7 灰の混沌
【2025年11月15日12時03分 コンスタンティノープル、ディオゲネス公園上空】
アリーがそれを見つけたのは、昼食を終えた直後だった。
昨夜、大きな車でジェイとヴィと一緒にここに来たときから、この公園が気になっていた。広い芝生。来たのは夜だったので、朝になったら探索すると決めていた。そして今朝。朝ごはんにヴィがハムをくれたからお腹いっぱいになり、たくさん遊びたかった。
残念ながら虫もトカゲもほとんどいなかった。もう寒いからだ。落ち葉の陰とかには虫がいたが、じっとして動かない。つまらない。
この公園には、変な形の木がたくさんある。石の木。そのひとつ、青緑色の捻れた石の木に留まって羽繕いをしていたときだった。
公園の南側、ごちゃごちゃと密集した色とりどりの建物の中でも一番背の高い建物の屋上に、それがいた。
灰色の大きな同類。ワシだ。
初めて見る種類のワシ。警戒体制。動きを止め、固まる。思わず声が出そうだったが我慢する。そしてじいっと観察する。
ワシも動かない。作り物じゃないのは本能的にわかったが、ピクとも動かない。こっちの方を見ているが、アリーを見ているわけじゃなさそうだ。
子どもだ。ワシの子ども。全体的にアンバランスで、足だけ大きい。翼は閉じているけど細いから、まだそんなに大きくない。
アリーは静かに舞い上がると、高度を上げて大きく旋回し、ワシの子どもの後方まで飛んで、それからフライバイで通過した。様子見だ。子どものワシはまだ飛べないはずだ。
アリーが頭上を飛び越しても、そのワシの子はピクリともしなかった。つまらない。遊んであげようと思ったのに。
次はもっと近くまで急降下して脅かすか。そう思って公園上空で旋回しようとして、ジェイとヴィが歩いているのを見つけた。
(わしのこ
みつけた
とべない)
【12時09分 ディオゲネス公園】
飛べない……わしのこ?
アリーのロクツィオが届いたがよくわからない。ここにはいろんな彫刻がある。そのひとつのことか。
アリーの映像を見ようとしたが、ヴィに左腕を捻じ上げられた。
「こっちを見ろ!」
ジェイとヴィはディオゲネス公園のベンチに腰掛けた。
ディオ。現代のローマの政治の中心に、ディオの名がついた公園。公園だけじゃない、大通りや、ホテルや美術館、その他いろいろな建物や記念碑、オベリスクもある。千年前、マラーズギルトでローマとテュルキエを救った……と、現代では称賛されている。
ディオゲネス公園は、乗馬が大好きだったディオゲネスにあやかって造られた戦車レース場の跡地。
全然違う。
ディオは馬が嫌いだったし、テュルキエも大嫌いだった。皇帝として、ローマを護るために仕方なく和解しただけだ。悪魔に魂を売ってでも、ローマを護りたいと。おれはその時にはもう、死んでいたけど。
ディオはローマのために。
おれはヴィのため、ヴェシリアとの約束のために。
おれ達は、何か、誰かのためならどんなことでもする。
サマエルは妹のため……確かにサマエルは兄として、アヴィエルのことをいつも気にしていた。だが。
「なんで黙って出て来ちゃうの?ランチだってすっぽかして。約束してたじゃない」
「わしのこってなんだ?」
「は?なんのこと?」
「アリーが、わしのこ見つけたって。ちょっと見てみるから」
ヴィはぽかんとした。
(アリー。わしのこを見せて)
青空と街並みが高速でパンし、4階建てのホテルの屋上にクローズアップする。
灰色の鳥。ヘビクイワシだ。アリーの言う通り、幼鳥らしい。
使い魔だ。11月のコンスタンティノープルにヘビクイワシ。野生なわけがない。
サマエル。
【12時12分 国民代表府、食堂】
「どうだ?このドルマ」
ケイトは勧められたナスのドルマを観察した。
豪勢な料理が並ぶ中、ズィヤ・シムシェキ国民代表の一推しは、地味なナスのドルマ。
「美味しいです。素朴な味だ」
カアン・ギュネル執行官がドルマを試食し感想を述べた。
「うまいだろ?アイシェおばさんのドルマだ。サフィ経由で、レシピをな。シェフに作ってもらった。カプラン捜査官、君もどうだ?」
「はい、えっと……私はベジタリアンなので」
「肉抜きもある!食ってみろって!うまいぞ?」
ケイトはまだ緊張していた。国家元首とのランチ。ケイトと言えど緊張してあたりまえだ。その国家元首は、デザートのバクラヴァを手づかみで食べ、手についたシロップを舐めている。
「で……顔合わせは上手くいったんだな?チームとして」
ケイトはドルマをつついていたフォークを止めた。
「チーム。私達がですか?」
「ケイト――」
ギュネルは既に食事を終え、ナプキンで口を拭った。
「――事前に言わなかったのは、我々もまだ手探りだったからです。でも私が見た限りでは、問題なさそうですね」
「なんのチームですか?3人でやるスポーツというと――」
国民代表が笑った。なぜ?それに、ジェイ・ロルトは無言で執務室を飛び出して行った。あれでも問題ないのだろうか?
「あの2人は何も言わずに飛び出して行きました。私もついて行った方がよかったでしょうか?チームなら」
執行官も少しだけ笑って言った。
「監視なら他の者が張り付いています。それでいいんですよね?ズィヤ」
国民代表はバクラヴァを飲み込んでから、また笑った。
「ゲストだ。保護するとは言ったが、監禁したわけじゃない。どこへ行こうと自由だ」
振動音がして、執行官がiPorta を見た。
「……ズィヤ。アラートです」
【12時33分 ホテル・ディオゲネスヒル】
レースのカーテンを開け、窓は全開にする。軽く手を振って血流を整え、射撃姿勢に入った。
スコープを覗く。
バルコニーのひさし。
ターゲットは昼食後まもなくバルコニーに出てきて、そこに設置された大きなロッキング・チェアに座り、食後のコーヒーを楽しむ。ターゲット・パッケージの記載にある。いつもの日課らしい。
今回の仕事を綿密に吟味した結果、狙撃はこのタイミング以外不可能という結論に達した。ターゲットが姿を見せないのだ。唯一バルコニーには出てくるものの、射線が通り、かつ目撃や妨害の可能性がない狙撃ポイントが存在しない。
普通の狙撃者なら。
DGSEがこの仕事にモローを選んだのは、不可能任務だからだ。モローが優秀だからではない。モローを使い捨てるため。
アザズェルの観察記録にもあったが、このモローという木偶は、過去に2度、大きな失敗をしている。1回目は完全に信頼を失くした。2回目は特定され、指名手配されている――まあ2回目は我々のせいだが。
だからこの不可能任務を押し付け、処分するつもりなのだ。これまでの仕事も同様だった。
俺にとっては、不可能ではない。
スコープの中のレティクルを、あらかじめ弾道計算によって導き出した基準点に合わせる。バルコニーのひさしの模様。弾丸は放物線を描き、ターゲットを隠している障害物を超えて飛んでいく。サブソニック7.62ミリ弾は速度が遅く、また弾頭が重いので、250メートルの距離では重力によってドロップダウンする。その先に、ターゲットの胸がある。|ブラインド・ロブ・ショット《遮蔽曲射》。
この狙撃の難点は狙撃そのものではなかった。ターゲットがいつバルコニーのロッキング・チェアに座るか視認できないのだ。そこでまだ幼鳥のヘビクイワシの初仕事を早めることにした。
ヘビクイワシは温暖な環境で生息する生物で、コンスタンティノープルの冬には適さない。計画ではこの使い魔の出番は来年春以降の予定だったのだが、まあいいだろう。訓練になるし、精神リンクをより強化できそうだ。
使い魔との精神リンク。
俺にとっては便利なインフラに過ぎないが、ジェイエルにとっては違うらしい。
あいつは長居し過ぎなのだ、地上に。
そして、関わり過ぎている。
目を閉じて、ヘビクイワシの視点に集中する。バルコニーはまだ無人で、ロッキング・チェアがポツンとあるだけだ。
ヘビクイワシはロクツィオが上手く使えない。こちらの指示は受信できるが、向こうからはただ映像を垂れ流すだけなので、頻繁にチェックしなければならない。
俺自身もこれに慣れなければ。
ヘビクイワシの映像を見ながら、トリガーガードに指を添える。
セーフティ解除はまだだ。
もう少し。
【12時38分 ホテル・ディオゲネスヒル】
ヴィはジェイと公園を横断し、ここまで歩いてきた。ジェイは急に立ち上がって走り出そうとしたが、しがみついて止めた。ばか男。公園で死ぬ気か。
「間違いないのね?」
「サマエルがいる。ヘビクイワシは目だ。狙撃のスポッター。このホテルの部屋から狙撃するつもりだ。たぶんターゲットは――」
「ズィ?連絡した。今食堂にいるから大丈夫。ディルシズが来るわ。待ちましょう。今のあなたじゃ――」
「人間じゃサマエルは抑えられない」
ホテルに入って行く。
「いらっしゃいませ。ご予約のお客様ですか?」
ジェイはロビーを見回す。
「……エレベーターは?」
「申し訳ございません。当ホテルにはエレベーターはございません。カウンターで――」
ジェイが階段を見つけた。
「だめッ!」
腕を捻じ上げる。振り解こうとジェイが暴れる。
ヴィは、左手でジェイの腰骨を強く掴んだ。そして親指を中臀筋の窪み、上臀神経に鋭く突き刺す。
ジェイが悲鳴をあげた。左脚が硬直し、動きが止まった。
「死ぬよりマシでしょっ!ばか男!」
【12時40分 国民代表府】
「ここにいる分には安全だろう?コーヒーにしよう」
執行官がiPortaを操作する。
「秘書課に手配させます。ケイトもコーヒーでよろしいですか?」
コーヒー。今日も夜にまた、コーヒーを飲む。約束。ジャズ・オズヴァルド秘書。
「バルコニーから――」
国民代表が立ち上がった。
「――眺めるのが好きなんだ、ディオゲネス公園を」
専用エレベーターで、執務室のフロアに上がる。国民代表がSPに囲まれて、先に。少し間を置いてもう一機もドアが開き、ケイトは執行官と乗った。
エレベーターが上がる。執務室のフロアは3階。
チームって言われた。捜査チームということか。私はチームプレーは苦手だ。ヴェシレ・クルチュとジェイ・ロルトは悪い人たちではなさそうだが民間人だ。しかもジェイ・ロルトは悪魔。上手くやっていけるだろうか?悪い人ではなさそうなのに悪魔。矛盾している。
ポーン、と電子音がして、エレベーターのドアが開く。
その瞬間から、カオスが始まった。
【12時42分 ホテル・ディオゲネスヒル】
来た。バルコニーの奥のウインドウがスライドし、ターゲットが出てきた。手にはコーヒーカップ。そのまま、ロッキング・チェアに深く腰掛ける。
人差し指をトリガーガードの内側に入れ、セーフティを解除。呼吸を整え、映像の中のヘビクイワシの視力で、ターゲットの身体を注視する。両脚とも弛緩し、今なら急には立てない。
目を開き、肉眼でスコープを凝視。レティクルは微かなズレもない。
トリガーをそっと引く。
ボシュッ。同時に再び目を閉じて、ヘビクイワシの視点。
コーヒーカップが砕け、黒い液体が散り――真紅に変わった。
亜音速7.62ミリ弾が、ターゲットの胸を破壊した。確実な死。
即座に撤収する。PGMウルティマ・ラティオを分解、折りたたむと、大型のキャリーケースに入れる。空のゴルフバッグ――に擬装したセラミックのバードケージを担ぐ。室内を一瞬で確認すると、ゆっくり歩いて部屋を出た。
屋上へは行かず、階段で一階まで降りる。急ぐ必要はない。
チェックアウトも不要、カードキーをポストに落とすだけ。
「ありがとうございました」
ホテルマンが会釈し、ドアを開けてくれる。笑顔で会釈を返してホテルを出た。
振り返ってホテルを見上げる。屋上は見えないが、ヘビクイワシは微動だにせずにサマエルの指示を待っているはずだ。
(来い)
屋上から、白いものが落ちて来た。
翼を広げ、必死に羽ばたいてはいるが、飛べずに落ちてくる。まだ技術も経験も足りない。
(落ち着け。そのまま落ちてこい。何もするな)
周囲からざわめきと、小さな悲鳴。
ヘビクイワシは羽ばたくのをやめ、翼を閉じて、不釣り合いに大きな鉤爪から落ちてくる。
(ここだ)
ゴルフバッグの上部を開いてロクツィオする。
ずぼっと、綺麗に飛び込んだ。
すぐにゴルフバッグを閉めていると声がかかった。
「おい!すごいな!大丈夫かい?」
観光客らしい若い男。
サマエルはその虹彩を捉える。
『お前は俺を見てない』
途端に若い男はサマエルへの興味を失って、フラフラと離れて行った。他の蟲螻たちも遠巻きにそれを見ているが、全員相手にするのはめんどうだ。iPortaを構えている女に近づく。
「あ……ごめんなさい!撮ってない……いえ、撮ったけど、すぐ消すから!」
女が慌ててiPortaを操作して、カメラロールを見せてきた。
確認するまでもない。
微笑んで会釈すると、サマエルは歩き去った。
7キロを超えるゴルフバッグを担ぎ、20キロあるキャリーケースを転がして、全くその重さも感じさせることなく、汗ひとつかかずに――
「サマエル」
振り返る。
男と女と……カラス。
【12時42分 国民代表府】
「ズィヤ!」
執行官が飛び出した。
エレベーターの扉がスライドし、歩み出ようとして執行官の背中にぶつかった。弾かれたように執行官が飛び出した瞬間、ケイトの眼が見たのは、混沌。理解できない光景だった。
国民代表。執務室の扉を背にして。
廊下に尻が落ち、足元にSPが1人。少し離れてもう1人。
横たわって動かない。
散らばるコーヒーカップ。
床に黒い染み。赤い染み。
国民代表の正面。廊下に立つSP。
シャツが茶色い。
その身体を背後から抱える腕。
もう片方の腕は、銃を構えている。
CanikTP9、SPの拳銃。黄色いコードが繋がったまま。
その拳銃を、SPではなく背後の男が握り、銃口を国民代表に向けていた。
エレベーターが開いてその光景を見た瞬間、ギュネルは反射的に飛び出した。
「ズィヤ!」
拳銃を握った男はギュネルを一瞥もせず完全に無視して、ズィに向けて引き金を引いた。
閃光。轟音。
ギュネルがズィに覆い被さるように倒れる。肩。ギュネルの右肩から鮮血。
そして、2発目の銃声。
ケイト。
廊下で、銃を構えて。
SPの背後の男が、頭をガクっと傾け――血飛沫。頭から。
ケイトは両手で銃を構えたまま、動かない――小刻みに震えて。
血飛沫をあげながら、SPと撃たれた男が折り重なって倒れていた。
廊下を走ってくる人影。奥から誰か走ってくる。別のSPか、他の職員か。何か叫んでいるが耳が聞こえない。
音が戻って来た。
「カアァァンッ!」
国民代表が絶叫していた。
【12時47分 レストラン・シェルベトハネ】
「ジェイエル。腰をどうした?」
おれは腰から手を離した。まだ痛いが。
「なんでもない。サマエル。なにをしてる」
「見ればわかるだろ。コーヒーを飲んでる。仕事の後は欠かせない」
サマエルは一口啜ると、カップを置いた。
「誰を撃った」
「美術館の館長。おまえの知り合いだったか?ジェイエル」
「美術館?国民代表府の隣りの?」
ヴィはサマエルを――モローを睨んでいた。クソキザフランク。見た目はほとんど変わってない。高そうなグレーのスーツ。灰色の髪をクラシックにきっちり分けて、ポマードかなんかで撫でつけている。
「Mademoiselle.そのようですね。フランク人なんですが、スパイだったらしいです。なかなかやりがいのある仕事でした」
「その喋り方はやめて。キモいから」
「……キモイ。褒め言葉ではなさそうだ」
「仕事。殺し屋か。なぜ?」
「ジェイエル。仕方ないだろう?この木偶が殺し屋だったんだから」
「仕方ない?お前がモローを選んだんじゃないのか?依代に」
「ほう。よく知ってるな。ああ、その通りだ。この木偶はいいぞ?おまえの……不良品と違って」
「お待たせいたしました。イスケンデル・ケバブでございます」
給仕がワゴンを押してきた。削ぎ落とされたドネル・ケバブをピデの上に載せ、手鍋から高温でドロドロのバターを豪快にかける。芳醇なバターの香りと蒸気が沸き立つ。
「うまそうな匂いだ。食えよ。再会を祝おう」
「質問に答えて。なにしにきたの?」
「Madem……いや、ヴェシレだったな。それは秘密だ。まあそのうちわかるよ」
「妹か?アヴィエルも地上にいるのか?」
……妹?初めて聞いたんだけど。ふうん。
「秘密だと言った。構うな。そうすれば、ヴェシレとのんびり余生を送れるぞ」
「いろいろ調べてきたのか。お前らしくないな」
「俺らしくない?ふん、ジェイエル。おまえはこっちに来過ぎだ。あっちもいろいろ変わった。アザズェルも真面目になったぞ?よく手伝ってくれた」
「……あの少年はアザズェルか」
「ああ。あいつは……いや、もうその話はいい。食わないのか?うまいぞこれ」
3人は無言でイスケンデル・ケバブを食べた。アリーは入店を拒否されどこかに飛んで行った。ヘビクイワシはゴルフバッグの中で、疲れて寝ていた。食事が終わると、サマエルはまたコーヒーを注文した。ブラックで。
「あなたは……わたし達に用があるわけじゃないのね?」
「そんなことはない。邪魔するなと言ってるだけだ。また飯を食おう。こっちには友だちがいなくてな」
「一応言っておくけど、指名手配中の殺し屋とご飯を食べる趣味はないの。今日は特別よ」
「特別か。そりゃどうも、Mademoiselle」
「……。わたし達にも構わないで。その身体は嫌いなの」
「|C'est horrible!こんなにいい木偶なのに。嫌われてるなら、近づかないから安心しろ」
サマエルはコーヒーを飲み干すと、席を立った。
「À bientôt 。次は地獄で会おう」
【20分前 国民代表府】
ジャズ・オズヴァルドは、100%シングルオリジン、ブルーマウンテンNo.1の豆をじっと見つめていた。
ミディアム・ローストされ、チョコレート色で、ひと粒ひと粒にシルバースキンの白いラインが走っている。袋に密封されていた甘い香りが給湯室を満たしていた。
今から僕は、この世界に誕生してから22年間で培ってきた全ての経験と知識、そして技術を注ぎ込み、最高の仕事を成し遂げる。この最高の豆で。
国民代表、執行官、ゲストの2人、そしてケイト・カプラン捜査官。今食堂でランチ中の5人のためのコーヒー。
60グラム。正確に計量し、半分ずつ2回。ポータブル・ミルで静かに手挽きする。ホッパーに入れ、香りを逃がさないようすぐに蓋を閉め、ハンドルを回す。毎秒1回転。均一に、正確に、ごりごり回す。
花のように華やかに、挽きたてのコーヒーが香りたつ。ごりごり、ごりごり。
挽き終わるとコンテナをトントン叩き、落ちた粉を落ち着かせる。均一に。全ての作業で、均一さが重要だ。中細挽き。品のある深い香り。
酸素漂白された白い円錐形の02ペーパーをドリッパーにセットし、一度湯を注いでパルプの臭いを洗い流す。
サーバーに載せて粉を半分入れる。均一に。そしてドリップ。湯はポットを余熱して、90℃。一滴一滴、茶色のしずくがサーバーに落ちていくのを静かに見つめて。
このひとしずくに、一滴一滴に、僕の全てを込める。これまで生きてきた全てを。人生を全て。ジャズ・オズヴァルドの全て。
何も残さずに。
あの人のために。あの人と踊る。あの人に導かれて。
色。チョコレート色。明るい茶色。コーヒーの色。
クリスマスの色。
赤い、金色、緑色。
2回に分けて5人分のコーヒーをドリップし、それをサーバーからポットに注ぐ。スワリングしながら、均一に。
全てを注ぎ込む。
あの人のために。
「ジャズ!コーヒー、3人分だ」
給湯室の入り口から秘書課長が顔を覗かせた。うるさい。僕の邪魔をするな。わかってるんだよ。おまえなんかの指図は受けない。
微笑みを浮かべる。
「はい。ただいま。執務室にお持ちします」
均一な声。無機質で無感情な、均一な声。
銀色の大きなトレイに、白いカップとソーサーを5つ並べて真ん中にポットを置く。静かに。正確に。機械のように。
カップはひとつひとつ余熱してあり、執務室でデスクかどこかにトレイを置いてカップを配ってからコーヒーを注げば、最高の豆で最高の技術で淹れた最高のブラックコーヒーを提供することはできただろう。
だがコーヒーを淹れるという目標はこの時点で完了した。
次の目標完遂を目指す時だ。
あの人の導きで。
あの人の指示通りに。
あの人の望みを叶えるために。
このトレイを執務室へ運ぶ。
静かに、丁寧に、正確に。
総重量2キロを超える大きな銀色のトレイを静かに持ち上げる。完璧に水平を保って、正確に、均一に、無機質に。
重さなど全く感じなかった。
あの人が一緒に持ってくれているから。
赤いドレス。長いライトブロンド。
美。可憐。妖艶。微笑。
エメラルドの瞳。
緑の炎。
あの人と一緒にトレイを運ぶ。踊る。
給湯室を出て、執務室への廊下で、あの人と踊る。くるくる、くるくる回る。くるくる、くるくる。
あの人の微笑み。僕も微笑む。
ジャズ・オズヴァルドは5人分のコーヒーが入ったポットと5つのカップを載せたトレイを両手で持ち、静かに歩く。一歩一歩、正確な足取りで、均一に。
無表情で。
国民代表執務室。扉の前にSPが1人。ジャズを見て小さく会釈したがジャズは見ていない。ただエレベーターを無表情で見つめてSPの横に立つ。
そして待つ。
ポーンと電子音が鳴り、2機のエレベーターのうち手前側の表示が上がってくる。それを見つめる。
あの人が微笑む。僕だけを見つめて。
僕も見つめ返す。エメラルドの炎。
炎に全身を包まれて、僕の精神が燃える。冷たく、無機質に燃える。
嬉しい。遂に叶う。あの人の望みが。僕の願いが。もうすぐだ。もうすぐ終わる。
ケイト・カプラン捜査官。短くカールした黒髪、コーヒー色に輝く頬。
あの人の白い肌。なびくライトブロンド。
真っ赤なドレス。
ケイト・カプランの黒い瞳。
エメラルドの炎が燃え移る。
ケイトは燃え尽き、灰になる。
終わる。
ママのマカルナ。
終わる。
ポーン。電子音。
ジャズがエレベーターめがけて瞬時に動いた。執務室前のSPが気づく間もなく、エレベーターが開いて出てきたSPの眼前に倒れ込むように跳んだ。
トレイが傾く。SPは反射的にトレイを支えた。ジャズはもうトレイを持っておらず、宙に浮いたポットを掴んでいた。
蓋はしていない。流れるようにコーヒーをSPの顔面めがけてぶち撒ける。
90℃の熱湯が、顔には僅かだけだったが胸から腹にかけて浴びせられ、SPは悲鳴をあげて前傾する。ジャズはさらに、かがみ込んだSPの顔面にポットを下から振り上げて叩きこむ。
ズィはもう1人のSPに庇われ、押されてエレベーターを出ようとする。背後からは別のSPがジャズに掴みかかろうとする。
ジャズはそれらの動きを全く気に留めず、のけぞった眼前のSPの腰の拳銃を掴む。ホルスターから引き抜くのと同時に手首を返し、銃口をSPの横腹に上向きに押し付けて引き金を引く。
ジャズは動きを止めずそのままSPの死体の背後にまわり、飛びかかってきたSP、ズィを庇うSPを立て続けに、正確に、1発ずつで射殺した。ランヤードがついたままのCanik TP9で、均一に。
ズィは至近距離で撃たれたSPの身体に押されて、執務室の扉に背中から叩きつけられ、そのままずり落ちる。
コーヒーカップが散乱し、ポットに残っていたコーヒーが床の絨毯に黒い染みを作る。そして、ズィの足元のSPの血の赤黒い染みも。
ジャズの身体は筋力や関節の限界を超えて動かされていた。
無理な体勢からポットを振り上げてSPをのけぞらせた時に右手首を骨折していたし、その前に90℃のコーヒーを浴びて火傷していた。しかし熱さも痛みも全く感じなかった。精神操作された脳は全ての感覚を遮断していた。プログラムされた指示のみがジャズの身体を動かしていた。
ジャズは左利きではなかったが、それも関係なかった。Canik TP9を奪い、瞬時に3人の屈強なSPを射殺したのは左手だった。
手首が折れた右腕でSPの死体を抱えたまま、ジャズの左手はズィに銃口を向けた。
ポーン。
2機目のエレベーターがつき、ドアが開いた。
「ズィヤ!」
ギュネルの動きは敏速だったが、ジャズは視界の片隅にそれを捉えながら一切反応しなかった。最後の指示に集中する。
左手の人差し指が僅かに動き、Canik TP9のトリガーを絞る。ギュネルが視界に飛び込んでくる。
閃光と轟音。
弾丸が飛び出し、ズィヤに覆い被さったギュネルの右肩に喰い込む。
これで全部終わりだった。
全ての指示を完遂した。
あの人の、全ての指示。
もう緑の炎は見えない。あの人が背中を向けたから。
白い背中。赤いドレスと、白い背中。
あの人は……
激痛。右手が。
目の前に男の背中。誰だ?ずり落ちていく。重くて支えられない。右手が。僕の右手。痛い。ママ。右手だけじゃなく体中痛い。助けてママ!ママ!
男がずり落ち、視界が開けた。
人が。倒れてる。たくさん。
コーヒーの香り。
あの人だ。ケイト・カプラン捜査官。
なぜ銃なんか。ケイ――
閃光と轟音。
「ズィヤ!」
ケイトは執行官が叫んで走り出した時、一瞬固まった。目から耳から飛び込んできた情報が処理できない。翼の時と違って、これはあまりにも唐突過ぎた。
ケイトは銃器の訓練はもちろん受けていた。飛び抜けて優秀ではないが、愚鈍でもなかった。脳が情報の処理に手間取った一瞬でも、訓練で身体に染み付いた反射が腰のCanik TP9を掴んでいた。
だが遅かった。銃声、執行官が被弾。
死体を盾にする男。銃撃犯。テロ。
死体がずり落ち、テロリストの頭があらわになった。
反射。テロリストを撃て。ケイトの意識ではないものが、Canik TP9のトリガーを引く。
同時にケイトの目はテロリストの顔を見た。
ジャズ・オ――
笑顔。コーヒー。困った顔。とびっきり。はにかんだ顔。夜。泣きそうな顔。約束。笑顔。
ケイトのCanik TP9から飛び出した9ミリパラベラム弾にとっては、行く先がなんであろうが関係なかった。ただひたすら直進するだけだった。無機質に、無感情に、無慈悲に。
9ミリパラベラム弾。
Si vis pacem, para bellum.
平和を願うなら、戦いに備えよ。
戦いに備えて訓練してきた反射神経が撃った弾丸がジャズの右眉の数センチ上の皮膚に激突し、頭蓋骨を粉砕して脳髄を破壊した。
血飛沫と脳漿が吹き出し、飛び散って、ジャズ・オズヴァルドは即死した。
何も聞こえない。
身体が震える。
銃の閃光と血飛沫だけが見えた。
ジャ/コーヒ/ズ・オ/おは/ズヴァル/とびっ/ド秘書
火花/スパーク/稲妻/炎/燃焼/灰/灰/灰/灰/さらさら/灰/kül/灰/さらら/cendre/灰/サラ、ラ/灰/サラ、ラ……サラ、ラ……サラ、ラ……
全て灰に。




