25 捨て身の虎
【2026年7月15日 コンスタンティノープル、国民代表府、代表執務室】
華やかな、天使のような笑顔。
デスクトップのモニターに映る監視カメラの映像の中で、アイテリスA320、フランク王室専用機のタラップを降りてくる王太子妃。
マドレーヌ・ド・ガスパール。やがては、マドレーヌ・ド・フランクと呼ばれる、18歳のプリンセス。
「王女様か……あのお転婆娘が、信じられない。だがもっと信じられないのは、この天真爛漫な笑顔が偽物だってことだな。そうなんだろ、パヴル?」
ズィはプリンケプスとしての厳しい面持ちで、モニターを見たまま……僕を見ずに、僕に問いかけた。
なんて答えたらいいのかわからない。ズィがどういう意味でそう言ったのかもわからない。ズィが何を信じて、何を信じられないでいるのかも、わからない。
「空港から大使館まで、保安体制は万全です。滞在中、令嬢は大使館から一歩たりとも出しません」
ギュネルはエグゼクトルとして、国家公安の責任者として断言した。本心はどうであれ、ギュネルが言うならほんとに万全なんだろう。この2人はもちろん、警護にあたるディルシズ、フランク大使館に出入りするローマ側の人間、その全員がカラコンをつけ、ロクツィオを防御している。ギュネルがフランク、マドレーヌ……いやアヴィエルのスパイで、意図的に何かするなら話は別だけど、それを僕がズィに言っても取り合ってくれない。今は。
オローのデモ飛行プランに仕込まれたステガノグラフィーを見つけたまではよかった。これでギュネルの裏切りを暴ける、ズィに信じてもらえる、そう思った。
甘かった。
ステガノグラフィーは16進数の数字の羅列で、それを解読するにはパスワードがいる。そのパスワードが見つけられない。24桁の英数字で大文字小文字の区別あり。ランダムな組み合わせは、10,408,797,222,153,426,578,715,765,348,940,396,820,955,136通りで、スパコンに計算させたら33京年かかって宇宙が終わる。
どうしたらいいか?どうしようもない。何か奇跡でも起きない限り——
「まあ、俺は会わなくてもいいんだよな?あの王女様は、その……かしましい、からな。カアン、任せるよ」
「はい。まだ正式な王太子妃ではありませんから、ズィヤがお相手することはありません。お任せください」
「……なんだか面倒を押し付けるようですまんな。それにしてもびっくりだ。これも予測していたのかな、ヴェシリア・セレンは」
ズィがそう言った瞬間だった。
僕の頭の中に、稲妻が光った。
「あっとごめん!ちょっと——」
「パヴル?なんだ、どうした?」
「——いや、仕事!大事なこと思い出しちゃった。また後で!」
僕は唖然とするズィとギュネルを残して、執務室を飛び出した。走る。ゲストルームへ。僕のPCへ。
ズィが言ったひと言。
ヴェシリア・セレン。
これだ。ヴェシリア・セレンなら、知ってるはずだ。
PCを起動し、ファイルを開く。
ヴェシリア・セレンが遺した彼女のデジタル・デバイス。デスクトップPC、iPorta、iPada、iVitra。セキュリティをギュネルが解除して、僕たちに渡した。最初はギュネルの指紋がないと開かないデジタルキーだったけど、毎回それだと非効率的だから、ギュネルがパスワードを登録した。ギュネルが作ったパスワード。
画面をタップする、キーボードを叩く指が思考に追いつかない。焦るな。答えは目の前にあるんだ。ギュネルのパスワード。
N3m4mu0luc3454luc345n1t
24桁。大文字入りの英数字。
オローのデモ飛行プランのステガノグラフィーにぶち込んでみる。
パスワード・エラー。
そりゃそうだ。今時同じパスワードを使い回しなんてありえない。そんなのはわかってる。これが生成ソフトで作られたランダムな組み合わせならアウトだけど、そうと決まったわけじゃない。もし……もしなにか、法則があれば。法則を見つけられれば。
N3m4mu0luc3454luc345n1t
同じ文字列がある。luc345。
生成ソフトならこんな文字列は絶対に生成しない。まずはひとつ、扉が開いた。
345。Leet表記か。アルファベットを数字に。元々はプリンスが始めた文字の視覚的表現。それがネットで大衆化し、IT業界でも好んで使われた。パスワードでもよく使われてる。
数字をアルファベットに戻す。
NEmAmuOlucEASAlucEASnIt
まだ意味不明。ランダム。ほんとにランダムなら、やっぱりダメだ。約 1.53×10の41乗通り。天文学的確率なのは変わらない。
坊主頭をピシャッと叩く。ダメか。閃いたと思ったのに……。
いや諦めるなパヴル。
立ち上がって、背後にある大きな姿見を見る。そこに映る自分を見つめる。
バビュール。
お前は虎だ。虎になるんだ。
じっと見つめる。鏡の中の自分と睨み合う……ダメだ。何も浮かばない。
ガックリきて視線を落とした。デスクのPCの画面が映ってる。反転して。鏡に。鏡。
……AmEn
アーメン。
振り返ってデスクに戻った。僕史上最速で。膝を思い切りデスクにぶつけたけど、痛みなんか感じない。
反転。逆だ。逆さまだ。
文字列をひっくり返す。
tInSAEculASAEculorumAmEn
t in saecula saeculorum. Amen.
ラテン語の、祈り。これは……。
Leet表記。プリンス。音楽。歌詞。
この歌詞は知ってる!
『マグニフィカト』
去年の夏。忘れるもんか。忘れられない。コジャテペへの行進。みんなでロルフに乗って。ヴェシレさんが、みんなが、街中の人たちが歌ったあの歌、僕たちの革命の歌。
『マグニフィカト』。
あれから全てが変わった。コジャテペで僕たちを待ち受けていたギュネルにとっても。
それから先は、PC任せで簡単だった。『マグニフィカト』の歌詞全文から24文字を切り取り、この条件で変換して片っ端からパスワード欄にぶち込むだけ。そして。
映画のセリフが瞬く。
"Code accepted(コード承認)"
「Got it!|I'm in《入れたぞ》!」
【同時刻 執行官執務室】
ギュネルはiVitraを装着してデスクに座っていた。パヴル・エルギュンが突然飛び出しでいった後、令嬢がリムジンに乗り込んだところでズィヤの執務室を退去してきた。
パヴル・エルギュン。数日前から様子がおかしい。私と会うたび顔を伏せ、目を背ける。
元々、懇意にしていたわけではない。ズィヤが私を抜擢してくれた時にも強く反対したと聞く。コジャテペで初めて会って以来、彼は私に対しての敵意を隠そうとしたことはない。だが、避ける、怯えるような素振りを見せたことはなかった。
その時、ポケットのiPortaが振動し、アラート通知が来た。セキュリティ・アラート。
公務のではなく、プライベートの。
念のため、iPortaではなくiVitraでアラートを確認した。
アクセス警告。
私ではない誰かが、私のプライベートなセキュリティをかけたファイルにアクセスした。私のパスワードを使って。
アクセスポイントは、この国民代表府内。
パヴル・エルギュン。ネットではバビュールを名乗り、インフルエンサーとして革命を扇動し、ズィヤを英雄として輝かせたITの天才。閣下がコンシリウムのキーマンとして、ズィヤと共に人選した類い稀なる逸材。
ギュネルはiVitraを外し、デスクの、指紋ロックのかかった引き出しを開けた。手を入れて、中の物に触れる。
冷たい金属の感触。冷たい、死の感触。
ステーションシックス。
先代ギュネルがズィヤに渡した物ではない。あれとは別に、私が個人的に入手した銃。
私はIT技術者ではない。あの精巧に仕組まれたデータを今から変更するのは得策ではない。私には私のやり方がある。ディルシズとして、閣下に見込まれた私のやり方。
ズィヤ。パヴル・エルギュン。そして私。
閣下の駒達が争うことになろうとは。
パヴル・エルギュン。
ネットでは虎かも知れんが。
好奇心は虎をも殺す。
【同日午後 フランク王国大使館】
フランク宮殿。
ヴェルサイユを模した、芝と噴水が美しい前庭と、豪奢な石造りの本館。ローマが帝国だった頃から存在する、歴史的建造物。
耐震構造物ではないという理由で年内の解体が決まっており、大使館の実務は隣接する別館に移されていた。近代的なフランク建築の、だがどこか無機質なビル。私もマドレーヌと共にそちらに滞在する。古い本館は既に立ち入りも禁止され、前庭だけが社交の場として機能していた。マドレーヌの婚約祝賀、そして私のアンキュラ副領事退任のパーティーも、この前庭で、本館という歴史をライトアップして開催される。
恐らく、解体前にここを訪れる王族は私達が最後となるだろう。
王族か。かつてはあれ程羨望した肩書きが、これ程無意味に感じる時が来るなど、思いもしなかった。
「パパ!パパーっ!」
別館に到着し、軽装に着替えたマドレーヌが、噴水の向こう側から駆け寄って来る。SPやメイドを引き連れて。
「マドレーヌ。いや……王太子妃。御婚約、おめでとうございます」
「パパ?」
マドレーヌは無邪気に笑った。白いミニドレス。最後のあの日にプレゼントした、あの蝶のドレスに似ている。1番似合う、白いミニドレス。
「気が早いわパパったら。私はまだ婚約しただけ。まだ、パパの娘だもん!」
この言葉を素直に喜べたら、どんなに幸せだっただろう。
マドレーヌは抱きついてきたが、私は抱き返すことはできない。されるがまま……この、私の一人娘だった容器を占有している化け物の、なすがまま。しかも、その化け物に愛する娘を差し出したのは、この私自身なのだ。
涙がとめどなく溢れた。周囲を取り囲むSPやメイドたちから見れば、父娘の感動の再会といったところか。
マドレーヌは私の首に縋って、ダンスのように私をぐるぐる回す。ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。
マドレーヌの笑顔、SP達、噴水、芝生、青空、太陽。全てがぐるぐる回る。スローモーションで。
私の目に映るのは、3階建ての本館の、アーチ型の屋根の頂点にはためく三色旗。
高さは十分だろうか。
【同日20時30分頃 フランク王国大使館別館】
「インファナ!元気だった?」
マドレーヌは本心から嬉しかった。ガスパールが役目を果たし、蛇たちのテラリウムをアンキュラから搬入してくれたからだ。ガラスは汚れひとつなく、内部も清潔に保たれていた。
「ほら、キジャーナ!おうちだよー」
キジャーナが携帯ケースから這い出し、マドレーヌの手を伝って我が家へ戻った。SP達が驚いているが、気にすることではない。
「パパ!ありがとう!ほんとに嬉しい!大好き!」
ガスパールは、抱きついてきた少女の瞳をじっと見つめた。
緑色の瞳。美しいエメラルドの輝き。
私の娘。マドと同じ色の瞳だ。懐かしい。愛らしい瞳だった。グリーンとブルー。光が当たるとキラキラして。
私の瞳は茶色で、緑は妻からの遺伝だ。その妻も、そしてマドも……もう、この世にはいない。私を、私だけを置いて、先に逝ってしまった。
私に抱きついていた少女は、儀礼的な抱擁のあと、私から離れて蛇たちの世話を始めた。私の義務は全て終わった。全てやり終えた。見知らぬ少女にガラス箱を届けた。これで全部終わりだ。
ガスパールはマドレーヌの部屋を出ると、SPや大使館職員たちには見向きもせず、無言のままふらふらと歩き出した。廊下を歩き、エレベーターに乗る。SPが慌てて一緒に乗ろうと走ってきたが、無視してドアを閉める。
地上階でエレベーターが開くと、連絡を受けた別のSPが待っていた。
「閣下。どちらへ?」
「いや……別に。ちょっと散歩がしたい。前庭を」
「かしこまりました。お供いたします」
返事をせず、前庭に出る。
もうまもなく日没のはずだが、空はまだ青く、西の方がオレンジに染まりかけているくらいだった。暖かく、風もない。アンキュラでは暑い日が続いていたので、体感温度は涼しく感じる。いい夜になりそうだ。
本館の屋根を見上げる。三色旗はしなだれていた。本館の入り口には、警備員が2人、直立不動で佇んでいる。
噴水の横を通り過ぎ、正門の方へ歩いて行く。SPは数歩後ろを歩いてついてきた。
「なあ、君」
立ち止まり、振り向く。
「君は、家族は?お子さんはいるか?」
「はい。娘がおります。先日結婚しまして……」
「それはおめでとう。気分はどうかね?」
「はい……少し寂しくはありますが……ほっとした、といいますか」
SPの口元が緩んだ。
「私もだ。こんなところにお仲間がいたとは嬉しいよ。どうだ、一杯付き合わないか?」
「恐れ入ります。私は勤務中でして……」
「そうだったな。じゃあ、私に付き合ってくれないか?命令すればいいかね?」
「お付き合いといいますと?」
「酒が飲みたいんだが、この辺のことはよく知らん。飲み屋を案内してくれないか?命令だ」
男と男の話をしようじゃないか、という微笑みを見せる。こういうのはガスパールが最も得意とする交渉だった。相手の懐に入り込み、親しくなる。外交官としての特殊能力と言っても過言ではない。
「報告と許可が必要なら、構わんよ。待っているから」
「……かしこまりました。ご命令とあらば、ご案内いたします。しばし、お待ちください」
数分後、ガスパールはSPと並んで、大使館の東側の繁華街を歩いていた。日没時刻は過ぎ、空は夕闇。ネオンが明るい。酔客や観光客がまばらに。
「この辺りは上品なバーが多いです。路地を一歩入ると怪しい店もありますが……この通り沿いでしたら、安全です」
「ありがとう。もう少し歩かないか?娘さんは恋愛結婚かね?」
ガスパールはSPの、娘の相手に対する愚痴を聞きながら、坂道を南に下っていった。微かに、塩の香りがした。
「海が近いのかな」
「はい、ボスポラス海峡です。この辺りはカラキョイ、港町で。この先にはガラタポートがあります」
「海か!懐かしいな。トウキョウにいた時は海が近かった。行ってみないか?」
「海岸へですか?ここからまだ、10分ほど歩きますが……」
「10分!近いじゃないか。ぜひ行ってみたい。その辺で缶ビールでも買って、どうだ?缶ビールくらいなら大丈夫だろう?」
「……ご命令ですよね?承知しました。お供いたします。お待ちを」
SPは再び無線を入れ、許可を取った。ガスパールは今や王族であり、その警護としては不用心過ぎたが、所詮は外様の成り上がり貴族だ。そんなものだった。
海岸へは7分で着いた。
海岸というか、港だ。大型のフェリーが船着場にいる。もうかなり暗くなってきたが、フェリーは煌々とライトアップされ、周囲も明るい。
防波堤に落書きがある。
赤いウロボロス。
私がデザインした、いにしえの琥珀のトレードマーク。意味などない。ただのマーケティング。
エクスのあの教会で、眩い光の中に見えたあの方のシルエット。
女、最初はそう思い、それから下半身が蛇だと気づいた。
化け物。最初から、そうわかっていたのだ。
「そうか……奥さんは元気な方なんだね」
埠頭を、明かりを背に受けて歩く。SPはスッと海側に移動した。万一を考えるプロの動きだったが、手には半分くらい飲んだ缶ビールを持ち、シックスパックを下げている。
「はあ……元気すぎるというか……尻に敷かれてまして」
そう言って、SPは缶ビールを飲み干すと、握りつぶして海に投げ捨てた。
SPの黒いスーツの胸で、ピンバッジが光った。赤いウロボロスのピンバッジ。
こいつもか。
「いいじゃないか。うちは長く病にふせて、去年の夏に逝ってしまったよ。どうだ?もう一缶」
歩きながらSPの方へ近づく。
「……申し訳ありません。私は——」
「いやいや、いいんだよ。いい女だった……美人で、頭も良くて。さあ飲もう。もう一度乾杯しよう。妻たちに」
「羨ましい。きっと素晴らしい女性で……お嬢様もお美しくて……」
「マドか。ああ。自慢の娘だった……」
海を見つめた。SPの肩越しに。
黒い海。
「君の娘さんは?写真はないのかね?」
「いや……ありますが」
照れながらそう言うと、SPは立ち止まって缶ビールを口に咥え、シックスパックを持っていない方の手を懐に入れた。
ガスパールはSPに体当たりした。
両手が塞がり、口には缶ビールを咥えるという無防備な状態だったSPは、ガスパールの120キロのタックルを堪えようがなかった。2人はそのまま、抱き合うように海に落ちた。
黒い海。冷たくはなかった。SPはもがいたが、ガスパールは覆い被さるようにSPに抱きついた。
黒い水、黒いスーツ。赤いピンバッジ。
私がばら撒いた、化け物の印。
互いの尻尾に噛み付く2匹の蛇。
ボスポラス海峡の速い潮流に揉まれ、2人はもつれあいながら深く沈んでいった。
光のない、暗い海に。
やっと真実がわかった。
私も、化け物だったのだ。
【同日23時54分 国民代表府、執行官執務室】
「副領事が帰ってこない?」
ギュネルはまだデスクにいた。大使館を監視しているディルシズからの報告が入っていた。時計を見る。23:54。
「繁華街に行ったんでしたね?……いや、尾行は必要ないと指示したでしょう……ええ、まだ飲んでるんでしょう」
ガスパールはモローに精神操作された、ただの操り人形だ。退任して帰国予定。構うことはない。こちらは大事を控えているのだ。終わった男にリソースを割く余裕はない。揺動という可能性もある。
「大使館監視を強化してください。他に外出する者がいるかも知れない」
ギュネルは通信を切った。
ガスパールはどうでもいい。それより、身中の虫をどうするかだ。
パヴル・エルギュンは民間人だし、ズィヤの友人だ。ただいきなり撃ち殺すというわけには行かない。そんなやり方は、閣下もお喜びにはならないだろう。
罠。
閣下ならきっと、策を巡らし、罠に嵌めるはずだ。
罠。
虎を嵌める、罠。
【7月16日08時06分 国民代表執務室】
「ガスパールが?……どういうことだ」
「失踪、いや逃亡では?何らかの機密情報、あるいは——」
「待て待て。今か?娘の晴れ舞台を間近にして?」
ズィヤはコーヒーカップを置き、目を擦りかけてやめた。カラコンをするようになってもう半年だが、まだ慣れていない。
「俺もそれにするかな……カラコンは痒くてたまらん」
ギュネルの指がiVitraをクイっと押し上げた。ギュネルは無意識だったが、その仕草は初代ギュネルとそっくりだった。
「なんにせよ……ガスパールが戻らないというのは大事件だぞ?何かあったと考えるべきだ。事故とか」
「もちろん、周辺捜査は徹底しました。夜通し。救急出動や喧嘩などの騒ぎは一件もなく、静かな夜でしたが」
「事故は無しか。海は?ガラタポートが近いだろ」
「日の出とともに、海上保安庁も捜査していますが……もし仮に海中転落だとすれば、見つからない可能性が高いですね。ボスポラスですから」
「フランクは?……何と言ってる?」
「何とも。公式にはまだ何も言っておりません。恐らくですが、大使館は行方不明は否定するでしょう。体調不良とかなんとか適当な理由で隠蔽を図るかと。こちらは踏み込むわけには行きませんから」
ズィヤはコーヒーをひとくち飲んだ。ため息をつきかけて、ぐっと唇を噛む。
「朝からため息なんかつきたくない。逃亡?なぜだ。納得できる理由なんかあるか?機密情報?マドレーヌは——」
「そのマドレーヌ嬢が、悪魔かも知れないんですよね?父であるガスパールも、モローの——悪魔の精神操作を受けて奴らのいいなりだ。私が考える理由はこうです——」
ギュネルはズィヤのデスクに両手をついた。ズィヤを凝視する。
「——ガスパールは、悪魔の精神操作で機密情報……我が国とフランクの外交関係に影響を及ぼすような何らかの情報を持ち出した。これは何でもいい、ガセでもいいんですが、例えばあの、アンキュラでの領事館襲撃未遂。あれがローマ軍団制式小銃による銃撃だったとリークされたら?これは事実ですし、今はローマに世界的注目が集まっている。このタイミングでやられたら、両国の関係は重大な危機に陥ります。情報の内容次第では、戦——」
「待て。憶測だろう?だが……確かにリスクは高いな。高過ぎる……」
ズィヤはデスクのインターホンの通話ボタンを押した。
「……秘書官。パヴル・エルギュンをここに。大至急頼む……寝てたら、叩き起こせ」
【同時刻 国民代表府ゲストルーム】
パヴルは寝ていなかった。
パスワードでステガノグラフィーは解読したが、次はその解読されたソースコードがなんなのかを解析しなくちゃならない。
オローのフライトプランのプログラムなのは間違いない。表向きのソースコード、コンスタンティノープル上空をデモンストレーションで横切るためのプログラムと比較しても一目瞭然だ。ここから、この隠されていた真のプログラムがどういうプランなのかを解析する。
オローは最新鋭機だ。その最新たる所以は、エンジン性能などの物理的ファクターだけじゃなく、AIを使った飛行制御やプログラムの簡略化だ。
オープンアーキテクチャ。オローの売りのひとつ。軍やフランク独自の言語ではなく、世界共通、僕もよく知ってる標準規格のシステム言語で書かれている。ロールアウト後も次々と生まれる新技術を、パッチを当てるだけで簡単に搭載できる、最新鋭機がさらに進化するための優れたシステム。おかげで、専用の仕様書は不要だ。
飛行プラン。速度や高度、気象データの予測。それに応じる実際の物理操作、エンジンの燃焼率やフラップの角度修正。さらに、目的地までの複雑な軌道。これらは専門知識がいる。僕の専門外。でも僕にはネットがある。バビュルスがいる。バビュルスの中には、航空力学の専門家だっている。
昨日の午後からぶっ通しでキーボードを叩き、ネットの海に放流しても安全なデータに変換し、それをさらに暗号化した。敵のやり方を真似してやる。ステガノグラフィーだ。画像にデータを隠す。バビュルスなら絶対気づいてくれる。
みんなの力を借りて徹夜すれば、詳細なプラン、ギュネルが何を企んでるかは明らかに——
「おはようございますエルギュンさん。国民代表がお呼びです。至急、代表執務室にお越しください」
インターホンが大音量で喋った。
なにかあったのか。いかなくちゃ。
パヴルは簡単に顔を洗うと、ゲストルームを出てズィの執務室へ向かった。
エーミッター《動画配信者》専用画面の、サムネイル画像のアップロードボタンを押してから。
【08時37分 国民代表執務室】
「ふぁ〜……おっはようございまーす」
「おはようパヴル。悪いな、起こしたか」
ギュネルが無言でズィヤとパヴルを見ていた。iVitraをかけている。銀縁の。あの日、警察署に現れた時みたいに。
「いやだいじょぶ。なんかあった?」
「ガスパールが行方不明だ」
「……ガスパール?どゆこと?大使館にいたよね?」
「昨夜……8時半頃に、飲みに出たらしい。それから帰ってない」
「飲みに?ちょっとそれ、どうなの?監視はしてたんだよね?エグゼクトル殿?」
悪党の尻尾を掴んだ。その自信が、パヴルを強気にさせていた。
「甘いんじゃないの?尾行もしてなかったの?」
ギュネルはフッと笑った。
「おっしゃる通りです。我々ディルシズも油断しておりました……まさか、あのように無害に見えた人物が」
「ん?なにそれ。ガスパールがなんかやらかしたの?」
「いや、まだそうと決まったわけじゃ——」
「ズィヤ。お言葉ですが、もう確実です。これに先ほどから、確定的報告が来ております」
「確定的報告?なんだ」
ギュネルはパヴルを見ながら言った。
「いろいろと。まずフランク大使館ですが、予想通りガスパールは体調不良につきしばらく静養するとの発表をしました。次に、ガスパールとSPの1人が、ガラタポートの船着場で密談していたという目撃情報が——」
パヴルは食い気味に言った。
「船着場で……密談?盛ってないそれ?いかにも怪しげに——」
「おいおい、朝っぱらからなんだ。カアン、お前も言葉を選べよ?それだけじゃまだ、ガスパールが何をしたのかはわからん。ただの世間話かも知れんだろ?」
「ズィ、話があるんだけど。2人だけで」
「パヴル……聞け。ガスパールの失踪……かどうかはまだわからんが、なんにせよこれは問題だ。カアンと2人で、ガスパールを探してくれ。仲良くな?これは命令だ」
「命令?僕はあんたの部下じゃない。そんなこと今まで一度も——」
「あー悪かった。俺も言葉選びが下手だな。命令と言ったのは取り消す。お願いだ、パヴル」
パヴルは不満だった。あの話さえできれば、ズィだって——
「ガスパールだ。お前はガスパールのこともよく知ってるだろ?少なくともカアンより。いや、今コンスタンティノープルにいる人間の中では、あの令嬢の次によく知ってるはずだ。だから頼む。カアンを助けてやってくれ」
「私からもお願いいたします、パヴル・エルギュン。私は……ガスパールには2回会ったことがあるだけで。アンキュラへの赴任時に挨拶したのと、その後……あなたの暗殺未遂の捜査で領事館を訪問した。それだけです」
「へえ。僕の——」
あれは共和国記念日の頃だ。ということは——
「——あの時ね。領事館に行ったんだ。マドレーヌには会った?」
「令嬢に?それは——」
パヴルは自分の口がなぜそんなことを聞いたのかわからなかった。口が滑った?違う。何か引っかかったんだ。脳が反射的に反応した。なんだ?
ギュネルは言葉に詰まった。令嬢に会ったか?それがなんだというのだ。どうでもいいことでは……いや違う。私にとってそれは……なんだというのか?わからない。なぜそのことが気になるのか。言葉に詰まるほどに。
サラ。サラが居れば。サラの言うことを聞く。それが全てだったはずだ。だがサラは死んでしまった。そしてその後、やるべきことは明確になった。
そうだ。何を躊躇しているのか。私がやるべきことはただひとつ。
「ズィヤ。承知しました。パヴル・エルギュンと2人で協力して、ガスパールを見つけます。少なくとも、彼が何をしているのかを解明します」
パヴルの脳は超高速で思考していた。
マドレーヌのことをスルーした。なぜだ?ロクツィオだ。ギュネルはアヴィエルにロクツィオされた。その自覚はないんだろう。だから言葉に詰まり、スルーした。ちょっとだけ、ロクツィオの影響かなんかで、壊れた……まではいかなくても、歪んだ。
どっちにしても、ギュネルがアヴィエルにロクツィオをやられたのはその時だ。
僕の暗殺未遂のあと。暗殺未遂。ズィの暗殺未遂はそのあと。あれで、ギュネルはズィの命の恩人になった。絶大な信頼。
暗殺……未遂。僕の時はサマたんのおかげだとして、ズィの時はなんで未遂だったのか。もしかして……わざとか?
まさかそれがアヴィエルの狙いか。ギュネルをズィの恩人にするのが?ズィの絶対的信頼を得るのが?そして……ズィを、間接的にローマを、意のままに。
この通りだとしたら、恐ろしくよくできた計画だ。でき過ぎなくらい。これをズィに説明したとして、ズィは信じるか?信じない。それがアヴィエルの計画の怖いところだ。身を挺して自分を庇った相手の行動を否定するのは、特にズィみたいなタイプには難しい。熱血。正義感の塊。忠義に厚い軍人。
だめだ。オローのことだって、データやプログラムをいくら見せたところで、ズィのギュネルに対する信頼を覆せるとは思えない。
「うん、そうだね。2人で仲良く!ガスパールを探せ!やろやろ!」
ズィが笑った。ウケたからじゃない。ホッとした、そんな感じ。
ギュネルは……何かを考えてる。ガスパールのことじゃない。僕だ。ギュネルは感づいてる。僕がオローのプログラムを調べていることを。今にして思えば当然だ。ギュネルのパスワードを使ってアクセスした。アクセス警告がいってるはずだ。
ギュネル。こいつにボロを出させないと。ズィの目の前で。
【同時刻 バシャクシェヒル、チャムさくら病院】
あの雨の日以来、快晴の夏らしい日が続いていた。だけどジェイは落ち込んでる。ヴィと2人で、ドクター・セレンの目の前で。
「……アリーは、清潔ですよ?」
「わかってます。でも外を自由に飛び回って、野生動物を獲物にしていますよね?野生動物にはどんな病原体がいるか——」
「別にアリーとキスしたりするわけじゃない。それでもダメ?」
「だめです」
ドクター・セレンは申し訳なさそうに、でもキッパリと言った。
「アリーは、というか鳥類全般ですが、オウム病やクリプトコックス症などの病原体を保有している可能性が極めて高い。アリーを体内まで完全消毒しますか?それなら安全だ。あなたがそこまでしてアリーと触れ合いたいなら、ヴェリテール・デNACから出張してきてもらって、徹底的に消毒しましょう……アリーは嫌がるだろうな……」
ちらっと、ドクター・セレンはジェイを見る。
「……。わかりました……すみません、わがまま言いましたね」
「……ジェイ」
わたしは握っていたジェイの左手に、少しだけ力を込める。
「大丈夫よ。手術が終われば、また遊べる」
手術が近づくにつれ、ジェイはだんだん弱気になっているようだ。口を開けは、最後かもだしとか言ってる。気持ちはわかるけど。
わたしだって不安だ。あまりよく眠れない。ジェイがいなくなって、もう2度と会えない、そんな夢を毎晩見る。
でも、手術をしなければ、それは現実になる。
わたしは恵まれている。覚悟が出来るから。手術まであと6日。結果がどうなろうと、その6日を、かけがえのない時間にするんだ。
ジェイのため。わたし自身のために。
「VVちゃん!JJーっ!」
サフィが病室に飛び込んで来た。アジルのスクラブのまま。
「バビュール様新しい動画!アップするって!」
「へえ。パヴルくん忙しいのに。すごい。なんの動画?」
「これー!」
サフィがiPortaを見せる。アップ予告のサムネイル画像。
『ローマの守護神!最新爆撃機、デモ飛行!』
「あーやっぱり仕事の動画だね。ローマ政府の公式……あれ?同じの2つ?」
「うん、なんかミスったのかな?政府公式チャンネルと、バビュール様チャンネル。両方に同じサムネあげてんだよね」
「アカウント間違えてそのままなんじゃない?忙しいんだよきっと。マドレーヌも来たし」
「だよねー。教えてあげよっと」
「見せて」
ジェイが手を伸ばした。サフィがiPortaを渡す。
ジェイはバビュールch.のサムネイルをタップし、コメント欄を見た。
『なにこれミス?』『最新爆撃機かー。虎も飼い慣らされちゃって』『バビュール様!2つ!2つ!』『アカミスってんぞー』『把握』『かっけーこの飛行機』『22日かー見に行くよ』『把握』『把握』
iPortaをサフィに返す。バビュールは飼い慣らされてなんかいない。
(アリー。しばらく会えないから。元気で)
(ジェイ。
げんきで
それきらい)
(?嫌い?何が?)
(げんきで
そういうと
いなくなるから)
(アリー……大丈夫だ。今度はどこにも行かない。アリーとはずっと一緒だ。おれはおれだ)
(ジェイはジェイ
わかってるから
げんきではいや)
(そう……ごめん。今どこ?景色見せて)
目を閉じて、アリーの画像を見た。ガラス窓。ヴィとサフィとドクター・セレンと、ベッドに横たわるおれ。目を開けて窓を見た。
アリーは窓の外で、手すりに留まって、じっとおれを見ていた。
銀色の瞳は、僅かに揺らいでいた。
アリーにはわかっているのかも知れない。
失敗の可能性があるということが。
【7月19日 フランク大使館】
ガスパールが姿を消して、3日が過ぎた。公式には自室で静養していることになってはいるが、そんなことを信じる奴はいないだろう。死体が見つかったという報告もない。上手くいったようだ。
マドレーヌは事務官の、フランクとローマの外交的現況とその対応に関する王族としての心構えという、恐ろしく退屈な授業を聞き流しながら、あの虚な、茶色い虹彩を思い出していた。
兄さん。ずいぶんいじくりまわしたようだな。もう精神の糸がズタズタだった。睡眠暗示。ラリードライビングテクニック?笑える。外交官特権の利用。ヘビクイワシの世話。あの変な鳥か。そして、モンセギュール。
あの時に、もうこの人間はだめだとわかった。廃人の一歩手前まで精神を壊されている。兄さんは雑なのだ、ロクツィオの使い方が。もっと細部を丁寧にいじらないと、人間は脆い蟲螻なんだから。
私は、800年前……そのことを痛感させられた。兄さんに邪魔されなくても、あの時はもう失敗が確定していた。私のロクツィオが強すぎたせいで、肝心なところで人間たちは壊れた。
800年。私は研究し、鍛錬した。自身のロクツィオを。人間たちへの影響、最少限の負荷で、最大限の効果を発揮する僅かな力加減を、突き詰め、精査した。本人も誰も弄られたことがわからないほど精密に、ほんの僅か、その人間の意識の深い奥底を歪ませる。奥底に潜んでいたものを引き摺り出し、ちょっとだけ変える。人間へのロクツィオにおいては、私より優れたものなどいまい。あの父をも超えたはずだ。
その私でも、壊れてしまった人間は治せない。邪魔にならないよう、ゴミはきちんと処分しなければ。
「——お嬢様。お返事くださいますかな?」
「……あら!ごめんなさい。ちょっと……父のことが心配で」
「ああ、それは……申し訳ございません。今日はここまでにいたしましょう。どうか、お気を確かに」
マドレーヌは悲しそうな顔で、席を立った。メイドたちの気遣う言葉をいなし、自室に戻る。
「キジャーナ。インファナ」
テラリウムの砂が、2箇所同時に盛り上がる。以前はキジャーナに比べるとおっとりしていたインファナだが、少し見ないうちにずいぶん成長していた。これなら、計画はますます万全だ。
ガラスの蓋を外し、両腕を砂の上に降ろす。2匹のナムクアドワーフアダーが、その小さな体をくねらせてマドレーヌの白い腕を這い上がる。
「ふふっ。くすぐったい!」
ガスパールへの最期のロクツィオは完璧だった。元々死にたがっていたのだから、それを手伝ってやっただけだ。人間たちは何と言ったかな?介錯か。
大使館から抜け出す方法、証拠を残さず、綺麗さっぱりこの地上から消える手段。あの男は最期まで、全て自分の意志だと確信していたことだろう。
娘のボディを、私に捧げたことも。
【同日夜 国民代表府ゲストルーム】
ガスパール探しは行き詰まっていた。ズィは頻繁に状況報告のミーティングを開いて、革命後では1番ズィの顔を見れてるけど、2人きりになる機会はなかった。ズィは心配そうだ。何か予感みたいなのを感じてるのかも。
オローの解析は、専門家バビュルスたちの翻訳待ちだった。専門用語から、僕やズィにもわかる内容へのプログラム翻訳。バビュルスたちは好意と仲間意識のみで頑張ってくれている。
もちろんなにもしないでただ待っているわけじゃない。翻訳データさえくれば1分で3DCG動画を作成できるフォーマットを作った。ズィが動画を見ただけでわかるように。
その時、僕が解説できなくなってたとしても。
このプログラムがほんとにベジエ爆撃計画なら……ギュネルだって覚悟が決まってるはずだ。そんなことをした後に、今までどおりに平然としていられるわけはない。失敗すれば外患誘致、国家に対する叛逆。成功してもズィはもうギュネルを信頼しなくなる。事前に発覚すれば……おしまい。
つまり、今のギュネルは……なんだってやるだろう。人殺しだって。
僕を殺すことも、何とも思わずやるだろう。
ある意味無敵の人。事後のことを考えない、眼前の目的だけに邁進する無敵の人。1番恐い。僕は殺されるだろう。
ギュネルは今のところ、直接僕の命を脅やかすようなことはしていない。国民代表府みたいな官公庁で人を殺せる場所や機会なんて、そうそうあるもんじゃない。22日まであと3日。時間はどんどん過ぎていく。
でも。
僕は虎になるんだ。
怖がってちゃだめだ。
臆病な虎には、もうならないって決めたんだ。
ギュネルを自爆させる。それしかない。どうやって?
餌。囮。僕だ。ギュネルが今、1番欲しいもの。
僕の命。




