23 花散らす翼
【2026年6月22日 コンスタンティノープル、バシャクシェヒル、チャムさくら病院】
ジェイが入院して、1週間が過ぎた。
先週、パヴルくん達と話したあと、ジェイはCor.O.A.移植手術の日を7月22日に決めて、同意書にサインした。
クソキザが言っていた、ベジエの日。マグダラのマリア記念日。去年までは祝日だったけど、革命でカトリック主導の祝日は廃止になった。
クソキザの話を信じたのは、そこまで。
7月22日にベジエで災害級の事件が起きる。そこまで。
あのあと、わたし達はたくさん話し合った。わたし達がやるべきこと。信じるべきこと。いろいろな事実。お互い全てを曝け出し、目を見つめあい心をぶつけて話し合った。
わたしにとってもジェイにとっても、マドレーヌは大切な家族だ。かけがえのない、わたしの妹。血の繋がりとかじゃなく、心で繋がってる唯一無二の妹。
マドレーヌはフランク王太子妃になる。わたし達はそれを、心から祝福したいんだ。
クソキザはわたし達とは決裂し、一人でベジエに行った。
わたし達は——ジェイとわたしと、サフィとパヴルくんは、こっちに残った。
ジェイは個室で、新型|L.O.T.U.S.《統括制御用生命維持ベッド》88に寝ている。普段はC.C.U.ベッドで、寝たまま電動車椅子が分離して自由に動ける。
天気がいい日は外出も出来る。公園を散歩して、アリーと遊んだりもできる。
でももう、ジェイは歩けなかった。自分の脚で立つことも。そうしようとするだけで胸が痛み、スマートピアスがアラートを出す。
だからもう……遠くへは行けなかった。
バシャクシェヒル。ここが、わたし達の終の住処。
マドレーヌが帰ってくるとしたら、ここだから。
わたし達が待っていてあげなきゃ。
【6月23日 フランク、エロー県】
コンスタンティノープル国際空港から、フランク王国エロー県のベジエ・カップ・ダグド空港へ3時間弱、サマエルはガスパールのダッソーを自分で操縦した。キャビンにヘビクイワシを乗せて。
ジェイエルたちと話した後、ダッソーの機長から、操縦方法や航空力学、気象学、地中海特有の知識などを完全にコピーした。ロクツィオで。
さらに着陸後、空港関係者、民間のプライベート格納庫の管理者にもロクツィオした。ダッソーを7月22日まで保管、いつでも離陸できるよう整備させるためだ。
確保した格納庫は広く、ここでヘビクイワシとひと月過ごすことも可能だったが、サマエルはダッソーを預けると空港を離れた。1ヶ月かけて、ミッション完遂のためにやっておかなければならないことがある。
ヘビクイワシは、野生ではサバンナが棲家だ。海は未知の世界であり、海上の気流はもちろん、着陸できる場所がないという恐怖を克服するため、特殊な訓練が必要だった。
アヴィエルがベジエで何をする気なのか。考えられるのは、人間の軍事力を使った攻撃だ。破壊と大虐殺。現代であの1209年を再現するなら、それしかないだろう。アヴィエルは今や国家権力を手に入れた。軍隊を動かすくらい、あっさりやってのけるだろう。
具体的には、空爆だ。ハニーやアルビジョアの時代にはなかった。現代において、最も手間がかからず、しかも効果的。そのために人間たちが作った爆撃機についても、パヴル・エルギュンに手伝ってもらって研究した。やつらは海から来る。
サマエルはその訓練地に、トー湖という塩水湖を選んだ。ベジエの東約20キロの地中海沿岸にある、長さ19キロに及ぶ広大なラグーン。地中海とは幅2キロほどの砂洲で隔てられている。
だが、ベジエに着いたその日は、この年一番の猛暑日だった。午後には最高気温は34℃に達し、ヘビクイワシにとっても暑過ぎる。まして3時間、狭いキャビンに閉じ込められてストレスも溜まっているはずだ。
今日は休ませよう。トー湖には行かず、空港から翼を広げ、急上昇して人目から逃れると、北へ向かった。ヘビクイワシを先導しながら。
ゴルフ場や葡萄畑を眼下に、北へ飛ぶ。オー=ラングドック自然公園の東端に切り立った断崖がある。その上、エスカンドルグ高地が、ヘビクイワシと俺の棲家だ。
南仏ではガリグと呼ばれる、不毛の荒地。中でもここは、石灰岩と火山岩の岩盤が剥き出しで、地元の人々も寄りつくことはない。来る理由が何も無い。
灌木がぽつぽつと自生しているだけの荒野。ヘビクイワシの故郷サバンナを再現したかのような、最高のロケーションだった。ヘビクイワシにとっては。
俺にとっては、寂寥の荒野だ。
サフィーエ・サナルとパヴル・エルギュン。今回の転生で初めて、蟲螻ではなく、親交を深めるに値すると認めた人間たち。だがこれ以上、彼らと接する時間は残されていないし、そうすべきでもなかった。
ベジエ。歴史をなぞりたい、ただそれだけの理由でまた、死と破壊に曝される。
それがなんだというのか。アルプスで、俺も同じことをした。
俺はアヴィエルを捕まえたいだけだ。ベジエがどうなろうと知ったことではない。なのになぜ俺はここにいるのか。
夕闇が迫っていた。西の空がオレンジに燃え、太陽は山々に沈もうとしていた。
岩陰に小さなテントを張っていると、ヘビクイワシが歩いて近寄って来た。中型のヘビを咥えて。生まれて初めての狩りを成功させたらしい。そのほとんど食いかけの獲物を、ヘビクイワシは俺の足元に放り出した。
(狩りの成功の報告か?それともまさか食えと?)
ヘビクイワシの知能では、言語を解するのは無理だった。だがまるで理解しているかのように、ヘビクイワシは小首を傾げると、低く鳴いた。
「ケケケ」
その声が、なぜかとても可笑しかった。
(そういえば……お前に名前を付けてなかったな。いや、付ける気はなかったが)
「ケ?」
(お前には、立派な名があったんだぞ?人間の名だ。|Белислав Милошевић《ベリスラフ・ミロシェビッチ》。厳つい男だった)
「ケロァ」
(長いし、呼びにくいな。あだ名をつけてやる)
少し考えて、最高のあだ名が思い浮かんだ。
(ベリたん。Ensemble、ベリたん)
【6月26日 チャムさくら病院】
『——時刻は午後7時15分。ご覧ください!私の後ろ、夕焼けに染まるエクス宮殿の前には、こんなにたくさんの——』
『クルチュさん、まだ時間ありますからー。落ち着いて、座ってて大丈夫ですよー』
左右のイヤホンから別々の音声。落ち着けるわけない。ジェイはタキシードを着てロータスで体を起こして……あくびしてるけど。
『——正式な婚約、そして晩餐会を迎えたマドレーヌ嬢は、すでに宣誓式と婚姻契約の署名を終え——』
『ロルトさーん。起きててくださいねー。まだ時間ありますからー』
ジェイは眠そうだ。肩に留まるアリーに頬を軽く突かれて、はっと目を覚ます。まだ消灯には早いけど、最近のジェイは昼間でも寝ていることが多くなった。ドクター・セレンは、脳が心臓の負担を減らそうとしてると言ってた。
今夜ジェイは、ロータスで病院の広大な中庭に出て、桜の木の前でモニターとカメラに向かっていた。わたしはジェイの左側でパイプ椅子に。アリーはジェイの右肩に。もちろん病院だしもう夜だから、他の患者さんに配慮して、音声は全てイヤホン。中継スタッフの人たちも、カメラマンと照明の人以外は外の中継車にいて、イヤホンに指示がくるだけだけど。
マドレーヌの婚約晩餐会。フランクのエクス王宮からのライブ。そこにわたし達は、リモートゲストとして招かれた。全世界生中継の番組に。マドレーヌという可憐な華が花開くこの夜に。
中庭の桜の木は本物だから、今はもう散ってしまっているけれど。
『——殿下とマドレーヌ嬢、お2人のお姿が、エントランスの車寄せに……凄まじいフラッシュです!そしてこの……大歓声!私も大声を出さないと皆様に——』
モニターが激しく明滅し、そのフラッシュの嵐の中に、マドレーヌが映った。思わず左手で口を押さえて、ジェイの手を握る右手には力が入る。
マドレーヌ。すごくきれい。画面が歪む。わたしの涙で。
こんな……こんな幸せな瞬間を、ジェイと一緒に迎えられるなんて。嬉しい。ありがとう、マドレーヌ。
『——殿下がマドレーヌ嬢の手を取り、エスコートなさっていらっしゃいます!そのマドレーヌ嬢の……ご覧下さい!大粒、とても大きなサファイアのリング!ご覧いただけ——』
『はいクルチュさーん。その涙、使わせていただきますねー』
もうなんだっていい。好きにして。幸せだから。世界中に、幸せだーって叫びたい。叫ばないけど。
『——さあ、公式の伝統的な儀礼や各国代表のゲストの挨拶も一段落しましたね。このあと本日最大の、そして最も異例と言われている、サプライズ演出が始まるようです!ご覧ください、大広間の巨大なモニターに——』
『はーい、クルチュさんロルトさん、出番でーす』
慌ててジェイのネクタイとアリーの羽根をを直す。ジェイが指で、わたしの涙を掬ってくれる。
『おーいいねこの絵。流しちゃうか』
小さなモニターの中の、宮殿の大きなモニターに、わたし達が映る。
『——ローマの新しい友人たち!この素晴らしい夜を共に祝えることに感謝を!』
王太子殿下のスピーチ。イヤホンが割れそうな拍手喝采。夢かと思う現実。
『——マドレーヌにどうしても、とねだられてね!私はもう彼女の言いなりだから!宮内庁を必死で説得したんだ!』
大きな笑い声。本物かどうかはどうでもいい。
『——おねえさまーっ!』
この声は本物。マドレーヌ。涙目で、小さく激しく手を振って。わたしも手を振りかえす。画面にはテロップが出ている。おねえさまというのは実の姉のことではなく、呼び名だと。
『クルチュさーん。お返事してあげてくださーい』
「あ、はい……マドレーヌ!|Félicitations!」
『おねえさま!ジェイさまーっ!アリーも!嬉しい!……殿下、ありがとうございます!』
マドレーヌが王太子の頬にキスした。王太子が真っ赤になる。伝統とかからは大きく逸脱してるかもだけど、みんな笑顔で見守ってる。アリーはペットのカラス、とテロップが出る。
『——なんて微笑ましいシーンでしょう!新時代の王室、マドレーヌ嬢は本当に、新しい世界をもたらす天使のような方ですね!さあ、ご友人からのコメントを——』
「マドレーヌ……ルイ、王太子殿下。このたびはご婚約、本当におめでとうございます」
また拍手喝采。さっきと同じ。一応原稿は書いたんだけど、そんなの忘れた。
「……さっき、あなたの姿が映った時……やっぱりわたしの、可愛い妹のマドレーヌだって、心から思いました!嬉しかった。泣いちゃいました。ジェイもわたしも、あなたがこれから、殿下と幸せに……フランク王国の、いえ、世界の光になってくださることを、願ってます!」
拍手喝采。噛んだりしなかった。ほっとしてまた涙が溢れた。
『OK!クルチュさん完璧。自然でとてもよかったでーす。お疲れ様でしたー』
『はい終了ー。撤収ー。おつかれー』
終わった。あっという間。ジェイもちゃんと起きてた。と思う。アリーに突かれながら。
マドレーヌ……良かった。本当に。
ありがとう。こっちに帰ってくるの、楽しみにしてる。
ジェイと一緒に。
【同時刻 国民代表府ゲストルーム】
パヴルはiPadaのエーミットのライブを切り、大き過ぎるベッドに倒れ込んだ。
ライブといってもディレイありのはずだけど、たぶん特に編集の必要もなかったのかも。
マドレーヌ。すっかりお姫様。
ヴェシレさん。まるで親戚のおばさん。それは怒られるか。ジェイさんはかなりヤバそう。
サマたんはベジエに行っちゃったし。
サフィはこっちに来ても相変わらず仕事一筋。
僕だけだ。僕がしっかりしなきゃ。
ベッドに寝転がったまま仰向けで、iVitraをかけた。通知をチェックする。スィビラのDMがきてる。
@虎の子_FÜs39
お世話係が増えてる。あの鳥、巣立ち近そう
@ミリオタの虎
黒い鳥の生態データ入手しました
鳥、というのは、先週ズィから聞いた新型戦闘機のことだ。戦闘機というか、爆撃機。外交政策の一環としてフランクから購入した、新型爆撃機。
それ自体は、別におかしなことじゃなかった。当然だけど、革命後もローマ軍団は健在だし、戦争してるわけじゃないけど、抑止力としてこういう最新兵器を配備するというのは納得できる政策だ。
だが気になるのは……それを提案し、ズィを説得して実現させたのが、どうやらギュネルらしいということ。
ギュネルはズィの右腕で、ローマ政府のナンバーツーだ。当然、こういう政策を担うことも……あるか?
執行官。公安組織のトップ。軍人ではないし、軍をどうこうする権限もない。
ズィのナンバーツーとして、下から上がってきた凛議とかをズィと相談したりするのは普通かもしれない。だけど、これについては……妙に、前のめりな気がする。なにかおかしな情報とかがあったわけじゃない。ただ、気になるだけ。違和感、程度。だけど、なんか気になる。
ギュネルに対する偏見?そうかもしれない。それはよくないのもわかってる。だから余計に、調べたくなった。
このスィビルスをした2人は信頼できるバビュルスだ。他のバビュルス達も、革命前と変わらずバビュール・ネットワークを支えてくれていた。この新型機の話を聞いてから、情報収集を依頼していた。
もっと、情報が欲しい。
虎の子_FÜs39にDMを送る。
バビュール:テスト?演習?
ローマ南東のインシリク空軍基地。元々フランク軍との協力関係が深くてフランク軍関係者も多く、新型機が配備されたのもここ。このバビュルスは、基地に出入りするメンテナンス業者で、いつも空軍の内部情報をリークしてくれる。バビュルスはどこにでもいて、どんな情報でも集めてくれる。
もう1人はそのまんま。軍事オタクだ。DMすると、すぐにurlが帰ってきた。
B21オロー。亜音速ステルス爆撃機。長距離打撃爆撃機。試作機。フランクでもまだ実戦配備はされてない。世界初の第6世代戦闘機、とある。
全翼機。三角で、戦闘機というよりUFOだ。高いステルス性能と高度なネットワーク能力。見た目は先代機エスプリをさらに洗練したって感じで、より未来的に見える。小型化もされて、運用管理がしやすいらしい。
航続距離、9600キロ。片道4800キロってことは、アラビア半島どころかロシアから北欧、ブリテン島、アフリカの半分、インドまで行って帰って来れるってこと。亜音速で。10トンの爆弾積んで。
僕はミリオタじゃないけど、すごい兵器だってことはよくわかる。レーダーに探知されないICBMみたいなもんだ。
DMがきた。
虎の子_FÜs39:鳥の餌がめっちゃ大量に搬入された。備蓄パンパン。あと、南仏の地図がやたら売れてる。バカンス?
南仏……ベジエ。インシリクから約2800キロ。オローなら余裕。
考え過ぎか。ギュネルがベジエ爆撃?突飛過ぎる。でも……。
サマたんと共有しなきゃ。
情報が多過ぎて困ることはないはずだ。
ズィ。
ズィと話さなきゃ。
【6月27日未明 チャムさくら病院、休憩室】
『……フランク王国の、いえ、世界の光になってくださることを、願ってます!』
VVちゃん嬉し涙でボロボロだけど、絵面は超エモ。JJはぽわぽわ。
うん。これで良かったんだ。
マドちゃん……ライブで見たかったけど仕事中だからしゃーなし。マジで超絶キラキラバエバエー。デンカ?は浮かれポンチか。あれは魂もってかれてるわ。ロクツィオか?
サマたんの話……最初聴いたときはぶったまげて、ぴえんなって、でも天使の言うことだからガチか。と思ってミリ疑わないで鵜呑みにしちゃってたけど、もしかしてあたしピュア過ぎた?JJだって天使っちゃ天使だし。VVちゃんとみんなで話し合ったけど途中からわけわかめ。あたしバカだし。ムズイ話してっと途中でなんの話してたか忘れるし。
でもあのデンカはなー。ヤバそう。ロクツィオやられてんじゃね?的な?まあそのロクツィオってのもあんまよくわからんけど。
あたしらはカラコンもできんし。セイシンソウサ?やるならやってみろ。ギャルなめんな。ギャルしか勝たん。って無理か。あたしなんかそんなことされる価値ないよね?夢でサマたんも言ってたっけ。
いや、そんな価値なんてなくていいもん。さあ仕事すっかー。
自己肯定感爆上げ!
しなきゃね。
サマたん元気かな?
【6月30日 トー湖上空】
(|C'est bien。俺を追ってこい)
湖上の押さえつけられるようなダウンドラフトから、砂州を越える時の急激なサーマルとウインドシア。ここで高度を稼がないと、海上のダウンドラフトでガクンと高度が落ちる。こういう激しい気流変化は、経験させないとパニックにつながる。慌てて羽ばたいて体力を失い、気づいた時には海面だ。ヘビクイワシは泳げない。
ここで訓練を始めた初日は、無様に波間に突っ込んだ。即座に拾い上げたが、しばらくは地上を離れようともしなかった。キアシカモメが嘲笑うかのように周りを飛んでいた。
今はかなり慣れてきて、キアシカモメたちにもライバルとして認められたようだ。ヘビクイワシは魚は食べないが。
地中海上空は、今日は風も穏やかだが、この季節はトラモンターヌやミストラルが吹き荒れる日も多い。当日がどうかは予測もつかないから、これにも慣れさせなければならないと思っていたが、パヴル・エルギュンの推測が正しければ……地上で吹く風など心配なくなるかも知れない。
だが、別の訓練が必要になる。
海上では着陸できないとわかった今でも、俺が一緒だと安心している。単独だと、絶対に海上に出ようとしない。それでいい。
2人で大きな弧を描き、再び気流の壁を突き抜ける。2メートルを越える大きな翼は、換羽も無事終わり、今や見事な灰と銀、そして先端の黒へのグラデーションも美しく、雄々しい鵬翼となった。俺たちが飛ぶ姿は、もう幾度か撮影され、ネットにもアップされているが、どの画像も珍しい大きな鳥としか認識されていない。
一度だけ低空で撮影されたが、その時は降りていってデータと記憶を消去した。そのiPortaには他にも画像があった。俺たちのではなく、風景写真や近隣に自生する植物。上空からも見えていた、色鮮やかな花。白や黄色のキク、そして紫色のリモニウム。
シーラベンダー。
トー湖は上空から見ると、瞳のように見えなくもない。濃紺の湖水、その周りを縁取る紫色。
サフィーエ・サナルの虹彩。
人間の虹彩が紫色なのはとても珍しい。最初はカラコンかと思ったが、よく観察するとそこには、人工ではありえない複雑な模様が絡む、自然の美しさがあった。漆黒の瞳孔、その周りを囲む繊細な模様が、滑らかに黒からバイオレット、そして薄いラベンダーへと彩度を増していく。
ロクツィオで虹彩に触れることを許さない、触れてはならない気がした。それほど、近寄り難い、美しい瞳だった。
あと3週間。
全て計画通りにいけば、あの瞳を見ることはもう2度とないだろう。
少なくとも——この目では。
【7月9日 チャムさくら病院】
外は雨だった。久しぶりの雨。
雨だと、外でアリーと遊べない。午前中は降ってなかったので、遊んでおいてよかった。今のうちに毎日遊んでやりたかった。
「すごい雨。シャワーみたい」
ヴィが買い物から帰ってきた。濡れてはいない。
「ちょうどシテに寄ってる間に降ってきたの。グッドタイミング!日頃の行いね」
「そうか。アリーいた?」
「うん。あの子、雨降る前にわかるみたい。わたしが帰った時にはもうベランダにいた。ザーザー降ってきたから部屋に入れて来ちゃった。サフィには連絡しといた」
サフィーエ・サナルはこの病院に転勤してきて、おれ達のシテに住んでいる。合理的だ。アリーの面倒も見てくれていた。ヴィも喜んでいる。
(アリー。今日はもう遊べそうにないね)
(ジェイ!だいじょうぶ
さっき、あそんだから
またあしたあそべるし)
(そうだね。サフィは?まだ帰ってない?)
(ぴんくおんなまだ
ジェイのべっどで
あそんでもいい?)
「アリーが、ベッドで遊んでいいかって」
「だめに決まって……いえ……いいよ。シーツなんか洗えばいいから。替えだって……」
ヴィの目が潤んだ。最近ヴィは、涙腺がちょっとおかしい。心配するほどではないし、言うと怒るから、言わないようにしている。
(ヴィが遊んでいいよって。あまり汚さないで)
(よごさないよ?
わたしはきれい
においをつける)
(アリー……こないだ言ったこと、わかった?)
(うんわかったよ
ジェイはかわる
でもかわらない)
(そうだ。どんな姿になってもおれはおれだ。大丈夫だよね?アリーは賢いから)
(アリーはかしこい?
あたりまえ。なぜ?
へんなこというね)
大笑いしている自分のイメージを送った。
すぐに、怒っているアリーのイメージがきた。アリーは本当に賢いというか天才だ。ロクツィオをこんなに使いこなす使い魔は、他にはいないだろう。
それから、アリーと宝探しゲームをした。ヴィにも中継しながら。おれが送ったイメージの物をアリーが部屋の中で探す。3人とも、楽しく時を過ごしていた。
雨の日でも。
やまない雨はない。
ノックの音。
「ロルトさん。いいですかな?」
ヴィが返事をすると、ドクター・セレンがスライドドアを開けて入ってきた。赤毛のジャンヌと一緒だ。
「こんにちは、ジャンヌ」
「こんにちは、マダム・クルチュ」
「また。ヴェシレでいいのに」
「いいえ。仕事やし」
ジャンヌは小さな、何かのケースを持っていた。
「今日は、また最新ガジェットを持ってきた。ジャンヌ、説明してくれるかな?」
「はいハカセ」
ジャンヌがケースを開けた。パッチだ。派手なピンクの。
「AED?これもバージョンアップ?」
ヴィが覗き込む。
「いいえ。これは——」
パッチを摘み上げる。
「——Meatus Nexor Appositum.血管圧迫パッチ」
「ミーナだ」
ドクター・セレンがドヤ顔になった。
「ミーナ?ドクターの……お嬢さんの……」
「そうだ。ミーナこそ、あなた方のお守りになる。最後の」
「……最後、の……」
「あーいや、すみません。ですが、とても重要なことなので……私はどうも言葉選びが下手なようですな。ジャンヌ、頼むよ」
「はあ。このパッチは、患者が心停止すると起動します。頸動脈と大腿動脈、2箇所に貼って微小電流で血管を圧迫、脈動させ、停止した心臓の代わりに患者の体内の血流を維持、脳はもちろん全身への血液供給を行う。はっきりゆうて……ハカセは天才やで」
ドクター・セレンが目を見開いた。
「おお!ジャンヌが私を褒めた!驚異的だ!」
「まあ15分だけやけど。何もなければ心臓止まったら2分で脳死。2分を15分にしたのはほんま天才や。ノーベル賞取れはるんちゃいます?」
「ノーベル賞?そんなものよりジャンヌの褒め言葉の方が嬉しいよ」
「アホか。ほな天才は取り消すわ」
ヴィがころころ笑った。どんな最新医療機器より、その笑顔が心臓にいい気がした。
「ミーナ……ドクターの想いがこもってるんですね。でも、この……鮮やかな、ピンク色なのは?何か意味が?」
ヴィが聞くと、ジャンヌが肩をすくめて一歩下がった。代わりにドクター・セレンがまたドヤ顔になった。
「娘の大好きだった色でしてね!このミーナを思いつかなかったら、ロータスをピンクにするつもりでした!」
それは良かった。おれは色に拘りはないが、マドレーヌのライブには出してもらえなかったかも。
ピンクの車椅子の悪魔なんて。
ジャンヌは慣れた手つきでミーナをおれに貼り付けた。頸動脈を探り、1枚。パッチAEDと同じく、ナノポリマーで肌に密着する。
「もう1枚は……マダム・クルチュが貼ってあげてください」
「わたし?」
ジャンヌが目を伏せる。
「はい。その……デリケートな場所やし」
「え?……あ、ああ!アソコね?わかりましたわ!ええ。アソコね?ええ。わかりました」
「……看護師呼びますか?」
「い、いいえ!そんな。わたしにだって、そのくらい簡単ですわ!み……見慣れてますもの!……そうだ、目を瞑れば!」
ジャンヌは少しの間ヴィを見ていたが、短くため息をついて2枚目のミーナをヴィに渡した。
「あとこれ……まだ在庫少なくて。スペアは2週間後に納品されるから、壊さんといて。それまでは持つはずやから」
ドクター・セレンが、ぼそっと付け加えた。
「そう……起動しなければね」




