24 蛇の道、鳥の空
【2026年7月10日 コンスタンティノープル、国民代表府ゲストルーム】
やっぱり、偏見なのか。
ズィに真っ向からギュネルについての疑念をぶつけたのは失敗だった。マドレーヌのライブの翌日から、2人だけになれるタイミングを見極めるのもひと苦労だったけどなんとかギュネルの目を盗んで、ズィが寝室に入る直前を狙ってみたけど……最初は、久しぶりだったしスコッチをチビチビやりながら、穏やかに話を聞いてくれたけど。
ズィはカアン・ギュネルを信頼しきってる。
あのヴェシリア・セレンの右腕として重用されていた男。
革命後はヴェシリア・セレンの真意と自身の忠誠をローマにもたらした男。
ズィの期待に応え、新政権の早期安定に最も貢献した男。
そしてなにより、ズィの暗殺未遂を、自らの体を盾にして阻止した英雄。ズィの命の恩人。
僕だって、ギュネルの能力は高く評価してる。革命前、GTアンキュラ支局長として眼前の敵だった時から、ギュネルの弁舌、それを支える高い知能、そしてズィが実直と評する人間性。執行官に就任してからの辣腕ぶり。
だけど、僕はギュネルが嫌いだ。
コジャテペでサフィに酷いことをした。暴力じゃないけど、それを上回る精神的苦痛をサフィに与えた。
僕はそれを、未だに許せない。
だから……ズィがギュネルを執行官にすると言った時もそうだったけど、どうしても感情的になってしまう。それが偏見なのか。
もし本当にギュネルが悪党だったとしても歯が立たない。無理。不可能。ギュネルの、足の小指すら傷つけられないだろう。僕は弱虫だ。ヴェシリア・セレンには、臆病な虎って言われてたみたいだし。
どうしても……なにがなんでもズィを納得させなければだめだ。ズィのため、ローマのため、ベジエでたった1人で、アヴィエルに立ち向かおうとしているサマたんのため。
病院で生きるための手術に備えているジェイさんのため。
それを、悲痛な想いで見守るヴェシレさんのため。
そしてそんな個人的な感傷なんかには惑わされず、ひたすら見ず知らずの人々を救おうとアジルで頑張るサフィのために。
臆病な虎じゃだめだ。
バビュールになるんだ、もう一度。
そのためには証拠がいる。
僕自身が納得するためにも。
キングサイズのベッドの真ん中に仰向けになって、iVitraに集中する。通知はたくさん来てるけど、この件には特に関係ないやつばかり。バビュルスも弾切れか。
ローマ広報担当としてはどうだろう。
現在進行中なのは、マドレーヌ——フランク王太子妃の表敬訪問だ。フランク宮内庁から掲示された日程は、7月15日。
1週間大使館に滞在し、休養と警護体制の打ち合わせ、こちらでの日程の確認。この間は公の場には姿を見せない。ローマでの王太子妃お披露目パーティーは大使館にて、7月21日。
ガスパールも来る。在アンキュラ副領事を退任。マドレーヌの父として王家の親族になる以上当然だ。帰国して伯爵になり、本物の貴族として王室顧問という役職に就くらしい。国民代表府にも挨拶に来る。7月21日。
そして——B21オローの飛行計画。重工業大国フランクの象徴。デモンストレーションと王太子妃マドレーヌへの敬意を表すため、コンスタンティノープル上空を飛行。7月22日。
怪しすぎるけど筋は通ってる。サマたんの話を聞いていなければ、このデモンストレーション自体には何の疑念も抱かなかったはずだ。
サマたんの言う、7月22日、ベジエの悲劇の再現。根拠はサマたんの推論のみ。信じていいのか。サマたんを疑うという意味じゃない。
サマたんは僕の命の恩人……らしい。DGSEが僕を暗殺しようとした。その瞬間に転生して、暗殺を止めた。ほんとに僕を助けるためだったのか、それともたまたま偶然だったのかはわかんないけど、結果的にDGSEの暗殺は失敗した。僕は生きてる。それが重要だ。だから僕は……サマたんを信じる。
マドレーヌは……僕の知ってるマドレーヌは、派手でうるさくてわがままなバカプリンセス。それだけだ。去年領事館を脱出した時手伝ってくれた。サフィの復帰に貴族パワーを使ってくれた。その後……アヴィエルに殺されて、身体を乗っ取られた。
アヴィエルとサマたん。やったことは同じだけど目的は逆。サマたんを信じるなら、アヴィエルは敵だ。でもサマたんとアヴィエルは兄妹で……。
だめだ。頭の中がごちゃごちゃだ。
整理しなきゃ。仕事もちゃんとやらなきゃ。
マドレーヌとガスパールの来訪。21日のパーティー、22日のオローのデモンストレーション他のイベントプラン。全部国民に告知するのが僕の仕事だ。
起き上がり、iVitraを外してデスクトップPCに向かう。マドレーヌのプリンセスとしての動向。15日にコンスタンティノープルに来て、基本、大使館から出ない。国民代表府には来ない。ガスパールは来るけどズィは会わない。
エーミット政府公式チャンネルにアップするデモンストレーション飛行の告知動画。飛行ルートを3DCGでわかりやすくしなくちゃ。
公式に許可された空軍の飛行プランのデータをDLして——
クソ重いなこれ。なんで?
は?128MB?ここの上空をただ真っ直ぐ横切るだけなのに?
テキストエディタでファイルを開き、ソースコードを見てみた。
オローは最新鋭機で、地上で作成された飛行予定空域の気象データや軌道を機体に搭載されたAIに読み込ませると、精密なフライトをほとんど自動でやりこなす。テキストエディタには、そのデータがバイナリで表示されている。ウインドウの横のスライダの小さいこと。膨大なコード。こんなに必要か?
小さいスライダをポインタで掴んで、一気に引き下げた。
ソースコードは最初だけ。下の方に、16進数の壁。ステガノグラフィーだ。表向きのデータの中に、別のデータを隠す暗号技術。
「"I found it."(見つけた)」
思わず、あの映画のセリフが漏れた。
革命の成功を確信したあの日以来、久々に。
【7月11日 エロー県、トー湖上空】
砂州のサーマルに乗り、高度をぐんぐん上げる。ヘビクイワシを先導し、旋回しながら。
サーマルに乗っていれば激しく羽ばたく必要はない。それにはもう慣れたようだ。学習能力はとても高い。
高度1500メートル。気温は20℃を切り、サーマルも弱くなる。適度に羽ばたいて高度を維持し、ヘビクイワシを待つ——そして、抱き寄せる。
この訓練を始めた当初は、この高度での抱擁に戸惑っていたが、数回繰り返すことでこれを喜ぶようになった。おとなしく抱かれているヘビクイワシを翼で包む。ここからが、この訓練の本番だった。
一瞬の無重力。今はもう慣れたようだが、最初はこの、突然内臓がひっくり返るような感覚に、ヘビクイワシは驚き、暴れ、泣き喚いた。そして——落下。
俺の鋼鉄の翼がビリビリと震える。重力に引っ張られて加速し、数秒で|ターミナル・ヴェロシティ《最終速度》、時速350キロに到達する。
3つ数える。3。
ヘビクイワシは振動と轟音に脅え、身体を固くして俺にへばりつく。
(ベリたん。怖がるな)
2。
ヘビクイワシが小刻みに震えている。
(暖かいだろ?大丈夫だ)
1。
翼を広げる。凄まじい減速Gと暴風。さらに減速して安全速度、時速250キロでヘビクイワシを離す。
俺たちは同時にプルアップし、サフィーエ・サナルの瞳のようなトー湖に見つめられながら青空に舞った。
今朝、パヴル・エルギュンからまた新情報が来た。アヴィエルが11日後のベジエに、何をしようとしているか。その推測。
推測だ。本当にそうなるかは、11日後にならないとわからない。だが……もしこれが正しければ、ミッションを考えなおす必要がある。
アヴィエルが飛行機に乗って飛んでくるわけじゃない。それはもういい。アヴィエルを捕まえる前にベジエを阻止する。
なぜ、俺が?……俺にしか出来ないからだ。だがそうだとして、なぜ人間たちを救う必要があるのか?
もうわかっていた。
理由は問題ではない。方法が問題だった。
現代の空爆。ハニーの時代にはなかった新しい戦争。それが、さらに進化していた。
最新鋭爆撃機といっても飛行機だ。飛行機を墜落させる方法ならいくらでもある。武器などいらない。バードストライクというらしいが、要はヘビクイワシを突っ込ませればいい。もちろんおれも一緒に。そう思っていた。
パヴル・エルギュンの情報が確かなら、この新しい飛行機は、それでは落とさない。それどころか、こいつが飛んでくる高度では……。
ベリたんは俺を信じて、過酷な訓練に耐えている。
名前をつけなければよかった。そう、後悔していた。
【同日午後 バシャクシェヒル国立公園】
一昨日の雨はその日のうちに止み、昨日も時折パラつくくらいで、身体を濡らすほどじゃなかった。ジェイはわたし達が引き留めても聞かず、国立公園で散歩したいと言い張った。雨をこの身体に感じたいから、と。
最後になるかも知れないから、と。
わたしは傘を差して、ジェイとアリーと、国立公園を歩いた。1人で歩いていたなら、傘なんかいらないくらいの雨。ジェイは傘の外に手を伸ばし、掌に当たる雨の感触を、慈しむように味わっていた。
今日は朝から快晴。わたし達は昼食後、また国立公園を散歩していた。
「ねー。あたしほんとにジャマじゃね?」
今日はサフィも一緒だ。昨日勤務明けで夕方まで寝てて、今日はヒマだって言うから誘ったのに。
「やめてよ。サフィが一緒だと、安心感が違うんだから」
冗談めかして言ったけど、ほんとのことだ。ドクター・セレンのおかげでロータスやスマートピアス、薬品キットもあるけど、やっぱりプロがついててくれると安心する。
「ならいーけどさ。きもちいね!この公園!いい匂いがする!」
国立公園は、ラベンダーがピークを迎えていた。春にはチューリップに縁取られていた遊歩道の周りは、紫色のカーペットが敷かれたかのよう。『|香りの庭《Koku Bahçesi》』という名称の通り、爽やかで上品な芳香が立ち込めている。
サフィはその傍らに屈むと、iPortaで自撮りを始めた。
「どーこれ!ばえー!」
撮ったばかりの画像をわたし達に見せる。ラベンダー一色の背景に、笑顔のサフィ。ピンクの髪をアクセントに、花より綺麗な紫色の瞳がかわいい。
サフィは明るくて、元気で。マドレーヌとはまた違う、わたしの心を落ち着かせてくれる、ラベンダーの香りのような優しさ。
そこからまた少し歩くと、薔薇園があった。ここは、白、黄色、オレンジ、ピンク、そして赤。落ち着いた紫のカーペットから、色彩溢れる華やかなお花畑。
その中にわたしは、あるはずのない黒薔薇を探していた。
ジェイがくれた黒薔薇は、もう全部、とっくに枯れてしまった。今目の前にある色とりどりの花たちも、やがて枯れてしまう。あたりまえ。植物は枯れるし、動物は死ぬ。生き物はみんな、いつか死ぬ。
ジェイがロータスを操作して、スーッと道端に行って、身を乗り出して何かを拾った。
「ヴィ。見て」
ジェイが拾ったのは、赤い薔薇の花弁だった。落ちたからか、元々そんな色だったのか、深くて濃い、ベルベットみたいな真紅の花弁。それを、夏の陽光が照らしている。
花脈の筋が濃い影を作り、花弁を黒く染めていた。
花弁にそっと指を添える。2人で、1枚の花弁を。
フラッシュが光った。サフィがわたし達にiPortaを向けていた。
「撮っちゃった!尊み激ヤバ!感謝!」
アリーはジェイたちから少し離れた所に植えられたプラタナスの木の梢に留まり、公園を見渡していた。
この公園はアリーにとって、最高の狩場だった。人間たちはたくさん歩いているけど、蝶やトンボや、トカゲやノネズミもたくさんいる。遊び放題。狩り放題。食べ放題だ。
花畑にも獲物はたくさんいる。人間たちは表面の綺麗な花しか見ないけど、その陰、緑の葉っぱに隠れた地面に、トカゲやノネズミが潜んでる。
耳を澄ます。人間たちの声や足音、風の音。それらに混じって聴こえる、小さな動物たちが地面を歩き、這う音。そのひとつひとつを聴き分ける。
ヴィのそばの薔薇の花畑の奥からも、アリーの注意を惹きつける音が聴こえていた。
這う音。トカゲじゃない。ズルズルと長く続く音。
ヘビだ。大きくて長いヘビ。
姿は見えない。薔薇の大きな花弁や葉が、その姿を隠してる。
アリーは羽ばたかずに梢から落ちた。両翼を繊細にコントロールして、ふわりとヴィの近くに舞い降りる。音を立てずに。
「アリー!今日はイタズラしないの?えらいね!」
"びんくおんな"がアリーに近づいて来たが無視する。"ぴんくおんな"は仲間だから危険はない。危険は、花畑の中だ。ヴィの足元。ヘビに噛まれたら、ヴィは死ぬ。ジェイの意識で見た。
ジェイに教える?だめだ。ジェイは動くと死ぬ。騒ぎたてたらヘビは逃げる?わからない。どんなヘビか、まだ見えない。ヘビ怪獣みたいなやつかも知れない。
地面からだと薔薇の茎の隙間からその奥が見える。音を頼りに、ヘビを探す。動けば、アリーの動体視力からは隠れられないはずだ。
動きがない。トカゲや、たくさんいるはずの虫が全然いない。ヘビがいるから。みんな隠れてる。
動き。
いた。ヘビ。頭が見えた。先っちょに、ツノみたいな突起がある。ヘビ怪獣より太い。灰色と、黒い菱形の模様。一度見つけたら、もう見逃さない。まだこっちには気づいていない。だけど薔薇の茎がたくさんあるから、こっちから攻撃はできない。集中。最大警戒体制。
近づいて来た。まだ薔薇が邪魔だけど、もう少し。もう少し出てくれば——
次の瞬間、アリーの鉤爪が地面を蹴った。翼も使って跳躍する。薔薇の茎の林に向かって。そして、脚から突っ込んだ。飛び蹴りみたいな動きで。
「アリー?!」
突然足元に飛び込まれて、ヴィが叫んだ。
「なんなん!」
"びんくおんな"も。
アリーはバサバサと羽ばたくと、そのヘビの頭を鉤爪にしっかりと捕らえて、強引に歩道に引き摺り出した。
デカい、重い、長い。胴回りがとても太く見えた。ヴィと"ぴんくおんな"の悲鳴。うるさい。忙しいんだ。私に任せろ。
ヘビが暴れる。長く太い胴体が鞭のように。頭を押さえつけてるけど死なない。
「VVちゃん離れて!」
"ぴんくおんな"が叫ぶ。ヴィはもう離れてる。
ヘビも必死だ。暴れる。力が強い。私よりでかい。こいつもヘビ怪獣か。こないだのやつより手強い。だが離すもんか。
もう片方の鉤爪もヘビの背中に食いこませ、翼でバランスを取る。転んだらヤバい。頭を離したら噛まれる。噛まれたら死ぬ。そうはさせるか。
狙い定めて、太く、灰色と黒い模様の背中に、嘴を叩きつける。必殺の一撃。
やった。念のためにもう一度嘴を振り下ろす。
ヘビは動かなくなった。死んだ。
「クサリヘビだ」
ジェイが機械の音を立てて近づいてきた。
「ちょ!マジ!VVちゃん!」
うるさいな。もう死んでるから。私が殺した。ヴィを助けた。ほめて。
(アリー。すごいな、よく見つけた。えらいぞ、アリー!)
やっぱりジェイはわかってる。
大好き。
(だけど、危ないことはしないで)
ジェイもうるさい。
ヘビの屍体は3分の1ほどアリーが食べた頃に、公園の職員によって持ち去られた。後で聞いたが、ハナダカクサリヘビという毒ヘビで、この辺の野生のヘビだった。アダー種ではなく、わたしの抗体とは反応しない。毒は強いが、人間を殺すほどではない。
でも。
アリーが助けてくれたことに変わりはない。
アリーは精神リンクでジェイの意識を共有できる。わたしのアナフィラキシー・ショックのこともわかってた。アダー種とか詳しいことまでは理解してなくても、ヘビに噛まれたらヴィは死ぬ。アリーなりの理解。そう思って、助けてくれた。
普通、ニシコクマルガラスはヘビを獲物にはしない。あのヘビのような、自分より大きなヘビなら尚更、近づきもしない。ハナダカクサリヘビの毒は人間は殺せないが、小さなニシコクマルガラスだとひと噛み、数分で死に至る。
アリーはわたしを助けてくれた。命を賭けて。
アリー。サフィ。そしてジェイ。みんなが、お互いを想って、助け合って。
仲間。わたしの仲間たち。
みんないつか死ぬ。
寿命で、病気で、戦争で死ぬ。
学校でクラスメイトに撃ち殺されたり、こんなのどかな公園で、ヘビに噛まれて死ぬことだってあるんだ。
だからこうやって、生きてる時間が愛おしい。
アリーにご褒美あげなくちゃ。
仲間がいれば、世界がどうなろうと、今のわたし達には関係ない。わたし達は正義の味方なんかじゃない。
パヴルくんが言ってた。あの子ももうすぐ、帰ってくるって。
大切な仲間、家族。
もうすぐ会える。
マドレーヌ。
【同日夜 アンキュラ、フランク王国領事館】
引っ越しはあらかた目処がついた。後任副領事が赴任するのは3日後。引き継ぎなどで忙しいのはその日だけだ。私がやらなければならない仕事は、あとひとつだけ。
先月モローが出て行って、また留守の間ヘビクイワシの世話をしなくてはと思って倉庫に行ったら空っぽだった。もうモローは帰って来ないと、その時初めてわかった。
ほっとすると同時に、不安でたまらなくなった。モローが指示してくれないと、いつ寝たらいいのかさえわからない。就寝のためベッドに入っても、本当にこのまま眠っていいのか不安で寝付けない。
睡眠不足ではなかった。昼間、居眠りするからだ。何か考えている時はいいが、思考を止めると寝てしまう。3分。最初だから強くかけすぎたとモローは言っていたが、なんのことかわからない。
わからないから考えるのをやめると、寝てしまう。シャワーを浴びながらでも、食事中に食べ物を口に入れる直前でも。領事や執事たちは病院に行けと言っていたが、病気なんかじゃない。
モローが指示をしてくれないからだ。
残された最後の仕事。
これだけはモローは関係なかった。もっと前、モローが現れる前から受けていた命令。アンキュラから去る時に、他のなによりも優先するべき仕事。
マドが残していったものを、マドに届ける。絶対に忘れてはならない、大切な仕事だ。
私のマド。たった1人の娘。
マドは嫁に行く。王室に。別に寂しいとは思わない。私のマドは、去年の18歳の誕生日に、遠くへ行ってしまったからだ。
最後の仕事をやり終えたら、もうなにもすることはない。
最後に……私のマドだった容れ物の、私のマドだった顔を見たら……それで終わりにしよう。
もういい。十分だ。
グレゴワール・ド・ガスパールは自室を出ると、もう消灯時間を過ぎてフットライトしかついていない廊下を歩き、螺旋階段を降りて厨房に行く。大きな冷蔵庫から取り出した袋を、カップに入れてお湯を注ぐ。そのカップを持ってまた螺旋階段を昇る。そして暗い廊下を歩き、マドレーヌの私室だった部屋に入った。綺麗に片付いて、ベッドメイクもされているが、他には何もない部屋。
部屋の奥に、常夜灯に照らされてぼんやりと浮かんでいるように見える四角い箱が、たったひとつ残っていた。
ガラス張りの箱。
テラリウム。
ガラスの蓋をそっとずらし、厨房から持って来たカップからカットマウスをピンセットで摘みあげると、箱に敷き詰められた茶色い砂の上に置く。ピンセットを箱から抜き出すか否かのその瞬間。
砂が生命を得たかのように盛り上がり、カットマウスの肉片に襲いかかる。
「キジャーナ……いや、インファナか」
どっちだったかわからなかったが、どっちでもよかった。
最後の仕事。このテラリウムを、マドに。
それが終われば、もうこんな世界に思い残すことはない。
【同日深夜 エクス王宮】
「……パパ……パパー!」
暗闇の中。
マドレーヌはベランダに出て、よく晴れた星空の下で闇に向かって喋っていた。
「お父様……パパ!……お父様」
声のトーンを変え、18歳の娘の甘えた声に聞こえるよう調整する。
もちろんガスパールに聞かせるためではない。コンスタンティノープル滞在中恐らくそばを離れないであろうSPや事務官、メイドたちに聞かせるためだ。
「お嬢様……まだお目覚めでしたか」
アンジェリック・ヴェスパーが、部屋の中から声をかける。室内も明かりはなく、ベランダよりさらに暗い。
「眠れないわけではない。星空が美しいのでな」
「ご一緒させていただいてもよろしいでしょうか?」
「遠慮は無用…………アンジー!ほら見て見て!お月さま!」
月は細く、光も暗くて星々がよく見えた。繊月のすぐそばに赤く光る火星。そして——
「プレアデスが見えるか?兄上が好きな星だ……天の野原で、地上から見る星空のことをよく教えてくれた」
「お兄様……サマエル様は、本当に……」
「いいもん!お兄さまったら、あんな、変な鳥と戯れてばっかり!…………ベジエの殉教者の1人として、最後は役に立ってくれそうだ。またそのうち懲りずに来るだろうがな。カアン・ギュネルはどうだ?」
「はい。特に連絡はありませんが、順調かと」
「んーと……便りがないのは無事な証拠!ですわよね?」
悪戯っぽい笑顔。世俗は小悪魔などどふざけたことを言っている。それがどんなに無礼な例えかも知らずに。
「……おねえさま……んんっ……おねえさま!ジェイさまーっ!……ジェイさま?ご無理なさらないで?私、心配で……」
「お見事でございます。ますますお上手に」
闇夜に向かったまま首だけ振り向いたマドレーヌは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。目には涙が溜まっている。だが次の瞬間には涙は引っ込み、無表情になる。
「3ヶ月……間が開いたからな。一縷の疑念も持たせたくない。完璧に。ここまで、完璧にやってきたのだ。まあ、あの夜の様子では…………おねえさま!私もとても嬉しかったですわ!泣かせちゃってごめんなさい?……んんっ……ごめんなさい!」
恐ろしかった。この方は……なんというお方だ。ヴェシレ・クルチュとあの悪魔。あの映像だけではなく、病院のクレデンテスたちからの報告でも、もうすっかりおとなしく、悪魔の心臓手術の備えに専心している。私達の邪魔をする気などもう失くしたのは間違いない。それどころではなかろう。そして……お嬢様を家族と信じ切り、再会を心待ちにしている。お嬢様の演技……いや、執念。執念なのだろうか。
マドレーヌの手元に、あの箱があるのに気づく。モバイルバッテリーに見せかけた、暖かい箱。蓋が開いている。
緊張が高まる。キジャーナ。
マドレーヌの身体をじっと観察する。どこに潜んでいるのか。
白く透けた、薄地のキャミソール。背中に妙なふくらみは見えない。
じっと見つめていると、おろしたライトブロンドが、肩の辺りで少しだけ動いた。風はないのに。
暗いせいではあった。だが、キジャーナはずっとそこにいた。マドレーヌの肩にかかる髪だと思っていた。それが動き、不自然に立ち上がる。金色の髪がアンジーを見ていた。黒く小さな舌がチロチロと出入りした。
あの幼体だった頃に比べると大きくなった。それでも、全長は20センチに届かない。マドレーヌが今のように髪を下ろしていたら、その金色の髪の下で保護色に埋もれ、知らなければヘビがいるとは気づけない。
マドレーヌが腕を曲げ、指を反らせて手の甲を肩に置いた。キジャーナはその指を橋のように渡り、腕を這って脇の下へ入る。マドレーヌが腕を下ろすと見えなくなったが、すぐに頭だけ、脇の後ろから捻り出た。金色の視線が、再びアンジーに注がれる。そして、黒い舌。
「——おねえさま?寂しかったですわ……」
マドレーヌは練習を続けた。
そう言って、またヴェシレ・クルチュに抱きつくのだろうか。死の抱擁。
「アンジェリック・ヴェスパー」
マドレーヌが振り向く。
「うるさい小蝿は片付いたのか?お前に任せっきりだが」
「小蝿……はい。あの遺族達は結局、金目当てでしたし……狂信者達もほぼ黙らせました。まだ僅かにローマではこうるさい者も残っていますが、それも直に」
「お前自身は、準備は整ったのか?」
「……全て……滞りなく……」
「どうしたの?アンジー?元気なぁい?」
「い……いえ。決してそのような……」
不安しかなかった。この一年でお嬢様が成し遂げられて来たこと。それを——
「案ずるな。私も、まだ気を緩めたわけではないがな。直接、意識を覗いて確かめるつもりだ。琥珀の光を……いや、私を信じて、お前はお前の役目を果たせ。モントリオールか…………いいなー!今度、私も行ってみたいですわ!メープルシロップ、買ってきてくださる?」
カナダ。あの国も、琥珀の光で満たす。それが私の役目。でも、この計画の最後の時を前に、お嬢様と離れて地球の裏側へ……大丈夫だろうか。
「——ああ。お前は心配しているのだな?」
冷徹な微笑みが、一瞬にして破顔する。
「だぁいじょうぶ!私に任せて?あの日が終わればぁ——」
また、冷ややかな微笑。
「——新たな世界の始まりだ。私のためのな」




