21 Snows In April
【2026年4月16日午前 コンスタンティノープル、バシャクシェヒル国立公園】
大空。
昨日までの雨雲はまだ厚く残っていたが、切れ間から少しだけ青空が見えた。時折差す日差しは春らしい明るさで暖かい。
アリーは完全に生え揃った羽根全てに北風を受け、優雅に旋回した。陽光の筋をカットするたび、微かな虹色の煌めきがその翼で光った。
気温はまだ、春というには低過ぎる。だがアリーにとっては問題ではなかった。力強く両翼で羽ばたき、ぐんぐん高度を上げる。
バシャクシェヒル国立公園。
上空からその人工的なデザインを見ると、この日は特に美しかった。緑の中に描かれた正円の歩道、その道端をフリルのように縁取る赤、白、黄色。チューリップだ。
広大な国立公園は4月、数百万本のチューリップで彩られ、毎年チューリップ祭りが開催される。今年は寒い4月だったが、その寒さがチューリップにとってはちょうどよかった。開ききらない花びらの華やかな色彩が長く続いて、春を待ち焦がれる人たちの心を和ませた。
アリーは高度300メートルまで上がると、そこから急角度で降下した。目標は、チューリップが特に密集している池のほとり。ピンクや紫の花畑の中に、陽射しに輝く明るい金色。"ぶろんどおんな"の頭だ。すぐ近くには、ヴィの暗褐色の頭、ジェイの黒い頭もある。
「アリー!」
"ぶろんどおんな"のカン高い笑い声。ヴィもジェイも笑ってる。楽しそう。アリーも楽しい。もうすぐ春だから。
アリーが急降下してきてマドレーヌの頭を掠めた。ライトブロンドの髪がふわりと舞うほどの近さで。
危ない、とは思わない。アリーがよくやるいたずらだ。ヴィは少しだけ、陰鬱な気持ちがほぐれた気がした。
昨日アンキュラで起きた、凄惨な事件。17歳の少年が銃を持って学校に行き、クラスメイトを十数人撃ち殺した。教師も1人、子どもたちと一緒に殺された。犯人の少年は自殺したという。
エーミットやスィビラではこの事件を受けて様々な噂や憶測が飛び交い、事件翌日の今日も騒然としていた。政府も公式会見をエーミットに流し、ズィが毅然とした表情で、被害者に対する悲しみと哀悼の意を表明した。
戦争やテロがなくても、こんな酷いことが起こる。
左手が無意識に首筋をさすった。4ヶ月前の腫れも傷も完全に消え、痛みももう全くなかったが、気がつくと首をさすっている。癖になってしまっていた。ため息をつき、ジェイの肩に頭を預ける。
「おねえさま?ため息はよくありませんわよ?」
マドレーヌが私の左腕を取る。肩にアリーを乗せて。
「アンジーのライブ会見、始まりますわ」
iPortaを3人の前に掲げた。
アンジーは、今や有名人だった。フランクとローマ、その周辺国にまで信仰を広げた『いにしえの琥珀』の代表として、エーミットを通じての各国マスコミ出演、政治家たちとの会談。『いにしえの琥珀』はペルフェクティ以外の肩書きがなく、聖女などの呼称も嫌うので、ただ代表と呼ばれている。まるでズィの合わせ鏡みたいに。
「こっちも見た方がいいかも」
わたしも自分のiPortaを出した。エーミットだが、映っているのは肩まであるブロンドと青い目、ソバカスの少年の笑顔の画像とディルシズの黒服で固い表情のケイトの写真を背景に、泣きそうな顔でカメラを見ている30代後半の若夫婦と老人。モンセギュールで額を撃ち抜かれて死んだトマ・ランベールの両親と、ケイト・カプランの父親。
モンセギュールはもう4ヶ月前。世間では、2人の死はもう過去のことだった。『いにしえの琥珀』の一部の狂信者が暴走した山奥の寒村の事件。クレデンテスになったばかりのトマ・ランベールは、騒ぎの中で狂信者同士の争いのとばっちりを受けた不幸な被害者。
もちろん警察はちゃんと捜査したけど、残された弾丸からまたしても名があがったクソキザモローは行方不明。
ケイトの死も、ディルシズも捜査協力したものの、自ら持ち込んだブラックマンバに噛まれた事故、狂信が引き起こした異常な事件というのが公式見解だった。
いにしえの琥珀は以前からカタリ派との類似を指摘されていて、その極端な教義を曲解した狂信者の起こす事件は少なくなかった。
それを、カタリ派の聖地モンセギュールで、拳と真の神の言葉で鎮圧したアンジーは、フランクのマスメディアやネットでヒーローとして賞賛された。
アンジーは10年前の啓示とその後に起きた奇跡についても、控えめなトーンで世界に公表した。その奇跡がアンジー自身ではなく、献身的に奉仕していたガスパール夫人に起きたということ、そして夫人は最近亡くなったばかりだということが、俗社会では美談として持ち上げられた。アンジーは『いにしえの琥珀』の教義の正しい理解を求め、狂信者には厳しい態度で臨むことを訴えた。事件は収束し、世界は新たな聖者の出現に熱狂した。
『いにしえの琥珀』とアンジーへの支持は爆発的に拡大し、キリスト教が世界に広まった時代を彷彿とさせる勢いだという。
だけど、遺族には別の想いがある。
『——私達は……要求します。当局によるさらなる調査を。私達の息子は……昨日の悲しい事件の被害に遭われたお子様たちと、同じ17歳でした……』
『我々いにしえの琥珀は、此度の事件の被害者の方々、そして遺族の方々に、深い哀悼の意をお伝えいたします。信徒であるか否かに関わらず』
アンジーは目を伏せて、静かに語っている。
『このような痛ましい事件が2度と起きないよう、心から哀悼の祈りを捧げます』
もうひとつの画面からは、ケイトの父親の悲痛な震え声。
『——ええ、知っています。今、この同じ時間に、あの女が……代表が会見していらっしゃる。教団は……私達に、丁寧なお悔やみの言葉と、多額の見舞金をくださいました。このお2人は信徒だが、私は違う。お気持ちには感謝はしております。ですが……あの子の父親として、そんな金は——』
『——犯人の少年が狂信者だったという事実は把握しておりません。我々も誠意を持って調査しております。もちろん真実のみをご報告いたします。真の神の教えに従って——』
『——ええもちろん……あえて同じ時間を選ばせていただきました。どうか……もしこれが……私達の想いがみなさんに伝われば……』
二つの動画のコメント欄が同時に加速した。リスナーの多くが、2つのライブを同時視聴している。
『——会見は以上です。Benediciti』
アンジーは首を振り、画面から立ち去った。
ケイトのお父さんやランベール夫妻の気持ちは察して余りある。だけど、このタイミングはどうなのか。必死なのはわかる。『いにしえの琥珀』は今やカルトとは言えない国家規模の宗教団体だし、こうでもしないと話も聞いてくれないのかも。ただ、今は……昨日の事件が生々し過ぎる。たぶん……弁護士とか、営利目的の助言者の思惑だろう。
ジェイはトマ・ランベールが誰かの依代だったと考えていた。たぶん、またアザズェルだと。わたし達は銃撃犯が『いにしえの琥珀』ではなく、サマエルだと知っている。トマ・ランベールはあの日より前になんらかの理由で命を落とし、アザズェルとなってモンセギュールに現れた。なにしに来たかはわからないけど、とにかく用が済んで帰るため、サマエルに頼んで撃ち殺してもらった。
サマエルが転生してきた時にやはり撃ち殺されたエーゲ・ユルマズ少年と、状況が同じ。納得できる。
ケイトは……ギュネル執行官の話では、トゥールーズへの通院は続けていたらしい。だけど同じく執行官からは、別の話も聞いた。革命の少し前に、不正な出張をしていたのが発覚したと。任務を偽造して行った先は、アフリカのダーバン。ブラックマンバの生息地。
ジェイはこれを聞いて、ケイトがアヴィエルの依代だったと確信した。使い魔は転生前じゃないと作れない。使い魔が地上のどこに転生するかも定かじゃないから、地上で出会うのは大変なんだと。アリーの時も苦労したという。
アリーは動物としてはとても知能が高いけど、ヘビとなるとそうはいかない。アヴィエルは自分の使い魔に噛まれて、ケイトとしては死んだ。そして天に帰った。
ジェイはそう思ってる。
『——私達は、子どもを奪われました。亡くしたんじゃなく、奪われた。そう思っています。殺されたんです……娘は……事故なんかじゃない、殺された!ケイトは……ケイト……』
ケイトのお父さんは取り乱し、ランベール夫妻はうつむいたまま無言だった。
「わたし達に……できること、あるかな」
「何もしない」
ジェイが低い声で、だけどはっきりと言った。
「そうですわ……私達にできることなんかありませんもの。ジェイさまの心臓は……おねえさまだって……」
「マドレーヌの言う通りだ。リスクが大き過ぎる」
「うん……わかってるけど……」
リスク。毒。アナフィラキシー・ショック。ラングイユの先生やドクター・セレンにも警告された。
アダー属のヘビの毒。ヘビに噛まれたかどうかはわからないけど、この身体にその抗体ができてしまったことは事実。もしもう一度アダー属のヘビに噛まれたら、わたしの身体は激しいアレルギー反応を起こして命に関わる。幸いアダー属のヘビというのはアフリカとアラビア半島の一部にしかいないらしいけど、わたしはそこでこの毒を注入されたわけじゃない。
つまり、場所は関係ない。アヴィエル……かどうかはわからないけど、誰かがその毒を今回みたいにわたしに注入したら、終わり。
だから?
そんなの、誰だって同じだ。撃たれたら?刺されたら?交通事故、爆弾、毒針。生きてればなんだって起こる。
それに、アヴィエルは帰った……ケイトが死んで。
わたしが何もできないんじゃなくしないのは、ジェイのため。わたしになにかあったら、誰がジェイの心臓を動かすの?誰がジェイの……最後を看取るの。
それまではわたしは絶対に死ねない。死なない。
ジェイは毎月2回、きちんとドクター・セレンの定期検診を受けてるけど、何も変わらない。良くも悪くもならない。ドクターに余命一年と言われて、もう半年が過ぎた。
あと半年。
たった半年。それまで、ジェイのそばを離れない。ここで、ジェイとゆっくり、のんびり過ごしたい。
バシャクシェヒルに戻って来れたのは良かった。一番、ゆっくり過ごせる場所だから。マドレーヌも一緒だし。
半年……最後の半年くらい。好き勝手に、ゆっくりしたい。
バシャクシェヒル。乙女座の街。プロセルピナが帰ってくると春になる。もうちょっとで、春になる。
【同日午後 アンキュラ、フランク領事館】
サマエルは手を洗っていた。
ジェベジ墓地で、ヘビクイワシの初飛行訓練を終えて帰ってきたところだった。
この日のアンキュラの気温は、今年初めて20℃を超えた。快晴で、飛ぶにはまたとない1日だった。
ヘビクイワシの体躯はもう立派な大人に育っていた。大胸筋や大腿筋はまだまだ逞しくなるが、顔は完全に朱色になり、目は金色に輝いている。冠羽も雄々しく伸び、頭部だけなら貫禄さえあった。
だが翼はまだ幼鳥のままだった。鳥生初の換羽は1、2ヶ月後。それが済んで初めて、ヘビクイワシは成鳥となる。換羽が始まるとひと月は翼を休めなくてはならないので、飛行訓練をするのは今しかなかった。サマエルもヘビクイワシも、気温が20℃を超えるのを心待ちにしていた。
そして今日。
ヘビクイワシは初めて青空を飛んだ。
まだ幼鳥の羽根なので、複雑な軌道や急旋回、羽ばたいて高度を上げたりするのは難しい。高所からグライダーのように滑空するだけだった。それでもヘビクイワシはその幼い羽根で気流を掴み、ゆっくりと大きな弧を描いてジェベジ墓地の上空を飛んだ。サマエルとともに。
初飛行は無事終わり、サマエルもヘビクイワシも大空を満喫した。ヘビクイワシにとっては初めての、サマエルにとっても4ヶ月ぶりの空だった。
ジェイエルは天でいつもこの気分を味わっていたのか。サマエルにとって飛行は移動に過ぎなかった。これまでは。目的地があり、そこに行くための手段。だが今日は違った。ヘビクイワシと一緒だったからではない。そこまでジェイエルに似る気はない。だが、暗い気持ちが晴れたのは確かだ。
サマエルは手を洗い続けていた。ヘビクイワシの世話でついた汚れはとっくに洗い流されていたが、サマエルは蛇口の流水の中で両手を擦り続けていた。
汚れてはいない。たが、穢れている。地獄でしていたように、溶岩の海で細胞ひとつひとつまで焼却して再生したかった。
昨日……また子どもを殺した。
アザズェルとスリエルは、たまたま木偶が子どもだった、それだけだ。しかし昨日は違う。木偶ではない、人間の子どもを殺した。
ヘビクイワシの世話を済ませて車で領事館に戻る途中だった。風を浴びたくてウインドウを開けて走り、信号で止まった。その子どもが突然現れ、サマエルの頭にグロックを突きつけて叫んだ。
「車をよこせ!」
グロックだけではなかった。左手にはCanik。腹にはリボルバーらしいグリップが覗き、背中にはショットガンを背負っていた。右手の人差し指は既にトリガーガードの中だ。
瞬時にそのグロックを掴み、銃口を空に向けながらスライドの隙間に掌の肉を噛ませた。轟音とともに初弾を発射したグロックはスライドが戻らず、次弾装填不能になった。そのまま車内に引き摺り込もうとしたが、子どもは激しく抵抗しながら左手のCanikを持ち上げようとした。
ただの子ども。後から知ったが17歳だった。サマエルの敵ではない。だが明確な殺意を持った、武装した子ども。
サマエルはまだグロックを離さない子どもの右手を包むように握り、トリガーにかかったままのその人差し指に自分の指を重ねた。
子どものこめかみに銃口を押し付けて。
周囲にはたまたま人も車もいなかった。子どもはそのタイミングを狙ったのかもしれない。今となっては知る由もない。サマエルはその場を離れ領事館に戻ってから、ネットニュースで事件を知った。
スクール・シューティング。
17歳の子どもが学校で、他の子どもらを十数人射殺した。親の銃で。その子どもは逃げる途中で自分で頭を撃って自殺した。
自殺ではないのは、サマエルだけが知っていた。
手が穢れていると感じるのは罪悪感からではない。人間。蟲螻。ルシフェルの言う通りだ。蟲螻の体液で、手が穢れている。
堕天する前、まだ厳正に使命を果たしていた頃。死をもたらす。人間に死を宣告するという使命のため、様々な人間たちと会い、話した。もちろん全ての人間の死に立ち会ったわけではない。選ばれた人間、サマエルが顕現または転生する価値があると天の理が決めた人間たち。ヨブ、モーセ……アレックスやキュロス……ハニー。名前をあげたらきりがない。ヘロデ……往生際の悪い奴もいた。
レオ。獅子の名に相応しい死に様だった。彼らと話すうち、人間に興味を持って、使命とは別に彼らを観察した。ハニーの時もそうだ。あれほど長く、1人の人間と共に生きたことはない。彼らは蟲螻ではなかった。
だが、この時代のやつらは……蟲螻だ。
あの女は違うというのか。
救う価値があるのだろうか。
【4月17日 コンスタンティノープル、国民代表府、代表執務室】
「またか。またモローか」
ズィヤがiPadaから顔をあげた。ギュネルは報告を続けた。
「はい。またモローです。凶器の指紋、監視カメラ映像。間違いようがありません」
「で、フランク領事館にいると」
「はい。領事館裏のドルク・ホテルのメイドが口を割りました。このホテルにも長期滞在していますが、最近は裏の路地……あるいは、上空から領事館に出入りしているようです」
「ジェイの話では……モロー、いやサマエルは人間を見捨てたそうだ。その後4ヶ月、やつらが関与してそうな事件や出来事はなかった。そして今回。少年とは言え凶悪犯罪者を射殺した。どう思う?」
「悪魔の考えてることなんか、私には想像もつきません。奴らの法には少年法がないのは確かですね」
ズィヤが眉をしかめた。
「すみません、つまらない冗談でした。私は、今回は偶然の出来事だと思っています。あくまで個人的な意見です」
「偶然か」
「はい。たまたま、犯人の逃走経路にやつが居合わせた。それだけかと。映像を精査しましたが、正当防衛に近い」
ズィヤは目を閉じて、抑えた声で言った。
「ジェイの話を信じるんだな?」
「ズィヤ……私は、ジェイを信じているのではありません。あなたです。あなたがジェイを信じているなら、私も信じます。ただ……それと、法治国家としての在り方は別です。彼らの力、彼らの存在は、科学的には何の証明もされていない。法も同様。彼らのことは知識としては念頭に置くべきですが……どう対処してよいやら」
「我々では対処できない。だからまたジェイ達を頼ると?絶対にだめだ。却下する」
「はい……そうおっしゃるだろうと思いました。つまり結論としては……なす術がない、ということになります。何もできません……無念ですが」
ズィヤは深いため息をついた。
「そうだな……無念だが、仕方ない。静観するしかない」
ギュネルは頷くと、一礼して代表執務室を退去しかけて、振り向いた。
「もう一件、よろしいですか?」
「……例の話か。B21、オローだっけ?」
ギュネルは再び、ズィヤのデスクに歩み寄った。
「はい。お考えいただけましたか?」
「ああ……しかしな。抑止力は必要なのはわかるが……亜音速ステルス爆撃機。そこまで必要か?」
「核配備よりはずっとスマートでは?おっしゃる通り、これは抑止力です。実際に運用しようというのではありませんし、機体は既に完成しています。試作ではありますが。これを……そうですね、二機。ローマ国内に配備したという事実だけで、十分抑止力として機能します。他国を刺激するほどでもない」
「それは前に聞いたし、納得はできる。だがな……」
「これはフランクの製品です。フランクへの経済的アピールを兼ね、配備基地はインシリク。フランクから遠く、アラブを睨むためという外交儀礼も成り立ちます」
「つまり、あくまで外交の話で軍事的側面は二の次だと言いたいんだな?……オロー。Şafakか……わかった。進めてくれ」
ギュネルは深くお辞儀をして感謝を示すと、今度こそ退室した。
数十メートル歩いて自分の執務室に戻る。デスクに座り、iVitraを装着すると、インウェニ・ハリタを開く。
視線操作でスクロールし、目的地をズームする。
ベジエ。
ここから西へおよそ2100キロ。南仏の、人口8万人の都市。
インシリク空軍基地からは2800キロ。
オローなら無給油で往復できる。ズィヤはŞafakと言ったが、まさしくこれが黎明となる。
ケイトの訃報を聞いた瞬間に、脳裏に浮かんだこの都市、そして日付。
あと3ヶ月。
黎明の輝きで整地するのだ。
マグダラのマリア降臨の地を。
【4月20日 バシャクシェヒル、チャムさくら病院】
待合室の中心に、吹き抜けからの陽光を浴びて、その木は立っている。
咲き誇るピンクの花。ひとつひとつは小さいが、ほぼ隙間なく、大きな木が一輪の花のようだ。
サクラ。
毎春、他を圧倒する華やかさで咲き乱れ、僅か数日後には散ってしまう、生命の儚さと美しさを体現する木。ジャポンの国花。特に素晴らしい花をつけるソメイヨシノという品種らしい。
オダニ城を思い出す。ソメイヨシノが造られたのはずっと後だが、あの馬場のサクラも美しく咲き、そして散った。春が来るたびに、繰り返して。
ジェイはサクラの木の下のベンチで、呼ばれるのを待っていた。ヴィと一緒に。
マドレーヌはアンジーと共に、王室に呼ばれてエクスに帰っていた。ヴィとジェイも連れて行くとかなりごねたが、日程がジェイの定期検診と重なることがわかり、渋々諦めて旅立っていった。アンジーがマドレーヌには内緒で、と話してくれたこの王室行きの真の目的は、驚くべきものだった。
王太子との縁談。なんとマドレーヌは、次期王太子妃の最有力候補らしい。無論、そうなるのは早くても一年以上先だ。
ヴィは、王太子妃となったマドレーヌの姿を思い浮かべて相好を崩し、ジェイが見ることが出来ないかもと涙を流した。
定期検診は、ジェイにとってはもうルーティンと化していた。言われなくても次は何の検査かわかる。その結果も。
良くも悪くもない。変化なし。
先々週の検診の後、ドクター・セレンは言っていた。現状維持は悪くない、むしろ良いことだ、心筋の瘢痕は広がり続けるはずなのに、そうなっていないのは奇跡とさえ言える、良い兆候だと。
ヴィは素直に安堵していたが、おれにはわかっている。
心臓は、確実に悪化している。スマートピアスはアラートを出さないが、自分では感じる違和感。バシャクシェヒルに戻ってきて数日してからだ。ヴィには言ってない。ドクター・セレンにも。
たぶん、あと一回だ。次に負担をかけたら、それで終わりだろう……ヘリの時と同じだからわかる。
そうなる前に、ドクター・セレンと話をしておきたかった。マドレーヌがいない今日が、そのチャンスだ。彼女の涙は見たくなかった。
ポケットに手を入れ、中の小さな石に、そっと触れる。冷たい石。
これを使う時が来れば……全てうまくいくはずだ。
「ジェイ、調子はどうですか?」
いつもと同じ、挨拶がわりのひと言。変わりないですね、と返すのがおれの挨拶だった。
「ドクター・セレン。お願いがあります」
今日はそう言う。そして、続ける。
「手術を。機械の心臓を、移植してください」
ヴィの身体が、弾かれたように跳ねた。
……は?なんて言った?嘘でしょ?
去年の秋、初めてこの病院のこの同じ部屋で、初めて会ったドクター・セレンから、人工心臓の話を聞いた時。ジェイははっきりと断った。手術は怖いとかなんとかふざけてたけど、そんな理由じゃないのはわかってた。
療養中毎日、天のこととか転生のこととか、いろんなお話をたくさん聞いて、人工心臓とジェイたち天の生き物とが相容れないものだと、わたしなりに理解した。はずだった。
ジェイの口からそう聞いたわけじゃない。人工心臓の話は、ジェイとは一度もしていない。この人が拒否した以上、話す、説得するとか、しちゃいけないと思ったから。
でも、どうして、急に。
ドクター・セレンも驚いたようだけど、すぐに笑顔になった。この人はお医者様なのと同時に科学者だ。お医者様として、助けられないと思っていた患者を助けられそうだという喜びと同時に、科学者として……実験ができることが嬉しいんだろう。それを責めるつもりはないけど。
わたしだって……もし本当に、人工心臓を移植すればジェイが生きられるなら……どんなに。どんなにどんなに嬉しいか。だけど。
「ジェイ……やっと。やっとその気になってくれましたか。いや……素晴らしい。素晴らしいことだ。やっと。生きたいと——」
「手術について、詳しく知りたい。どういうふうに行われるのか」
「もちろんだ。あなたには知る権利があるし、可能な限り詳細にご説明いたします。医師の義務です。今から、お話しますか?ちょっと時間はかかるが——」
「資料が欲しい。全部。その方が早い。だめですか?」
「……い、いや。問題ないですよ。わかりました……ジャンヌに用意させます。日程は——」
「日程は、資料を見てから決めたい。もちろんあなたと話し合って。できれば、おれ達だけで」
ジェイは淡々と話を進めている。おれ達……わたしも入ってる?いや入ってなかったら許さないけど。
少し、驚きや疑問に変わって、嬉しさが滲んできたのを感じる。少しじゃない……すごく。
ジェイ。生きられる?手術が成功すれば、半年後も、一緒に、生きられる?半年後も、一年後も、ずっと、一緒に?
泣く。涙が止まらない。
わたしももうすぐ30歳。最高のバースデイ・プレゼント。
ドクター・セレンとの話が終わり、おれ達はまた、サクラの木の下のベンチで、会計に呼ばれるのを待っていた。
サクラ。
毎年、全力で花を咲かせ、狂ったように生を謳歌し、あっという間にその花を散らす。
自然では。
ここのサクラは違う。
一年中、ずっと満開のまま、決して散ることのないサクラ。
造花だ。人工のサクラ。
造りものの生命。




