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5 羊たちの会話

【2025年11月14日夜 コンスタンティノープル、国民代表執務室】

「ジェイ、でいいですよ」

 ズィは握手を済ますと、改めて目の前の男を観察した。前回会った時は、この男は入院中のベッドの上だった。その前は巨大な白い十字架型照明ユニットの下敷きになりかけていて、さらにその前は俺がGTの黒服に取り押さえられている最中だった。こうして、お互いちゃんとして会うのは初めてだ。

「ジェイ。じゃあ俺のことも、ズィヤと。ズィでもいい。パヴルはそう呼ぶよ」

「ズィ。短くていい呼び名だ」

 

 ちゃんと、といっても、この男はミラーサングラスをして目を見せない。病院でも視線を合わせようとしなかった。コジャテペで見た、あの印象的な黒い眼。吸い込まれるような感覚が忘れられない。深淵のように黒い瞳。

 ハット。Vネックのセーター。髪もズボンも、全て黒。そして今日初めて気づいたが、小さなピアスをしている。左耳だけ。これもまた、黒。そして、肩にはカラス……もちろん黒。

 

 ジェイの左。ヴェシレが、左腕に……しがみついている。というか、ジェイの左腕を抱き締めている。

 ジェイが目を隠している理由は、握手を交わす前にヴェシレから説明された。俺と目が合うとあの化け物になってしまうと。なぜそうなるのかはわからない、と。

 信じ難い話だ。意味がわからない。だが、あの化け物を、俺は確かに見た。至近距離で。神は信じないが、自分の眼は信じるしかない。そしてそれに俺が関係してるというのもわけがわからないが、少なくとも彼らはそう思ってる。今はそういうことにしておこう。落ち着いたら究明したい謎だが。

 

 視線に気づいたのか、彼女はパッとその腕を離した。

「……ごめんなさい、シムシェキ国民代表。あの……こうしたくてしてるわけではなくて。無意識に……あーもう。説明が必要ですわね」

「ヴェシレ。パヴルやサフィから、いろいろ詳しく聞いてる。気にしなくていい。それとあなたも、よかったらズィと」



 ……いろいろ詳しく?パヴルくんはともかく、サフィがなんと説明したのか。

 ヴィは久しぶりに耳が紅潮しているのを感じた。

「そ、そう。それは良かった。ええ。良かったわ」

「ヴェシレ、あなたには本当に感謝してる。最近のK.K.の動きからして、改めてそう思ってるんだ。あの時――」

「待って。わたし達、あれ以来……ずっと療養してたからよく知らなくて……どうしてまたK.K.が復活を?あれで終わったと思ってたのに」


「私からお話します」

 カアン・ギュネルが口を開いた。執行官(エグゼクトル)。元Ö.A.G.T.(特別使徒保安庁)アンキュラ支局長。わたしとは初対面と言っていい。コジャテペの屋上駐車場で見かけただけ。

「パヴル・エルギュンの暗殺未遂事件はご存知ですか?」

「ええ。パヴルくんに聞きましたわ。K.K.が犯人?」

 

 ギュネルは首を振った。

「……それはまだ、確証がないんですよ。狙撃手の身元は割れましたが、繋がりが……モローという男です。あなた方も知っている」

「モロー?あのクソキザフランク?」

 アリーがジェイの肩から頭に飛び移った。ハットの上に。

 ギュネルが目を見開いて固まった。

「……あ。ごめんなさい……つい」

「相変わらず手厳しいな、ヴェシレ」

 ズィが笑った。恥ずかしい。

 ズィは鳩尾をさすりながら続けた。

「カアン、ヴェシレはこういう人だ。俺なんか――」

「やめて!あれはあなたが悪いんでしょ?」

 ズィの両手が上がった。降参。笑いながら。


「その……モローですが。指名手配中ですが、今のところ手掛かりなし。消えました。領事館にも当たりましたが……ガスパール副領事も、モローを良くは思っていない」

「そりゃそうですわ。マドレーヌ――令嬢を突き飛ばして逃げたんですもの。腰を抜かして」

「ええ、ガスパールからも聞きました。モローはなぜそんな醜態を?」

 それまで黙って聞いていたジェイが言った。

「悪魔を見たからです」


 ギュネルはまた一瞬固まりかけたが、すぐにくつくつと笑った。

「悪魔。そうですね、あなたを見て逃げた。気持ちはわかります、私も審問会で見ましたから。あれは恐ろしかった……いや、失礼ですかね」

「領事館では化け物になったわけじゃ……まあでも似たようなものね。翼を広げて、モローを助けようとしたんですわ。シャンデリアが落ちてきたので。アリーがシャンデリアを落としちゃって」

「シャンデリア。アリー?……まあその辺の話はまたいずれお聞かせください。おもしろそうなお話なので。今はK.K.の話を」

 アリーが翼を広げてひと声鳴いた。

「モローを追って、領事館に行かれたんですの?」

「ええ、それもありましたが……我々は、領事館――ガスパール副領事が、K.K.の資金源だと考えています。そう考える確たる理由があるので」

 これは初耳だった。ガスパールが?

「首席審問卿が、ガスパールを調べていたんですよ。残念ながら途中で……」



 ヴェシリア。それなら間違いないだろう。あの女がそう思っていたなら。だがこの男はどうか。カアン・ギュネル。この男は信じられるか。確かめる必要がある。

 ジェイはギュネルの正面に立った。

「カアン・ギュネル。執行官。おれはまだ、あなたのことをよく知らない。知ってもいいですか?」

 ヴィが左側から体重をのせた。打ち合わせ通りに。もし異変が起きたら、ジェイを突き飛ばす。

 ギュネルの返事を待たずに、ジェイはiVitra(スマートグラス)を外した。


 ターコイズブルーの瞳。虹彩のほとんどが緑がかった青だが、中心のほんの僅か、小さな点は緑が強い。その芯が揺らめいている。

 

 カアン・ギュネル。本名ハカン・チェティン。ディルシズ。ヴェシリアへの強い忠誠心。ヴィの生い立ちは知らない。ズィを尊敬していて、実直。用心深く慎重。だが、とにかくヴェシリアだ。ヴェシリアへの心酔が、意識の大半を占めている。


「ありがとう、ハカン・チェティン」

 iVitraをかける。ヴィが力を抜くのを感じた。



 ギュネルは愕然とした。ハカン・チェティン。その名を言った。閣下の信頼を勝ち得た名。今は捨て去った名。

 悪魔。人の心を見透かす。ただ目を合わせただけで。だが不思議と、恐れや、心を覗かれた怒りなどは感じなかった。

 閣下も私を見ぬいた。閣下に、ギュネルになれと言われたあの時に似た、認められた満足感。不思議だ。



 ヴィは力を抜いたが、まだ安心はしていなかった。

 いつものようにジェイの左腕を抱いていたが、同時にその手首に指先をそっと添え、脈を取る……規則正しく、静かだ。ジェイの横顔。平静。苦しそうでも、痛みを感じている様子もない。ようやく、ほっとする。

 

 これをやることは、事前に打ち合わせしていた。ここに来る途中のRoggの車内で、秘書から執行官も同席すると聞いた時に、iPorta (スマートフォン)でメッセージをやり取りして。 

 危険なことは絶対しない。信用できるかどうか、ちょっと表層を覗くだけ。それなら心臓への負荷もない。だから許した。

 

 ジェイの人間に対するロクツィオ(精神操作)タリーム(修練)も兼ねている。相手の精神へのダメージを恐れて使わないでいたから、慣れていない。またわたしみたいに副作用があってもアレだし、練習が必要だ。

 初めてのお散歩は、無事合格。

 それはそれとして……。


「つまり……ガスパールをもっと調べなきゃってことですわね」

「……ええ。おっしゃる通りです。モローは絶対捕まえますが、当面はガスパール。ところが……」

 

 ギュネルの話を、ズィが引き継いだ。

「向こうから仕掛けてきたんだ。君たちをご指名で」

「……ご指名?」

 ギュネルがiPada(タブレット)を操作しながら説明する。

「ガスパールはこう言ってます。『我々、いにしえの琥珀は怪しいカルト教団ではない。だが我々の教義を拡大解釈した一部の信徒が、禁じていた過激な儀式をやろうとした。それをパヴル・エルギュンが動画のネタとして利用し、拡散した』」

「だからパヴルくんを暗殺しようとした?そんなのバカすぎですわ!」

 

 ズィはため息をついた。

「いや、違うんだ。パヴルの件は知らんと言ってる。あの儀式は事実だし、恨む理由はないと」

「じゃあなに?」

「ガスパールはあなた達を引き渡せ、と要求してきました。悪魔の姿を晒したジェイ・ロルトと、悪魔と名乗ったヴェシレ・クルチュ。あなた達2人が神聖な教義を歪めたと。信徒を狂信者に変えたのはあなた達だと」

 ヴィは顔が紅潮するのを感じた。もちろん恥じらいとかではなく、怒りで。

 

 だが怒りを爆発させたのはズィだった。

「……全く、何度聞いても頭にくる!それであんな酷い動画を作って拡散?デタラメにもほどがある!俺はあの現場にいたんだぞ?ヴェシレは最善を尽くした。俺は知ってる!」

「そうデタラメ!言いがかりよ!低俗過ぎます!まともに相手する気にもならない!無視してバカにしてやるわ!」

 

 ギュネルがため息をついた。深く。

「しかし……無視は出来ません。国際問題になってます」

「国際問題?意味わかんないんですけど?!」

「今日……SNSがあなた達を追いかけて大騒ぎしてた裏で……大きな発表がありました」

「なによ!もったいぶるな!」

 ズィがまたため息をついて、文字通り頭を抱えて呻くように言った。


「フランク王室がな……『いにしえの琥珀』に改宗したんだ」



 そんなことある?

 フランク王室。ローマ教皇庁と並び、千五百年もの間、カトリックが支配してた。教皇から破門されることを最大の恥と捉えてきた王様たち。それが新興カルト教団に改宗?

 わたし達がその教皇庁をぶっ壊した。フランクのカトリック教会にとっては、世界宗教の頂点に立つ願ってもないチャンスだったはず。それが……カルトの足元に跪いた?ありえない。

 

 だがそんな歴史的大事件よりも、ヴィにとってはもっと切実な疑問が浮かんだ。

「それはつまり……フランク王室がわたし達の身柄を要求してるってこと?」

「いや違う。それはガスパール個人の要求だ」

「……なんのために?」

「スケープゴート……」

 ジェイがぼそっと言った。全員がジェイを見る。

「……おれ達をスケープゴートにしたいのかな。『いにしえの琥珀』の正統性を主張するために。昔ながらのやり方だ。人間は同じことを繰り返す」



「私もそう思います」

 ギュネルはジェイに同意した。だが、この男の言う"昔"は、自分の思う昔とは全くスパンが違うのだろう。どれほど古くから、この男は人間の愚かさを見てきたのだろうか。

 

「ガスパールは、以前あなた達を軟禁した。その後、あなた達は令嬢を人質にその軟禁から逃れた。個人的な恨みがあるのでしょう。それを利用したのかも……人間なんてそんなもんですよね?ジェイ・ロルト」



 ズィは、ジェイを見ていた。その目はミラーサングラスに隠されて、その顔もハットの鍔の陰でよく見えない。

 そしてヴェシレ。まだ怒りはおさまっていない。目がすわっている。

「……そうだとして……あなた達はどうなさるおつもり?わたし達を引き渡すのかしら。保護してくださると聞いてやってきたんですけど」

 

 ヴェシレはジェイとともに、大変な思いを重ねてきた。養父が殺され、その喪も明けぬうちに軟禁され、脱出したと思ったら革命の波に拐われ、ジェイを救うために別れ、狂信者の儀式に取り込まれそうになり、そしてヘリの墜落事故。

 これを僅か1ヶ月の間に経験した。その後3ヶ月療養した後、ジェイの心臓は一年持たないと宣告された。ローマのために命懸けで戦ってくれた29歳の女性に、これ以上、辛い思いはさせられない。

 

「そんなことはさせない。俺が……いや、ローマが君たちを護る。絶対に引き渡したりなんかしない」

 ギュネルは首を振りながらため息。ヴェシレは険しい表情のまま。ジェイは微動だにしない。


「絶対にだ。ここで保護する。いつまでいてくれてもいい」

「……ありがとうございます。でもそうはいかないわ。ジェイは……この人は、3日後またお医者様に診ていただかないとならないし」

「ドクター・セレンだったな?往診してもらおう」 

 このひと言で、やっとヴェシレの表情が和らぐ。

「……本当に?」

 

 ズィはここで決意した。

「ああ。約束する」



【同日同時刻 コンスタンティノープル、ホテル・ディオゲネスヒル】

 約束。

 旅先でも約束を果たすため、サマエルは小さな鉢植えを買って持ち歩いていた。毎日欠かさず。それがあの男の条件だった。


 ここは安ホテルだが、金に困っているわけではなかった。地上社会の仕組みや知識はアザズェルに手伝わせてしっかりと吸収していた。この木偶は現金を貯め込んでいたし、ほぼ無制限に使えるDGSEのブラックカードもある。電子決済というやつも非常に便利だ。


 転生してからの半月、全ては計画通りだ。

 人間としての環境を維持するため、仕事も順調にこなしている。地上の仕事だ。

 木偶のiPortaにメッセージが来る。その指示にただ従うだけで、鋼鉄(アシェ)の口座に金が振り込まれる。簡単だがつまらない仕事。指定された場所に行き、指定された蟲螻を殺す。ただそれだけだ。

 

 銃の扱いも簡単だった。予め学んでおいた知識と、この木偶の身体に染みついた挙動。今となっては比較しようがないが、恐らく木偶の技術よりは確実に上達しているはずだ。

 殺し以外の仕事もあったが、つまらな過ぎたので断ったら2度とこなくなった。蟲螻などちょっと脅かせば言うことを聞く。ロクツィオ(精神操作)を使うまでもなかった。

 

 もちろん、計画を完遂するためにはロクツィオは重要だ。蟲螻にロクツィオを使うのは加減が難しく、最初練習台にした何人かは壊してしまったが、必要な犠牲だ。今はだいぶ慣れ、壊さなくても複雑な操作ができる。指名手配されているので時々見つめられることがあるが、そんな時は見つめ返して、気づかれていたらその記憶を消す。簡単だ。

 

 ほぼ順調。

 この木偶の肉体は頑健で健康そのもの。何の不具合もない、完璧な肉体。

 毎日決まった時間に目覚め、木偶の肉体を鍛え、道具のトレーニングと手入れをし、仕事があれば出掛けて蟲螻を殺す。飯を喰い、木偶の肉体を強化し、道具を手入れする。そして1日の終わりに、約束を果たす。


 鉢植えの土の中に埋めた、炭化したブラーミニメクラヘビの屍体。使い魔になってくれた男は敬虔なユダヤ教徒だった。

 仕事をやり遂げたら土に還して、30日間、毎日欠かさず祈ってくれ。そう言ってあの男は使い魔になった。計画のために2度目の命を捧げた殉職者。祈るだけなら簡単だが、サマエルはこのためだけにユダヤの祈りを学び、真剣に、心を込めて祈りを捧げた。それがあの男の尊い犠牲に対する礼儀だ。30日たったら、どこか静かな場所に鉢植えごと埋めてやるつもりだった。


 計画通り、その時が来るのを待つ。木偶の肉体を鍛え、武術を学び、道具を手入れして、銃に精通する。

 明日は仕事がある。長距離狙撃は初めてだ。訓練も兼ねている。

 PGMウルティマ・ラティオ。

 死をもたらす鋼鉄。

 それをベッドに横たえる。

  

 そして、祈る。

 


【同日同時刻 コンスタンティノープル、国民代表府】

 ケイト・カプランは、今夜も残業していた。エーゲ・ユルマズ事件ではなく、K.K.の一連の動きの対応に追われている。

 

 フランク王室の改宗。

 驚きはしなかった。可能性はあると思っていたからだ。ローマ教皇庁が消滅した今、人々が別の信仰を求めるのは当然のことだ。そこにK.K.があった。それだけのこと。そもそもカトリックだって、特別素晴らしい宗教だったというわけじゃない。タイミングよく権力と結びついただけ。今回のK.K.と、なにも違わない。


 エーゲ・ユルマズ事件の方は行き詰まっていた。証人や証拠は全て洗い尽くしたし、とにかくモローを捕まえなければ進展は望めない。ガスパール副領事の疑惑については執行官が自ら指揮を取っており、召集されなければ口を出すわけにもいかない。


 なぜ私は召集されないのだろう?領事館の訪問には連れて行かれたのに。何かミスをしたのだろうか?心当たりは全くない。あの日はひと言も喋らなかったし。それがいけなかったのかな?何か意見を言うべきだった?わからない。K.K.についてなら、たぶん私が1番詳しいのに。

 もやもやする。コーヒー。こういう時はカフェインが必要だ。


 給湯室で、ケイトはがっかりした。コーヒーがもうない。どうするか?自販機にもコーヒーはある。でも……昨夜のジャズ・オズヴァルド……コーヒーではなく、あの秘書の笑顔が浮かんだ。なぜ?変だ。彼のコーヒーは確かにとても美味しかったけど。用があるのはコーヒーで、あの秘書ではないのに。なぜコーヒーではなく彼の顔、それも笑顔が浮かぶんだろう?

 

 難解な疑問が浮かぶと、ケイトの脳はそれを解明せずにはいられなくなる。ケイトは秘書課に行くことにした。



 ジャズ・オズヴァルドも残業していた。

 ゾルル・センテルでVIPゲスト2人の接待という名の買い物を補助し、代表府まで案内した後、帰宅するつもりで秘書課に戻ってきたら、ジャズの代わりに雑用をやらされていた先輩に捕まってしまった。先輩は笑顔でコピーの山をジャズに押し付け、さっさと帰っていった。

 うんざりだった。だがこれも仕事だ。仕事に無駄なことなどひとつもないはずだ。こういう、人が嫌がる仕事もきちんとやり遂げる人間こそ必要とされるのだ。でもその前にコーヒー。



 給湯室の前で2人は出会した。

「お疲れ様です」「お疲れ様です!」

「今夜も残業ですか?」「今夜も残業ですか?」

 2人とも笑った。

「……すみません!コーヒーですか?」

「はい、えっと……コーヒー。執行部のコーヒーが切れてしまいまして」

「ちょうどよかった。今から淹れます!」

「……はい」

 

 なぜ笑ったのだろう?たまたま、2人で同じ言葉を、2回続けて同時に言っただけだ。その確率はこのシチュエーションを考慮すると言葉の選択肢は限られるから27.41%。十分ありえる数字だ。別におかしくないのに。私も笑った。なぜ?

 わからない。なぜか思考がまとまらない。疲れているのか。カフェインを飲めば回復するだろうか?


 ジャズ・オズヴァルド秘書はとても丁寧にコーヒーを淹れる。いい香り。自販機にしなくてよかった。あえた――え?あった。コーヒー。コーヒーが、あった。よかった。

「――官。捜査官?」

「はい。……え?」

「お疲れなんですね。どうぞ」

「コーヒー。ありがとうございます」

 

 熱いコーヒー。いい香り。

「コーヒーって、すごく綺麗な色ですよね。ぼく大好きなんです。コーヒーの色」

「はい……えっと……」

 コーヒーの色の話をしてるのに、私の顔を見てる。変。

 コーヒーの色。私はアフリカ系だ。肌の色はコーヒー色。だから見てるのか……なぜ?珍しいから?他にも……秘書課にも、アフリカ系はたくさんいる。珍しくない。大好きだから?コーヒーの色が。

 コーヒーは美味しい。大好きだ。ジャズ・オズヴァルド秘書はとても美味しいコーヒーを淹れる。


「あーもう9時ですね!」

「いえ。20時51分です」

 カフェインが効いて、おかげでちゃんと会話ができる。仕事。戻らなきゃ。

「コーヒー。ごちそうさ……え?どうしましたかジャズ・オズヴァルド秘書」

 急に泣きそうな顔になってる。コーヒーが熱かったのだろうか?

「火傷ですか?すぐに冷やした方がいいです」

「……あは、は……いえ、大丈夫です。すみません、なんかぼく……馴れ馴れしかったですよね」

「はい?えっと……コーヒー。美味しかったです。また飲みたい。淹れてくれますか?」

 今度は急に笑顔になった。なぜ?コーヒーを淹れるのが大好きなのか。じゃあよかった。コミュニケーション成功だ。

「はい!明日も絶対、ご馳走します!とびきりのを!いい豆、入るんです。明日!」

 


【同日22時05分 コンスタンティノープル、ベベク地区、オズヴァルド邸】 

「おかえり、ジャズ」

「ママー、ただいま。疲れたあ」

 ジャズ・オズヴァルドはあの後、すぐに退勤した。新規入庁から2週間。不慣れな仕事、毎日残業で疲れもピークに達していた。

 

「パパは?また会食?」

「そうね。どうせ今夜も夜中まで飲んでくるわ。どう?たまにはママとワインでも?」

「ん〜、ワインは少し。マカルナ作って!ママのマカルナ!」

 ジャズはマカルナが大好きだった。特に、ママがトマトソースとバターでギトギトにしてくれるサルチャル・マカルナ。毎日食べても飽きなかった。オズヴァルド家は裕福なので、ディナーは住み込みのシェフが普段から高級食材を用意していたが、どんなにグルメな料理もママのマカルナには敵わない。


 今日は特に疲れた。あのゲスト達。別に理不尽な接待を要求されたわけではないし、気さくで良い人達だったが、そもそもVIP接待なんて、されたことはあるけどするのは初体験だったし、体中がだるくなるくらい緊張した。

 仕事中は一部の隙も見せられない。給湯室では別だけど。その分家に帰れば気が緩む。ママのマカルナさえ食べれば、また明日も……あの人にコーヒーを淹れてあげられる。名前、聞けばよかったな。


 とにかく疲れが溜まっている。帰りの専用送迎車では走り出してすぐ寝ちゃったし。代表府から家まで30分、ペトラ(コーヒー店)に寄った以外はほぼ寝たままだった。

 肩が凝るスーツを脱ぎ捨て、スウェットに着替えて食卓に座る。シェフの調理場とは別の、ママ専用のキッチンから、いつものいい匂いが漂ってくる。

 

 学生時代は他にたくさん楽しいことがあったけど社会人になったら、この世で1番幸せなのはママのマカルナができるのを待つこの時間だった。雑用ばかりの仕事や繊細すぎる気遣い、先輩秘書たちの妬みの視線。そんなめんどくさいことは全部忘れる。最高のひとときだった。コーヒーとあの人のことは別だけど。

 

 待ち遠しくて、リビングの時計に目がいく。もう10時か。なんか時間が経つのが早い気がする。帰り道、渋滞してたのか。ペトラであの豆受け取って――

「はいどうぞ。熱いからね?」

 目の前にあつあつでギトギトのマカルナが現れ、ジャズは時間のことなど忘れた。

 ふーふー言いながらマカルナにがっつき、ママに付き合ってワインも一杯だけ飲んだ。変人のゲストの話に、ママは大喜びしてくれた。あの人のことは言わなかったけど、話が弾んで喉が渇き、もう一杯だけワインをおかわりした。


 酔いが回り、気持ちよくなって、その後はシャワーも浴びずに寝室へ行くと、ベッドに倒れてそのまま寝てしまう。


 夢を見た。送迎車のリアシートで、夢の中なのにまた寝てる夢。

 あの人。踊った。

 どこかのパーティー。

 音楽。

 シャンパンのコルクが飛ぶ音。

 あの人は短い黒い長い金髪をなびかせて、くるくる回った。くるくるくるくる。世界も回る。くるくるくるくる。

 シャンデリア。シャンパン。あの人のコーヒー色の白い透きとおる肌きれいな金色の髪回る回る回る回るくるくるくるくるくるくるくるくる回るくるくるくるくるくるくる。

 色がたくさん。

 クリスマスみたいだ。クリスマスの色。コーヒーの色。クリスマスの色。

 

 金色の輝きの中、ジャズは踊り続けた。

 夢の中で。



【11月15日06時00分 オズヴァルド邸】

 目が覚めたときには、ジャズはそんな夢はすっかり忘れていた。シャワーを浴び、新しいシャツを着て、ネクタイを締め、特に理由もなく1番いいスーツを着た。


 いつもと同じ時間。

 いつもと同じ専用送迎車。

 いつもと同じ道、同じ景色。


 いつもと同じ一日。


 そのはずだった。

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