20 それぞれの檻
【2025年12月11日19時12分 アリエージュ県モンセギュール村、クレデンテス宿舎】
(アリー。戻って来て)
(へびのさしみ、
まだたくさん。
ジェイたべる?)
(アリー……頼む。ご飯の邪魔して悪いけど、早く戻って来て。お願いだ)
(おねがいなの
しかたないな
へびもってく)
蛇はいらない、とは思ったが、とにかく早く戻って来て欲しかった。
(うん。楽しみだから早く)
「マドレーヌ……運転手さんはどこ?」
「ジェイさま?運転手は宿舎にいるかと……わかりませんわ」
「探してきてくれないか。もう帰ろう」
「だめよ」
ヴィがベッドから降りた。首を押さえながら。
「3人一緒。もうバラバラになっちゃだめ」
ヴィは言いながら、マドレーヌと腕を組み、それからおれの左腕にしがみついた。
「ずっと一緒」
【19時14分 クレデンテス宿舎駐車場】
運転手さんは部屋にいて、すぐに車へ向かった。アンジーは見つからない。
わたしの両腕は、今一番大切な2人と繋がってる。それだけで首の激痛が少しやわらいだ。
駐車場には送迎バスと王室公用車のプジョー以外の車は数台だけ。クレデンテスのほとんどはバスで来ていた。車より人が多い。たくさんの信徒が外に出て、みんな空を見上げている。
雪はけっこう降ってるのに、とわたしも見上げた。
クソキザフランク。灰色の翼を広げて。こっちを見下ろして。
「——悪魔だ……」「雪の……悪魔……」
何人かが騒いでいる。確かにそう見えなくもないけど。
クソキザはわたし達を見ている。どこかで小さな悲鳴が聞こえた。クレデンテスたちは空を気にしながら、じりじりと——北の方へ動き始めた。すぐ後ろの宿舎ではなく、150メートル北の教会に向かって。
その北の空に、アリーがいた。細い木の枝かなんかを咥えてこちらに飛んでくる。
(ジェイ!
ごちそう
あげる!)
アリーがおれ達の足元に舞い降り、ヘビを投げてよこした。悲鳴があがった。
「ちょっとアリー!」「また悪戯ですの?」
アリーは不思議そうに小首を傾げた。
「はわわ?」
(そんなに、
うれしい?
よかった!)
おれは笑おうとした。
その時、広場の先で何かが光った。
【19時15分 モンセギュール教会】
イザベルは一度閉めてあった礼拝堂の玄関を開け放った。
オレンジの光。火。
礼拝堂の奥で炎が燃え上がった。
その輝きと熱風を背中に、イザベルが絶叫した。
「Benedicite!解放の時です!」
リンデン並木広場のクレデンテスたちが、一斉にイザベルを、その背後の炎を見た。イザベルは赤とオレンジ、黄色の光を背負い、シルエットになって両手を大きく広げた。
「Benedicite……」「Benedicite……」
「Benedicite」「Benedicite……解放……」
ざわめき。
150メートル離れた宿舎駐車場からだと、リンデンの並木の奥のその光は、闇の中の蝋燭の明かりのように揺らめいていた。クレデンテスたちの影、そして舞い散る雪が、その光を瞬かせていた。イザベルの声は遠かったが、それをクレデンテスたちが伝えている。
「デミウルゴス……」
「デミウルゴスの檻……」
「檻からの……解放」
「——エンデューラ」
イザベルがその言葉を口にした時、リンデン並木の人々の中の最も教会の近くにいた1人がふらりと歩き始めた。イザベルの元へ。
【19時16分 クレデンテス宿舎駐車場】
「エンデューラ……」「エンデューラ……」
ヴィの慄きはジェイとマドレーヌにも伝わった。
「そんな……」
駐車場の人々もふらふらと教会に向かって歩き始めている。すぐ近くにいた若い夫婦も、その言葉を呟いて。
エンデューラ。
これは……これでは、781年前と同じではないか……なぜ繰り返すのだ。
サマエルは呆然と空中に留まったまま、教会の火を見つめた。まだ小さな灯火だが、教会が炎上すればそのすぐそばには、備蓄ガソリンのドラム缶。
あの時はアヴィエルが誘惑していた。何人かのペルフェクティを操作し、業火に導いた。だが、これは……なんと愚かなやつらだ。こいつらは自ら、業火に呑まれようとしている。
あの時もそうだった。もう四千年前。あの時も、人間どもは自ら……。
なぜだ。俺は無駄なことをした。
『サマエル!』
『ジェイエル』
『サマエル!手を貸せ!この人たちを——』
『無駄だ。見ろ、ジェイエル。蟲螻は所詮蟲螻だ。火の中に飛び込んでいく。そういうやつらなのだ』
『サマエル!』
背中が疼く。
「だめッ!」
ヴィが叫んだ。同時に、左腰にまたあの激痛が走り、マドレーヌの身体がおれにぶつけられた。
「……ヴィっ?!」
「あなたはいかせない——」
マドレーヌを受け止めてよろけたおれを置いて、ヴィは駆け出していた。
「——わたしが行く!」
「ヴィーッ!」「アンジー?!」
おれの叫びに重なって、マドレーヌの悲鳴。
もうひとつ、別の方から教会に向かって走り出した影があった。
アンジェリック・ヴェスパー。
まだ火は小さい。今ならまだ、ヴィもみんなも救える。
翼を広げる。制御して。
「マドレーヌ。ここを動くな」
「悪魔だ!」「ここにも!」
翼を見た周囲のクレデンテスの悲鳴。パニック。
だめだ。マドレーヌを置いてはいけない。
『サマエル——』
サマエルは小さな影になっていた。高度を上げ、飛び去って行く。見捨てた。人々を。
おれがやるしか——
(ジェイ?
いくよ!
わたしも)
(だめだアリー)
「ジェイさまっ!恐い!」
マドレーヌが抱きつく。
——守るべきものが……多過ぎる。
【19時19分 モンセギュール教会前】
イザベル。炎。クレデンテスたち。
……違う。これは違う。
私は……私の理想は。あの方の教えは。
私が導こうとしたのは、こんなことではない。
アンジーは走った。
雪に足を取られながら走った。並木広場を突っ切り、教会の玄関へ。
炎は激しくなっていた。バチバチと何かが爆ぜる音。熱風。火の手はイザベルの背中に届こうとしていた。
「——Benedicite!真の神よ!私をエンデューラにお導きください!」
ふざけるな。エンデューラだと?狂人が。私の費やした10年を。
アンジーは荒く呼吸しながら、イザベルの前に立ちはだかった。
「——このデミウルゴスの檻から私を救い、あなたの御許へ——」
拳を叩き込んだ。イザベルの顔面に。全力を込めて。
一撃でぶちのめし、黙らせ、跪かせる。
右拳を見た。肩で息をしながら。
血。イザベルの入れ歯で傷ついた。服に擦り付けて拭う。
「……エンデューラ……」
振り向くと、クレデンテスたちが迫っていた。
「下がれ!お前たち!」
叫ぶ。イザベルを遥かに上回る声量で。イザベルを煽っていた虚飾の炎が、今やアンジーの後光となった。
「真の神がお怒りだ!この炎はあの方の怒りだ!お前たちが近づくことは許されない——アヴィエル様!」
その名に、クレデンテスたちは固まった。真の神の名が発せられたことに。
足元のイザベルを蹴飛ばす。
「この狂人こそがデミウルゴスの手先だ!ペルフェクタスなど存在しない!」
ヴィはクレデンテスたちに混じって、アンジーを見ていた。アンジーが走り込んで来て老婆を殴り倒し、絶叫するのを。
目が合う。その背後に、火が。
「火!火を消さなきゃ!」
アンジーは一瞬後ろを見たが、すぐに向き直りヴィを見つめた。視線を外さず、再び叫ぶ。
「あの方の怒りを静めよ!お前たちの手と、聖なる祈りで!水を!」
その叫びは冷水のように、文字通りクレデンテスたちに浴びせられた。彼らを現実に引き戻した。
目の前の火事という現実に。
【19時53分 リンデン並木広場】
消火活動は整然と行われた。村に消防署はなかったが、クレデンテスたちは協力し合い、模範的バケツリレーで火は礼拝堂内部を焼いただけで鎮火された。
雪も小降りになっていた。道端は白くなり、道路は溶けかけた雪と泥で汚れていた。
負傷者は、殴り倒されたイザベルと、右手をケガしたアンジーだけだった。
リンデンの木の陰で、誰かが持って来た救急箱で、ヴィはアンジーの手を消毒し、包帯を巻いていた。
「あなたは……なんなの……」
首の激痛が戻ってきていた。というかただ忘れてただけだ。目をしかめてアンジーを見る。
アンジーはヴィの視線から逃げずに答えた。
「私は10年前、あの方の光に触れました。理想の光。この世界に理想をもたらす光」
「理想……それが、|いにしえの琥珀《Ambre Ancien》というわけ?」
「琥珀の光。それが理想をもたらします。あの方はそう告げられました」
「3つめのA……アヴィエルはどこ」
「いけません、真の神の名……あの方は……いつも私たちの傍らに。見守ってくださって……。カトリックの神もそうでしょう?名前を口にしてはいけない……めったなことでは」
アンジーは……信じているのか。心から。わたしは信じてはいない。神なんかいない……ジェイやクソキザは……神なんかじゃない。わたし達とは違う生き物。ただそれだけ。
もしかしたら……アヴィエルは本当にいないのかもしれない。実体のない光——顕現。
「アンジー……お水。どうぞ」
マドレーヌがコップを差し出した。ジェイの隣で。アンジーは一気に飲み干した。炎を背負って叫び続けたんだ。喉も枯れる。首が痛い。
「ありがとうございます、お嬢様」
「私……ごめんなさい。アンジーのこと……」
「……お嬢様。心から嬉しゅうございます」
「火は消えたようだ。もう行こう、ヴィ……病院に行かないと」
ジェイはアンジーをじっと見ていたが、短くため息をつくと空を見上げて、それから宿舎の方を促した。建物ではなく、その手前に停まっている黒塗りのプジョーを。横に運転手が立っている。
「ケイトは……どうするの?」
「トマ!トマ!……どうして!なんでこんな!」「トマ……トマーッ!」
教会の玄関から悲痛な絶叫が聞こえた。あの若い夫婦が、跪いて泣き喚いている。
「……撃ち殺された子どもの……両親……」
ジェイはわたしを見てから、目を閉じた。
「……人間たちに任せよう。警察とか。ここでは、おれ達は関わってない」
「……ケイト……」
ジェイは目を開いた。何かを決めた目。
「あなたのことが最優先だ」
「ええ……今夜中に街へ。ここはもうたくさん。病院に行かなきゃ」
首が痛い。痛くて気絶しそう。
【20時05分 モンセギュール村、北西のコテージ】
「起きろ、ガスパール」
同時に頬を軽く叩くと、ガスパールは目覚めた。
「……はい、モロー」
「帰るぞ。支度しろ」
「……帰る……エクスへ?」
「アンキュラだ。ヘビクイワシがお待ちだ」
「はい……」
この感じでは運転は無理だ。飛ぶ方が速いが、荷物も多い。
面倒なことばかりだ。スリエルが羨ましかった。
スリエル。あいつが持ってきた変更された計画。前倒しにしたのは失敗だった。アザズェルが見ていて、報告したのか。おれも駒に過ぎないってわけだ。
だが。
アヴィエルは別だ。今日じゃなくとも、いつか必ず……。
ジェイエルとともに。
【20時18分 アリエージュ県ドルム村】
モンセギュールからずっと、一台のレンタカーが前を走っていた。ウインドウ越しに男が2人。
モローとガスパールだ。
王室公用車で宿舎を出発する時、マドレーヌがガスパールのことを思い出した。
「パパを置いていくわけにはいきませんわ」
ジェイたちに反論の余地はなかった。
ガスパールのコテージに行ったが、既に部屋には誰もいなかった。車に戻ろうとした時、あのレンタカーが走り去って行った。モローと一瞬、目があった。
追う意味はなかった。それよりもヴィだ。いつものようにリアシートにマドレーヌと3人でヴィを真ん中に座っているが、痛みがひいた様子はない。腫れを触るともっと痛いらしく、首ではなく肩を揉むように押さえている。マドレーヌの側なのでジェイには腫れは見えなかった。
「……痛い……もう2時間なのに。慣れないのね、痛みって……」
手を握ってやるくらいしかできなかった。
「……おねえ……さま……」
マドレーヌは眠っている。ウインドウに頭をくっつけて。安全なホテルへ帰れると、安心して眠っている。
おれには、そう見えた。
マドレーヌは眠っていた。アヴィエルは、今日起きたこと……アヴィエルが起こしたことを振り返っていた。
アンジェリック・ヴェスパー。助手席で居眠りしている。心身ともに疲弊して。
頭が良過ぎる。余計なことまで考える。せっかくの知能を無駄使いしていた。劇薬が必要だったのだ。この薬はとてもよく効いた。
おかげで、私はまた一歩理想に近づいた。あと半年と少し。
モンセギュールにも、もう来ることはないだろう。兄さんには私の思いは伝わっただろうか?
人間たちに愛想が尽きたはずだ。もう私の邪魔はしないだろう……そうあって欲しい。私だって出来れば……いつまでも恨み続けたくはない。兄さんが私を恨むのは誤解だ……堕とすつもりではなかったのだから。いつかまた……天の野原で語り合う日が来れば……そんな日は来るわけがないが。
サラを失ったのは仕方ない。手は打ってある。
ヴェシレ・クルチュはもういつでも、私が望んだタイミングで殺すことができる。
タイミング。それが重要だ。最大の効果をあげるタイミング。その時に殺さなければ、殺す意味がない。
ジェイエル……ジェイエル……ジェイエル。
ヴェシレ・クルチュを奪って、狂わせてやる。かわりに私を欲するほどに。
そのタイミング。
ジェイはヴィの横顔を見つめていた。目を閉じているが、眠ってはいない。痛みで眠れないのか。
ドルムという小さな村で、前のレンタカーと行く道が別れた。モローたちはたぶん、カルカッソンヌ空港に行くのだ。ガスパールのプライベート・ジェットでアンキュラかどこかへ行くつもりだろう。おれ達は……トゥールーズに帰る。またラングイユ病院へ。救急処置。検査。おれの定期検診もできる。効率的だ。ケイト・カプランも入院していた。
ケイト・カプラン。
死んでしまったが、あの女は結局なんだったのか。ブラックマンバに噛まれて死んだ。偽りの姿だったのか。どれが?
ブラックマンバ。冬のフランクでは生存不可能な動物が2匹もいたというのも無理かあるし、トゥールーズからモンセギュールまで自力で来たというのはありえない。アヴィエルの使い魔なのは間違いない。だとしたら、あの温室とモンセギュール、両方に居合わせたやつがアヴィエルだ。
ケイト・カプランか。警察は遺体や居室、足取りを調べるはずだ。ブラックマンバと関わっていた確証が見つかるだろう。
彼女がアヴィエルだったのか?
ケイト・カプランと虹彩を絡めた時、見えたのは異常な意識だった。そのせいで正体に気付かなかったのだろうか。アンジェリック・ヴェスパーもそうだ。トゥールーズでは見えなかったものがモンセギュールでは見えた。おれのロクツィオの加減が、まだまだ未熟だからか。だとしたら……おれは、ますます役立たずということか。
依代が死んで天に帰った。
だからサマエルは立ち去った。
辻褄は合う。
だがアヴィエルは……またいつでも来れる。
おれ達。天で生まれたもの達。
滅ぼすことはできないが……閉じ込めることはできる。
檻なら、ある。
【同時刻 コンスタンティノープル、サリヤー地区、CTÜ Arıテクノケント】
標高120メートルの高台にそびえる、周囲を圧する巨大なビル。2階からでも数キロ先のボスポラス海峡と、その中央に架かるディオゲネス橋が見渡せるが、最上階となると360度の絶景が望めた。もちろん、賃料も法外に高額だ。
CorOA社は、この超近代的なテクノロジー・オフィスビルの地上階、車両用スロープに面した搬入口の隣の一室に本社オフィスを構えていた。
そのオフィスの2つあるデスクのひとつで、ドクター・セレンは明かりもつけずにスターバックスのチャイを啜っていた。電動シャッターの開閉音やトラックの後退警告ブザーが響き渡る騒々しさの中で。
もう夜も遅いのに、ご苦労なことだ。この最先端テクノベンダーが集まるビルをオフィスに選んだのは、静けさや景観のためではない。
利便性は最高。講座を持っていた|コンスタンティノープル工科大学《CTÜ》の隣だし、なにより賃料が安くて助かる。
コロア社は起業してまだ数年。心臓外科医としての知名度と経験、そしてアイディアのみが資本だ。教皇庁、いやインノケンティウス14世の投資とそれに乗っかったベンチャー・キャピタルからのファンド資金を頼りにCor.O.A.を開発、製品化に成功したことで、やっと経営が軌道に乗り始めたばかり。
高齢の自分に代わって外回りから機器の設定までなんでもこなしてくれるジャンヌという逸材を雇うことができたのも、今年になってからだ。ジャンヌはエンジニアだが、秘書としても有能だからありがたい。CTÜで私の講義を受講していたらしい。覚えてはいないが。
革命後も新政府が積極的に援助してくれているおかげで、コロア社の前途は有望だ。政府の援助には条件があった。ジェイ・ロルトだ。
金儲けがしたいわけじゃない。心臓外科医として純粋に、Cor.O.A.をより完全なものとして、心臓の疾患や欠陥で苦しむ人々を救いたいだけだった。それにはやはり、金がいる。
ジェイ・ロルトは資金を得るための条件だし、研究対象だったが、同時に患者でもある。本心から救いたいと願う人々の内の1人であり、またその独特の死生観も、特殊な身体と同様に非常に興味深かった。定期検診を重ねるごとに、親しみも覚えていた。ロルトのパートナー、ヴェシレ・クルチュにも。
そのヴェシレが毒虫かなにかに刺された。医療に関わる者として、何とか力になってやりたかった。命に関わるような事態ではないが、ヴェシレとジェイ・ロルトの絆は強い。ジェイ・ロルトは当然、精神的に不安定になるだろうし、それが彼にとっては命に関わる。
私の教え子は世界中の病院にいる。ラングイユにも。今夜その1人が勤務中だったのは幸いだった。後は教え子に任せよう。もちろん連絡は取り合うが。
ドクター・セレンは思考を切り替えて仕事に戻った。デスクトップPCのスリープを解除し、表示された3Dモデルを動かして細部の検討を始める。
|L.O.T.U.S.《統括制御用生命維持簡易ベッド》88。
試作機の失敗から着想を得た、画期的なシステムだ。試作機はロルトから返却され、ジャンヌにはボロクソに言われたが、あれは元々簡易ベッドとして設計したものを、心疾患患者としては活発過ぎるロルトに合わせて無理矢理車椅子にしたのだから仕方ない。今度のは違う。
車椅子としての機能、特に駆動系を大幅に改善し、必要最低限の生命維持機能と患者の姿勢自動制御に特化させて軽量化した。車椅子としては重量があり過ぎる長時間生命維持・管理機器は全て、アウターシャーシに搭載する。
ツインシャーシ・システム。
完全なICUベッドだが、ベッドから離れ屋外などで活動したい場合には、インナーシャーシ、つまり車椅子部分が分離する。就寝時は合体し、かつ充電もできる。
ジェイ・ロルトとジャンヌの厳しい指摘と要望に応える、革命的アイディアだ。彼らの驚きと感動が目に浮かぶ。完成は半年後だし、まだジャンヌにも話していないが。
モニターの明かりだけの夜のオフィスで、ドクター・セレンはクツクツと笑った。そしてすぐに真顔になった。
いかん。これではまるでドク・ブラウンだ。気をつけなくては。
またジャンヌにからかわれる。
【22時53分 トゥールーズ、ラングイユ病院】
ヴィは独りだった。病院の個室のベッドで。
マドレーヌがいないのは20日ぶり。
ジェイがいないのは……95日ぶりだ。
数時間前、ずっと一緒だと言ったばかりなのに。
子どもじゃない。29歳、普通のことだ。むしろこの20日間が異常だっただけ。
涙が溢れた。止まらない。薬で痛みは和らいだのに。さっきまで、あんなに首が痛くても泣かなかったのに。泣きそうだったけど、涙は一滴もこぼさなかったのに。
でも、どうしようなく涙が出てくる。
寂しいからじゃない。
何度も目を拭って、少し落ち着いて、iPortaを見る。iVitraは充電中だった。
アプリに表示される、いくつかの数字とグラフ。全部グリーン。アラートはない。
ジェイの心臓は大丈夫。ほっとする。
ヴィはそのグリーンの表示を見つめたまま、いつのまにか眠りについた。
95日ぶりの、独りぼっちの夜。
【同時刻 ホテル・デュー・サン=ジャック】
ジェイも独りだった。マドレーヌは就寝の挨拶だけをして自分の部屋にいった。
ベッドがとてつもなく広かった。ひとりで寝るのは、いつ以来か。あの日、地獄から戻った日も、搬送された病院でもヴィはつきっきりだった。その前は……そうだ。ニースでは、最後の夜以外はひとりだった。忘れてしまうくらい、ヴィと2人でいるのが当たり前になっていた。
ヴィは、体内で抗体ができるまでの数日をラングイユ病院で過ごす。独りで。危険な状態ではなかった。ケイト・カプランは死に、アンジェリック・ヴェスパーの真意もわかった。『いにしえの琥珀』のペテロ、パウロなのだ。このままなら危険ではない。少なくともヴィにとっては。
付き添いは必要性が認められないと、許可されなかった。毒は少量で、命に関わることも、なんらかの障害が残ることもない。痛みはまだ暫く続くらしいが、毒とともに消える。
その毒が何なのかが結局わからない。抗体ができれば退院できるし毒の種類もわかるが、それがなぜヴィの身体に入ったのか、何がヴィを刺したのか、それは調べようがないそうだ……永遠に。
冬のピレネー。蛇や蜥蜴や蜂はいない。蜘蛛やムカデや、その他の毒を持つ虫では、あんな症状は出ない。生物の可能性はゼロ。野生では。
人為的には、どんな可能性もありえる。注射、毒針。判別はできないらしい。
おれ達なら、使い魔として野生にはいない生物を操り、刺したり噛ませたりもできる。蜂でも……蛇でも。
いずれにしても、誰かが意図的にやったということだ。事故ではない。
アヴィエルが使い魔でヴィに毒を。それは間違いないだろう。ブラックマンバなら終わっていた。ケイト・カプランは死んだ。アヴィエルだったとしても、そうじゃないとしても。
ヴィは生きている。ブラックマンバではない、別の……蛇。アヴィエルの使い魔なら、蛇のはずだ。少量の毒。ブラックマンバを使えたのに、致死性の低い、少量の毒。
アナフィラキシー・ショックが狙いだったのか?なんのためにそんな二度手間をかけたのかわからない。だがもう一度同じ毒にやられたら。今度は事故でもなんでもヴィは死に、おれはまた——
またではない。今まで何度も使命を失敗してきたが、これは違う。やり直すことのできない
『——絶対。そして永遠のものなのです』
とり返しのつかない、絶対的な終わり。
永遠の終わり。
許されない終わり。
【12月12日12時43分 アンキュラ、ジェベジ北倉庫】
サマエルはその姿を眺めた。
彼はもう、道具ではなかった。
体高は130センチ、体重は4.7キロに増え、翼を広げると2メートルを超えた。黄色だった目の周囲はオレンジがかってきていたし、眼も金色になりかけていた。後頭部に雄々しく伸びる冠羽も、立派になりつつあった。
まだ筋肉は少ない。長時間飛び続けるスタミナは足りなかった。だがこの倉庫の中では、もう自由自在に飛び回ることができる。
倉庫の壁には数カ所、穴が開いている。板で塞いであったが、その板もすぐにボロボロになる。彼の鉤爪の強力な蹴りの結果だった。
まだ、彼の本来の領域である大空に行くことはできない。寒すぎるからだ。暖かくなる頃には、羽根が抜け替わってより厚みもまし、その羽ばたきを支える筋肉も太く、強くなる。今はまだ少し細いが、夏には逞しい、巨大な猛禽となる。その時彼は、檻を破って大空を舞う。
彼はヘビクイワシ。
道具ではなく、兵器。
大空まで、あと半年。




