30 天使の檻
光は無い。
闇。
何も見えず、ただゴォゴォと、暴風が渦巻く音だけが聞こえる。
それが止み、そして——
衝撃。
墜落。
今度は、硬い岩石の上へ。
翼が、ゆっくりと開く。
赤い光。
溶岩の熱。
地獄。
【ジェイエル】
左手を離すと、真っ赤な髪の毛が絡まっていた。マドレーヌの明るい金色ではなく、アヴィエルの真紅の髪。右手はまだその頭をがっしりと掴んでいる。握り潰そうと思えばできるが、ここでそんなことをしても無意味だ。
『ジェイエル
おかえり!
待ってたよ』
『アザズェルか?見てたのか。グリゴリの仲間を連れて来たぞ』
『うん知ってるよ
こっちに来て!
閣下もお待ちだ』
『……閣下だと?ルシフェルのことか?』
返事が来ない。まあいい。なんにせよ、アザズェルには用がある。
アヴィエルの頭をがくがく揺さぶる。まだ目覚めない。
片手で掴んだまま、おれは翼を広げると棲家の岩島から飛び立った。
【ズィヤ・シムシェキ】
ズィとサフィはクレーターへ走った。立体駐車場のすぐ横に、直径数十メートルに及ぶすり鉢状のクレーター。その中心に横たわる、ジェイとマドレーヌの身体。カラスが、その傍らに降りて来ている。屍肉を漁ろうというのか。
斜面を駆け降りる。先に降りたズィが手前で立ち止まり、サフィが追い越して跪く。
ズィは立ち尽くしていた。
ジェイが覆い被さっていたためクレーターの淵からだとわからなかったが、近づくとマドレーヌの生死は明確だった。首がありえない角度に折れているだけではなく、胴体が下腹部で分断されていた。全裸だが血に染まり、全身真っ赤だ。
国際問題確定。だが今最優先すべきはそれじゃない。
【アヴィエル】
『——熱いッ!』
尻尾の先の激痛で意識が戻った。
蛇身がだらりとぶら下がり、尻尾が溶岩の波を被っている。火のついた尻尾が巻き上がる。
『……こ……ここは……ジェイエル!離せ!』
ここは……地獄?そんなばかな。天へ帰るはずなのに……翼か。ジェイエルの翼に囚われて……連れて来られたのか。
地獄に。
【サフィーエ・サナル】
「手伝って!」
すり鉢みたいなクレーターをなんとか転ばずに降りてJJに駆け寄り、頸動脈を探る。パッチ。振動してる。
「ミーナが起動してる」
血管圧迫パッチ。ドクター・セレンの最新機器。JJとVVちゃんに見せてもらったから知ってる。
「……てことはCPA。ズィさん!仰向けにするから、せーので!」
JJの身体を起こし、横たえる。
首と鼠蹊部で小さな緑の数字が点滅してる。
13:37……36……35。時刻じゃない。カウントダウン・タイマー。ミーナの稼働時間は15分だったはず。
「ズィさん時刻は?何時?」
即座にCPRを始め、叫ぶ。
「12時35分!サフィ、CPRは俺にも出来る!君にしか出来ないことを!」
「助かる。胸の真ん中、5センチ——」
「毎秒2回、毎分120回だろ!任せろ!」
「目には絶対触らないで」
「わかってる!気道確保で顎をあげるんだよな!」
ズィさんがアリーを追い払おうとした。
アリーは少し離れて、鳴いた。か細く。
「大丈夫、アリー。任せて」
【ジェイエル】
『おいジェイエルか? 『なんだそれ?
派手なご帰還だな! 地上の土産?
それアヴィエルか?』 ちょうだい!』
燃える赤い大蛇をぶら下げて飛ぶのは目立つ。暇を持て余した地獄のやつらにとっては、いい見せ物らしい。
高速で飛ぶと火はやがて消えた。煤けた鱗も、すぐに輝きを取り戻す。
『……ジェイエル……辱めのつもり?……こんなことで、私に勝った気?』
蛇身がくねり、おれの脚に巻きつこうとしている。高度を下げて溶岩の海面すれすれに飛んでアヴィエルを引き摺るとおとなしくなった。炭化して崩れると面倒なので、燃え落ちる前に海面を離れる。
前方に、銀色に光って飛ぶ点が見えたかと思うとすぐに追いつく。
『あらジェイエル!』
止まって見えるほどの低速。長い耳をパタパタさせ、丸い尻尾が小刻みに震えている。赤く細い眼で振り向いた。
スリエル。
【サフィーエ・サナル】
ズィさんのCPR、カンペキ。
iPortaを取り出してアジルに連絡する。
「クレーター中央、41歳男性CPA、推定時刻12時33分。ミーナ装着でCPP維持、両眼深創、Cフリー、心移植予定患者です」
気道確保。口内クリア……眼。ガーゼで保護……あとは。あとすることは……助ける。絶対助ける。
「ズィさん、あと1分頑張って。交代しますから」
「ああ……2分ごとに交代、だな?」
「助ける。絶対助ける」
やべ、声に出ちゃった。ズィさんが叫んだ。
「ああ!絶対助ける!」
アリーがまた鳴いた。今度は少し大きな声で。
ミーナのタイマーは、12:11。
【ジェイエル】
『——さっすが予定通りじゃん!ちょうどよかったぁ!乗せて?』
スリエルは物理法則に逆らって耳でホバリングしている。地上でなら不可能だ。
『おれはタクシーじゃない。予定通りとはなんだ?』
『いいじゃんケチ!アザズェルのとこ行くんでしょ?あたしも呼ばれてるからさぁ!』
ため息をつき、左手を横に伸ばす。
『……つかまれ。予定通りとはなんのことだ?』
『キャハハッ!ラッキー!サマエルから聞いてないのぉ?』
『なにをだ?』
繊月の眼がさらに細くなった。
『ふうん。まあすぐわかるよ。あーその前に!ちょっとそこの島寄ってぇ?』
『寄り道なら勝手に行け』
『いやあんたの知り合いいるんだけど?ケイト・カプランって女』
『ケイト・カプラン?いや、今は時間がない。どんな罰を科した?話せ』
『あっそ。あたしの芸術品なのにぃ……泣ける罰なんだから!』
『泣ける?』
『あの女はさぁ、ビョーキじゃん?イっちゃってて、普通の罰だとリアクションなくてつまんないからぁ、TV見せてやった!キャハッ!』
『……TV?』
『アザズェルに手伝ってもらってさぁ。頭ン中全部地上の映像だけにしてやった。あの女の父親、娘のやったことのせいで酷い目にあってんの。人間ってあたし達より陰険だよねぇ!最初はぼーっとしてたけどさぁ、今じゃボロ泣き!涙って枯れないんだねぇ!キャハハッ!』
ケイト・カプランの父親は、娘の死が納得できないとエーミットで訴えていた。その後のことは知らないが、スリエルが満足しているということはケイト・カプランにとっては相当な罰なのだろう。人間のマスコミとスリエル。どっちが陰険かはわからない。
ケイト・カプランという人間がなんだったのかも未だに謎だ。あれがケイト・カプランの本質だったのか、それともアヴィエルのせいか。たぶんアヴィエルにもわからないだろう。
『ジェイエル!』
アザズェルがいつもの遊び場から見上げていた。
『あれぇ?閣下は?』
スリエルが島に飛び降りて聞いた。おれもアヴィエルの頭を掴んだまま舞い降りる。
『なんか、知り合いの判決が出るからってベリエルのとこに行っちゃった。すぐ戻るって』
『……知り合い?ルシフェルのか?』
『ルシフェルがコキュートスから出て来るはずないじゃん?』
それはそうだ。やつは天との再戦のことしか考えてない。
『……閣下と言ったな。誰のことだ?』
『決まってんじゃん!そりゃ……ああ、ちょうど帰ってきた』
レシプロエンジンの飛行機のような音が聞こえ、アザズェルがまた空を見上げた。
赤い空に小さな黒い雲があった。近づいてくる。それが雲ではないことは知っている。蝿の集団だ。無数の蝿。何千、いや何万匹か。その上に、人影がある。
バエル。
かつては神と呼ばれた悪魔。現代の人間が神と呼ぶおれ達の親父の友だった男。サマエルの友人が崇拝する神。
真っ黒で、人間の形はしているが、輪郭がぼやけている。バエルの真の姿は見たことがない。全身、蠅に覆われているからだ。目すら見えない。
親父の幼馴染みみたいなものだが仲違いしたわけではない。ルシフェルに共感し、おれ達とともに戦って堕天した。地獄ではルシフェルを補佐して実務を取り仕切っている。
その地獄のナンバーツーの傍らに、ヴェシリア・セレンの姿があった。
羽音が凄まじい轟音になり、蝿の雲が頭上に来たかと思うと地面までの柱になって静かになり、その柱が巨大化したバエルの脚となる。ヴェシリアを肩に乗せて。
バエルは外観とは不釣り合いな身のこなしで優雅に膝をつき、ヴェシリアを降ろした。だがヴェシリアが降りても立ち上がらず、顔も上げない。
ロクツィオではなく音声で、ヴェシリアが言った。
「ご苦労様。快適でしたわ、音はともかく」
バエルは低くガサついた声で答えた。
「快適だったなら何よりですな。次は耳栓を、閣下」
【パヴル・エルギュン】
病院や市民の通報で多数の消防やレスキュー隊が来てるけど、巨大な化け物の格闘、そしてそれが突然消えるというあまりに想定外な事態に、皆呆然としていた。
パヴルは消防の赤いヘルメットを捕まえて叫んだ。
「ケガ人がいるんだ!行くよ!」
「……し……しかしこれは……」
「あんたらの仕事だろ!急いで!」
「そ……その声は、もしやバビュール?!」
「いいから早く!!」
パヴルが駆け出すと、レスキューもついてきた。
「バビュール!これを!」
赤いヘルメットを渡された。
クレーターの底にサフィとズィ。サフィは心臓マッサージ、ズィが大声で叫んでる。
「——こっちだ!ストレッチャー!!」
レスキュー隊員がストレッチャーを持って駆け降りる。
「パヴル!来てくれ!」
クレーターを駆け降りようとして転けた。そのまま滑り落ちた。
「……ジェイはサフィに任せる。俺たちは……国際問題をなんとかしなきゃな……」
マドレーヌを見た。途端に胃がひっくり返って、吐くのを必死で堪えた。
「……これ……まずいね。めちゃくちゃまずい……とりあえず情報統制。レスキューの人たちは大丈夫だと思うけど」
「他の被害は?」
ズィが立体駐車場を見た。あそこもヤバそうだ。壁が壊れて少し傾いてる。
人がいるかも……救助を待つ人が。
「……ドローン、あるよね?」
レスキュー隊員に聞く。
iVitraを操作しながら。
【ジェイエル】
「その蛇がアヴィエルさん?本当、ユニークな方ばかりね、あなた達って」
ヴェシリアの眼は汚物を見るようだった。11ヶ月前、ここでウサギツメダニを観察した時と同じ眼。
「それで?どうなさるおつもり?あなたまでこちらに来てしまって。あちらは大丈夫ですの?約束しましたわね?」
『ヴィは——』
ロクツィオで返事しかけたが、ヴェシリアに睨まれてやめる。
「ヴィは心配ない。アヴィエルのことは記憶を消したし——」
いきなり平手打ちされた。思いきり。
「あなたは本当に無神経で役立たずの甲斐性無しね!アザズェルさん、見せてやって!」
「はい、閣下」
アザズェルから映像が来た。3倍速で。
ヴィ。胸の傷。赤黒い腫れ。ストレッチャーでアジルへ。サフィ。
『アドレナリン効かない!——』
電子音。
『心停止。12時18分』
電子音。長く途切れない電子音。
『心停止』『心停止』『心停止』
「嘘だ!こんな——」
「嘘ではありませんわ。私たちはずっと見ていましたから」
「……蛇はアリーが……そんな、ヴィ!」
「落ち着きなさい!全く情けない。続きをご覧なさい」
『心電図は!圧迫続けますか!』
サフィが叫ぶ。必死で、ヴィを救おうとして。
『……脈、触れます!ロスク!!』
『12時20分、ROSC!——』
「……助かったのか?……ヴィは?」
「当たり前ですわ。でなければ、あなたが生き恥を晒すのを、私が許すとお思い?」
「嘘だ!ヴェシレ・クルチュは殺し——」
アヴィエルの絶叫はすぐに途切れた。ヴェシリアが蹴りを入れたから。顔面に。
「アヴィエルさん?妹が、随分とお世話になりまして。お礼はさせていただきますわ。それはもう、存分に」
【ズィヤ・シムシェキ】
カラスは搬送されて行くジェイを追って飛んで行った。ここに血の匂いを立ち昇らせているバラバラの肉塊があるのに、それには一歩も近づかずに。
カラスは屍肉を漁る。だから不吉。悪魔の使い。
それも人間の勝手な偏見か。
俺たちは偏見に満ちた生き物だ。
次期王太子妃の惨殺。俺たちはそれが、即座に戦争の火種になると恐れ、真実からは目を背ける。
マドレーヌ・ド・ガスパール。パヴルの話が真実なら、この遺体は悪魔の仮の姿。こういう死に方をする理由がある。その仮の姿に騙されて戦争するなど、それこそ悪魔の思う壺だ。
だが、ここは人間たちの社会だ。たとえ偏見や無知によるものだろうと、多数が騙されればそれが真実となってしまう。
どうすればいいのか。
どうすべきかはわかっているのだが。
【アヴィエル】
……この……蟲螻の雌が……私を足蹴に……。
人間の女。知っている女だ。
首席審問卿……ヴェシリア・セレンだったか。地上で偉そうにしていたのは見ていたが……バエルを跪かせ、アザズェルに命令し……ジェイエルを罵倒して……。
どうなっているのだ、ここは。
ルシフェル。ルシフェルがこれを許しているのか?信じられない。父にすら逆らったルシフェルが。
だが……。
『クソババア!泥から生まれた蟲螻の分際で偉そうに!ひれ伏せい!』
……反応しない、ピクリとも。さっきから一度もロクツィオを使わない。蟲螻のちっぽけな頭では無理なのだ。知識はあるようだが、使えないのなら恐るるに足りん。
『妹ですって?あの婢女、ヴェシレ・クルチュのお姉様?あらあら。姉妹揃って野蛮人なのね。乱暴以外にできることはあるの?』
「——ジェイ・ロルト。あなたはさっさとお戻りなさい、あの浮浪者の体に!ヴェシレの腰巾着以外に能が無いんだから!この!この役立たず!」
私には見向きもせずにジェイエルを罵り、殴り、蹴飛ばしている。ヒステリー婆あ。こんな暴力以外能のない単細胞生物を、なぜのさばらせているのだ?ここの悪魔どもは。
『アザズェル?私とお話ししましょ?グリゴリ同士で』
『……アヴィエル。ボクは……』
『なあに?あなたもこの蟲螻が恐ろしいの?どうしちゃったの?天で1番の神の目。お父様の目だったアザズェルでしょう?あなたは』
『アザズェル!だめだよぉ?アヴィエルは敵なんだからぁ!』
『スリエルちゃん。あなたとは仲良しだったじゃない。よく一緒に遊んだ。楽しかったわ。また遊びましょう?……天の野原で』
『……え?いや、そうだけどさぁ、あたしは天にはもう——』
『帰れるわ。私はお父様に愛されてるの。私から頼んであ・げ・る』
『マジ?!』『嘘でしょ?!』
『ねえ。私と一緒に帰りましょう?天に。あなたたちが私を助けてくれたら、お父様はきっと……いえ、絶対、許してくださるわ』
『アザズェル、スリエル。お前達、閣下を——』
『バエルおじさま!私のことをお忘れなの?あなたの可愛いアヴィエルですわ?』
『……もちろん忘れてはおらん。お嬢にロクツィオを教えたのは儂だからな……今ではお嬢の方が達者だが』
『おじさまのおかげですわ!おじさまも、ご一緒しません?また言葉で絵を描くゲームがしたいわ!』
『……でも、どうするのさ?閣下は賢いから……ジェイエルもいるし』
『そうだよぉ!それに、ここから天には連絡もできないよぉ?そうでしょ、バエル?』
『無論だ。出来るなら儂がとうの昔にやっておるわ』
『そうね……あなた達がジェイエルの気をひいて。その隙に私は一度地上へ行き、それから天に帰るわ。そして、あなた達のことをお父様にお願いしてあげる』
『それは……』『それいいかも?キャハッ!』
「——見守ることさえ出来ずに!無能どころか禍い!あなたは真の悪魔ですわ、ジェイ・ロルト!」
ヴェシリア・セレンに強く押され、ジェイエルがよろけて後ずさった。私の頭を離して。今だ。
『アザズェル、石を貸して。ラファエルの石。私もグリゴリよ。使い方は知ってる……ボディは……』
『ちょ!だめだよ、ボクの石——』
「なにをしているの?」
ヴェシリア・セレンに気づかれた。
『おじさま!私を守って!』
アザズェルの足元の石をひとつ拾いあげ、バエルに抱きつく——というより、飛び込む。バエルだった無数の蝿が散開し、私を包む。
目を閉じ、グリゴリの眼で地上を観る。蟲螻を。ボディを。すぐに転生できる、空のボディ。
ヴェシレ・クルチュはもうだめだ。蟲螻どもが生き返らせた。
あれは……アンジェリック・ヴェスパーか?死んだか。顔が潰れている。使い物にならん。
ジェイ・ロルト。論外だ。私が目を潰した。……使えるボディは——
これはどうだ。心臓は止まっているが、脳は無事だ。弱いが、まだ血の流れがある。若く、なかなか美しい。
しかもこの髪色。私と同じ赤毛。
『——見つけた。これにするわ……名前は……珠里=ジャンヌ・ロティ』
【ジェイエル】
「——ヴェシレの腰巾着以外に能が無いんだから!この!この役立たず!」
ヴェシリアの罵倒、殴る蹴るの暴行に、おれは抵抗できなかった。
いくら殴られようが蹴られようがこの身体にはなんのダメージもない。だが、ヴェシリアの言葉は違った。深く、鋭く心を抉られる。
真実だからだ。
この一年。驚いたが、ヴィと出会ってからちょうど一年だった。去年のマグダラのマリアの祝日の翌日に、おれは初めて聖テレーザ教会を訪れ、そこでヴィを見かけた。それが全ての始まりだった。
この一年。
おれは何をしていたのか。
確かに使命は果たした。エキンジや他の腐敗した聖職者を"狩り"、インノケンティウスを"狩った"。
それに何の意味があったというのか。
誰一人として悔い改めた者はいない。それが|"狩り"《使命》の目的なのに。
それどころか、おれがやったことがカトリックを滅ぼし、『いにしえの琥珀』、そしてアヴィエルの野望を助長した。クルチュ神父を見殺しにし、マドレーヌが殺された。
そして……ヴィ。
ヴェシリアと交わした約束、おれが新たな使命としたその約束を果たすこと、ただ見守ることさえ出来なかった。
ヴィが助かったのはサフィのおかげで、ヴィが死にかけたのはおれの責任だ。
マドレーヌがアヴィエルだとわかった時、ヴィは発狂した。大袈裟ではなく、本当に狂った。養父を失い天涯孤独だったヴィが、家族だと思い、実の妹のように信じ、愛した8ヶ月。それが全て偽りで、しかも本物のマドレーヌは殺されたと知ったあの時。無理もなかった。おれも同じ想いだったから。
『あの子……妹を。
幸せに生きながらえるよう、
見守ってやってくださいな。
……よろしくて?』
去年、この場所で交わした約束。
それを守るためにはアヴィエルについての記憶を消すしかない、そう思った。そして、ヴィの知らないところでアヴィエルを倒せばいい、そう思っていた。
おれは何もわかっていなかった。アヴィエルの真の目的。親父への復讐とか真の神だとかはどうでもよかったのだ。
ヴィ。
ヴィに成り代わる。それがアヴィエルの真の目的。
おれが記憶を消したせいでヴィはアヴィエルを警戒せず、殺されかけた。その時おれは、病室のベッドで——
『ジェイ・ロルト。いえ、ジェイエルさん、でしたわね?』
突然ロクツィオが来た。
『ごめんなさい?酷いことを言って。去年のお返しですわ。ヴェシレには言わないで?ほほほほほ……』
ヴェシリア。
『これはお芝居。ご覧なさい、アヴィエルを』
アヴィエルの瞳は爛爛と輝いている。
『私たちが揉めて——ああ、揉めてはいないわね、私が一方的になじっているだけですもの——とにかく、隙ができたと思ったのね、アヴィエルは。ほら』
アザズェルたちがアヴィエルの方を見ている。ロクツィオ中らしい。
『ご心配には及びませんわ。アザズェルさんたちにもお芝居をしていただいているので』
アヴィエルは今や口角を上げ、じりじりとアザズェルの方へにじり寄っていた。
『ジェイエルさん。あなたもお芝居はお得意ですわね?今からあなたをちょっと押しますから、よろけたフリをしてその手を離しなさい。その後は……どうぞご自由に。お考えがあるのでしょう?』
ヴェシリアが一歩近づいた。
夜のマルマラ海を明るく照らす満月を背景にしたロクツィオが来た。穏やかな波面に満月が写り、一輪の黒薔薇がその中央に浮かんでいた。さざなみがそれをゆりかごのように揺らし、黒い翼が掬い上げる。
『あなたは守護天使ですわ。ヴェシレの』
「——あなたは真の悪魔ですわ、ジェイ・ロルト!」
ヴェシリアに押され、よろけた。アヴィエルの頭を離す。
アヴィエルは弾かれたように飛び出し、石を拾ってバエルの蝿たちの中に飛び込んだ。
「バエルさん!」
ヴェシリアが叫んだ。羽音が大きくなり、アヴィエルを包んでいた蝿たちがゆらめいた。縦長の黒い塊が形を変え、一気に沈んだ。
アヴィエルの上半身が顕になった。眼を固く閉じていて気づいていない。右拳を胸で握り締めている。
『あらら?アヴィエルちゃん、どうしたのかなぁ?!』
スリエルがオープンに嘲った。
アヴィエルが眼を開く。
【サフィーエ・サナル】
VVちゃんの隣りに、カーテンに仕切られて、心停止した身体。成人アジルの赤ゾーン、2号ベッドの上に。
頸動脈のミーナが鳴らす電子音に合わせて、オレンジ色の数字が1秒ごとに減ってく。
00:59……
00:58……
「まもなく血流停止します!」
「カットダウン入る。18G、ガイドワイヤー」
「挿管完了。バッグ」
00:45……
00:44……
【アヴィエル】
なに?
どうして?
なぜ……まだここに?
スリエルとアザズェルが私を見ていた。
あの顔で。
あの眼で。
昔、天で見た、蔑みの眼で。
ラファエルの石。握り締めれば行けるはずなのに。吸い上げられるはずなのに。
空を見上げる。赤い空。
天に通じる眩い光も、暴風渦巻く黒い穴も、何もない。赤い雲。
足元を見下ろす。黒い……蝿たち。
『……おじさま?!』
蝿たちが、おじさまの蝿たちが私の蛇腹を埋めている。動けない。
『ごめんねーアヴィエル。それ、ただの石ころだから。そう言おうとしたのに、持ってっちゃうんだもんなー。わかんないか。天のと違うし』
アザズェル……羊飼いのガキが……私を嘲る。
『アヴィエルちゃん?あたしさー覚えてないんだけどぉ。あんたと遊んだことなんてあったっけ?あ、もしかしてぇ、あんたの尻尾踏んづけた時のこと?ビターンって転んだよねぇあんた!キャハハハッ!』
『あんたたち……よくもそんな……天に帰りたくないの?私を怒らせたら——』
『はあぁ?何言ってんのぉ?あたしたちを堕としたのはあんたでしょ!いい加減にしろよこのクソアマ!!ここじゃみぃんなあんたに怒ってんだよぉ!あんたへの罰ならいくらでも思いつくわ!殺せるもんなら殺してやりたい!!』
『アヴィエル』
ジェイエル……きさまか……全部きさまが……。
『ラファエルの石が欲しいのか?ここにあるぞ?』
小石。ジェイエルは小石を摘んで、私の鼻先に突き出した。手をあげ叩き落とそうとしたが、動けない。両腕も、蝿たちが。
『これは本物だ。ほら』
ジェイエルが小石を握り締め、上を向いた。
赤い雲間に、黒い点。どんどん大きくなっていき、ゴーゴーと渦巻く風の音。
地上への入り口。転生するための渦。
ジェイエルの身体が少しずつ浮き上がる。
私に見せびらかすように、拳を開くと掌で小石を転がした。
バカめ。
【チャムさくら病院成人アジル赤ゾーン】
「ワイヤーバック。アウト21、イン15。カニューレ挿入。ダイレーター引いて」
00:26……
00:25……
「ECMOプライミングOK」
「アドレナリン用意できました」
【地獄】
アヴィエルの口が裂けるように開いた。次の瞬間、黒く細い二又の舌が飛び出し、ジェイエルの小石を捕らえ奪った。
そのまま、小石を飲み込んだ。
上空で轟鳴する渦。
アヴィエルの身体が、バエルごと吸い上げられる。蝿たちが飛び散る。
赤く太い蛇腹が物凄い速度で飛び上がり、黒い渦に吸い込まれて行く。
『ほーっほっほっほ!愚かな悪魔たち!愚かな!!』
嘲笑の残響も、やがてかき消えた。
【サフィーエ・サナル】
00:01……
「血流停止します!」
……00:00。
「CPR!ECMOまだか?!」
「アドレナリン入ります」
「生食フラッシュ!……え?」
天井のLEDが消灯した。医療機器は動いている。
「なんだ?どうなってる?!」
「停電じゃない!電気は来てます!」
「カニューレ完了、ECMO!ライン繋げて!」
「血流停止30秒」
「……大丈夫……間に合う……」
看護師のCPRのリズムが、横たわる身体を揺らしていた。照明がついた。
「ECMO、回転」
「よし、CPRもういい。アウトは?血流あるか?」
「暗褐色。静脈血確認」
「SpO2、100%」
「ECMO回転数3000。確立しました」
リーダー医師が長く息を吐いた。
「よーし、間に合った。ドクター・セレンに連絡入れて。サナル!」
「はい?」
リーダー医師が両手でサムズアップした。
「やったな。2連勝だ」
……テヘペロ!
JJ……VVちゃん。良かった、マジで。
あとは、人工心臓移植だけだ。
【ジェイエル】
おれ達は赤い空を見上げていた。
アザズェルが呟いた。
『行っちゃった……』
『……うん……てか、どこ行ったわけぇ?アザズェル!映像見せて?』
『待って……アヴィエルが使ったのは、ジェイエルの小石だから……てことは?あれ?』
そこにいた全員が、アザズェルが送った映像を見た。
地上。病院。ベッド。
ジェイ・ロルトの身体。
『なるほど……説明して下さる?』
ジェイエルはその身体をじっと眺めた。
3年をともにした身体。ボロボロだが、最後までよく頑張ってくれた……ジェイ・ロルト。
これからも、よろしく頼む。
『あれが……檻だ』
『あれが。あの欠陥だらけの肉体が……アヴィエルを閉じ込められると?そうおっしゃるの?』
『元々不良品だったが——』
アザズェルをチラ見した。舌を出してた。
『——3年、酷使した。全身の血管がズタズタ。両眼はアヴィエルに潰された。心臓はもうガラクタだ。だが——』
ヴェシリアが頷いた。もうわかったらしい。胸に手を添えて、息を吸い込み……声を発した。
「Cor.O.A.ね?電源さえあれば永久に鼓動を止めない、奇跡の心臓……私の時にあれば……ね」
「あなたの医者は優秀だ」
「……どういうことぉ?止まらない、機械の心臓?てことはぁ……えー!アヴィエル、もう出てこれないじゃん!」
スリエルが釣られてしゃべった。アザズェルも。
「つまり……ジェイ・ロルトの中に、永遠に閉じ込めたってこと?……えっぐ!」
「……やるねぇ、ジェイエル。最高の罰じゃん……もしかしてあたしより陰険?キャハッ!」
「機械か……いつか壊れる。そうだろう?ジェイエル」
バエルが掠れた声で言った。
その通りだ。どんな機械だって必ず壊れる。命と同じように。
だが。
「バエル。あんたが知ってる時代より、進化してるんだ」
全員の顔を見回す。
バエルの黒い顔。アザズェルの童顔。スリエルの冷笑。何千年も昔から変わらない顔。
ヴェシリアが、また頷く。
「そう……進化しますわ、私たちは」
【パヴル・エルギュン】
『こっちにもいるぞ!』
レスキュー隊の救助捜索を、僕はクレーターの底でiVitraで見ていた。隊員のボディカメラやドローンの映像で。
外からだと斜めに傾いで今にも崩壊しそうに見えてたけど、中は意外ときれいだ。この建物も病院と同じ最新の免震構造らしい。傾斜もそれほどでもなく、映像で見る限り傷ひとつないように見える車も何台もある。満車だったから少ししか動かなかったからか。
閉じ込められてる人たちもたくさんいるけど、自力で脱出し、上階から歩いて降りてくる人たちもいる……4階までは亡くなった人も重傷者もゼロ。だけど、上に上がるほど傾斜も大きくなっていく。
『屋上クリア。車両全車確認、被災者ゼロ。続いて5階にアプローチ』
ドローンは屋上から捜索している。
5階も、粉塵もおさまり、クリアな映像。動くものはない。奥の方に車が固まってる。
レスキュー隊員も5階に。
5階は駐車車両が少なかった。その車が全部、大きく傾斜した床を滑って奥の壁に……グシャグシャに。
『……手が空いた者は全員5階へ。エンジンカッター、スプレッダーかき集めて来い』
レスキュー隊の無線にも、悲壮感がこもっていた。
「パヴル……ネットを遮断する。情報を統制……いや、綺麗事はやめだ。マドレーヌの死因は隠蔽しなきゃならん」
ズィは無表情だった。冷静なんじゃなくて……腹を括ったんだ。
「……そうだね……GTみたいに。でも、やらなきゃ。戦争になる」
ズィは天を仰いだ。雲ひとつない澄んだ青空を。
「戦争だけは絶対に回避する。そのためなら……毒も喰らうしかない。ローマを護るためなら」
「うん。僕たちって……進化しないね……」
【ジェイエル】
「さて……ジェイエルさん。あなたもお戻りなさいませ。約束はまだ有効ですわ」
赤い雲の反射が、ヴェシリアの輪郭を縁取っていた。
「その前に、聞きたいことがある。あなたは……いつから見ていた?」
ヴェシリアは微笑み、目を閉じて俯く。
「いつから?もちろん最初からですわ。ここは退屈ですもの」
「最初というのは……いつから?」
鼻で笑われる。
「そうね……サマエルさんがここに……アザズェルさんのところにいらした時からですわ。妹を探すため、地上に転生なさりたいと。3人で地上の記録を精査しました。過去に遡って……13世紀の記録も拝見いたしましたわ。アヴィエルの企みがわかった。あなたに執着していることも。それはつまり、ヴェシレにも害が及ぶことを意味する。だから、新しいコンシリウムをたてましたの」
「サマエル……あの周到な転生も、あなたの指示か。サマエルらしくないとは思ったけど」
「ボクも手伝ったんだ!知ってた?」
アザズェルがドヤ顔をした。
「フランクにパヴル・エルギュンを殺されるのは癪でしたし、ちょうど良かったですわ。あの後はサマエルさんがひとりでやるはずでしたのよ?でも、アヴィエルの思考は少々……いえ、かなり異常で、常軌を逸していた。私の予測通りにはならなかった。あなた方をトゥールーズに招いた理由もわからなかった」
ヴェシリアは顔を上げ、短く息を吐いた。
「ポン・ヌフでは驚愕いたしましたわ。あれでようやく、アヴィエルの目的はわかりましたが……私、愛情や痴情には疎くて」
「モンセギュールで撃たれた少年は……スリエルか?」
「キャハッ!バレたぁ?アザズェルが先に行ってたからぁ、次はあたしの番かなって!計画変わったのをサマエルに伝えに行ったんだけどぉ、楽しかったぁ!キャハハッ!」
「アヴィエルのやり方はことごとく私の予測を外れていましたわ。サマエルさんも非情を貫けそうになかった。だから……あなたが頼りだったのです」
溶岩を映した赤黒い瞳が、真っ直ぐにおれを見た。
「信じることにしたのです。あなたの……愛を。あの子の記憶を消したのもそれ故のこと。ご自分を責めることはなくてよ?それに捕まえてどうするかは……正直に申し上げます。私にも策はなかったのです」
口元が僅かに歪んだ。
「今は阻止することはできてもまた繰り返す。蛇は執念深くて嫌いですわ。天使が使い魔になるはずもない。ルシフェルさんがお力を貸してくだされば手はあったのですが……あの方とだけは、まだお話ししたことがなくて」
我関せず。ルシフェルは一貫している。ヴェシリアを持ってしても、ルシフェルは折れない……少しだけ、ほっとした。
ヴェシリアはふうっと息を吐き、微笑んだ。
「そんなところかしら。まだ何かご質問は?」
これ以上聞いても、無意味な気がした。全てはヴェシリアの手の内だったというわけだ。
愛、以外は。
ヴェシリアは疎くてと言ったが、2人は似ているかも知れない。愛を知らず、愛に飢えて、父を怨み、復讐するために世界を変えようとした。怨む理由と復讐の結果は違ったが。
「そうだわ。もうひとつ、あなたにお願いがあるのですが。聞いてくださる?」
「ああ。聞くだけでよければ。ヴィのことだけで手一杯だ」
「ほほほ……それでよろしくてよ。今回は簡単なことですの。ズィヤ・シムシェキに、言伝を頼みたいのです」
「……ズィに?」
「ええ。こうお伝えくださる?『ギュネルは、お返しください』」
「ギュネル?カアン・ギュネル?……ハカン・チェティンか?」
「まあ!よくご存知。ちょっと……迷惑をかけてしまったので。教育し直すことにしましたの」
ベリエルの判決がどうとか言ってたのはこれか。カアン・ギュネルもこっちに来たのか。ベジエの件で、ズィは信頼していた忠臣に裏切られた。そのフォローまでしてくれると言うわけだ。
他を寄せ付けない頭脳を持ちながら、謙虚さと気遣いも備えている。ギュネルやアザズェル、スリエルたちが心酔する理由なのかも。
……それとも、これも全て計算か。
「至れり尽くせり、だな。ズィの気休めくらいにはなるかも」
その前に、地獄や死後の世界を説明するのに手間取りそうだが。
「それでよろしくてよ。では、お生きなさい」
ヴェシリア・セレン。
地上では月の女王と例えられていたが、今や……女王そのものだ。
地獄の女王。
「ジェイエル!はいこれ」
アザズェルが、新しい小石を投げて寄越した。
新たな依代の情報とともに、おれはそれを握りしめた。




