釣られ、バストの下にほぼ固定されているので羽織っているだけだ。ブラはしていないので、上半身裸になる。特に胸が大きいわけでもない。ノーブラでもほとんど気にはならなかった。
あの日にユニクロで買ったニットリブパンツを履く。柔らかくて暖かい。これももちろん黒。
それからサイドテーブルの下の物入れを開けた。
手さげ袋に入った小型キャリーケースくらいの大きさの箱を取り出す。箱を包んでいるピンクの布カバーの上蓋を開けるとダンボール箱。アンリ=ゴッサン植物園のロゴ、その下に手書きでPhal.と書いてある。開けると、発泡スチロールの上蓋。これも開ける。
「マウティ……おいで」
昨夜未明、密かに病院を抜け出し、植物園に侵入してこれを準備し、マウティを連れてきた。もし見つかっても構わないと思っていたが、誰にも気づかれなかった。そんなことを誰も、予測も想像さえもしていないから。
発泡スチロールの内部にはカイロが入っており、温度は20℃ちょっとに保たれていた。病室もそのくらいだが、それでもブラックマンバにとってはギリギリの低温だった。
人間の体温は、蛇にとって最も好ましい温度だ。マウティは最初、箱の中から頭だけを出して舌をチロチロやっていたが、温源を確認すると速やかにケイトの暗褐色の身体に巻きつき始めた。
ウエストをスルスルと一周し、頭からアームスリングの下に滑り込んでいく。胸の谷間から顔を出し、また舌をチロチロさせながら、銀色の蛇が胸を這い上がる。
冷たくて気持ちいい。
マウティは一旦、ケイトの右肩から首筋を這うが、それからまた胸元へゆっくりと降りて行く。
もし間違えて噛まれたら死が待っていた。だがマウティの牙は口内に隠れていたし、噛まれるなどとは微塵も思っていなかった。マウティが私を噛むわけがない。
でも、噛まれてもいい。マウティの牙、マウティの毒。それでもいい。
温室ではマウティに聖務をさせるべきではなかった。あんな小さなカラスなんか、マウティの聖務には相応しくない。マウティなら悪魔だって殺せるのに。
マウティの銀灰色の表皮が薄暗がりの中で乳白に輝き、ゆっくりとケイトのコーヒー色の肌を這いまわった。ラテアートのよう。首筋から右肩、脇から背中へまわり、左脇に頭をねじ込む。二の腕と乳房の間から顔をだし、柔らかなふくらみに少し沈み込み、その先端で一度動きを止めて、口をくわっと開いた。
マウティが上を向いた。2本の細い牙が、唾液にぬめり微かに光った。ケイトも頭をのけぞらせ、舌で唇を湿らせた。その端から、一条の涎が流れ落ちた。全身を小さく震わせて。
今。最も生を実感しているこの胸に、マウティの牙が刺しこまれたら。マウティの毒が流し込まれたら。至福の悦びと共に訪れる解放。
マウティは口を閉じ、ケイトの両乳房の間を縫ってその下、アームスリングの上に落ち着いた。全長1メートル超。ケイトのアンダーバストの倍近い長さ。ぐるりとほぼ1周半巻きつき、再び頭を胸の谷間にうずめた。
ケイトは呼吸を整えてから、Wiaで買った起毛のワンタッチシャツをパジャマと同じように右袖だけ通し、アームスリングの上から前を閉めてマジックテープで留めた。念のため洗面台の鏡を見たが、腕を吊った怪我人にしか見えない。その身体に1メートルの毒蛇を巻きつけているとは、誰にも気づかれない。
この上にさらにユニクロのダウンを羽織る。完璧だった。
胡蝶蘭の箱は再び丁寧に蓋を閉じ、ピンクのカバーでラッピングし直す。中には本当に胡蝶蘭の未開花株が入っている。実家への土産にしたいと、電話注文して支払いもきちんと済ませてある。
「ケイト。どう?」
ヴェシレ・クルチュの声。病室の外からだ。急いでカーテンを開ける。
「はい、えっと……準備は完了いたしました」
「うん。じゃあ、退院ね。おめでとう!はいこれ」
紙コップのコーヒーを渡された。
「はい……ありがとうございます」
「おうちまで3時間だっけ。遊びに行くね!」
「はい、えっと……是非。お待ちしております」
いくら待っても、そんな日は来ないのはわかっている。人口300人足らずの小さな集落。キャンプ場などの観光業が主要産業。というかそれしかない。父もキャンプ場の管理人で、家はとても小さい。それが嫌で家を出たのだ。今更帰る気はなかった。
ヴェシレ・クルチュには決して言わない、私たちの本当の行き先。
ヴェシレ・クルチュだけじゃない。
誰にも、教えない。
香りがして、手の紙コップを見る。
コーヒー。
昔はよく飲んだ。ひとくち啜った。
顔が浮かぶ。
若い男の顔。
名前は思い出せなかった。
【同日午前 コンスタンティノープル、国民代表府】
「……では、その検査が終わり次第拘束。こちらに移送してください。私が直接尋問します」
ギュネルは相手の返事を待たずにスペクルムを強制終了した。閣下がよくやっていたように。
デスクトップPCもシャットダウンすると席を立ち、執務室を出てズィヤの元へ向かう。
もう傷は痛まなかった。まだ右肩は上がらないが、業務に支障はない。走ったりすれば響くかも知れないが、歩くだけなら気にもならない。
ズィヤは代表執務室の窓からディオゲネス公園を眺めていた。防弾ガラス越しに。
「モローが回復しました。といってもまだ車椅子で、右足は床に下ろすことも出来ないそうです。夕方までにはこちらに移送します」
「俺も会って見ようかな?」
「ズィヤ。冗談はほどほどに」
ズィヤが振り向いた。苦笑しながら。
「モローが美術館館長狙撃犯と立証できれば、フランクとの関係は逆転する。頼むぞ」
「物証があと少し欲しいところですね。自白させたとしても……鵜呑みにはされないでしょうし。まあお任せください。尋問は少し経験があります」
「尋問は経験があります?謙遜はほどほどにしないと嫌味に聞こえるぞ。コジャテペではその顎に1発、叩き込みたかったよ」
「光栄です」
ローマ共和国国民代表執務室は、2人の男の笑い声で満たされた。
【同時刻 アンキュラ、ジェベジ駅前、サフィ自室】
洗濯機から最後の一枚を取り出し、室内ハンガーに干した。これでやっと……寝れる。
明け。申し送りの最中に2回もあくびが出た。ムリ。ベッド。
倒れた。きもちい。このまま。夜まで死ぬ。
バイブ……うるせ。誰。パブちゃんか?しゃーないな。
『お疲れ。起きたら教えて』
ふぁい……おやすみ。
【同時刻 イブン・シーナ病院】
「超音波エコーも問題ないですね。血管損傷箇所は完全に癒合しました。点滴ももういいでしょう」
サマエルは車椅子に座り、医師の話を聞いていた。
「Merci. 退院できますか?」
「冗談ですか?あの人たちが——」
医師は顎をしゃくり、診察室の入り口を固めるディルシズを指した。
「——認めませんよ。おわかりでしょう」
「移送ですか?すぐ?」
「私としては、許可せざるを得ない。車椅子での移動になります。寝る時以外は車椅子です。右足は絶対に降ろさないように。また出血しますよ。移動中ならまず助からないでしょうね。看護師はつけますが」
「どの看護師?あのピンクの人?」
医師は首を振る。
「彼女は今日は休みです」
「Ah bon!休みか……お礼を言いたかったんですが」
「伝えておきますよ。まあ我々は仕事ですから」
「もちろんです。先生にも感謝してます。お世話になりました」
情報が欲しい。この医師は顔写真付きのネームプレートを着けている。
「先生。|Je vous dois la vie.《あなたは命の恩人です》」
「失礼、なんとおっしゃいました?」
医師が見つめ返した。視線を捕まえる。
医師仲間、看護師たち。ネームプレート。ピンクの髪を探す。いた。サフィーエ・サナル。
さらに意識を、記憶を探る。PCモニター。ファイル。シフト表。医療スタッフの緊急連絡先リスト。医師の焦点があっているのは別の医師の項目だが、その下の方に目指す名前がある。IDナンバー。iPorta の番号。メッセージID。
住所。
「では病室へ。少し休んでおきなさい。お大事に」
サマエルは電動車椅子を操作し、診察室から特別病棟へ向かった。ディルシズに左右を固められて。
エレベーターで3階、特別病棟のフロアについた。ディルシズを従えたまま廊下を進む。左は手摺と壁。この壁の裏はなんだろう?大事な設備とかでなければいいが。右側は窓が並んでいる。鉄格子はない。廊下の幅はおよそ3メートル。
手錠に繋がれた右拳を握りしめ、右足に気をつけながら前屈みになり、左手で車椅子の肘掛けを握ると、右上半身だけに力を込める。
車椅子がふらつき右に寄った。
「おいどうした。ぶつかるなよ」
ディルシズの1人が言うのと同時。
サマエルの背中が爆発した。
右翼だけが爆発的勢いで飛び出し、ガラスを突き破って窓枠ごと吹き飛ばした。ディルシズは1人が後方に押し倒され、もう1人は左の壁まで自ら飛び退いた。膨張した右腕の筋肉で手錠が弾け飛んだ。
左翼も開く。静かに。
呆気に取られるディルシズには見向きもせず、サマエルはその巨大な灰色の翼で羽ばたくと、窓だったところから飛び去った。
電動車椅子をぶら下げて。
【同時刻 コンスタンティノープル、国民代表府、代表執務室】
ギュネルは思わず右肩を押さえた。血圧が上がって痛みが走った。
「……モローも怪物なのか。悪魔なのか」
ズィヤも驚愕していた。
「北へ……それだけか」
『ビルが多くて……目撃者はいますが、みんな短時間で見失ってしまい……』
モロー移送チームのリーダーの、現地からの報告。
「翼……それで窓、いや壁をぶち抜いた。手錠はしていたんですね?」
『はい……チタン合金です。鋼鉄より強い。それを……片手で……』
「周辺を警戒しつつ目撃情報の聞き込みを続行。スィビラもです。発見したら待機。絶対に攻撃しないこと。この回線はこのまま維持。以上です」
ギュネルは指示を終えると、マイクをオフにしてズィヤに頷く。
「あいつは……ジェイは、500キロの直撃に耐えた。その前は至近距離のC4爆発にも——」
ズィヤは唸るように続けた。
「——モローも同じなら、攻撃しても無駄だ」
コジャテペ。閣下でさえ追跡も捕獲も断念した。あっさりと。閣下には思惑もあったのだが。
「……はい。私も見てました。それと……実は、別件だと思って報告していなかった事件がありまして……アルプスのフランク側で、DGSEの行動部隊が戦闘の末、壊滅したとの情報があります」
「初耳だ」
「申し訳ありません……国境近くとはいえ、向こう側だったので——」
「いいから。それがなんだ。まさかモローが?」
「……はい。確かな情報は少ないんですが、モローは同日、その現場と思われる地点から20キロほどの病院で救急治療を受けています。それが今回の銃槍です。アンキュラに現れたのはその翌日」
「なるほど。その戦闘で1発被弾したと。で、相手の特殊部隊は壊滅か」
「精神操作も脅威ですが……これは……ディルシズでは無理です。軍団は——」
「特殊部隊が壊滅したんだろ?そんなやつとローマ軍団を?論外だ。アンキュラはアルプスじゃない……やつの目的はなんだ?」
「はい……病院から脱走後、今のところ目撃情報も僅かで……少なくとも、暴れているわけではないです。北へ飛んで行った。それだけです」
「エティメスゲトやエセンボアのレーダーでは、恐らくキャッチ出来ないだろう。小さ過ぎるし、低過ぎる」
「おっしゃる通りです。初動として、スィビラのモニターと、病院周辺の聞き込みを続行中ですが……あまり期待は出来ません。数件の目撃情報はあります。北へ向かったのはほぼ確実ですが、高層建築物も多く、ほとんどが数秒で見失っています。目撃情報を繋いで行けば追跡可能ですが、この方法だと時間がかかります」
「目的がわからんからな……行く先も予測どころか想像すら出来ない。しかもやつはDGSEだ。セーフハウスくらいあるだろう……厳しいな。向こうから姿を見せてくれるのを待つしかないかもしれん……いや待て。サフィは?」
「サフィーエ・サナルは本日は出勤しておりません。休日で、自宅で就寝中のようです……警護は継続しております」
ズィヤはふーっと息を吐いた。
「……やつは、なんなんでしょうか?……悪魔ですか?」
「なんでもいい」
「……ズィヤ?」
「未知の、新型兵器だとしたらどうだ。K.K.……いや、フランクがジェイを欲しがった理由は?」
「……それは……しかし……」
「同じだ。未知のもの。悪魔だろうが新兵器だろうが同じだ。進んだ科学は魔法と同じ。未知ならな」
「おっしゃる通りですが……調査すら……」
「モローは敵かも知れん。だが俺たちの身内にも1人いるってことだ」
ズィヤは腰を下ろし、デスクに肘をついて手を組んだ。
「カアン、アンキュラに行ってくれ。俺はジェイと話す」
【同日昼 トゥールーズ、スミレ・トゥールーズ店】
「ジェイ。iVitra。鳴ってる」
ヴィに言われて気づいた。買い換えたばかりのiVitraがポケットで振動している。
取り出して通知を見た。着信。ズィヤ・シムシェキ国民代表。
装着して通話ボタンにポインタをあわせる。
「はい?」
「ジェイ?ズィだ。今いいかな?」
「うーん。今、ラーメン屋の行列に並んでる。周りに聴こえてもいいならいいけど」
「……。そうか。じゃあ話すのは後にしよう。ファイルを送るから、見ておいてくれないか」
「わかった」
iVitraを外す。通話は自動で切れた。
「誰?」
「ズィ」
「ズィ?ちょっと。通話だよね?」
「うん?ラーメンだから後にしてもらった」
「……あの……まあ、いいか。急ぎならそう言うよね」
「ファイルを送るって」
心臓の定期検診は特に良くも悪くもなく、ケイト・カプランを見送った後、おれ達は昼食に来ていた。
スミレ・トゥールーズ店。ヴィがインウェニ・ハリタで調べたラーメン屋だ。有名なサッポロラーメンの店らしい。昼時なのでとても混んでいて、店の前には長い行列ができていた。他を探すのかと思ったら、ヴィは当然のように行列の最後尾に並んだ。
「まさか、待つの?」
「まさかって?こんなにたくさんのお客さんが並んでるのよ?美味しいに決まってる」
それはそうかもしれないが……腹が減った。
「おねえさま?ラーメンとは、パスタですの?——」
マドレーヌももちろん一緒だ。もう10日間、ヴィから片時も離れない。トイレと風呂以外。それも、ドアの前で待ってるほど。
「——あの看板の絵。ハシで食べるんですのね。私、初めての体験ですわ!」
「あら。ハシなんて簡単よ?ダメだったら手掴みで食べるのがマナーなの」
【同時刻 アンキュラ、パヴル自室配信ルーム】
「なにが出来ないって?」
『資料をな。ジェイに送りたいんだが。ほら、いつもお前が送ってくるみたいに』
ズィからのスペクルムの着信だった。
「ジェイさんはスペクルムやってないよね。無理」
『無理?いやそこをなんとか——』
「いやいや。そういうことじゃなくて。メールで送っていいんなら簡単に送れるけどさ。機密事項なんでしょ?」
『トップシークレットだ』
「じゃあスペクルム使わないと無理。ズィがジェイさんにスペクルムの使い方とかアプリのダウンロードとかチャット招待とか全部出来るなら可能だけど、それが無理。だよね?」
『う……やればでき——』
「ズィ。無理だから諦めて。たぶん片っぽだけで半日かかるから」
『片っぽ?』
「あんた達おっさん2人はIT音痴じゃん。まだジェイさんは少しはマシだけど、ズィよりは」
『そ……それは、確かに……なんとかならんか?』
「ヴェシレさんも混ぜていいなら、僕がチャットルーム作って、そこにズィとヴェシレさんが入って、ジェイさんはヴェシレさんの画面に入る。これなら今すぐ出来るよ」
『そ、そうか!さすがパヴルだ。天才か』
「あのね……僕が天才なんじゃなくて、ズィがダメ過ぎだから。少しは勉強したら?」
『す……すまん……』
かわいそうになってきた。いつもこれだ。
「じゃあルーム作るから。招待来たら入ってね」
ヴェシレさんから、すぐメッセージが来た。音声は——拒否?
『音声チャットは無理。マドレーヌいるから』
『そうなの?!マドレーヌどっかに追っ払えない?』
『無理。あなた達も直で見ればわかる』
『マジか』
『ねえこれ緊急?』
『モローqo知ってるな?』
ズィはさっきからメッセージを入力しかけてはやり直していた。チャットの速度についてこれてない。
『モロー?』『モロー?』
『イブンシーナびといん。翼で逃げts』
『サフィは?』『サマエル』
『さでぃは無事ds。さめる?』
『わかった。ズィ、パヴルくんと音声で話して。パヴルくん、ズィの話を後からメッセージで教えて。ラーメンが冷める。じゃあね』
ヴェシレさんがログアウトした。ラーメンの勝ち。
【同時刻 コンスタンティノープル、国民代表府、代表執務室】
「——そうだ。サフィにはディルシズの警護がついてるから心配するな。ありがとうな。ヴェシレによろしく」
ズィはスペクルムを終了した。
最初からパヴルに話を聞けばよかった。パヴルはジェイ達のことをほぼ全部教えてくれた。
サマエル。モローに……転生。乗り移ったということか。パヴル暗殺未遂のあの矛盾だらけの現場も、これで全部説明がつく。しかも……ジェイは悪魔の能力で死にかけてるんじゃなく、元々心臓が悪かった。モローは健康。能力も使い放題らしい。
右脹脛。モロー……サマエルのネックは、それだけか。アキレスの踵。なんとかなるかも知れん。見つけさえすれば。
ジェイたちはそもそも、ローマのためにトゥールーズまで行かされ、『いにしえの琥珀』に潜入している。その上、アンキュラで事件が起きたからこっちも、というのは……虫が良すぎるどころか、国家として無能すぎる。
【同日午後 アンキュラ、ジェベジ地区】
サマエルが飛翔したのは、僅か1分足らずだった。
フランク領事館。サマエルの記憶にはないが、モローの元職場だ。正面玄関前に舞い降り、車椅子に座る。驚愕の表情で衛兵に誰何されるが、元上司の顔を見て固まった隙にロクツィオした後はドアマンになった。ガスパールを呼びつける。
車椅子ごと領事館のプジョー・ボクセールに乗り、運転手付きでガスパールと共に領事館を出た。車の準備をしている間に、裏の
ドルク・ホテルから必要なものを取ってこさせた。サブのiPorta、グロック、PGMウルティマ・ラティオ。
領事館ナンバーのプジョーは走る治外法権だ。全く何のストレスもなく、まずはヘビクイワシに顔を見せるためジェベジ墓地の北の貸倉庫へ。途中で肉屋に寄って。
ヘビクイワシは順調に育っていた。ガスパールにも懐いている。顔を見せにきたのは、主人が誰かを再認識させておくためだ。春までは定期的に顔を見せる。
ヘビクイワシと小一時間過ごした後は、iPortaをナビに途中で買い物をして、ジェベジ駅前のこの単身者向けシテに到着した。
病院に忘れ物をしてきた。忘れていたわけではないのだが、置いてきてしまった。
約束は、守らなければならない。
【同時刻 トゥールーズ、スミレ・トゥールーズ店】
ショウユラーメンは絶品だった。行列に並んでいる間、ただでさえ空腹なのに強烈に胃袋を刺激する匂いにやられた。どんぶりから立ち昇る湯気、濃い黄金色のスープに浮かぶラード、ぶ厚い豚肉と半熟卵、黄色い縮れたメン。『いにしえの琥珀』の教義を真っ向から否定する、思い切りのいい料理だ。
「とっても熱いから気をつけてくださいね」
ヴィは、テーブルに置かれたラーメンを見た瞬間にハシを諦めた。フォークも一緒にセットされていた。
マドレーヌと2人で、パスタを食べる子どものようにフォークとレンゲでメンを巻いて食べた。熱さと初めての食感に歓声をあげながら。マドレーヌは今回は、教義など意に介していないようだ。アンジーがいないからか。
ジェイは箸を使えることを、手に持ってから思い出した。いつ覚えたのかは忘れたが、たぶんインドかジャポンか、その辺に転生した時だろう。ジャポンだとすると450年くらい前か。ヨシカゲ、ナガマサ、オイチ……ノブナガ。
「ふうーっ!美味しかったですわ!」
「どうよ。並んだ甲斐あったでしょ」
ヴィはドヤ顔で店を出ると、iVitraをかけ、それから指コツコツをした。おれもiVitraをかけろという合図だ。装着すると、もう通知が来ている。
『サマエル、アンキュラ』
ファイルが添付されていた。
サマエル……。なにをしてるのか。白昼堂々、街のど真ん中で翼を。車椅子……怪我をしていたのか。それで病院に?
10日前。
怪我をして、アンキュラの病院に。
ブラックマンバはサマエルの使い魔ではないということか。
使い魔との精神リンク。距離に制限があるかどうかは、長距離を試したことがないのでわからない。アリーとはせいぜい数十キロまでしか離れたことがない。だが、蛇の視覚では……リモートでコントロールしやすい使い魔ではないはずだ。
『ズィに電話する?向こうの用事は済んだみたいだけど』
「おねえさま!ソフトクリームがありますわ!ラーメンの後のデザートにピッタリですわ!ジェイさまも、いきましょ?」
『無理みたい。後でする』
『サフィはだいじょぶよね?警護ついてるみたいだし。あと、薬のみなさい』
警護か。
サマエル相手ではいない方がましだろう。
【同日午後 アンキュラ、イブン・シーナ病院ヘリポート】
「執行官。ご命令通り、サナル宅の警護に直接確認しましたが、異常はありません」
「リーダー。あなたが直接話しましたか?」
「はい。ご命令の通り。警護員2名とも、言動に不審な様子は——」
「カメラはないんでしたね……サナルが拒否した」
「はい。ですので、サナル宅前には24時間、人員を——」
国民代表府からヘリで1時間半。飛行中にズィヤから連絡を受け、サナルの警護が精神操作される可能性を警告された。ジェイ・ロルトから。デジタルによる監視がされてないなら、なにもしてないのと同じだと。
ギュネルは機内で熟考してきた。
まず、なぜサナルか、ということ。
ジェイ・ロルトもズィヤも、サナルの知人……友人だ。どんなに崇高な人間でも、贔屓はある。特にズィヤは、コジャテペで同じ審問会で悔悛者同士だったという繋がりもある。それをセットしたのは私だが。
次に、サナルとモローの接点。これは確認済みだがどういう偶然か、モローが急変した際最初に駆けつけ、救命したのがサナルだという。仮に偶然として——計画的ということはありえないとは思うが——それなら、モローはサナルに感謝こそすれ、危害を加える理由はないのではないか。
常識的に考えれば、サナルの警護優先度は、それほど高いとは思えない。
もちろん、革命のアイコンとしてのサナルの重要性は高い。彼女の身に何かあれば、国民からの信頼は地に落ちるだろう。
こんな時こそ、ケイト・カプランの頭脳を使えれば。ケイトはアルバロンの実家にそろそろ着いているはずなのだが、連絡がつかない。
必要性に疑問は感じるが、何もしないで後悔するよりはましか。
「車を。サナル宅に向かいます」
車はすぐに用意され、15分後、ギュネルはサフィのシテに到着した。そこでギュネルが見たのは、警護対象は一歩たりとも部屋から出ていない、と強弁に言い張る2人の警護員と、天井から壁、カーテン、カーペット、シーツまでありとあらゆるものがピンクで、虎の仮面やぬいぐるみと、バビュールのポスター、ヴェシレ・クルチュとジェイ・ロルトのツーショット写真を引き延ばしたピンナップなどに雑然と埋もれた、誰もいない部屋だった。
ギュネルはキリキリと痛む胃を押さえながら、ズィヤにスペクルム通話をかけた。
「やられました。サフィーエ・サナルが拉致されました」
【5分前 アンキュラ、ジェベジ地区】
クソキザフランク。VVちゃんが言ってた通りだ。
警護のディルシズのヘンタイに叩き起こされた。保護のため移動しますって、独身女性の部屋に合鍵で無断侵入してくるあんたらから保護してほしいわ。マジで。あたしの部屋は聖域。誰にも見せたことないのに。パブちゃんはもちろん、親にだって見せられないんだから。こんなオタク部屋。
激怒りながら着替えて、ヘンタイに連れられてシテを出たら、白いお肉屋さんのバン?に乗せられて、乗ったらクソキザフランクがいた。車椅子で。どーなってんの?運転手さんと、助手席には金持ちっぽいデブおじさん。なんなん。
「……あの。これってユーカイ?バレバレじゃね?身代金いくら取るの?」
バンは街の方へ走り出した。山奥とかに連れてかれるわけじゃなさそ。
「バレバレとは?」
「あんたモローだよね?なんで指名手配の犯人がディルシズとグルなの?おかしくね?」
クソキザフランクは歯を見せてニカッとした。キモい。
「彼らとは友達になったのでね。ご心配には及びませんよ、Mademoiselle」
でた。VVちゃんが、めちゃキモがってたフランク語。寒気がするって言ってた。ガチだ。
「それやめろし。キモいから。どこ連れてく気?」
「あー、実はあまり考えてなくてね。あなたと少し、話がしたかっただけで。ご一緒にランチでもいかが?」
「ランチか。そんくらいならいいけど?ぶっちゃけお腹は空いてるし」
「Laissez-moi vous guider.(ではぜひ、エスコートいたしましょう)mademoiselle!」
「だからキモいってば!」
「Oups!どこかいいお店はご存知かな?奢りますよ!フランク政府が!」
「いやキメるんならお店ぐらい予約しとけば?」
走ってるのはタラトパシャ大通り。車も人も多い。知り合いも。変なとこ連れてかれる前になんとかするなら今のうち。
「あーそこ!そこのレストラン。あたしジョーレンなんだけどいい?」
【5分後 アンキュラ、ジャポン・レストラン鯉】
サフィはクソキザフランクと2人で、いつものこの店に来て、ミソラーメンとスシを注文した。
そういえば……前にここでパブちゃんがタンタンメン喰った日に、パブちゃんこいつに殺されかけたんだっけ?
「あんたさ。なんでパブちゃん狙ってたの?」
「パブちゃんとは?」
「パヴル・エルギュン。あたしのダチ。あんた殺し屋なんでしょ?」
「ああ!パヴルか!ダチ?……まあとにかくそれは誤解だ。逆だよ。俺はパヴルを救ったんだ。そのためにわざわざ——」
「は?救った?いやあんたソゲキしようとして失敗しただけじゃん!」
「だから、失敗させたんだ。モローがパヴルを殺そうとしてたのを止めた。パヴルを助けた」
……なにいってんだこいつ?
「Mademoi——」
「それやめろってば。キモいんだから」
「ああ、すまない。つい」
「どーゆーこと?ちゃんと説明してみ」
「俺はモローをずっと見てた。この木偶が欲しくて。そしたらこいつがパヴルを殺そうとした。だから感電死させた。で、この身体をいただいた」
……なるほど?わからん。いやわかるけど。JJと同じやつか。VVちゃんが言ってた、堕天使とか悪魔とか、テンセイとかヨリシロの話。デクってなに。
「あれ?あなたはジェイエルの友達だろう?」
「誰それ?知らん」
「あー……ヴェシレ・クルチュ!ヴェシレの友達だろう?ヴェシレの彼氏。彼がジェイエル」
「……JJのこと?」
「JJ?いや、だからジェイエル」
「あんたも翼はえんの?」
ニカッと笑った。歯はきれい。
「翼見たいか?ここで?」
「いやここはマズいでしょ」
パブちゃんのことはとりあえず置いとくか。意味わからんし。後でVVちゃんに教えてもらお。
「飛べるんだ。いいねー。で?なに?」
「おお。やっと話が進んだ。あなたに頼みがあるんだ。あなたしかできないことだ」
「は?なにそれ」
急にシリアス入んのやめろし。コワイ。
「あなたは、俺の命を救ってくれた。まずはお礼を言いたい。ありがとう」
「……は?なんのこと?そんな覚えないけど」
「え?いや、俺が足から大出血した時——」
「ええ?あれあんただったの?」
いや仕事だし。
「で?頼みってなに?」
「病室に忘れ物があってね。小さな鉢植えなんだが」
「鉢植え?なんの?」
「いや、土だけだ」
「……は?」
まさか、そのせいであたしユーカイされた?
「……その、土だけの鉢植えを、持ってこいってこと?無理。ショーコヒンだからってオーシューされたよ。あたしなんかより、あの金持ちのおじさんに頼んだ方が早くね?フランクのエライ人なんでしょ?」
「……そうか。そうしよう」
「いやいや。そんだけ?そのためにわざわざ——」
「頼みはもうひとつあるんだ、サフィーエ・サナル」
え?なに目キラキラさせてんの?
「ずっと……一緒にいてくれ。死ぬまで」
サフィは盛大に咽せた。ミソラーメンで。




