28 U,I would……
『……ジェイエル……』
サマエルは翼に包まれて、落ちていた。
『……ジェイエル』
【2026年7月22日10時45分 コンスタンティノープル、バシャクシエヒル、チャムさくら病院】
『……サマエル?』
そのロクツィオは突然飛び込んできた。
『サマエル。無事のようだな』
『無事だって?どうかな……俺はこの通り意識はあるが、木偶が反応しないんだ』
『これが通じるってことは、お前はまだ地上にいるってことだ』
『確かにな……死に損なったわけか』
『やったのか?』
『なんだと?貴様、俺はサマエルだぞ?』
やり遂げた、という意味らしい。それは良かった。
『ありがとう!人間たちが救われた』
『ふん……これで俺も、少しは好かれるか?』
腹を抱えて爆笑するイメージを送る。
『心配するな。お前のことが大好きな人間を、1人知ってる』
ラベンダーの花の画像を添付した。
『からかってるな?そんなことをしてる場合か?次はおまえの番だぞ』
サマエルも花のイメージを添付してきた。
黒い薔薇の。
【同時刻 リグリア海】
銀色の砲弾はB21オローの機体を貫通した後、その上空で放物線を描き、そして落下した。その翼の中でシルヴァン・ド・モローの肉体は、胎児のように両脚を抱えて瞼を閉じ、気を失っていた。
翼が、モローの肉体、サマエルの木偶を守っていた。だが激甚な衝撃を立て続けに受け、肉体の内部は壊れていた。全身骨折。腰椎が砕け、脊髄を損傷した。そして脳は激しい振動に晒されて昏睡していた。
サマエルの意識は清明だったが、五感が失われていた。
完全なる闇。
堕天し地獄の入り口を通過したあの時はまだ、暴風と轟音が感じられた。暗黒の渦の先には、赤い溶岩の海が見えた。
今は……完全なる闇。
『ジェイエル。どうやらこの木偶との付き合いはまだ続きそうだが……もう俺に出来ることは無い』
『サマエル……可哀想に……』
『可哀想?それは侮辱か?……憐れみには及ばん。地上に……ふん。自分でも信じられないが、俺はこの地上、この時代に未練があるらしい』
サフィとパヴル、そしてヘビクイワシのイメージ。
『ジェイエル、頼むぞ。やり遂げろ、このミッションを』
サマエルのロクツィオはそこで途切れた。
ジェイは頷いた。
|L.O.T.U.S.《統括制御用生命維持ベッド》に横たわったまま。
【同時刻 国民代表府危機管理センター室】
「ロスト!F-GSPR、信号消失!」
オペレーターが絶叫した。
ダークモードの地図から青い三角の輝点が消滅した。オローの推定位置を示す赤い三角は点滅している。
「……ズィ……ズィ!どうなったの!」
ズィは無言で赤い三角を凝視した。唇を噛み締め僅かに出血していたが、痛みも血の味も感じなかった。
「ズィ!」
「……SARは向かってるな?」
「はい、ヘリ現着まで数分です」
「オローが……まだ飛んでるなら……」
デジタル時刻が並ぶディスプレイを見る。
目標到達推定時刻——11時27分。
「サマたんに繋がらない……」
パヴルはiPortaを睨んでいる。
「コルシカ、ジラリア灯台から報告。上空から小片落下物あり」
「赤外線探知、ネガティヴ……これ以降は、我々の探知範囲から外れます」
「……待つしか……ない」
パヴルのiPortaが振動した。通知を見た。叫んだ。
「やり……遂げた?……ズィ!ヴェシレさんから!……『彼はやり遂げた』!」
「ヴェシレ?なんで——」
「……電話は出れないか……待ってて」
メッセージを打ち始める。
「SAR、現着まで2分」
ヴェシレさんから返信。速い。
『ジェイにロクツィオが来た
クソキザは重傷かもだって
爆撃機は撃墜したって』
『ジェイがこっち来てって言ってる
ズィと一緒に ミッションてなに?』
「ズィ!これ見て!」
「…………。オペレーター!ヘリに伝えろ、重傷者がいるらしい」
ズィは僕を見た。
「……信じていいのか?」
強く、頷く。
「ジェイさんの病院に行く!ズィも来て!」
ズィはディスプレイを見た。赤く点滅を続ける三角の輝点を。
「落下物、小片多数」
「フランク、依然応答せず」
「ズィ頼む!ズィが必要なんだ!」
ズィは再び僕を見た。充血した眼で。
「俺が?……なぜだ」
「頼むよ!行く途中で全部話すから!」
「今か?無理に決まって——」
思わず、胸ぐらを掴んだ。
「アヴィエルだ!アヴィエルをやっつける!」
後ろから引っ張られた。警護のディルシズ。ズィが即座に言う。
「やめろ」
「SARヘリ現着。救難捜索開始」
ここで……何ができる?ただ待つこと以外に?
「パヴル……アヴィエル、だったな。そいつが——」
ディスプレイが並んだ壁を指差す。
「——これを、仕組んだんだな?全部?」
パヴルが頷く。
「カアンを嵌めたのも、そいつなんだな?」
カアン。信頼していた。命を助けられたからじゃない。カアンは……あいつは確かに、ローマのために全力を尽くしていた。ヴェシリア・セレンの真の目的を俺たちに伝えてくれた。忠誠心が服を着ているような男だった。それを……。
意識操作。思考だけじゃない、心を、人の心を……操られたんじゃない。踏み躙られたのだ。
「そいつが……アヴィエルが、そこにいるんだな?」
パヴルが2度、頷いた。
許せない。絶対に。
短いため息をつくと、ズィはiVitraを振りかざした。
「以降報告はこれで受ける!ヘリは待機してるな?!」
「……代表、どちらへ?ヘリはもちろんいつでも飛べますが……現地警護体制が間に合いません。お立場上、ここを離れるのは——」
「警護も立場もクソ喰らえだ!俺が行くところがローマだ!」
パヴルが吹き出した。これでいい。
革命成功から一年近く。俺は寝てたみたいなものだ。そろそろ起きるよ、エラ。
「今こそ命令するぞ、最高司令官としてな!ヘリを出せ!」
『——奇跡を起こしたことがあるか?』
あるわけがない。だが、起こせるなら……俺にできるなら。やってみせる。
エラ。カアン。見守っていてくれ。ローマを。
【10時51分 チャムさくら病院】
『ズィと行く待ってて』
ヴィは手を止めて、iPortaの通知を見た。
パヴルくんがズィを連れて来てくれる。ジェイのために。
「パヴルくんよ。ズィと来るって」
「そう」
「ミッションてなに?」
ジェイは返事をしない。何度も聞いてるのに、この質問には絶対返事をしない。
わかってる。なにか危ないこと、わたしには隠しておきたいこと。
わたしのせいだ。
わたしが束縛してきたから。
わたしに教えたら力ずくで止められる、そうわかってるから。
わたしを……守るため。
だから、ジェイはわたしに隠す。
ジェイはロータスで仰向けに寝ていた。少しだけ背もたれを起こして。全裸で。バスタオルをかけて。
もう、恥ずかしいとか思ってる余裕もない。これはわたしが望み、ジェイも承諾したことだった。そして、ドクター・セレンも配慮してくれた。
手術に備えての清拭。
温かいお湯に浸して固く絞ったタオルで、ジェイの身体を拭く。
丁寧に。優しく。時間をかけて。
顔。
細い、東洋人みたいな眼。筋の通った鼻。薄い唇。
わたしの大好きな顔。
白髪が目立つ黒髪をかきあげ、耳から首筋へ。頸動脈や頸静脈。怒張してもうだめかと思ったあの時。今は膨らんでなくて、静かに正確に脈うってる。
わたしの大好きな首。
肩から腕へ。
何度も抱かれ、空を飛んだこの腕。わたしがしがみついた、大好きな腕。
タオルをずらし、上半身を拭く。
胸。
パッチAEDとミーナを剥がして拭き、またすぐ貼る。
もしかしたら、顔よりもたくさん見た胸。まだ心臓のことを知らなかったアッカレで初めて抱かれて飛んだ時、頬を寄せた胸。そして毎朝目が覚めて最初に見てきた胸。
わたしの大事な胸。
それから足を、つま先からくるぶし、脛とふくらはぎ、膝、そしてふとももを片方ずつ。
「背中も拭くね」
ジェイは黙って横向きになる。
背中。
翼はもちろん見えない。傷だとか、翼が生えることを思わせるような痕は何もない。どこから……あの大きな、濡羽色の美しい翼はどこから現れるのか。それはジェイにもわからないらしい。
何度も。何度も。わたしを包んで、守ってくれた、大切な翼。
そして……ジェイの命を縮めた、憎むべき悪魔の翼。
「ありがとう。あとは……自分で拭く」
「……そうね」
iPortaが振動した。メッセージの通知。
みんなが、ジェイのお見舞いに来てくれる。だからたぶん、今だけ。
2人きりになれるのは、たぶんこれが……。
ミッション。ジェイがなにをしようとしているのかはわからない。でも、今はそれを問い詰める時じゃない。
2人きりで過ごす時。
「わたし……あなたを信じてるから」
身体を拭いていた手を止めて、ジェイはわたしを見る。
「あなたが決めた事なら……やって。思うままに」
何か言いかけたジェイを制して、通知を見る。
『今、病院に着きました』
「来てくれた。下に着いたって。マドレーヌ」
【11時01分 サリヤー地区、CTÜ Arıテクノケント】
珠里=ジャンヌ・ロティは、コロア本社事務所を出て5分歩いて駐車場まで来ると、スマートキーのドアロック解除ボタンを押した。手前の列の奥の方から、ピピッと電子音が聴こえる。ハザードが点滅しているのを見つけると、やっとその白いファルト・エゲアが自分の車だとわかる。
いっつもこうせんと、どれがどれやらわからん。営業車はみんなおんなじ車種で、色までみんな白。かなわんわぁ。まあ車が悪いわけちゃうけどな。
チャムさくらまで1時間でいけるかな。ガソリン入っとったっけ?こないだ入れたのいつやったやろ。
Arıテクノケントからバシャクシェヒルまでは27キロ。高速が空いてれば30分かからんのに、コンスタンティノープルで平日の真っ昼間に渋滞せえへんわけないわな。まあうちだけ渋滞にはまるわけちゃうし。しゃあないわ。
エンジンかけると、ラジオから天気予報。古い車やからマルチメディア・ナビなんかない。まあカーラジオは需要があるさかいな。うちみたいに、仕事の大半が車ン中ゆうひとが多いんやろなぁ。
『——夕方からは、暴風に警戒が必要です。ポイラズの影響で、風速は50キロに達するでしょう。気象庁では——』
これいっつもビビるわ。日本だと秒速何メートルの風とかゆうし。秒速50キロやと人類滅亡やで、ほんまに。
ほな行こか。
ミーナのスペア、結局必要なかったけど一応な。これも仕事やし。血管圧迫パッチてゆうよりミーナの方がええな。ハカセにしては上出来やわ。
珠里はファルト・エゲアを発進させた。途端にバララッと、明らかに正常ではない排気音が鳴り響き、排気ガスの臭いが漂ったが、珠里はそのまま駐車場を出て走り始めた。
昨夜、帰ってきてここに駐車する直前にいきなりこうなった。ハカセにはゆうたけど、今日はCor.O.A.移植手術やし聞いてへんかったやろなぁ……ほんまにこのボロ車。
排ガス臭うてかなわんわ。エキパイに穴開いとる。海近いし、10年前の車やし、塩害腐食やな。溶接で治ればええけど、交換やろなぁ。ケチらんと新車買うてくれんかなぁ。整備不良で罰金取られたら高うつくゆうとるのに。ハカセのケチ。率先して環境破壊しとるみたいでいややわ。
ミーナ届けたら車屋行こ。
珠里=ジャンヌ・ロティ、パリで生まれ京都で育ち、コンスタンティノープル工科大学を卒業して社会に出たばかりの23歳。
僅か十数分前、世界大戦が起こる寸前で食い止められたことなど露知らず、愛するパートナーもいない。ただ毎日の仕事を真摯にこなすのが彼女の日常だった。
その仕事のために向かった先で全てが激変することになるとは、この時の彼女には想像すらできなかった。
【11時27分 チャムさくら病院】
『オロー目標到達推定時刻。ベジエ、異常ありません』
ズィにはオペレーターの声は事務的に聞こえた。この時刻はあくまで推定時刻。まだ何も確信も安心もできない。
「ベジエはもう大丈夫だってば。サマたんがやってくれた」
「パヴル。俺だってそう思いたい。だがな……モローは救助されたが意識不明、ジェイがテレパシーかなんかで知ったと……言ってる、それだけだ。簡単に信じられるか。モローが何をやったのかもわからん。爆撃機2機だぞ?それを非武装の民間機で。この目で目撃したとしても信じられないだろうよ」
「まあそうかもね。どっちにしろ、ここに来たのはベジエのためじゃない。アヴィエルをやっつけるためだ」
ズィとパヴルを乗せた国民代表専用ヘリは、チャムさくら病院の地上ヘリポートに着陸した。国家元首として、病院のドクターヘリの邪魔はしたくなかった。チャムさくら病院は高台の広い敷地内に大病院のビルが3つも並ぶローマ最大の超巨大病院で、この地上ヘリポートもVIPの来院に備えた設備だった。
国家元首の直接命令にディルシズ達は機敏に対応し、警護と武装した特殊部隊を同行させるため準備を急いだが、パヴルは不要だと言い、ズィはパヴルの意見を尊重して全て公式に拒否した。
俺に何かあったら政府が破綻する?その程度で破綻する政府など作った覚えはない。俺に変わる優秀な政治家なんて掃いて捨てるほどいる。だが、これができるのは俺だけだ。パヴルがそう言った。
「——アヴィエルは……殺しちゃダメなんだ。殺したら逃げられる」
「それがどういう意味かも、俺にはまだよくわからん。だがそれ以前に、そのアヴィエルは……マドレーヌなんだろう?俺にとってはその方が大問題だ。迂闊に手出しはできん。ベジエと同じことだ。戦争になる」
ズィとパヴルはヘリポートから病院の正面玄関まで、2人だけで5分歩いた。玄関前には病院の警察派出所の警官が数人、敬礼して立っている。代表府から通達があったのだろう。
「わかるよ。だから僕たちはミッションを立てた。僕とジェイさんとサマたんで。そのミッションには、ズィの力が不可欠なんだ」
「……。さっきも聞いたが……わからん。そんなことが、本当に可能……というか、ありえるか?」
パヴルはiVitraを外し、ロクツィオ対策レンズの黒縁眼鏡をかけて呟いた。
「それは……やってみなくちゃ、わかんない」
「……。俺は、カラコンはしなくていいんだな?」
「うん。ただ、アヴィエルには気をつけて。どうなるかわかんないから……はいこれ」
自分のと同じ黒縁眼鏡を差し出す。こっちは度が入っていない。
「ヴェシレは……彼女は、マドレーヌを信じている。そうだな?」
「うん」
「よし。行こう」
ズィとパヴルは警官の先導でチャムさくら病院の外来ロビーに入った。ロビーも普通の病院よりずっと広い。来院患者で溢れていてすぐに国民代表は気づかれた。フラッシュが光り始める。警官がホイッスルを吹き、騒ぎが大きくなっていく。
ズィは立ち止まると、ベンチに飛び乗って声を張り上げた。
「皆さん!どうかお静かに!ここは病院です!」
そのたったひと声だけで、ロビーの喧騒が静まりかえる。
「ありがとうございます!友人を見舞いに参りました!ご配慮感謝します!」
これがズィのカリスマだった。もはや特殊能力だ。
ローマの救世主と崇められた男、ズィヤ・シムシェキ。代表府の執務室に閉じこもっていては発揮されることがなかった本領。
警官達が人々を整理し、ロビーは平常にもどった。ロビーの南奥にはアトリウムがあり、ガラス張りのドーム状の吹き抜けからの明るい陽射しが大きな桜の造木を照らし出していた。
その桜の下のベンチの前に、見慣れた黒いパンツスーツ姿のヴェシレ。そしてその隣には……。
マドレーヌ・ド・ガスパール。
真紅のドレスを着て、エメラルドの瞳でこちらを見ていた。
「シムシェキ代表——」
ヴェシレが丁寧なお辞儀をした。たぶん……あえて気丈に振る舞おうとしているのだろう。本当は俺達になど構わず、ジェイの傍についていたいはずだ。
「——わざわざお越しいただき、ありがとうございます。パヴルくんも」
ズィも姿勢を正し、頭を下げる。マドレーヌに。
「マドレーヌ嬢。お目に掛かれて光栄です……そして、あなたも」
マドレーヌの後ろの人影にも頭を下げた。
「マダム、アンジェリック・ヴェスパー。いや、あなたも"代表"でしたね?『いにしえの琥珀』の。モントリオールにいらっしゃると伺っておりましたが」
アンジェリック・ヴェスパーが影から進み出た。
「シムシェキ代表。こちらこそ光栄でございます。ですが本日は、お嬢様のお供に過ぎません。どうぞお気になさらず」
「シムシェキ国民代表」
マドレーヌが右手を差し出した。甲をこちらに向けて。
ズィは歩み寄り、その手を軽く支えると、甲に口を寄せた。マドレーヌは微笑みを浮かべる。
「Enchantée, Monsieur(初めまして)」
初めてではない。去年コジャテペで会い、そしてその後はジェイの病室でピザを食ったのを覚えてないのか。パヴルの言うことが正しいなら、あの時はまだマドレーヌその人だった。今は違うということか。
あの時、この令嬢はジェイにくびったけで、2人でニースに行くという発表をして、まるで結婚報告みたいにのぼせ上がってはしゃいでいた。かしましい、うるさい小娘だとは思ったが、どこか憎めなかったし、可愛いものだとさえ思った。
あの幸せそうだった少女。彼女もまたアヴィエルの犠牲者なのだ。カアン同様に。
「ズィ……本当にありがとう、ジェイのお見舞いに、わざわざ……今彼は手術の準備で、点滴ラインを……すぐに会えますわ」
「ヴェシレ……」
「ジェイは幸せね……ローマ国民代表と、フランク王太子妃に勇気づけて貰えるんですもの。手術はきっと成功する……必ず……」
ダークブラウンの瞳から涙が溢れる。
「おねえさま!大丈夫ですわ、きっと!」
マドレーヌがヴェシレを抱き寄せる。ヴェシレの方が背が高く、マドレーヌの頭がヴェシレの頬に。肩にかかる長いライトブロンドが、ヴェシレの首元にかかる。
「……マドレーヌ……髪、伸びたね……」
「ええ、おねえさま」
【同時刻 チャムさくら病院アトリウム天窓】
アリーの銀色の瞳は、"ぶろんどおんな"の頭を、肩から胸まで伸びた髪を凝視していた。アトリウムのガラス張りの天窓の、内側で。
(アリー。ヴィを守って。おれからのお願いだ)
少し前。ジェイの病室の窓の外からヴィがジェイをきれいにするのを見ていたら、ジェイにお願いされた。
ヴィが"ぶろんどおんな"を迎えに行く。ジェイは行けない。胸が痛くて動けないから。このままじゃヴィを守れない。ジェイは使命を果たせない。だから私がヴィを守る。ジェイのかわりに。ジェイのお願いだから。
それはいい。でもどうする?
ヴィは病院の中。私は外。病院は私を入れてくれない。
ヴィはアトリウムで"ぶろんどおんな"と会う。アトリウムの天窓から入れないか、ガラスを蹴っ飛ばして見たけど硬すぎた。傷ひとつつかないし、隙間もない。
ヴィを守って。それはいい。だけど中に入れない。
ジェイはいつもこうだ。お願いされるのは好きだけど、細かいことは全部私任せ。私のことを超烏だと思ってるのか。確かに私は天才だけど、壁を通り抜けたりは出来ないんだけど。
アリーはアトリウムの天窓の外から分厚いガラス越しに10メートル下の"ぶろんどおんな"を監視しながら、病院への侵入方法を模索していた。
"ぶろんどおんな"と一緒に"くろいめおんな"もいる。"くろいめおんな"がヴィに何か小さなものを渡して、ヴィはそれを口に入れた。お菓子だろうか。わからない。
(くろいめおんな
なにかをあげた
ヴィがたべたよ)
大丈夫か。ジェイに映像は送ってるから、危ないものならなんか言うはずだ。だからといって、やめさせろと言われても無理だけど。中に入れないから。
その時、空から大きな音が聞こえてきた。
うるさい機械の音。ヘリだ。変な細い羽根をブンブン回して空を飛ぶ、変な機械。乗ったこともあるけど、あれよりうるさい。
ヘリは少し離れたところに着陸し、知ってる人間が2人降りてきた。"つるぴかぼうや"と"ごりらおとこ"だ。"つるぴかぼうや"は仲間だ。
2人は病院に向かって歩いてくる。中に入る気か。チャンスかも。
病院の入り口は自動ドアだ。人間が入ろうとすると勝手に開いて、すぐ閉まる。アリーが入ろうとすると開かない。差別だ。
だけど今なら"つるぴかぼうや"たちと一緒に入れるかも。こっそりやれば。見つからないように。
アリーは天窓を蹴って玄関に飛んだ。出来るだけ静かに。玄関には"けいかん"たちがいるが、"つるぴかぼうや"たちを見ていてアリーには気づかない。しかもドアが開けっ放しだった。アリーは素早く潜り抜け、中に入った。
「ママー!からす!」
「……はいはい」
小さな子どもに見られたけど、その手を引く大人は見もしなかった。人間の大人はあまり上空を気にしない。大人に見つかったら追い出されるから、それでよかった。
「皆さん!どうかお静かに!ここは病院です!」
"ごりらおとこ"が吠えた。大人たちも"けいかん"も、みんな"ごりらおとこ"を見ている。アリーは見られることなく、病院の広い吹き抜けのロビーを天井沿いに飛んで、アトリウムに向かった。
そして今。
アリーは銀色の瞳で"ぶろんどおんな"を凝視していた。アトリウムの天窓の内側で。
"ぶろんどおんな"は友だちだったのに、急に仲間じゃなくなった。もう遊んでやれない。悲しかったけど、ジェイがそういうんだから仕方ない。そういうことではジェイは嘘をつかないから。
"ぶろんどおんな"はヴィと抱き合ってる。赤い服の襟の折り重なった布がヴィの胸に当たっている。赤い布は足元まで伸びている。
アリーはその赤い布を注意深く観察した。
ヘビがいるかも。
ヘビを見つけろ。
【同時刻 アトリウムの桜の木の下】
「失礼致します……お手洗いへ」
アンジーはその場を離れた。パヴル・エルギュンが見ているが、追っては来ない。
アトリウムを離れ、待合室の人混みに紛れようという時、アンジーはもう一度振り返って桜の木の下のマドレーヌの姿を見つめた。
この手で何度、あの滑らかなライトブロンドの髪を梳いたことか。あのほんのりと色づいた頬、柔らかい唇は、造花の桜などより何倍も可憐だ。そして私がこの世界のどんな美しいものよりも愛した、エメラルドの瞳。
アンジーは目を閉じ、マドレーヌの姿を瞼に焼き付けた。そのままアトリウムに背を向けると、トイレを探して歩き出す。途中で病院の案内板を見る。
アジルは……そこか。
全て順調だ。ズィヤ・シムシェキが来たのは驚きだったが、彼らが来る前にヴェシレ・クルチュにはインデラルを飲ませていた。涙目で動揺していたあの女は、落ち着くからと私が勧めた抗不安薬を疑うことなく服用した。
今回は蛇達がいるから、審美スクリーニングもカフェ・オ・レも必要ない。あとはグルカゴンだけだ。
グルカゴンはアジルには必ず常備されている。重要なのはタイミングだ。使われるのが早過ぎても遅過ぎても失敗する。ニースでは私が制御できた。ここでも私がやるしかない……その時には、マドレーヌお嬢様はいないのだから。
トイレの個室に入り、もう一度やるべき事を整理する。
キジャーナかインファナがヴェシレ・クルチュを噛む。ヴェシレ・クルチュがアナフィラキシー・ショックを起こしてアジルに搬送される。アドレナリンが注射されるが、インデラルがブロックする。心拍数が下がり、やがて心臓が止まる。
グルカゴン投与はその時でなければならない。
iPortaでスィビラをチェックする。ベジエで検索するが特にニュースはない。爆撃はもう行われたはずだが遅れているのか……それとも、スィビルスもできないほど壊滅したのか。気になるが、今の私には聖務がある。
アジル。その時居合わせる手段は考えてある。
完璧に。
理由以外は。
なぜなのか。なぜこんなことをしなければならないのか。なぜヴェシレ・クルチュなのか。
マドレーヌお嬢様。
私が全てを賭け、アヴィエル様のこの世でのお姿に相応しい器となるよう、刻苦勉励、至誠一貫磨き上げ、慈しんだ肉体。この10年の私はそれだけのために生きてきた。
なぜそれを……捨ててしまわれるのか。
ヴェシレ・クルチュの心臓が止まるその瞬間までに、アヴィエル様はお嬢様のボディをなんらかの方法で殺して自由になって、ヴェシレ・クルチュのボディに転生する。
ベジエから始まる、アヴィエル様がお導きくださる新たな世界。それが素晴らしい世界であればあるほど……マドレーヌお嬢様の姿に導かれ、共に創世したかった。
私が……私如きが、それを口惜しんでも致し方ない。それは心に刻み込んでいる。
だが。
虚しい。
アヴィエルはマドレーヌの瞳で、その瞳を何より愛した女が無言で別れを告げて立ち去るのを見ていた。この瞳との別れを。
あの女。アンジェリック・ヴェスパーはこの瞳、マドレーヌ・ド・ガスパールの瞳、そしてこのボディを愛している。
ただの器なのに。
あの女が……他の男たちが……王太子や王や王妃、宮廷の従者たちが、ペルフェクティやクレデンテスたちが私の真の姿を見たら、どう思うだろう?
醜い、太い蛇腹。
醜い、貧弱な翅。
醜い、地を這う天使。
私は愛されなければならないのだ。
神さえ……父さえ、私を愛しているのだから。
父が私を愛しているのは当然だ。こんな容姿に創った、その戯れの代償。私より美しく創られたものたちは私を蔑み憐れんだが、それは嫉妬だとわかっている。私が、私だけが父の愛を一身に受けていることへの嫉妬。そのせいで私は……苦しみ、悲しみ、恨んだのだ。私より美しいものの全てを。
兄さんだってそうだ。私への憐憫、同情、叱咤、全てが嫉妬だ。今頃は……地獄に帰って、溶岩の海で身を清めているだろう。地上の汚れを焼き尽くして。
皆が私に嫉妬する。
私が醜いせいで。
私が愛されているせいで。
私は愛されるべきなのだ。
でも、ジェイエルは……ジェイエルだけは違った。
ジェイエルは、私を見ない。
憐れみの目でも、蔑みの目でも。
同情も……嫉妬さえしない。
私を……愛さない。
ジェイエル……ジェイエルだけは。
許さない。
(まだだ、キジャーナ)
キジャーナもインファナも、まだドレスの襞の影に隠れていた。
(インファナ。目を覚ましておけ)
ジェイエルがまだいない。やるのはジェイエルが見ている時でなければならない。目の前で絶望させてやる。そして阿鼻叫喚の地獄となったベジエに降臨し、新たな世界の、真の神となるのだ。
マグダラのマリアとして、死から甦ったヴェシレ・クルチュの身体で、ジェイエルを膝下に置いて。
さっき、男どもが来る前に、ヴェシレ・クルチュの虹彩を確認した。このバカな女は、瞳を隠そうともしていない。この3ヶ月、いや8ヶ月そうだったように、マドレーヌを家族として、仲間として、可愛い妹として信じている——
——本当にそうか?
そうだとして、なぜ瞳を晒しているのか。マドレーヌのことを信じているなら、どこに私がいるかわからないはずだ。ジェイエルが私の瞳を警戒しない理由がない。
瞳を晒している理由があるとすれば、ただひとつ。
私に見せたいからだ。
ヴェシレ・クルチュがマドレーヌを信じているのは間違いない。虹彩は細部まで精査した。疑念は影もなかった。疑念どころか、アヴィエルという名前や、関連した記憶が全く見つからなかった。おそらく……。
記憶を消した。
ジェイエルが、ヴェシレ・クルチュにロクツィオをかけて、私に関する記憶を消したのだ。おそらく……私を油断させるために。ヴェシレ・クルチュを囮にして、私を誘き寄せるために。
小賢しい真似を、ジェイエル。だが、私が気づかないとでも?
なめるなよ。
このアヴィエルを。
【同時刻 チャムさくら病院成人アジル】
「サナル。SAHかもの赤2、バイタルは?」
「血圧150の90、心拍85」
「意識は?」
「GCS15。サンクラ訴えてます。CT待ちです」
「了解。絶対安静。ベッドも動かすな」
アジルはこの日も忙しかった。サフィは、この7月22日が歴史的にどんな意味があろうが、リグリア海で推しのサマたんが世界を救おうが、やはり推しのバビュール様が国家元首と共に病院に来ていようが、最推しのVV/JJが生死の狭間を迎えていようが、仕事中は仕事のことしか考えていなかった。今とりあえず気になるのはトイレで非常呼び出しボタンを押して搬入されてきた中年女性だ。SAHはヤバい。
「えーっと、ヴェスパーさん?まだ痛いですか」
アンジーは後頭部を抑えながら呻いた。
「……痛い……です……」
「大丈夫、必ず良くなりますからね?CT撮りますので、ポケットとか確認させてくださいね…………何もないですね。あと、ハンドバッグも中、見ます。診察券とかお薬とか——」
PTPシートがある。服薬事故予防のためには、確認は必須だった。
「えー……インデラル。偏頭痛ですか?」
「……いえ……あがり症なので……」
「もうすぐ、CTの順番来ますから。それまで楽にして、休んでてください。動いちゃダメですよ」
サフィはアンジーに微笑みかけると、他のベッドへ向かった。
インデラル。
把握。メモメモ。
アンジーは、アジルの救急初療室、重症及び心停止対応専門、通称赤ゾーンの、2つのベッドのうちのひとつに横たわり、後頭部をさすっていた。
もちろん詐病だ。看護師にPTPシートも確認させた。あと少しここで寝ていれば、隣のベッドも埋まるはずだ。
ヴェシレ・クルチュが運び込まれてくる。
【11時52分 ジェイの病室】
『ジェイエル……』
『サマエル。身体は大丈夫か?』
『痛くて死にそうだが死ねないようだ。腰から下は何も感じない。動けない。人間たちに拾われて病院だ。そっちは?』
『アヴィエルが来た。ヴィと抱き合ってる』
『馬鹿か?!すぐにやめさせろ!使い魔が——』
『わかってる……でもおれも動けないんだ。アリーだけが頼りだ』
アリーの映像をサマエルと共有する。サクラの造木の下で抱き合っているヴィとマドレーヌ。ヴィの黒いスーツの背中、そこに巻き付くマドレーヌの白い腕。ヴィの肩に、マドレーヌの頭。金色の髪。
『髪だ。蛇がいるはずだ、見えないが。領事館で見た。ナムクアドアーフアダー』
小さな蛇の画像、生態データが来た。アリーにも転送する。
世界最小の毒蛇。モンセギュールでヴィを噛んだのはこの蛇か。明るい砂の色。マドレーヌの髪色は保護色になる。動かなければ見えない。見えた時には遅い。
アリーの視覚。集中している。聴覚も研ぎ澄まされているが、捉えられるだろうか。
『サマエル、手伝ってくれ。3人で集中すれば——』
マドレーヌが顔を上げた。
緑の火。
その輝きが、アリーを——おれたちを見た。
『久しいな、ジェイエル』
【12時00分 アトリウム】
アリーは飛んだ。
緑の輝き。それに向かって。
ヘビを見つけたわけじゃない。"ぶろんどおんな"に見つかった。逃げても隠れてもしょうがない。攻撃あるのみ。
(アリー気をつけろ!)
(行けキジャーナ!)
アヴィエルも、アリーが突っ込んでくるのを見て即断した。今しかない。
キジャーナは即座に反応し、襟のドレープから這い出した。
(見つけた!
ちいさい!)
キジャーナはマドレーヌの肩に、その姿を完全に現した。そして鎌首をもたげ、大きく口を開いた。牙が迫り出し毒の涎を垂らして、もたげられた上体がしなり、バネのように弾けた。ヴィの首に向かって。
(おそい!)
アリーは速度を落とさず弾丸のように突っ込んだ。ヴィとマドレーヌの頭を掠めて。マドレーヌは反射的に身をすくめた。ヴィの首に届こうとしていたキジャーナは伸びきり、そこにアリーの嘴が襲いかかった。
キジャーナの三角形の頭、その下の細い首を、アリーの嘴は正確に捕らえた。即座に翼を大きく広げ、キジャーナを咥えてフレア。
「なに?アリー!?」
ヴィが叫ぶ。
小さな、黒と銀色の羽毛が舞う。
(キジャーナッ!)
キジャーナの精神リンクが切れた。
(畜生ッ!インファナ!行け!)
アリーは勝利を確信していた。嘴がヘビの首を捕らえた瞬間に、死の感触。一撃で首が折れた。即死。嘴を開くと、ヘビはぼとりと落ちていった。
喰ってやる。下を見た。
ヘビは床に落ちてピクリともしない。勝った。
(アリーッ!もう1匹いる!)
……嘘でしょ?聞いてない。
"ぶろんどおんな"は屈んでいた。ヴィの胸に頭をつけて。長い髪を振り乱して。その髪が唐突に持ち上がった。
(そこかっ!)
桜の木の上で反転し、激しく羽ばたく。
「アリーッ!」
ヴィがまた叫ぶ。
2匹目のヘビがしなる。跳ねるように伸び上がる。牙がヴィの喉元へ。
ヴィと目が合った。ヴィの瞳にも、ヘビは映っていた。
アリー。
何が起きてるのか、わからない。
マドレーヌ。蛇。噛まれたら死ぬ。
アリー。
ジェイ。
わたしは、わたしに出来ることをするよ。
あなた達を守る。
アリーがヴィに飛び込む。三角の頭。その下の細い首。嘴が再び捕らえ——
今度はさっきとは違った。位置取りは最悪だった。
アリーの嘴は今度も正確にヘビの首を折ったが、そのままヴィの胸に。そうなるしかなかった。嘴がヴィの胸に。
ヴィの瞳は、大丈夫と言っていた。
アリー大丈夫。そう言っていた。
全力で羽ばたき、エアブレーキ。間に合うはずはなかった。両脚の鉤爪を全開。そこには"ぶろんどおんな"の頭。
嘴と鉤爪、3点が同時に激突した。
ヘビを挟んだまま嘴がヴィのスーツの襟に突き刺ささる、刹那。
ヴィが後ろに倒れた。
嘴は襟を掠めただけ。
マドレーヌは絶叫していた。頭を直に、アリーの鉤爪が掻きむしった。髪が毟れ血が飛び散る。腕が振り上がり、アリーを叩こうとする。
アリーは舞い上がった。
マドレーヌの頭を蹴り飛ばして。
今度こそ勝った。見たか。
アリーはそのまま桜の造木の枝に止まると、戦果を見下ろした。
仰向けに倒れたヴィ。胸を押さえて。
その足元に"ぶろんどおんな"。膝をつき、頭を抱えて喚いている。その脇にヘビの屍体。最初のやつ。2匹目はアリーがまだ咥えていた。
(ジェイ!
やったよ
みてた?)
【12時03分 ジェイの病室】
(ああ見てたよ!すごい!ありがとうアリー!)
「——ロルトさーん!聞こえますか?大丈夫ですか?!」
目を閉じ、精神リンクに集中していたジェイの|L.O.T.U.S.《統括制御用生命維持ベッド》のバイタルモニターは狂ったようにアラートを鳴らしていた。一瞬だけだったが、心拍数と血圧が跳ね上がった。アリーの攻撃時にはジェイの身体も跳ね、痙攣した。しかめた顔も、苦しんでいるように見えた。
「ロルトさーん!息を——」
看護師が腕に触れ、肩を叩く。
「……え?ああ……大丈夫です」
バイタルは落ち着き、アラートも鳴り止んだ。看護師たちはほっとしたが、表情は堅かった。
「びっくりしましたー。胸は?痛くないですか?」
「あー、大丈夫です。ちょっと……」
「どうしました?!痛いですか?!」
「いや……ちょっと、アトリウムに行ってもいいですか?」
看護師たちの表情が心配から苛つき、呆れに変わった。看護師たちはお互い目配せしながら思った。この患者は入院してひと月になるが、最初から問題児だ。危機感ゼロ。こういう無茶を言い出すのも初めてではない。しかもあと2時間で心臓移植だというのに。
「ダメに決まってます!」
【同時刻 アトリウム】
ズィも見ていた。
突然小さなカラスが襲いかかってきて、ヴェシレが倒れ、マドレーヌが頭から血を流した。突然。あまりにも突然だった。
呆気に取られていたが、すぐに我に帰る。
その場にいた全員が身を屈めていた。近くの警官が腰の銃を抜こうとしている。
「撃つなよ!」
ズィが警官を制する間に、パヴルはヴェシレに駆け寄った。
「ヴェシレさん!大丈夫?」
「……痛い……」
ヴェシレは仰向けのまま、胸を押さえて喘ぐように言った。
「ヴェシレさん?」
「……痛い……また……」
ヴェシレが胸から手を離した。その手を見ている。
「……血……」
「アリーがぶつかってきたから……え?ヴェシレさん?」
ヴェシレさんは激しく呼吸していた。ゼエゼエと苦しそうに。
「ちょっと、だい——」
顔を見て絶句した。赤く腫れてきている。胸を見た。
アリーが掠めた襟の少し上。シャツの胸元の素肌に、小さな傷。引っ掻き傷。見る間に赤黒く腫れ上がって。
「また……わたし、また……噛まれちゃった……みたい……」
震える声。声だけではなく、全身が震えていた。
「ごめんね。ジェイ……ごめんなさい……」
「ヤバい……ズィ!」
アヴィエルも震えていた。怒りでわなわなと。
……クソガラスめ……。
背中が疼く。
キジャーナ……インファナ……。
翅が現れようとしている。ドレスの下で。
私の……あの子たち……一瞬で……。
だめだ……翅は……あんな……醜い……。
頭を抱えていた手を見る。血。血に染まった髪の毛。たくさん毟られて。醜い……醜く……。
傷の痛みよりも怒り。怒りで全身が震えた。だが……だが、まだだ……まだ……。
激しい喘鳴。私ではなく……ヴェシレ・クルチュ。
倒れて……喘いで……ガタガタと痙攣して。
やったのか?
インファナ。
やった……やってくれた。
アヴィエルは周囲を見回した。ヴェシレ・クルチュの傍らに跪くパヴル・エルギュン。駆け寄るズィヤ・シムシェキ。眼鏡。
すぐ近くに警官。瞳が剥き出しだ。
その瞳を、虹彩を捉える。
『私を撃て』
「——ズィ!」
パヴルが絶叫し、ズィは周囲を確認しながら近づいた。ヴィの様子を見て即座に叫ぶ。
「アジル!アジルに運ぶぞ!」
「おねえさま!おねえさまーっ!」
マドレーヌが泣き喚いて立ち上がった。
看護師が2人、ストレッチャーを持って走って来た。その時。
銃声。
ズィは軍人としての本能に突き動かされ、ヴィとパヴルに覆い被さった。懐のCanikを抜き、周囲を見回す。警官がグロックを。
誰も撃たれた様子はない。初弾は外れた。
続いて引き金を引こうとしているが——警官のグロックはスライドが中途半端に止まり、作動不良を起こしている。
「動くなッ!」
Canikを構えて叫ぶ。
なんだこれは……なぜだ。
アヴィエルは立ち尽くした。
警官はロクツィオに従った。銃を抜いて、私を狙った。こんなに近くて、撃ち損ねるなどありえない。下手くそが。しかも銃が故障した?ありえない。
ヴェシレ・クルチュが死ぬ前に……このボディを殺さなければ……なんとしても。
ズィヤ・シムシェキ。すぐ隣りに。
「こわい!助けて!」
ズィヤ・シムシェキに縋りつく。銃を構えたその腕に。
「離れてろっ!なにをする——」
私を見ろ。眼鏡?邪魔だ。
瞬時に眼鏡を弾き飛ばし、キスをするように顔を近づけ、視線を、虹彩を——
ロクツィオが響いた。
『アヴィエル!』




