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1 死の蛇

【2025年10月28日 ローマ共和国アンキュラ】

 灰色の雲。

 雨が降っていた。

 灰色の街に。

 

 シルヴァン・ド・モローは笑っていた。びしょ濡れで古いビルの屋上で、覗きをしている自分を。

 雨。あの太陽がいっぱいだった夏から、もう3ヶ月。悪魔に喰われそうになって逃げ出してから。

 現場放棄。逃亡。"鋼鉄(Acier)"が。|serpent de mort《死の蛇》と渾名された男が。

 しかも、ただの逃走ではなかった。貴族の令嬢マドレーヌ・ド・ガスパールを突き飛ばして逃げた。社会的自殺。表の仕事は出来なくなった。

 

 裏の汚れ仕事。それでも辞められない。辞めることができない。許されない、死ぬまでは。このまま、やりがいも旨みもない汚れ仕事をひたすら続けて、いつかどこかでまたしくじって、歴史にも誰の記憶にも残らず死ぬのだろう。


 華やかな社交界、そして革命。その影で暗躍するスパイ。歴史に残るはずだった。ゾルゲやフェルセンみたいに。

 あの後、指令されるのはケチな仕事ばかり。殺し。盗み。盗撮。殺し。盗聴。恐喝。殺し。3ヶ月前までは部下にやらせてこの手は綺麗だった。もう部下もいないが。 

 

 仕事はくる。次から次から。世界は歴史の転換点の真っ只中だ。祖国フランクの目の上のたんこぶだった超大国、ローマの革命。DGSE(対外諜報組織)が暇なわけがない。その震源地に派遣され、祖国の利益のために命を賭ける花形スパイたち。彼等の上等なスーツやドレスを汚さないよう、下水道や埃まみれの裏路地を這い回るたくさんのネズミ。かつて鋼鉄と呼ばれた男が、今や薄汚い灰色のドブネズミだ。上も使いやすいのかも知れない。技術は一流なのに信用ゼロの、ドブネズミ。

 

 革命は驚くほど簡単に成功し、世界はひっくり返った。世界最大の宗教が失墜し、カトリック連合(CU)という屋台骨が崩壊した。歴史的大事件。その最底辺で、ドブネズミも走り回らなければならない。


 明日はまた殺しだ。革命後初めての、一年で最大のお祭りの日に。

 百年ちょっと前に共和国になったローマの、建国記念日。その後も長く続いた教皇庁支配から解放され、ローマ人たちは国中で浮かれている。首都コンスタンティノープルでも、ここでも。

 だがこの雨。週末からずっと雨だ。これじゃエクスと変わらない。じめじめと、陰鬱な雨。


 仕事は簡単だった。街はお祭り騒ぎで普段以上に警備も厳しいが、ここは静かだ。このビルの屋上にも簡単に上がれたし、お祭りで特設されたネオンのおかげで手許も明るい。今夜の下見も、何の問題もない。

 

 ターゲットの行動予定も把握済み。やつはほとんど部屋から出ないが、カーテンはいつも開けっ放しだ。革命の立役者なのに、自分が狙われているなんて想像もしてないのだろう。しかも仕事を始めたら、まずPCの前から動かない。アシェ(鋼鉄)がやらなきゃならないような狙撃じゃない。ドブネズミの仕事だ。今すぐ終わらせることもできる。


 モローはPGMウルティマ・ラティオを構えて、スコープを覗いた。明日の狙撃は日中の時刻を指定されている。ターゲットは明るい部屋でカーテン全開で、普通のスコープでもよく見える。だがその必要もなかった。


 確認するまでもない。今夜も、明日のお祭りの真っ最中も、ああやって動画配信をする。そして鋼鉄(アシェ)の弾丸で死ぬ。それだけは光栄に思って欲しいものだ。誰にも知られず、歴史にも残らないが。


 今夜はゆっくり寝るといい。

 最後の夜だ、パヴル・エルギュン。



【同日 コンスタンティノープル、プリンケプス(国民代表)府バルコニー】

 ズィヤ・シムシェキ国民代表(プリンケプス)は右手を差し出した。

「明日もよろしくな、執行官(エグゼクトル)

「エグゼクトル……まだ、慣れませんね」

 カアン・ギュネルは苦笑しながら、ローマ新政府首長の握手に応じた。

 

 熱い1日だった。よく晴れた日だったが暑いのは気温ではなく、人々の熱狂。ローマ共和国最大の祭日、その前夜祭を新政府にとっても成功理に終えることが出来た。樹立後初めての、平和的な仕事だった。

 

 ギュネルは容姿も変わっていた。サンドベージュの髪色は元々だったが、スリックバックも銀縁眼鏡もやめて若返って見える。

「俺もだよ。首元がスカスカだと落ち着かないな」

 ズィも、もう軍服は着ていなかった。退役したからだ。2人はともに開襟シャツとジャケットというラフな格好だった。国民の前に出る時は常にラフスタイルで。広報マネジメントだ。役職名も広報担当が決めた。8月26日の、アヤソフィアでの新政府樹立宣言の前の日だった。


 ローマ共和国新政府の広報担当。

 革命を鼓舞し、世界に拡散し、ズィヤ・シムシェキの名を希望と改革の代名詞に祭り上げたエーミッター(動画配信者)。民間人だが、ローマの声と呼ばれている。

 バビュールこと、パヴル・エルギュン。

 

「そうだよね。ズィ、あんたは皇帝って柄じゃないし、誰もそんなこと望んでない。僕も」

 プリンケプス。初代ローマ皇帝アウグストゥスが名乗った称号。

 ズィは皇帝になどなる気はなかったので、最初は拒否した。

「じゃあ別のにしよう。大統領……偉そうで嫌だな。なんかないか」

「いやだから、プリンケプスがいいんだってば。意味わかってる?皇帝って意味じゃないよ。"第一の市民"。僕らに当てはめるなら、"第一の国民"かな。どう?」

 

「うーん……その、"第一"ってのがな……自分からナンバーワンだって宣言してるみたいじゃないか?傲慢だし、そんなつもりもない」

「そんなの気にしすぎだから。みんな、ズィがナンバーワンだと思ったからついてきてくれたんだよ?もっとさ……どんと構えて……」

「だいたい俺は、国家元首になりたかったわけじゃないんだ。ただ教皇庁の支配をやめさせたかっただけだ」

「わかってるって。だけど支配者がいなくなったら、誰かが代わりにまとめなきゃ。こういう隙を狙ってる悪いやつなんてたくさんいるんだからね?全く……いまさら。ズィしかいないんだから!」

 

 ズィは本気で悩んだ。大変なことになったものだ。だが、パヴルの言うことは正しい。誰かが、この国をまとめなくてはならない。代表して――

「――代表。これだ。"代表"にしよう。偉そうじゃないし」

 パヴルはふうっと息を吐いた。やれやれだ。

「"代表"。うん、いいかもね。"国民代表"。よし、決まり!」

 


 だがギュネルの抜擢については、今度はパヴルが拒否した。

「正気か?!GT(特別使徒保安庁)だよ?しかもコジャテペでは――」

「コジャテペでは、有能だった。そうだろ?お前もあっさり手玉に取られた」

「いやいやいや。あれはヴェシリア・セレンの台本。ギュネルは――」

「操り人形、か?俺はそうは思わない。話したんだ、ギュネルと。実直な男だ。初代とは大違い。滅私奉公なんて死語だと思っていたが、あいつのためにあるような言葉だ。しかも、非常に有能。ヴェシリア・セレンが右腕にしただけのことはある」

「いや、それが問題なんじゃ?あの女が諸悪の根元で――」

「どうかな?これを見ろ」

 

 ズィがノートPCを取り出した。それからiPada(タブレット)iPorta(スマートフォン)に、iVitra(スマートグラス)まで。

「全部、ヴェシリア・セレンのだ。ギュネルが、セレンから預かっていたデジタルキーで、全てのセキュリティ・ロックを解除して寄越した。パヴル、お前の仕事だ。変な仕掛けがないか調べてくれ。前みたいに」


 パヴルはそれからアンキュラに戻り、数日を費やしてデバイスを徹底的に調べた。隠しカメラやマイクはもちろん、爆発物や毒物の可能性まで。ないとは思ってはいたが、あのヴェシリア・セレンだ。用心するに越したことはない。

 結局、デバイス自体は何の危険もなかった。そして中身は――


 メモリはすかすかだった。慌てて削除した、というのではなく、元々保存ということをしていなかったらしい。操作ログも確認したが、一度見たファイルや動画、データなど、ヴェシリア・セレンはほとんど確認次第削除していた。保存は彼女の頭の中。驚異的な記憶力。頭脳明晰とは聞いていたが、人間離れしている。


 そんな中、あえて保存してあるファイルもいくつかあった。


 ズィヤ・シムシェキ。

 パヴル・エルギュン。


 ズィと僕、それぞれの詳細極まりないデータ。動画。画像。

 初代ギュネルのiPadaにあったズィの画像はほんの一部に過ぎなかった。戦地での戦闘中の動画まである。

 僕の方は、バビュールchでアップした動画の恐ろしく緻密な解析動画。表情解析、音声解析、それを基にしたプロファイリング。

 

 そして。

 僕らの個人解析ファイルを全て見終わった後、自動的に開いた動画。

 

Consilium(コンシリウム)(計画)』

 テキストのみの動画だ。真っ黒な何もない背景に、白いシンプルな短文が浮かんでは消える。

『|Prima phasisプリマ・ファシス(第一段階)』

Inventio(インウェンティオ)(選定)』

Occursus(オックルスス)(遭遇)』

Temptatio(テンプタティオ)(誘惑)』

Passio(パッシオー)(受難)』


 ……これは。どういうこと?


『|Secunda phasisセクンダ・ファシス(第二段階)』

Servator (セルワトル)(救国者)』

Diffusio (ディッフージオ)(拡散)』

Instigatio(インスティガティオ)(扇動)』


 ……まさか。

  

『|Tertia phasisテルティア・ファシス (第三段階)』

Evigilatio(エーウィギラティオ)(覚醒)』

『|Insurrectioインスレクティオ(蜂起)』

Mutatio (ムータティオ)(変革)』


 画面は真っ黒になった。シークバーはまだ数分残っている。


 ……そんな。全部?最初から?

 あのスヴェイシュの動画。バビュールchで初めてバズった動画。あれから、メンバーがズィのことを教えてくれて、会って……全部?


 あれ?走馬灯って死ぬ時見るんじゃなかったっけ?笑える。


 笑いを堪えられない。止まらなかった。笑いが堰を切った。涙がでる。腹筋が痛い。


 ようやく笑いの発作が収まると、パヴルはモニターを見た。


Commissum (コンミッスム)(委託)』


 託す。僕たちに。

 

 ヴェシリア・セレン。

 

「……すごい……すごいや、あんた……」

 パヴルはまた笑い始めた。


 

【同日 アンキュラ、フランク王国領事館】

 マドレーヌ・ド・ガスパールは微笑んでいた。姿見の前で。

 

 ボルドーワインをぶちまけた様なドレスの左肩がずり落ちて、白い肌が妖しく剥き出している。この方がいい。同じ赤でも、こんなに違う。いや、ドレスじゃない。この私の肉体。


 この肉体。ボディ。蟲螻どもは涎を垂らして群がる。触れることは許さない。人間どもの劣情。浅ましい欲望。汚物に塗れて狂い、悶え死ねばいい。穢らわしい蟲螻どもめ。


 敬うことは許してやる。今日の宴はこのボディのお披露目。崇めるがいい。


 マドレーヌは鏡に向かって口角を上げた。そしてゆっくり、その小さな赤い舌で、バーガンディのリップを塗った唇を舐めた。



 アンジェリック・ヴェスパーは鏡越しにそれを見ていた。

 あの日から2ヶ月、アンジーとマドレーヌはニースの聖マリー・マドレーヌ教会に籠り、現代社会や文明の進歩を進講した。その間、マドレーヌはあの白いミニドレスやキャミソールなどで過ごしていたので、こうしたフォーマルな装いの姿を見るのはこれが初めてだった。メイクも。


 とても18歳とは思えない成熟した美しさ。内側から醸し出る、野生的な神々しさ。これこそが真の――だが、野生的過ぎる。私が傅育しなければ。

 ボディを無事献上した今、そのボディをさらに磨き、整え、その時に備えるのが、これからの私の勤め。私が頭脳になれば良い。


「お嬢様。肩を……」

 アンジーはドレスを直そうと手を伸ばしたが、振り返ったマドレーヌの視線がそれを許さない。

「触るな!このままでいい!」

 マドレーヌの声。高く、細く、可憐な少女の、あのマドレーヌの声。だがそのグリーンの瞳は少女のそれではない。冷徹さはなく、熱い、銅線が燃えるような緑の炎の瞳。



 ガスパールはその炎を、廊下から盗み見ていた。その熱に鼓動が跳ねる。

 

 マド。私のマド。もういない。遠くへ行ってしまった。

 妻を救うためとは言え、私は取り返しのつかないことをしてしまった。

 今更悔やんでも遅い。私のマドは消滅し、代わりにあの方がいらっしゃった。

 これでよかったのだ。

 もう、そう思うしかない。


 ガスパールは螺旋階段から、饗宴の準備が進む玄関ホールを見回した。

 ローマ共和国建国記念日の祝宴。あちこちの会場で、似たようなパーティーがいくつも開催される。だがここは特別だ。


 ホールの床に描かれた紋章。

 赤い円。2匹の赤い蛇。


 赤いウロボロス。

 明日、いにしえの琥珀(K.K.)が甦るのだ。



【10月29日12時29分 アンキュラ、ジャポン・レストラン鯉】

 パヴルは勢いよく麺を啜った。赤い汁が撥ね、シャツの胸に飛び散った。

「あーもう、パブちゃん!」

 サフィが顔をしかめてティッシュを差し出す。

「レンゲ使って食べなきゃダーメ!」

 パヴルはゲホゲホ咳き込んだ。辛い汁。辛いし熱い、でも美味い。サフィから受け取ったティッシュで、シャツじゃなく口を拭く。

「ラーメンうまい……ゲホッ、か……辛いけど」

「そんなに一気に食うから……もぉ。あとそれはタンタンメン」

 パヴルは口を拭いたティッシュを丸め、それで胸を拭く。赤い染みが広がった。

「あーダメ!落ちなくなるじゃん!」

「……これウケる。なんか、撃たれたみたいじゃね?」


 

 サフィはレンゲに乗せたラーメンを静かに啜った。

 革命前はブツリューがダメだったから注文出来なかったメニューが、今はなんでもおk。やっぱ平和が1番だわ。タイショーも張り切ってる。

「このあと、どーする?サフィ夜勤だっけ?16時まではヒマだよね?」

「違うって。こないだ言ったじゃん?あたし今アジル(ER)だから。昨日明けで今日はお休み。お祭り行こ。なんかー、やっとニチジョーに戻った感じ?のんびりブラブラしたいかも?パブちゃんは?」

「サフィに合わせる。そのあとライブでズィとリモートコラボ配信。日常かー。パパラッチとか大丈夫?」

「んー、慣れた」


 サフィは店内を見回した。普通の光景。他のお客さんも、店員さんも、みんなそれぞれ自分たちのニチジョー。

 パパラッチって言うのかな。一時的なもんだろと思ってたのに、相変わらず病院の外だとフラッシュ焚かれまくり。まあでも、みんな推し活のマナーは守ってるんじゃないかな?サインとか、ツーショとかも頼まれたりはするけど、メーワクするほどじゃないし。握手は勘弁。これでも看護師なんだから。

 国民のアイドルって。マドちゃんじゃないんだから。

 

「そういえばさ。マドちゃんアンキュラに戻ってるんだよね?元気にしてるかな」

「マドレーヌかー。そういや最近ネットじゃあんまり騒がれてないけど、元気なんじゃない?あのバカプリンセスが、18になったからってそんな急に変わるわけないし」

「そっかー、マドちゃんもオトナになったのかも?ぐふふ」


  

 ……ぐふふって。

 サフィがサーモンの握りを頬張って、ちょっとキモく笑った。

 まあ、平和だなー。

 パヴルはタンタンメンを啜った。また汁が撥ね、シャツに赤い染みが増えた。



【15時23分 アンキュラ、ウルス地区雑居ビル屋上】

 予報通り、雨は降り続いている。

 モローは昨夜と同じ、古いビルの屋上にいた。

 灰色の空を見上げる。雨足が強くなってきた。ドブネズミに相応しい天気だ。レインコートは着ているが、タクティカルグローブは既に雨水を吸い、ぐっしょりと濡れている。かえってグリップはよくなるので、それは好都合だった。


 パヴル・エルギュンの部屋との距離は100メートルちょっと。狙撃としては至近距離と言える。簡単過ぎる。

 エルギュンがこちらを発見する可能性はゼロではない。その気になれば丸見えだ。だが、毎日暮らしている部屋の窓から向かいの薄汚い古いビルを見る理由など何もない。実際、ここ数日の監視中、エルギュンが窓辺から外を眺めたことなど一度もない。

 

 それでも人間は時に、理由のないことをする。万一エルギュンが気まぐれで窓から古いビルの屋上を見ようと思い立ったら?

 問題ない。下見の時に、屋上の隅に観葉植物の鉢植えを見つけていた。大きなベンジャミンの鉢植え。オフィス用観葉植物の定番だ。飽きたか邪魔になったかしてここに放置されているのだろう。これを射撃ポイントである配電盤の横まで引っ張ってきて、ブラインドとして使う。これがモローの身体を隠してくれる。

 

 この急ごしらえのブラインドに隠れて、PGMウルティマ・ラティオのバイポッドを鉄製のしっかりしたフェンスに載せる。銃身だけは剥き出しになるが、向こうから見ればただのパイプだ。気づきもしないはずだ。

 射撃体勢を取る。依託立射。フェンスぎりぎりに踏み込んだ左足を、鉢植えにピタリと当てる。完璧だ。


 銃をおろし、レインコートの袖をずらしてオーデマ・ピゲのオフショアに目をやる。15時29分。

 モローにとって高級腕時計は、趣味であると同時に、社交の場でVIPにアピールするため、そして気取ったマダムたちを落とすための道具であり、またいざという時のアセット(代用通貨)でもあった。しかも今日のこれはダイバーウォッチだ。雨の日にはピッタリだった。

 仕事中に身につけた高級品を見ることは、モローのプライドにとっても非常に重要なことだった。まだ底まで堕ちたわけじゃない。たとえこんな汚い仕事でも確実に片付けていれば、いつか返り咲けるかも知れない。

 

 ラバーストラップを外し、オーデマ・ピゲを銃のレシーバーに巻き付ける。スコープを覗いたまま時刻を確認するためだ。正確に16時25分に狙撃することが指令されている。記念式典か配信のタイスケで意味のある時刻らしいが、それはモローにはどうでもいいことだった。指示された時刻になったら引き金を引く。ただそれだけだ。

 

 銃をフェンスに立てかけ、モローも腰を下ろしてフェンスに背を預けた。狙撃までまだ1時間近く。その時まで身体を休めておく。雨に打たれながらだが。

 15時30分になった。眼下でタクシーが止まる。エルギュンが帰ってきた。予定通り。



【15時51分 パヴル自室、配信ルーム】

「オッケー、ズィ?聞こえる?なんか喋ってみて」

()()()()()

 大音響。鼓膜が破れる。やるかなとは思ってたけど。

「……あー、ズィ。マイクから離れて。普通に喋っていいから」

『……こ…………か…………』

 だよね。そうくると思った。


 パヴルは、コンスタンティノープルのズィと音合わせ中だった。ズィは配信そのものにはもう慣れていたが、これまではいつもパヴルがズィを撮影し、それをエーミット(動画配信サービス)にアップしていただけだったので、ただ喋るだけでよかった。今回は初めて、配信機器を自分で設定しなければならない。

 

「ズィ。普通に座って。喋って」

『はい。座った』

「オッケー、インジ……あ、いや、喋った時に光るやつわかる?」

『インジケーターだろ?そのくらいわかるぞ』

「……じゃあさ、それ見ながら、赤にならないようにつまみを――」

()()()

 操作パネルに顔を近づけたな。

「あー、いい。わかった。こっちでやる」

 ズィの音声フィーダーを調整する。音割れはなおせないけど。まあ初めてだしいいか。

 

「オッケーじゃあ次――」

 ズィの顔。なんか違和感がある……傷だ。顎の古傷が逆。反転してる。

「ズィ。画面反転してる。設定の――」

『反転?こうか?』

 ズィがカメラの前で激しく首を左右に振り始めた。

「いやいやいや!動かなくていいから!じっとしてて!」

 ピタリと止まった。

 ……全く。これが"国民代表"か。

「まあいいや。気づく人なんていないか。このままいこ」

 

 ズィが動かない。固まってる。もちろん映像のトラブルではない。動くなと言われたら文字通り微動だにしない。それがズィだ。

「……あの。自然に、ね?いつも通りで、ね?頼むよズィ」

 ズィがニヤリと笑った。

『フッフッフッ。参ったか』

 

 わざとかよ!

「……。はいはい。参りました。じゃあだいじょぶ?配信始めるよ?」

『ああ。"Trust Me"』

「そういうのは本番でやって」

『できるか!お前じゃないんだから』

「……。わかったから。全く、1人じゃ何もできないんだから」

 ズィは爆笑した。また音が割れる。



【15時59分 雑居ビル屋上】

 iPortaの音楽が止まった。片耳だけBağlatus(Bluetooth)イヤホンをして、エーミットのライブ配信待機音楽を聴いていたのだ。

 

 立ち上がってPGMウルティマ・ラティオを手に取る。まだ26分ある。銃を持ったまま、軽くストレッチして身体をほぐす。雨で冷えているし、ウォームアップが必要だ。

 

 アキレス腱を伸ばしながら狙撃銃を両手で持ち、頭上にあげて上半身も伸ばす。モローは精神はともかく、身体は完全に健康だった。36になるが、病気ひとつしたことはない。仕事上怪我は絶えなかったが、今は全て完治していた。

 

 ストレッチが終わると、最後に銃の点検をする。点検といっても、この銃はもう何度も使ってきた。試射も十分しており、クセもよくわかっている。最終的な確認。外観を視認するだけ。


 PGMウルティマ・ラティオ(最終的な手段)

 パヴル・エルギュンにとって。

 モローにはまだまだ最終手段は必要ない。これが終わったら、少し考え直すのもいいかもしれない。16時半までにこのビルを降り、シヒィエのスラム辺りでオーデマ・ピゲを金に換える。買い叩かれたっていい。その金で……カナダにでも逃げるか。銃もシヒィエで処分できるだろうか。

 

 メタル・ギダー・シャーシ、アルミ合金剥き出しの、無骨なセンターシャーシ。対人狙撃専用銃。人殺しの道具。同類ってわけだ。グリップこそ合成樹脂だが、それ以外のほとんど、引き金からストックまで、アルミ合金の冷たい鉄灰色に鈍く輝き、今は雨の雫が無数に浮いている。これほど鋼鉄(アシェ)に相応しい狙撃銃は他にない。

 インテグラル・サイレンサーやレシーバー、ストックまで直線で構成されたデザインは無骨そのもの。一般的なライフルのような美しさは微塵もなく、骸骨(スケルトン)というより機械の鉄骨のようだ。


 手放すには惜しい銃だが、持ち歩くのに適しているとは言い難い。ストックは折りたためるし、ここにはテニスバッグに入れて持ってきたが、高飛びするなら処分するしかないだろう。


『――というわけで、国民代表!ここからはリスナーからの質問に、答えちゃってくれますか!バビュッと!』

 オーデマ・ピゲを見る。

 16時15分。

 モローはマガジンを挿入すると、再び射撃体勢に入った。ボルトを静かに引く。狙撃前に最も集中すべき操作。大きな金属音が鳴るからだ。

 ガシャン。



 ――その音が鳴った瞬間だった。まるで合図だったかのように、モローの左足元の鉢植えの土から、小さな黒い、細長い生き物が這い出した。大きめのミミズのような、しかしその体表は滑らかで、体節はない。

 その生き物は柔らかい針金のようにうねうねと、ベンジャミンの幹を這い登り始めた。モローはスコープを覗いていたし、もし鉢植えを見たとしても、ベンジャミンの幹の陰で視認は不可能だった。

 ブラーミニメクラヘビは、ゆっくりと、しかし着実に、上を目指して這い登って行った。


 

【同時刻 フランク領事館、祝宴会場】

「――それでは、王宮へ?」

「ええ。娘を連れて。いや、どちらかというと、娘の付き添いで、と言うべきですがね」

 ガスパールはマドレーヌを目で追いながら、シャンパンを啜った。

 

 あの子の真っ赤なドレス。扇情的で、目で追っているのは父である私だけではない。この祝宴に招かれた男たちが生唾を飲み込む音が聞こえるようだ。あの、腰まで開いた背中。あの背中はマドレーヌそのものなのに、まるで未知の生物のように見える。

 

 今、マドレーヌはゲストたちの隙間をするすると、蛇のようにすり抜けて行く。微笑みながら。私に白い背中を見せつけるように。

 

 腕時計を見る。1分前にも見たばかりだった。時の進みをこれほど遅く感じるのは、マドレーヌの背中のせいだけではない。

 まもなく。まもなくだ。



【16時23分 雑居ビル屋上】

 スコープの中のレクティル(十字線)は、正確にターゲットの側頭部、こめかみに置かれている。

 丸坊主。黒縁眼鏡。その鉉の数センチ上。モローが人差し指に僅かに力を入れるだけで、あそこに血の花が咲き、エルギュンは2度と配信が出来なくなる。あの世にエーミットがあれば別だが。

 

 今はまだ、モローの人差し指はトリガーガードの外にあった。

 あと2分。モローは静かに呼吸を合わせ始めた。雨でじっとりと水分を含んだタクティカルグローブは、右手がグリップを、左手は剥き出しのアルミ合金のストックを握り、しっかりと肩に押し付けていた。鉄製フェンスに載せられたバイポッドが雨水を垂らしながら、銃の重さと金属同士の摩擦で接着されたかのように安定し、PGMウルティマ・ラティオは完全に固定された。



 その数十センチ左では、金属や機械とは真逆の有機的な滑らかな動きで、ブラーミニメクラヘビがベンジャミンの枝から配電盤の中へと滑り込んで行った。



【16時24分 パヴル自室、配信ルーム】

「――なるほど。じゃあフランクでもカトリックはお先真っ暗ってこと?」

『うむ、確かなことはわかりませんね。信仰というものは、私たちにとって大切な心のよりどころです。ローマでは――』

 ズィは台本通り、よき理解者を演じている。こういう、本番に強いのは、僕には真似できないズィの強さだ……僕はおしっこが漏れそうだ。

 パヴルは焦っていた。

 どうしよう……こんな質問タイムの真っ只中で、ちょっとトイレ、なんて言えるわけない。タンタンメンが辛すぎた。ライブの前に食べるものじゃなかった。水、がぶ飲みしちゃったから……まずい。我慢できるか。


 気を紛らわすため、コメント欄を――


『我々は甦った』

 ん?

『真の神が降臨した』『いにしえの輝き』

『琥珀』『甦った』『真の神』『甦った』

 ……なんだこれ……

『いにしえの琥珀』『Kadim Kehribar』

『K.K.』『⭕️』『⭕️』『K.K.』『⭕️』

 ……おい。ヤバ――

『⭕️』『⭕️』『⭕️』『⭕️』『⭕️』『⭕️』

『⭕️』『⭕️』『⭕️』『⭕️』『⭕️』『⭕️』

『⭕️』『⭕️』『⭕️』『⭕️』『⭕️』『⭕️』

『⭕️』『⭕️』『⭕️』『⭕️』『⭕️』『⭕️』

『⭕️』『⭕️』『⭕️』『⭕️』『⭕️』『⭕️』

『⭕️』『⭕️』『⭕️』『⭕️』『⭕️』『⭕️』


 16時25分。



【同時刻 雑居ビル屋上】

 視界の隅で、オーデマ・ピゲの長針が5を指した。モローの人差し指が瞬時に反応し、トリガーガードに滑り込んでセーフティを解除、流れるように引き金に触れた。

 

 その刹那。


 配電盤の中で、ブラーミニメクラヘビの濡れた頭部と尻尾が同時に、剥き出しの銅線と金属製クランプに触れた。配電盤をフェンスに固定しているクランプに。

 

 230Vの電流が即座にブラーミニメクラヘビの全身を貫き、クランプから鉄製フェンスへ、そしてPGMウルティマ・ラティオのバイポッドを伝わり、引き金にかかったモローの、ぐしょぐしょのタクティカルグローブを通して右人差し指から一気に心臓を経由し、アルミ合金剥き出しのストックを握っていた左手まで駆け抜けた。

 

 通電から0.01秒後、モローの右人差し指がトリガーを引き、ボシュッというこもった音と共にサブソニック7.62ミリ弾が発射されたが、ショックで硬直した腕の力が強すぎて銃口は天を仰ぎ、パヴルに死を届けるはずだった弾丸は、無音で虚空に消えた。

 

 230Vは低圧だが十分な電流をモローの心臓に直撃させ、心筋はその活動を即座に停止した。脳への血流が一瞬で絶たれ、痛みも驚きも感じることすら出来ず、モローの意識は忘却の彼方に消滅した。



【16時26分 フランク領事館祝宴】

「私たちは今宵!甦ったのです!」

 ガスパールが叫び、螺旋階段を仰ぎ見た。

 螺旋階段の中段で、ボルドーのドレスの左肩がずり落ちたまま、マドレーヌはシャンパングラスを持って佇んでいる。

 マドレーヌを見上げる会場は拍手喝采に溢れ、最前列の恰幅のいい男が指笛を鳴らした。


 マドレーヌの笑顔が途端に歪んだ。シャンパングラスを振り上げると、男の顔面に叩きつけた。

「不快だ!」

 怒声とともに、マドレーヌは螺旋階段を駆け上がり、真紅のドレスをはためかせて自室へと消えた。


「――お、お嬢様!」「マド!」

 アンジーとガスパールが同時に叫び、アンジーはマドレーヌを追って螺旋階段を駆け上がった。ガスパールは呆然と立ち尽くす。




【同時刻 雑居ビル屋上】

 モローは倒れた。仰向けに。

 雨がその顔に、見開かれたままの眼球に降り注いだ。眼球に映るネオンの無駄な光が、フッと消えた。


 スッと、傘がモローの上にさされた。

 いつのまにかその少年はいた。

 ネオンが点灯した。

 そして。

 モローの瞼が瞬きをする。


『ようこそ

 地上へ。

 サマエル』

 

 サマエルは少年を見上げた。むくっと起き上がる。

 

『雨は久しぶりだ……アザズェル』

 

 低く、重いロクツィオ(響き)。鉄灰色の瞳がアザズェルを見据える。

 

『問題は?

 ないね?』

 

『問題ない』

 

『オーケー、任務完了

 ボクは帰る。やって』

 

『ああ』


 サマエルの手が速やかに動き、握っていたPGMウルティマ・ラティオを持ち上げてボルトを引いた。薬莢が排出され足元に転がるが見向きもせず、銃口をアザズェルの額に向けるとトリガーを引いた。

 ボシュッ。サブソニック7.62ミリ弾が正確にアザズェルの頭を吹き飛ばした。

 それからサマエルは、レシーバーに巻きついているオーデマ・ピゲに気づいた。


 ラバーストラップを片手で引きちぎる。それを肩越しに投げ捨てると、インテグラル・サイレンサーを外し、ストックを正確な動作で折りたたんでテニスバッグの中にしまう。

 それから、思い出したように配電盤を開けて、中から炭化したブラーミニメクラヘビの屍をつまみ出した。

 

 死をもたらした蛇。

 それをレインコートのポケットに入れると、サマエルは屋上を立ち去った。


 殉職者を土に返すために。


 


【16時31分 フランク領事館、祝宴会場】 

 マド……思わずそう叫んだが、あれはマドではない。恐ろしい化け物……。

 ガスパールの足元で、シャンパングラスの直撃を喰らった男は顔面血塗れで倒れていた。会場の喧騒は静まり返り、誰も言葉を発せなかった。


 ……化け物でも……私が創ったのだ……あの肉体も……その中身も。

「……み……みなさん。どうか……お聞きください!あの……子……私の……娘は!真の神を宿しました!我々の眼前に、遂に!真の神が降臨されたのです!」

 微かなざわめきが、すぐに歓声に変わった。

「真の……神!我々の……真の神!」

 真の神。人々は口走っていた。

「ローマは……この国は、信仰を失った!今この時こそ、我々が!我々こそが、この国を救うのです!我々の、真の神が!」

 そうだ。あの方が。真の神が、我々のためにお越しくださった。マドの肉体で。マドの姿で。

 ガスパールは腕時計を見た。

 予定通り出来た。あの方がいらっしゃったことを、皆に、信徒たちに伝えることができた。

「皆さん!クレデンテス(信徒)の皆さん!ローマを!そして、世界を!我々が導くのです!」


 そうだ。我々が導く。

 そして我々は、導かれるのだ。

 アヴィエル様に。


 ガスパールは立ち尽くしていた。

 赤い円の真ん中に。

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