6 灰の黎明
【2025年11月15日08時16分 コンスタンティノープル、国民代表府、執行部フロア】
ケイト・カプランは驚いた。給湯室で。
ジャズ・オズヴァルド秘書。朝に会うのは初めてだ。なぜ?秘書課はフロアが違う。なぜこのフロアの給湯室に?
「おはようございます」
「あ!おはようございます!」
弾けたような笑顔。
「ジャズ・オズヴァルド秘書。なにをしているんですか?」
「えっ……い、いや、その……あなたに、コーヒーを……」
また表情が変わった。ジャズ・オズヴァルド秘書の表情は、頻繁に変化する。2秒前には破顔していたのに、今は困ったような、悲しそうな顔。なぜ?
「コーヒー。私に。なぜ?」
「す……すみません。いい豆が入って……約束したから」
豆。コーヒー豆のことか。約束。昨夜、とびっきりの、と言ってた。ご馳走しますって、私にって意味だったの?
「とびっきりの。ですか?」
また破顔した。すごい。
「そうです!最高のブルーマウンテンNo.1が入荷したんで!100%シングル――」
「そうですか。良かったですね。私は朝はコーヒーは飲まないけど」
朝は目が覚めたばかり。脳は覚醒している。カフェインは必要ない。夜はカフェインが必要。1日に摂取するカフェインの量が多過ぎると――
「そんな……」
「どうしました?顔色が悪い。医務室へ――」
「い、いえ……大丈夫です!すみません、仕事しなきゃ!」
「はい。えっと……夜。夜はコーヒーを飲みます」
また笑った。本当にすぐ、表情がかわい……変わる。
「ですよね!じゃあ夜……必ず!あ、そうだ……お名前、教えていただけませんか?」
「名前?」
そうか。捜査官はネームプレートを付けてない。名前……名前は……。
「私の名前。……ケイト……カプランです」
「ケイト!……さん。カプランさん。捜査官。す、すみません!じゃあ夜!」
ジャズ・オズヴァルド秘書は給湯室を飛び出して行った。顔が紅潮していた。やっぱり熱があるんじゃないだろうか?
ジャズ・オズヴァルド秘書。まだ3回しか話をしていないのに、あんなにたくさんの顔。表情。
おはようございますの笑顔。
困った顔、悲しい顔。
驚いた顔。紅潮した顔。
ブルーマウンテンの笑顔。
たくさんの表情が、くるくる変わる。
【08時24分 ホテル・ディオゲネスヒル】
一階のレストランでビュッフェのコーヒーを飲み終え、サマエルは自室に戻った。
悪くない朝食だった。変わりばえのしないコンチネンタル・ブレックファスト。だがトマトは新鮮だったし、パンも焼き立てだった。あとはゆで卵とサラミ、セルフサービスのコーヒー。十分だ。
仕事は昼。
狙撃ポイントはこの部屋なので、時間にはたっぷり余裕がある。
室温と気圧は整っている。今朝起きてまず窓を開け、そのまま外気と同調させてあった。レースのカーテンだけ閉めてある。
(初仕事だ。行くぞ)
ゴルフバッグのストラップを肩にかける。だいぶ重たくなった。7キロくらいか。部屋を出て、階段から屋上へ。
屋上に上がり、ターゲットの死に場所となる、きっかり250メートル先の建物を眺める。北向き。快晴だが太陽の位置を気にする必要がない。風速も、今のところほぼ無視できる微風。予報通りなら午後まで風は変わらない。
ゴルフバッグから道具を出し、フェンスにセットして、カバーを外す。
(あそこだ。キョロキョロするな)
燃料を与える。鶏のササミにカルシウムのサプリメントをまぶした燃料。水分補給も兼ねている。
道具の設置を終えると、サマエルは部屋に戻り、ベッドに寝かせていた銃を手に取った。清掃を始める。
バレル内の防塵用オイルを完全に拭き取り、内部を完全な乾燥状態にする。弾丸の発射時の超高温高圧では、オイルが少しでも付着していると、それがディーゼリングを起こして弾道が僅かに狂ってしまう。250メートル先では大きな狂いだ。
サマエルは静かに、丁寧に、清掃を続けた。
【08時37分 国民代表府、執行官執務室】
ケイトは給湯室で水を飲むと、カアン・ギュネル執行官の執務室に向かった。0840時に呼ばれている。
執務室の前で立ち止まり、腕時計を見る。0838時。扉の横に立ち、指定時刻を待つ。
「おはようございます」
ヴェシレ・クルチュ。
トイレから出てきた。会うのは初めてだが、顔はよく知っている。元シスター。8月17日、エンデューラを阻止。8月19日、ヘリ墜落事故から生還。ただひとり軽傷で。11月14日、昨日。K.K.のスィビルスで悪魔だと告発された。ジェイ・ロルトと一緒に。
執行官に呼ばれたのは、この2人に紹介されるためだ。ジェイ・ロルトはもう室内にいるということか。いつも密着していると聞いていたが、トイレは別なんだ。
「おはようございます。ケイト・カプランです」
ヴェシレ・クルチュは軽く会釈して、執務室の扉を開ける。ノックもしないで。
まだ24秒前だけど、いいのかな?いいのか。
続いて執務室に入った。
「ケイト。おはようございます。もう会ったんですね?ヴェシレと」
「はい……えっと……あ、おはようございます」
「こちらはジェイ・ロルト。ジェイ・ロルト、カプラン捜査官です」
窓に背を預けて、ジェイ・ロルトが立っている。写真と全然違う。黒いハットを目深に被り、よく見えないけどミラーサングラスもしてる。不精髭。黒ずくめ。ヴェシレ・クルチュが隣に行って……しがみついた。
「ジェイ・ロルト。初めまして。ケイト・カプランです」
返事をしない。会釈もしない。なぜ?
「ケイト。あなたの事件の話を」
執行官はデスクで、両肘をつき、顔の前で手を合わせて座っている。
私の事件。エーゲ・ユルマズ事件か。
「はい、えっと……報告書はお読みですよね。報告書に書いてないことを話せばよろしいでしょうか?」
「まず、あなたがこの事件をどう思っているか。そこからお願いします。なぜパヴル・エルギュンが狙われたのか」
「動機ですか?革命伝播阻止です」
「革命……なんですって?」
ヴェシレ・クルチュが眉をしかめた。言葉を知らないのか。思考能力が低下しているんだろうか?
「革命伝播阻止。パヴル・エルギュンはエーミッターです。彼はバビュールという――」
「パヴルくんのことはよく知っていますわ」
「そうですか。フランク王国は、ローマの革命が自国や周辺諸国に伝播――広がる、という意味の言葉です。綴りは――」
「ケイト。つまり狙撃はフランクの指示だと。K.K.は無関係と、そういうことでしたね」
「……はい。えっと……そういうことです」
「狙撃のタイミングは?カプラン捜査官、あなたの報告書には、パヴルくんのライブの真っ最中に、コメント欄にK.K.が現れたその瞬間に狙撃と書いてありましたわ」
「偶然だと思われます。人は稀に、偶然の出来事に――」
「コインシデンスの過剰解釈?それはどうかしら」
ヴェシレ・クルチュ。思考能力が向上してきたらしい。興味深い。
「わかりません。思われます、と申し上げました。確信はありません。ただ、実行犯であるシルヴァン・ド・モローは――」
「コードネームアシェ。登場人物紹介は結構です。よ〜く知っておりますの」
「全員じゃない。遺体。少年のことを話してくれますか?」
一瞬、どこから声がしたのかと思ってしまった。低い声。ジェイ・ロルトが、初めて声を出した。
「……はい、えっと。エーゲ・ユルマズ、14歳。エデッサの中学生です。私は……この少年こそ、偶然居合わせたのではないと思ってます」
「中学生。中学生が国際的暗殺未遂に関与してるとおっしゃりたいの?」
「わかりません、としか言えません。でも、彼がこの事件の最大の謎なんです。偶然どころか、奇跡が起こってて」
「奇跡?その少年は亡くなったのでしたわね?モローに撃たれて」
「……はい。えっと……順番にお話しします」
エーゲ・ユルマズ少年の溺死、蘇生、忘却の旅の詳細を話した。報告書に書けなかった話。ヴェシレ・クルチュが口を挟もうとするたび、ジェイ・ロルトが制して無言で話を聞いていた。
「――で、タクシーでペットショップに寄って、そこでヘビを――」
「ヘビ。どんな?」
ここでジェイ・ロルトが声量を上げた。
「ブラーミニメクラヘビ。小型で、毒はなく――」
「そのヘビは今どこに?」
「感電死しました。現場の配電盤で。そのせいで漏電が――」
「いつ?」
「え?」
「漏電はいつ?狙撃の前?後?それとも――」
「はい。漏電が起きた時刻は正確にわかっています。1625時、狙撃と同時刻で――」
「わかった」
突然、ジェイ・ロルトが動いた。私の目の前に。ヴェシレ・クルチュにしがみつかれたまま。ミラーサングラスを外して、私を見下ろす。
黒。黒い瞳。暗黒。吸い込まれる――
一瞬だけだった。
ジェイ・ロルトは眉間に深く皺を作って視線を逸らした。
「ジェイ!大丈夫?」
ヴェシレ・クルチュが顔を歪めてジェイ・ロルトにサングラスをつけさせようとしている。まるで脈を測るみたいに手首に触れながら。ジェイ・ロルトはサングラスを拒否した。
「いや……大丈夫。なんでもない」
ジェイ・ロルトはヴェシレ・クルチュに首を振っている。今のはなんなのだろう。
「……。ケイト。話の続きを」
執行官に促され、銃撃、薬莢、腕時計、ヘビの痕跡、全て話した。ジェイ・ロルトはまた窓辺に行って佇み、じっと私を見ていた。ヴェシレ・クルチュはジェイ・ロルトを見ている。
「――以上です」
「エデッサから――」
ジェイ・ロルトが喋り始めた。
「――アンキュラ。イブン・シーナ病院。少年と接した人たちはみんな、様子がおかしかったんですね?」
「はい。えっと……判然としませんが――」
「記憶を失くしたみたいだった?」
「そう見えました。限定的に一部分だけ。少年との会話の内容とか、その時の自分の行動」
「……どういうこと?」「どういうことです?」
ヴェシレ・クルチュと執行官が同時に聞いた。このシチュエーションでは確率は――
「ケイト・カプラン」
ヴェシレ・クルチュを遮り、ジェイ・ロルトが私を見据える。
「フランクのことを聞いていいですか?あなたはフランク人?」
「18まではフランク人でした。今はローマ国籍です」
「あなたは何歳?」
ジェイ・ロルト。この人は他の人と違う。私と似てる。コミュニケーションがちゃんとできる人たちは、女性に年齢を聞かない。失礼らしい。私にはわからないけど。
「25歳です。7年前に移住しました」
「フランク王室については?知ってますか?」
「はい、えっと……現国王はルイ21世。2014年に即位し――」
「あー、いや、K.K.に改宗したことについてです」
「はい、えっと……当然かなと。いにしえの琥珀はフランク発祥ですし、ローマと比べて信徒数も多く、国民への浸透度も高いです。王室や政府に信徒がいても不思議とは思いません。フランクだけじゃないけど、カトリックはもう宗教というより政治の手段でしたし」
ヴェシレ・クルチュが首を傾げた。
「フランクもそうなの?カトリック教会は?」
【10時00分 ホテル・ディオゲネスヒル】
教会の鐘が聞こえた。ホテルの裏の、旧カトリック教会。もう機能していないが、定時の鐘だけはまだ続けているらしい。
サマエルはターゲット・パッケージを全て記憶していた。DGSEの仕事の指示はiPortaの秘匿メッセージでくるし、必要な知識は吸収済みなので記憶するまでもないのだが。
DGSEの仕事は激増していた。
スヴェイシュ。フランクを初めとする諸外国はその利権を巡り、裏社会でも睨み合いを続けていた。スパイや工作員の仕事。
クリーニングロッドをしまい、専用トルクレンチを出す。規定値を正確にセットし、レシーバーのボルト、スコープのマウントのビスのトルクを確認する。
ズィヤ・シムシェキ国民代表。あの男は権力欲もなく、利権や領土の拡大にも興味はない。それどころか縮小した。それが新政府を短期間で安定させている。
ズィヤ・シムシェキがこれら全てを計算していたわけではない。だがあの男の求心力と誠実さが、これらを可能にした。
このままなら、ローマは安泰だろう。国民はパンと電気が不足しない限り文句は言わない。宗教など、個人的なことに過ぎないのだ。
【10時43分 国民代表府、執行官執務室】
「——我が国は、貿易に頼らなくても食糧自給率は高く、労働者の世代分布も比較的若い。エネルギー問題はあるが、これもスヴェイシュを放棄したことが産油国などに好意的に受け取られた。つまり、フランクを始めとする諸外国の目がスヴェイシュに向き、我々から逸れるのは、狙い通りなのです」
執行官がヴェシレ・クルチュの質問に応えて、フランク王国におけるカトリック教会の衰退、政治的思惑について語っていたが、ヴェシレ・クルチュは途中から、私を見つめていた。
「カプラン捜査官。個人的なことをお聞きしてもよろしいかしら?」
ヴェシレ・クルチュが目を細めた。刃物みたいに。
「あなたは……クレデンテス?それともペルフェクティ?」
ヴェシレ・クルチュの眼を見返す。
「私はディルシズ捜査官ですが。なぜそんな質問を?」
「質問の答えは?ノンということかしら?」
「そうです」
「まあ。では神も悪魔も信じていないのね?」
「私は自分の目と頭脳を信じています。神なんてその教えをもっともらしく信徒に伝えるための飾りです。悪魔もそう」
「ふうん。わたし達似てるかも?わたしも、シスターだった頃からずっと……つい最近まで、そう思っていたわ」
ヴェシレ・クルチュはジェイ・ロルトに微笑みかけた。すると――
ジェイ・ロルトがいきなりジャケットを脱いだ。そしてさらに、セーターも。なぜ?なぜ裸に?なぜ?なぜなぜ??
ヴェシレ・クルチュが、上半身裸になったジェイ・ロルトの左腕を抱き寄せ、その手首にそっと触れた。
窓から差す逆光の中、ジェイ・ロルトの肩から、何か黒いものがゆっくりと盛り上がり始めた。
ゆっくり、静かに。少しずつ、大きく。
逆光がそれに遮られ、影が室内を覆った。
……翼?黒くて巨大な……鳥類の翼?
「おれは悪魔だ。よろしく、ケイト・カプラン」
な……なにがおきてるの?この……翼?これは――
「あ?……あの。え?えっと……そ……それは――」
ジェイ・ロルトが背中を向けた。
「触ってみる?」
パシッと大きな音がした。ヴェシレ・クルチュがジェイ・ロルトの肩をひっぱたいた音。
「調子に乗るなッ!」
「……あの。さわっ……触ってみて、いいですか……」
ジェイ・ロルトに近づこうとして、躓く。何もないのに。足元がおぼつかない。
「いいけど……ちょっとだけね?」
ヴェシレ・クルチュが不機嫌そうに許可を出した。なぜ本人ではなく、ヴェシレ・クルチュが?でも、信じられない。自分の目が。触って、確かめたい。これが現実だと。
柔らかい。心地よい手触り。気持ちいい。夢みたい。だけど現実だ。
ヴェシレ・クルチュがジェイを強引に引き寄せた。
「もうだめ!……もういいから早くしまえッ!あと服を着ろ」
翼が消えた。しゅん、と。
くつくつ笑いが聞こえた。執行官が笑ってる。
「ケイト。それは……まだ氷山の一角。まだまだ先が――」
「え?執行官はご存知だった?」
「コジャテペで、もっと凄い姿を見ましたからね」
「信じた?」
ジェイ・ロルトがセーターを被りながら言った。
「は……はい……えっと……あなたはいったい……」
おれが何者なのか。なぜ来たのか。
なぜ来た?
誰かが、来た。
少年はロクツィオを使って大人たちを操作した。溺死。アンティノウスと同じ。溺死は一瞬で窒息する。心停止。そして……漏電、低圧感電死。同じく無傷で心停止。
少年はモローの転生を手伝いに来ただけだ。おれ達は依代が死ぬまでこの肉体から出られない。少年に転生したやつは早く帰りたかった。だからモローに転生したやつが手を貸した。
何をしに来たのか。それがわからない。転生する理由などない。人間の肉体は、おれ達にとっては檻だ。わざわざ檻に入りたがる理由がない。
【11時28分 ホテル・ディオゲネスヒル】
サマエルはスコープの清掃と調整を完了し、再びストレッチをして身体をほぐした。
この身体は非常に優れている。頑健だがしなやかで、復元力も高い。長時間姿勢を固めて動かなくても、なんの異常も見受けられない。
射撃ポジションの構築を始める。
窓から1メートル下がった位置に、テーブルとチェアを使ってベースをセットする。バランスよく鍛えた筋肉が、重厚な家具をなんなく移動させる。
この木偶の肉体は気に入った。
もちろん、それが転生の理由ではないが。
バイポッドをテーブルに載せ、射撃姿勢を試す。この姿勢で、これからまたひとり蟲螻を殺す。めんどうだが、この木偶を維持するためだ。
ジェイエル。あいつは好事家だ。堕天した俺たちにはもう使命は義務ではない。なのにあいつは……しかも無頓着過ぎて、今回の転生でもアザズェルに欠陥品を掴まされ、苦労しているようだ。いいやつなんだが。
計画の邪魔をしないならあいつに構うことはない。だが邪魔をするなら、容赦はしない。周りにいる蟲螻たちも同じだ。
射界を確認し、左手でストックを右肩に押し付けて固定する。スコープを覗く。
見えるのはバルコニーのひさしだ。スコープの丸い視界の底部は、手前の屋根の陰に隠れている。これでいい。弾道計算は精確だ。
ズィヤ・シムシェキ。あの男がいなくなったら、この国は誰が牽引するのか。
それは他の誰かが考えることだ。
俺が気にすることではない。
狙撃予定時刻まであと1時間ちょっと。
サマエルは目を閉じた。
【11時36分 国民代表府、執行官執務室】
ジェイは目を閉じた。ジェイエルは考えていた。ヴィが|"狩り"《使命》について話すのを聴きながら。
終わった"狩り"。全て過去だ。だがその終わりに、新たな使命が授けられた。
『幸せに生きながらえるよう、
見守ってやってくださいな。』
約束した。
ヴィはおれのとなりで、ジェイ・ロルトのやってきたことを語っている。
ケイト・カプランに。
ケイト・カプランと虹彩を絡ませた時、その意識は混沌の中でもがいていて、異常を訴えていた。あちこちで小さな火花がスパークし、言葉が飛び交って、それがめちゃくちゃに入り乱れていた。それしか見えなかった。
『私たちにとって、死は絶対。そして、永遠のものなのです。あなたがどう思おうと』
ヴィはジェイ・ロルトの左腕にしがみつき、その肉体を必死に守ろうとしている。ジェイ・ロルトの肉体は、もってあと一年。その後もおれは、新たな使命を果たし続けるつもりだ。別の肉体で。何度も何度も、ヴィが命を全うするまで。
約束を守るため。使命を果たすため。
モローはサマエルだ。
何度も。何度も溶岩の海に飛び込み、妹を探して灰になり、また甦り、それを繰り返していたサマエル。
サマエルなら、やるだろう。
妹が地上にいるなら。
妹を探すためなら、肉体の檻などなんとも思わないだろう……サマエルなら。
妹――アヴィエルのため。
あれから、ジェイ・ロルトは黙ってしまった。サングラスはしなかったけどハットの鍔を深く下げ、考えこんで。
会話も行き詰まり。コーヒーが飲みたくなった。ジャズ・オズヴァルド秘書。え?それは夜だ。壁時計を見る。11時49分。3時間も話していたのか。
「今日はこの辺にしておきましょう。もう昼食の時間だ。ズィヤとランチです。ケイトもどうですか?」
ズィヤ・シムシェキ国民代表とランチ。ランチはいつも1人で食べる。もう少し、ジェイ・ロルトとヴェシレ・クルチュと話がしたい。事件以外にも、聞きたい、知りたいことだらけ。
「行きましょ、ケイト。わたし達も一緒だから」
ケイト。私の名前。ヴェシレ・クルチュがケイトと呼んだ。カプラン捜査官じゃなく。なぜ?
「おれは行かない」
「……は?」
「腹減ってないから」
それだけ言うと、ジェイ・ロルトはスタスタと執務室を出て行く。
「ちょっと!待ちなさい!」
ヴェシレ・クルチュが追いかけて、やはり出て行った。
ランチ。食事の時間。会話しながら食事をするのは非効率的だ。どちらかに専念する方がいい。
【11時54分 国民代表府、秘書課】
ジャズ・オズヴァルドは時計を見た。あと6分で昼休みだ。さっき時計を見てから1分進んだ。
腹は減っていた。だが時間が気になるのは、空腹のせいではなかった。どうしてこんなに時間が気になるんだろう?仕事が嫌だから?配属になって仕事を始めて2週間。張り切り過ぎてなる燃え尽き症候群てやつか?疲れてるのかな。
また時計を見た。1分しか進んでない。早く昼休みに……いや、昼休みが……楽しみ?ではない。どうしてだろう。わからない。とにかく時間が気になる。
昼休みになったら、食堂へ行く。いや違う。そうじゃない。昼休みが終わる頃に……どうして?それじゃランチを食べる時間がない。
いいんだ。腹は減ったけど、ランチなんかどうでもいい。
ランチなんかより、もっと大事なことがある。コーヒーだ。コーヒーを淹れなきゃ。
あの人のために。
それがランチより、仕事よりもっと大事なことだ。
時間が気になる。
【12時01分 ホテル・ディオゲネスヒル屋上】
彼はまだ幼かった。初めて見る高所からの景色に圧倒されていた。林立するホテル。古い石造りの建造物。ガラス張りの近代的なビル。そそり立つオベリスク。アヤソフィアの巨大なドーム。
ディオゲネス公園の広大な芝地、遠くで輝く海。そしてなにより、広く高く大きな空。
空は、彼の領域だ。風切り羽が黒く染まった灰色の翼を真っ直ぐに伸ばし、雄々しく自由に滑空する……そうなるまでには、まだあとしばらく待たなければならない。
ホテル・ディオゲネスヒルの屋上で、長く細く黄色い脚の先の、大きな鋭い鉤爪がフェンスをしっかりと掴む。黒くて艶のある鉤爪の足と驚異的な視力だけは、もう成鳥と変わらないレベルに達している。
そのまだ幼いが故の茶色い眼で、彼は一方向を凝視していた。ターゲットがまもなく出てくるバルコニーを。
直下の一室で、PGMウルティマ・ラティオに7.62ミリサブソニック弾のマガジンを挿入しているサマエルに、ターゲットの姿を見せるために。
まだ低くしか飛べず、走った方が速い。
成鳥では鮮やかなオレンジ色になる顔はまだ黄色く、後頭部の冠羽もまだ短い。
彼はヘビクイワシ。
巣立ってまだ4日目の幼鳥で、サマエルの使い魔だった。




