2 うごめく蛇
【11月1日 コンスタンティノープル、国民代表府、執行官執務室】
『⭕️』『⭕️』『⭕️』『⭕️』『⭕️』『⭕️』
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カアン・ギュネル執行官はデスクトップPCに向かい、4分割モニターの左上の、赤い円の行列をじっと見つめていた。
赤いウロボロスで埋め尽くされたコメント欄。バビュールchの、ズィヤとパヴルのライブコラボのアーカイブ。
厄介なやつらだ。
保安庁アンキュラ支局長時代に、といってもたったの20日ほどだったが、『いにしえの琥珀』についてはしっかりと学んでいた。前任の初代ギュネルはイカレていたが仕事は出来る男だったし、資料も揃っていた。
ペルフェクティやクレデンテスたちにも自ら審問した。
全て、閣下の指示通りに。
閣下。首席審問卿。
ギュネルにとっては、閣下とはいまだにヴェシリア・セレンのことだ。シムシェキ国民代表、ズィヤは、閣下などという呼ばれ方は好まない。現在の直属の上司で、この国を主導する、とても尊敬できる素晴らしいリーダー。それでも、閣下にはかなわない。ディルシズの頃から5年、閣下に認められてギュネル支局長として抜擢され、閣下の右腕と自負してきた。
閣下はK.K.について、ほぼ完全に把握していた。閣下のすることに"ほぼ"がつくのは滅多にないことだが、保安庁とディルシズが総力を上げても、K.K.の全貌を知ることはできていない――今のところは。
「ケイト。どうですか?エデッサは」
モニターの右下は、スペクルムだ。
ケイト・カプラン。25歳、アフリカ系フランク人。ディルシズ。そして、ギュネルの右腕候補。
「はい!えっと……とても暑いです!11月なのに。私は、日焼けの心配はないですが――」
ギュネルは咳払いをした。
「――あ!すみません……そうじゃないですよね」
「いや、構いませんよ。どうぞ」
ケイトの表情が、ぱあっと明るくなった。
「は、はい!……カアン・ギュネル執行官って、もっと怖い方かと……あ!ご、ごめんなさい……」
今度は一転して、下を向いてしまう。
ギュネルは寛大であろうと心掛けていた。これでも、この捜査官は非常に有能なのだ。ディルシズの一員となってまだ日は浅いが、若手の中ではナンバーワンと評価していた。
特別使徒保安庁という異端審問官組織が存在意義を失くした今、ズィヤとギュネルはヴェシリアの計画通りGTは解体し、ディルシズはそのまま運用していた。審問官たちはディルシズの配下に組み込まれて再訓練された。もちろん希望者のみだが、半数以上が新たにディルシズとなった。
ギュネルは執行官として、そして元ディルシズのナンバーワンとして、この新たな国家治安維持機関の運営管理を任されていた。
閣下はその人間離れした知性と、恐ろしいまでの威圧感で我々の尊敬を集めたが、それは唯一無二の素養だ。閣下を見習いたいのは当然だが、人には向き不向きというものがある。ケイトは若干コミュニケーション能力が不足しているが、それ以外では群を抜いて優秀だ。
「いやいや。お気軽に……よければ、報告を」
「はい……えっと。エーゲ・ユルマズ少年は、死んでます」
寛大に。
エーゲ・ユルマズというのは、3日前に銃創死体で発見された14歳の少年だ。死んでいるのはもちろん知っている。
「……あ!も、もちろん、死んでて当たり前ですよね!当たり前のことを言ってしまいました……」
「いいから。続けてください」
「はい……えっと、10月19日、日曜日なんですけど、友だちと運河で遊んでいて溺れ、救助されましたが心停止。その数分後に救命隊員によって蘇生、エデッサ教育病院に入院。10月22日に、医師の指示でアンキュラ、イブン・シーナ病院に転院。両親は同行していません。両親や友だち、近隣住人、教師、救急隊員、医師、看護師らに事情聴取しましたが、転院の理由、両親が同行しなかった理由。この辺がどうも判然としなくて……まだ調査不足です。申し訳ありません……それ以外では特に……水難事故以前は、普通の男の子だったみたいです」
「なるほど。心停止後蘇生……わかりました。それにしても……この短期間で一体何人くらいの聴取を?」
「はい、えっと……現地のディルシズのネットワークを指揮する権限をいただきましたので……全部で52人です。私が直接面談したのは9人」
48時間で52人。コミュ障なのに。やはり優秀だ。
「すごいですね。K.K.については?」
「すごいですか?……あ、はい、えっと……こちらではまだ、K.K.に活発な動きはないですね。ほとんど誰も知らないって感じで」
「ではケイト、アンキュラに行ってくれますか?少年の調査を続けてください」
ケイトは完璧な敬礼をした。
「かしこましまりた!」
3日前、共和国記念日の最中にアンキュラで起きた銃撃事件。ウルス地区の雑居ビルの屋上で、ビルの警備員が頭部銃創死体を発見、17時35分、即時通報。被害者は14歳の少年。
これだけでも異常な事件だが、ローマ共和国にとって重要なのは、事件発生時刻とその現場だった。
ウルス地区の雑居ビル。その向かいのシテ。ビルの屋上から向かいのシテを見ると真正面に位置するのが、パヴル・エルギュンの自室、配信ルームの窓。
革命の顔、ズィヤの広報担当。今やローマのスポークスマンであるパヴルの自宅の向かいで、14歳の少年が銃撃によって死亡した。
検死による死亡推定時刻は14時以降。
その後、現場周辺の聞き込み、監視カメラ映像で、16時15分、現場付近で被害者確認。つまり、16時15分から遺体発見までの17時35分の間に、被害者は何らかの理由でビル屋上に上がり、そこで何者かに銃撃され死亡した。
パヴルとズィヤとのライブ配信中のコメント欄を、K.K.がハックしたその時間に。
ズィヤと話す必要がある。
【同日 国民代表執務室】
「――物的証拠は少年の遺体以外にもあります。ラバーストラップがちぎれた高級腕時計、そして薬莢がひとつ。屋上の真ん中に放置されていました。腕時計はオーデマ・ピゲ、ロイヤル・オーク・オフショア・ダイバー。薬莢はサブソニック7.62ミリ弾。個体識別No.など詳細は資料に」
ズィは執務室の窓から向かいのディオゲネス公園を眺めていたが、振り返って言った。
「サブソニック7.62ミリ弾。戦場でなければ、それはプロの使う弾だな」
「おっしゃる通り。亜音速弾はサプレッサーを使えばほぼ無音です。燃焼ガスの排気音だけ。隠密射撃に最適ですね」
「つまり、暗殺未遂か。パヴルを……腕時計はまとまった現金に換えられるのに、妙だな。しかも薬莢を放置。サブソニック弾まで用意したプロが」
どちらも、14歳の中学生の持ち物とは思えない。プロの持ち物、というなら納得できる。
そのプロが、こんなわかりやすい物的証拠を現場に放置していった。特に薬莢は、銃の指紋みたいなものだ。弾丸の種類だけではなく、発射した銃のほぼ全ての情報が残されている。プロなら絶対に放置したりはしない。
矛盾だらけだ。謎だらけ。
「銃は現在調査中。サブソニック弾はハンドメイドのようですが、出所の見当はついています。DGSEです」
フランク王国の対外諜報機関。
『いにしえの琥珀』の本拠地もフランク王国。このカルトをローマに持ち込んだのは、フランク副領事のグレゴワール・ド・ガスパール。ここまではわかっている。ヴェシリア・セレンはこれを知った上で、ガスパールとも交流を図っていた。素知らぬ顔で。
だが、ガスパールは主導者ではない。ただの実務担当。資金調達係。カルトの教祖が別にいる。それが全く不明なのだ。解析できなかった。ヴェシリア・セレンですら。
「少年はディルシズが調査継続中、銃については表向き、筋を通して使節を送り、裏でGTのルートから探ります」
ズィヤはフッと笑った。
「……ズィヤ?」
「ああ、思い出し笑いだ」
ステーションシックス。
『……DGSE御用達でしてねぇ。とても面白い銃ですよ?……』
暗殺銃を、とても面白いと骸骨のように笑ったあのギュネル。面白いのはお前だったな。全裸で墓石に頭をぶつけて死ぬなんて。
「――問題は、K.K.ですね……我々もいろいろ関わりはありましたが、厄介な集団です」
「ガスパールに、直でぶつかってみるか?」
「……直で?……と、おっしゃいますと?」
「表向き、筋を通すと言ったじゃないか。やつはフランク副領事だ。筋が通る」
「いやいや。まさか、あなたが?それはいくらなんでも危険過ぎる。フランクに宣戦布告するみたいなもんです」
やれやれ。国家元首ともなると、自分の身体も自由にならないわけか。まあカアンの方が正しい。
「とりあえず、あなたの警護体制を強化しました。最高レベルで。エルギュンとサナルの警護も既に手配済みです。よろしいですか?」
つまり、さらに自由がなくなると。仕方ないが。
「もちろんだ。特に、パヴルとサフィは……何というか、危機感が薄い、いや欠如してるからな。ほんとなら今すぐこっちに連行して――」
「連行。逮捕しますか?」
一瞬、ズィヤはギュネルの冗談がわからなかった。というより、ギュネルにも冗談が言えるのかと驚いた。
ギュネルはほんの少しだけ、口角を上げていた。
「ふっ。カアン、お前を抜擢したのはやっぱり間違いだった」
ギュネルの顔色が変わった。
「は?そ、それは……申し訳ござ――」
「お前は俺より優秀だって意味だよ。よろしく頼む」
【11月2日朝 アンキュラ、イブン・シーナ病院】
ニチジョーってなんだっけ。毎日出退勤を黒服護衛付きの高級EVで、なんてニチジョーじゃない。しかも地下のリネンとかの搬入口から出入り。あたしはシーツか。患者さんや救急車の邪魔になるよりは百倍マシだけど。
パブちゃんがアンサツされそうになった。それは怖い。あたしは革命のアイコン。それは、もう慣れた。わかるけど。わかるけどさ。
なんか今朝は、黒服また1人増えてるし。まあこの人たちは自分の仕事をしてるだけだから、にこにこしとくか。
申し送りはスムーズに終わり、サフィはその日の業務を開始した。
これもニチジョー。先月からアジル。救急対応。始まればセンジョー。
『23歳女性、刃物による大腿部切創』
けたたましい着信音、スピーカーから救急隊員の冷静な声。始まった。
『活動性大量出血。意識A、血圧70の40、心拍130。圧迫止血中、ルート未確保。4分で到着予定』
「受け入れOKです。――O型未交差血出庫!外科、手術室にコール!」
「よーし、始まったぞ。いいね?ターゲットはC安定。ルート確保、未交差輸血――」
医師の落ち着いた声。サフィは右腕からルート確保、採血担当。トレイをセットし、プラスチックガウンやゴーグル、マスクを着用する。
大丈夫。必ず助ける。あたしたちはプロだ。助ける。必ず助ける。
しっかりと確認しながら手袋をはめ、自分に言い聞かせる。必ず助ける。
「Hazır?(いいか?)」
患者の頭部にいる医師が言った。サフィは患者の右腕を掴み、カウントを待つ。
「Bir, İki, Üç!(1、2、3!)」
出血が多い。対面の看護師が衣服を切り裂く間にも、シーツが真紅に染まっていく。
サフィは駆血帯をキツく巻き、指先に全感覚を集中させて血管を探る。そして14ゲージ。
一発で決めてやる、あたしの技術は確かだ、あたしは自信がある。
針の後ろに赤い奔流。成功。
患者の女性がサフィを見た。
大丈夫、助けるから、だいじょ――
「いやっ!」
酸素マスク越しに女性が叫ぶ。こもった声。透明なマスクカバーが白く曇る。
「やめて!お願い!」
「意識混濁だ、手を止めるな」
医師がサフィを睨む。
「やめろ!」
女性が絶叫した。頭を激しく振り、酸素マスクが外れた。背中が弓なりに跳ね、ベッドがガタガタと揺れる。大量出血している右脚が、圧迫止血していた外科医を蹴り飛ばした。
サフィが掴んでいた右腕も暴れた。極太の注射針が抜け、噴水のように血しぶきがあがる。
視界が真っ赤だ。血を浴びた。
だがまず、やることはひとつだ。
サフィは女性の右腕をがっしり掴み、ベッドに抑えつける。医師が酸素マスクを付け直そうと、女性の頬を抑える。蹴飛ばされた外科医も、瞬時にベッドに飛び乗った。
サフィがガウンの肩にゴーグルを擦り付ける。少しでも視界を。
その赤く染まった視界の中で、医師がのけぞり悲鳴をあげた。女性に噛まれた。
「……やめろ……触るな……」
女性が呻く。酸素が欠乏し、朦朧とし始めた。そして失神。脱力。
「左でお願いします!14G!」
サフィは冷静にトレイから新しい針を取り、対面の看護師に渡すと、急速輸液装置のチューブを引き剥がし、ベッドの足元を回して対面に投げる。トレイもそっくり左側へ。そして、後はバックアップに徹した。
固定用テープ、追加の輸血パック……必要になるものを準備しながら、脳裏には女性の声がこだまする。
『やめろ』
『……触るな』
意識混濁……それとも。
治療拒否。
床に落ちていた女性の衣服を拾う。血塗れ。バッジがついている。
赤いウロボロス。
【同日昼 イブン・シーナ病院、応接室】
ケイト・カプランは、その医師の左手を見つめていた。包帯でぐるぐる巻きだ。
「あー、これ。さっき噛まれちゃって」
「噛まれた?……犬ですか?」
「いやいや、うちは動物病院じゃありませんよ?患者です、アジルの。意識混濁で」
「それは……大変でしたね」
「まあ、たまにね。あるんですよ」
医師は気だるそうに右肩をさすった。
「破傷風の予防でね。筋肉注射は痛くてね」
「お医者様でも注射はお嫌いなんですね」
医師は笑った。ケイトはほっとした。
良かった。コミュニケーションばっちりだ。
人と喋るのが苦手。いや、喋るのがじゃなくて、上手く会話を……転がす?のが苦手。コンプレックスだ。この仕事じゃ、とても大事なスキルなのに。
「――で。エーゲ・ユルマズでしたね」
「はい、えっと……エデッサからこちらの病院に。なぜですか?」
医師は鼻で笑った。
「なぜ?こっちが聞きたいですよ。事前の問い合わせも何もなく、突然来た。1人で。紹介状は持ってましたけど」
「紹介状。エデッサ教育病院のですね?拝見できますか?」
「構いませんよ。捜査には全面協力しろと言われてますし。後でコピーをお渡しします。ただ……」
「ただ、なんです?」
「いや、エデッサの医師、知り合いなんですよ。だから釣りの話のついでに……趣味でね、釣りが」
「釣り」
「わからないって言うんですよ」
「……釣りが、ですか?」
「いやいや。紹介状。いつ書いたのか、なんで書いたのかってね」
エデッサの医師には直接聴取していた。その時はうやむやにされた。本人にもわからないなら仕方ないけど、どういうことか。
「――まあ、爺さんなんで。認知症テストを勧めておきました」
「認知症なんですか?エデッサの医師」
「……。いや、その……まあ、ど忘れかなんかでしょう。もう一度聞けば話してくれるかも」
医師はへらへらと笑った。
わからない。何がおかしいのか。
「ど忘れ、ですか。ありえますか?」
医師のへらへら笑いが固まった。
「……申し訳ない。真面目にお話します」
ケイトは頷いた。なぜ最初からそうしてくれないのだろう?こっちは真面目にやってるのに。
「推論はやめて、事実だけお話しますね。エデッサの医師が何を言おうが、とにかくあの少年が正規の紹介状を持参して、うちに転院してきたというのは事実です。心停止から蘇生したばかりの14歳の少年が、付き添いもなく、たった1人でエデッサからアンキュラまでやってきた。これも事実」
昨日ケイトは、ギュネルの指示通り、エーゲ・ユルマズ少年のアンキュラまでの旅程をなぞっていた。少年はタクシーでエデッサ空港へ行き、エセンボア空港に飛び、またタクシーで真っ直ぐイブン・シーナ病院に到着した。支払いは全て父親のカード。
通常、14歳の少年が親の見送りもなく公的な許可申請もなくこういった旅行をすることは、この国では不可能だ。父親のカードの使用にしても、まずタクシーの段階で怪しまれる。
だがエーゲ・ユルマズ少年は、通報も補導も職務質問もされず、とても親切な見ず知らずの大人たちに丁重に扱われて、ビジネスクラスでフルコースを堪能した。ケイトは往復エコノミーでサンドイッチだった。
「こちらでは、どのように対応されましたか?」
「受付で紹介状を確認、正規の手続きを経て入院。病室はVIP専用個室。支払いは父親のカードを掲示しました。これが22日ですね。私が担当医になりました。手が空いていたので。通常通り一連の検査をしましたが、特に異常はなかった。入院する必要も感じなかった」
「はい、えっと……ではなぜ、そのまま入院を?VIP専用個室で?」
医師は黙った。眉をしかめて、額を拳でトントンと叩く。こめかみを揉んだ。
「先生?どうなさいました?頭痛ですか?」
「……いや。そうじゃないんだが……変だな。なぜ……?」
「なぜ入院させたのか、思い出せない。そうですね?」
同じだ。エデッサ教育病院の医師。両親。タクシー運転手。空港の職員。キャビン・アテンダント。報告しなきゃ。
「入院後は?」
医師は顔を上げた。普通の表情に戻っている。何事もなかったかのように。ほっとしたようにも見えた。
「実は、検査後は見ていないんですよ。私は。他にも担当患者がいるし、アジルが忙しくて……あ、失礼」
医師が胸ポケットからiPortaを出し、通知を見る。
「患者の意識が戻った。ちょっと電話します」
ケイトは無言で頷く。
「――治療拒否?参ったな。弁護士を――」
治療拒否。
ケイトはその言葉を聞くやいなや、ソファから立ち上がっていた。挨拶も礼もせずに。
ケイトに対するギュネルの評価が高い理由は、これだった。ただの直感ではない。ケイトの脳は、記憶の倉庫に蓄積された言葉や事象を瞬時に繋ぎ合わせ、統計的にも論理的にも飛躍的結論を導き出す。
たまに言葉が出てこなかったり、語句を言い間違えたり、冗談が通じない。でも突然閃光のように真実に辿り着く、ちょっと変わった天才。それが、ギュネルのような周囲の人々の、ケイトに対する評価だった。
iPortaで通話を続けている医師を放置して、ケイトは応接室を出た。
治療拒否。K.K.の教義。霊、魂を善、肉体を悪と教えるK.K.にとって、肉食はもちろん、卵や動物性脂肪、油分も忌避される。食事だけではない。性行為。繁殖。医療。輸血。肉体を維持し、存続しようとする行為の全てが罪悪だ。治療も、それを拒否すれば命に関わるとしても、断固拒否する。
それが、K.K.、いにしえの琥珀のペルフェクティとなるためには必須の教えだった。
現代においてここまで極端な教義を徹底している宗派は、ケイトの知る限り他にはない。特に治療拒否となれば、それを訴える者がK.K.の信徒である可能性は現在のローマでは限りなく高いと、ケイトは断定した。
『すごいですね。K.K.については?』
『ではケイト、アンキュラに行ってくれますか?少年の調査を続けてください』
執行官の指示は、エーゲ・ユルマズ少年の継続調査だ。でもその前にK.K.の情報も要求された。すごいって言われた。
少年はもう死んでるんだから後回しにしても大丈夫。こっちも調べなきゃ。
早足でアジルへ向かう。今朝初めて来た病院だが、15フロア全ての案内図を見てどこに何があるかは記憶していた。アジルの院内出入り口の前で、サフィーエ・サナル看護師とすれ違う。警護対象。声をかけようと思ったが、厳しい顔つきに委縮し言葉が出てこなかった。深呼吸して、後を追う。
サフィーエ・サナル看護師が休憩室と書かれたドアを開け、中へ入っていった。続こうとして、ドアの前で若い男に止められる。
「ちょっと。ここはスタッフオンリー。入れないよ」
「はい、えっと……私は捜査官です。サフィーエ・サナル看護師にお話が聞きたくて」
「あー無理無理。たぶん仮眠だから」
「……そうですか。あなたは?仮眠?」
男がにやけて言った。
「あー、ね?サフィーエと一緒におねんねしたいね?サイコーに気持ち良さそう」
「おねんね。それは性行為のことですか?」
「……。なに?あんた」
ケイトは男の着ている制服に注目していた。救急隊員だ。ディルシズの身分証を掲示する。
「ケイト・カプラン。ディルシズです」
救急隊員は狼狽した。革命後、国家保安組織となったディルシズを目の当たりにするのは初めてだった。噂には聞いていたが。
「ディ……ディルシズ!ほんとにあるんだ……」
「ありますが?えっと、治療拒否。あなたがここへ?」
「……はい?」
「はい。えっと……今日、治療拒否の患者がいませんでしたか?」
救急隊員の男はまじまじとケイトを見ていたが、すぐに自分の立場を思い出した。ディルシズに逆らうのはまずい。
「……今朝の患者かな?やっぱりそうだったんだ。搬送中ずっと、病院は嫌だって言ってた」
「なるほど。嫌だと言うのに病院へ」
「はあ?そりゃそうだろ。俺たちはそれが仕事だぜ?しかもあんだけ出血してたんだから。旦那に刺されたらしい」
「刺された?旦那はどこへ?」
「そりゃ逮捕されたよ。痴話喧嘩らしい」
「夫婦喧嘩か。逮捕。警察ですね?」
もうこの男には用がなかった。iPortaを出し、ディルシズのネットで今朝の傷害事件を検索、2秒で特定すると、移送先警察署を確認する。
警察も今はディルシズの下部組織だった。ディルシズとしての権限をフルに活用し、事情聴取の映像と調書を精査する。
ケイトの思考トリガーを引く言葉が、ひとつだけあった。妻を包丁で刺した夫の言葉。
『壊したかった』
【同日夜 コンスタンティノープル、国民代表府、国民代表執務室】
「――壊したかった?」
「そうです。カプランの報告によると、夫は妻を『傷つけたかった』とか『殺したかった」ではなく、『壊したかった」と供述している。妻が嫉妬した、だから『壊したかった』と」
ズィヤの眉間に皺がよる。
「K.K.の教義では、嫉妬は偽の神が信徒を貶める悪の感情です。夫は、妻が偽の神に……拐われた、と言ったそうです。K.K.では、霊、魂が全てで、肉体は不浄な容れ物と教えられます。嫉妬した妻はもう妻ではなく、偽の神に乗っ取られた容器。だから壊そうと思った、と」
「それで包丁で、夫とすれば、もう妻ではなくなった不浄な容れ物を壊した」
「夫はそう思ってます」
「で、妻は、これまた教義に従い、治療を拒否した……俺には理解できん」
「私もです。肉体は容れ物ではない。主に授かった大切な――」
「肉体を授けてくれたのは親だよ」
ギュネルは言葉に詰まった。
そうだった。ズィヤは神を信じてはいない。信仰を失ったのではなく、自ら捨てた。それがそもそもの始まりだった。
ズィヤが理解できないのはカルトの教義ではない。信仰によって自身を失くし、こういう事件を起こして人を傷つけたり、大義名分を偽って戦争を始めたりする宗教そのものが理解できないのだ。
いや……理解できないのではない。認めない。宗教を必要としない。むしろ不必要であり害悪だとさえ思っている。
そうなのだろうか。
ギュネル自身、自分が信心深い人間だとは思っていなかった。GTアンキュラ支局長を務めたのは、閣下の命令だったからだ。もちろん、ディルシズとして影の存在だった自分を取り立ててくれたのは光栄だったし喜びだった。だが、心から異端を裁こうと思ったことなど一度もない。
ローマでは、カトリック教徒であることは、息をするのと同じくらい当たり前のことだった。それを根底から覆したのがズィヤの革命であり、閣下の――コンシリウムなのだ。
「もうひとつ、わからないことがある。妻が嫉妬した、と言ったな?何に嫉妬したんだ?K.K.の教義……俺の理解が正しければ、そこまで狂信している夫が浮気とか、ありえないんじゃないのか?」
「……確かに。そこが鍵になるかもしれません。K.K.は、異端審問官だった私から見ても、不可解な矛盾が多い。いえ、異端だからというのではなく、組織としての矛盾ですね」
ズィヤはため息をついた。
「組織か。本当にそんなものがあるのか?K.K.というのはペル……ペルフェクティだっけ?それが率いる小さな信徒の集まりがたくさんあるだけで、ピラミッド的な組織はないんじゃ?パヴルから聞いた」
「その通りです。もしかすると、分散化した結果、それぞれの教義に早くもズレが生じているのかも。異端では……いえ、宗教ではよくあることです。ただ、組織というか……資金の流れ。横の繋がりがあります」
「ガスパールだよな?それはわかってる」
ズィヤが立ち上がった。
「よし、こうしよう。やっぱり直接、ガスパールと話す」
「いえ、あなたは――」
「俺じゃない。カアン、任せるよ」
ズィは鳩尾に触れて、革命前のあの日を思い出していた。あの時も俺は、K.K.のことを任せた……ヴェシレ・クルチュに。ヴェシレはたった1人でK.K.の異常な儀式——エンデューラを潰してくれた。
……いや、ダメだ。彼女は民間人だし、今はジェイ・ロルトの療養中だ。あの2人は革命でも、もう充分力になってくれた。望んだかどうかは別として。これ以上頼るべきではない。
カアンも信頼できる。
あの時のヴェシレのように。




