19 Familier
【2025年12月11日17時44分 アリエージュ県モンセギュール村、クレデンテス宿舎】
「わたし達の部屋?」
意外だった。ジェイと同室でいいなんて。新築らしいけど古めかしい香りがする、ベッドがひとつあるだけの部屋。地上階だが窓にはカーテンがない。ガラスの反射で外の様子は見づらい。チラチラして……雪だ。降り始めた。
「さようでございます」
アンジーは淡々と続けた。
「男女同室は忌避ではありません。清く正しい男女であるなら。ヴェシレ、ムシュウ・ロルト、あなた方お2人のように」
「そ、そうですか」
「ペルフェクティとして申し上げますが、琥珀の教えは、肉体を悪とみなしております。性欲は偽の神の誘惑。快楽のための行為などもってのほか。ですが——」
アンジーは口角を上げてわたしを睨んだ。
「——生殖は、必要なのです。器が」
「うつわ」
「ええ。我々が真の神の御許に傅くための器。器の中で受難し、聖心を養うため」
「あ……あの、わたし達は……その」
「ヴェシレ。存じております。あなた方はそういうことはなさらない。この20日間、しっかりと観察させていただきました。あなた方にいらしていただいたのは、そのためでこざいます」
「……は?そのため?」
「ええ。あなた方が清廉であることは私が確認いたしました。もうお国にお帰りになっても結構でございます」
なんだそれ。そんなことのために国際問題にしたっていうの?ばかなの?でも……20日間、観察……確認……しっかり。今すぐ帰りたい。というか消えたい。恥ずかしすぎる。
「私も一緒で構わないですわね?それなら」
マドレーヌの肩が、サンドベージュのレースの下でまだ少し震えている。不安や恐れではなく、怒りで。
「それとも、3人だとふしだら?ばかばかしい」
「お嬢様。もちろん構いませんよ?お嬢様のことはよく存じておりますし、そのようなことはありえません。どうぞ、昨晩までと同様にお過ごしください。ペルフェクティとして、赦します」
マドレーヌが一歩踏み出した。
「赦します?そんな口を——」
マドレーヌを抑えようとしたわたしを、ジェイが遮って前へ出た。そして——
「アンジェリック・ヴェスパー」
ジェイはアンジーの顔を正面から見据えた。赤黒いオーラ。
「見せろ」
深い青緑の瞳孔。それを縁取るくっきりとしたリング。アンジェリック・ヴェスパーの虹彩を絡める。
10年前。エクス。十字架。カトリック教会。
幼な子の手。マドレーヌ。
雨。雪。光。突然の光。光の中のシルエット。
声。優しい声。美しい光。美しい影。そして――
「――Ambre――Ancien――」
光。雪。影。
アヴィエル。
ロクツィオ。膨大なイメージ。
「——ジェイッ!」
頭蓋が痺れる。またアラートか。めまいを起こすほどではないが……役立たずの心臓。
【17時57分 モンセギュール教会】
サマエルはインテグラル・サイレンサー・バレルを装着したPGMウルティマ・ラティオを構え、スリットの少し手前に膝をついて、膝射の姿勢をとった。照準はMRDSを使用する。弾丸はいつもの7.62ミリサブソニック弾。
一旦銃を置き、スリット越しに礼拝堂を目視する。ベンチはほぼ埋まりかけているが、ターゲットはまだ来ていない。
「Benedicite, dominus.」
しわがれた、しかしよく通る声が響いた。
ペルフェクタス・イザベルが礼拝堂の北東端の祭壇跡に立ち、琥珀を掲げていた。
サマエルの真下で。
【18時01分 クレデンテス宿舎】
「お前が始めたのか。アンジェリック・ヴェスパー」
「私が?畏れ多いことを。私は教えを伝えただけ。ただのカナリスに過ぎません。あなた方も導いて差し上げます……琥珀の光に。あの方の御許に」
「アンジー!」
マドレーヌの叫びは悲鳴のよう。わたしは震えるその肩を抱く。お母様を亡くし、父親がおかしくなり、母の代わりと慕っていたアンジーまで——
「あの方か。アヴィエルはどこだ!」
ジェイの右肩にとまっていたアリーが、小首を傾げた。
「ムシュウ・ロルト……いや、悪魔よ。その名を口にすることは赦されません」
「アンジーお願い!元に戻って、お願い……」
アンジーの眼が細まり、黒いアイメイク全体が大きな猛禽の目のように見える。
「マドレーヌ……」
「おねえさま!アンジーが……アンジー……」
マドレーヌが振り向き、わたしにすがるように抱きついた。わたしもマドレーヌの腰を抱きしめる。マドレーヌの両腕がわたしの肩から首に周り、胸に顔を埋めた。
嗚咽。激しく泣きじゃくるマドレーヌ。
「アンジェリック・ヴェスパー!」
「ジェイ!だめ——」
ジェイの重たい叫び。アンジーを"狩る"気だ。アリーが飛び立ち、ジェイの背中が弾けた。瞬時に翼が広がって、視界が真っ黒に——
マドレーヌはヴィの肩越しに、窓ガラスを見た。室内が反射し、ちらつく雪の中に、半透明に映っている。おねえさまの背中。その向こうは真っ黒。
ガラスの反射ではそれとわからない、大きな濡羽色の翼。
ジェイエル。
そこに浮かぶ、私の顔。
アヴィエルの口角が歪んだ。
【18時08分 モンセギュール教会】
「——Custodi, Domine, animas nostras a saeculo hoc maligno.(真の神よ、悪しき肉体を壊し、光を解放してください)」
イザベルの祈りが始まっていた。
「Pater noster, qui es in caelis, sanctificetur nomen tuum……」
壇の上からその声は朗々と、礼拝堂を埋めた者達に降りかかっている。皆、頭を垂れているが、その中にはアヴィエルもジェイエルもいないのはわかった。
来ないのか。何をして——
『サマエル!』
顔がひとつだけ、こちらを見ていた。
最後列のベンチで、俯いている両親に挟まれて座っている金髪の少年が、笑顔で手を小さく振っている。
『スリエル。邪魔をするなと——』
『邪魔なんてしないからぁ。今、ヒマでしょ?キャハハッ、はいこれ』
次の瞬間、多量のロクツィオがサマエルに届いた。
『なっ……これは……』
【18時10分 クレデンテス宿舎】
「アンジェリック・ヴェスパー!」
「ジェイ!だめよ!」
今だ。
ヴェシレ・クルチュの後頭部に回っていたアヴィエルの手には、モバイルバッテリーがあった。モバイルバッテリーに擬装した、暖かい箱が。
「おねえさま」
箱が音もなく開く。
キジャーナが這い出し、腕に移る。再びヴェシレ・クルチュを抱きしめた。
キジャーナはサンドベージュのレースの袖を這う。完璧な保護色。もし遠目に見ても、そこに毒蛇がいるなんて、誰にも見えない。
左手で、ヴェシレ・クルチュの暗褐色の髪を撫で……掬い上げで、うなじと首筋をあらわにする。
「大好き、おねえさま」
(キジャーナ。いけ)
キジャーナはアヴィエルの右腕の上で鎌首をもたげた。口が大きく裂け、2本の細い針のような牙が展開した。
「マドレーヌ……大丈夫だからね……」
「うん。おねえさまも」
0.08秒後。
キジャーナは、ヴェシレ・クルチュの首筋に噛みついた。
ナムクアドワーフアダー、世界最小の毒蛇。ヴェシレ・クルチュの肌に根元まで差し込まれた小さな管状の牙から、神経毒が2ミリグラム注入された。
生後5ヶ月。まだ牙は短く1.5ミリ、血管には届かない。だがその毒性酵素、スネークヴェノム・メタロプロテアーゼ、ホスホリパーゼA2、セリンプロテアーゼが、確実に体内へと流れ込んだ。これらの酵素が毛細血管に侵入し、細胞と血管壁を破壊、局所出血が引き起こされた。
「痛ッ!」
突然、首に激痛。え?刺された?
「おねえさま?」
「……なんか……刺された。虫?」
マドレーヌを離し、首に手を当てる。血。少しだけ。でもものすごく痛い。
痛い……けど、虫なんか、今はどうでも……痛いけど……ジェイ。
ヴェシレ・クルチュが首に手をあてた時には、既にキジャーナはマドレーヌの腕を這い戻り、暖かい箱の中の砂に潜り込んでいた。マドレーヌは蓋を閉めて、またヴェシレ・クルチュを抱きしめた——優しく。
「おねえさま。大丈夫?」
翼でアンジェリック・ヴェスパーを包み込もうとした、その時。
「……ジェイッ!」
ヴィ?悲鳴?
「ジェイさま!おねえさまが刺された!」
刺された?
困惑すると同時に翼が消えた。振り返る。ヴィ。
ヴィは首を押さえて屈んでいた。
「ヴィ?どうした?」
「わかんない……痛い」
「アンジー!お医者様を!……アンジー?」
アンジェリック・ヴェスパーがいなくなっていた。マドレーヌがふらふらと部屋から出て行く。
「マ……マドレーヌ……行っちゃだめ……」
「ヴィ!どうしたんだ?」
アリーが飛び立ち、部屋を飛び出した。
("くろいめおんな"
わたしおいかける
"ぶろんどおんな"
わたしがたすける)
(アリー!戻って来い!)
(だいじょうぶ
むりはしない
ヴィをみてて)
(アリー!)
「——ジェイ……わたしは大丈夫……マドレーヌを守らなきゃ……」
ヴィの傍に跪く。
「だめだ。何に刺された?見せて」
ヴィの手を取り、首からそっと離した。
赤黒く……いや、ほとんど黒く、大きく腫れている。見たことがない腫れ方。ハチ。ムカデ。未知の毒虫。とにかく、毒にやられた。部屋を見回すが何もいない。まだ荷物も開けていない上、扉を閉めていなかった。ハチが入って来て、また出て行ったとしても気づく余裕もなかった。
医者に見せなければ。
ヴィが身体を起こそうとして、少しふらつく。
「だめだ、ヴィ。なにかの毒だ。動かないで。ベッドに横になって」
「大丈夫……痛いけど」
「だめだ。動くと毒がまわるかも知れない。寝て」
「……ばか男。大丈夫だってば。仕返しのつもり?」
ヴィは笑いかけたが、すぐに顔が歪む。相当痛いのか。
「寝て。ロクツィオで寝かすぞ?」
「……ばか男。ばか」
(アリー?大丈夫か?)
(だいじょぶ
なみききた
かぜもない)
(あぶなくない。
あんしんして。
ヴィはしんだ?)
思わず咽せた。
(ヴィは大丈夫だ。アリー、絶対無茶するな。どこにいる?)
(きょうかい)
【18時29分 モンセギュール教会】
アヴィエルが来た。アンジェリック・ヴェスパーと一緒に。ジェイエル達は来ない。いや、使い魔のカラスが……開かれたままの玄関から入ってきて、天井の梁にとまった。
あの使い魔は耳がいい。ジェイエルは使い魔を寄越したか。いずれにしても、この狙撃は中止するしかない。計画が……その上……。
「——Accipite et manducate hoc, quod est signum caritatis et fraternitatis nostrae.(このパンを受け取り、お食べなさい。我が愛、兄弟姉妹の愛の証です)」
イザベルが朗々と最後の祈りを叫ぶ傍らで、フードを被った小柄な女性がたくさんのパンを並べ、それを配り始めた。集会は終わりだ。
「Le pain de Montségur!Le Four à Pain!」
イザベルはパン屋の名前を連呼している。そのかわりにパンを提供させているのだろう。
クレデンテスたちは整然とパンを受け取り、礼拝堂を出て行く。パンが目当てのやつもいたかも知れない。
「Le pain de Montségur!Le Four à Pain!」
イザベルがまだ祈りの続きであるかのようにパン屋の名前を叫び続けるうち、礼拝堂には数人を残すだけとなった。イザベルと、パンの配布を手伝っていた小柄な女性、来たばかりのアヴィエルとアンジェリック・ヴェスパー……そして、スリエル。両親は先に帰ったようだが、スリエルはまだ最後列のベンチの身廊寄りに座ったままだ。パンは受け取っていて、小さく千切って足元のウサギに与えている。
「Le pain de Montségur……Le Four à Pain……」
アヴィエルが小柄な女性になにか話しかけた。女性が返事をした。
「——マリア様」
【18時34分 クレデンテス宿舎】
『——めまいや、息切れはないんですね?』
「はい……痛いだけです……泣きそうなくらい、痛い」
モンセギュールに医者はいなかった。宿舎に残っていた信徒が心配顔で様子を見に来て、そう教えてくれた。治療拒否を徹底しているわけではないが、医者に診て欲しかったら山を降りろ、ということなのだろう。
ジェイが傷口や腫れの写真をインウェニで検索したがまともな結果が得られず、山を降りることを話し合っていたら、ドクター・セレンがビデオチャットをかけてきた。ジェイのバイタルが落ち着かないので気になったらしい。
『——私も専門外だから確かなことはわからない。アジルのチーフに確認中だが、週末なので……申し訳ない、ヴェシレ』
「いえ……痛いのさえ……我慢すれば、大丈夫な気が……」
『いや、ヴェシレ。軽く考えてはいけません。毒というのは成分が未知だと本当に恐ろしいものなんです。遅効性のものもある。とにかく最低1時間は動かない方がいい。それともうひとつ。アナフィラキシー・ショックは知ってますね?』
「……はい」
『よろしい。ではおわかりかと思うが、もう一度同じ毒を摂取したら、あなたは大変危険な状態になってしまいます。それを避けなければならない。それが最重要事項です。あなたを刺した、または噛んだ生物がなんであるか、今の時点では不明だ。24時間経過するとその解明は物理的に不可能になる。アナフィラキシー・ショックの原因となる抗体ができるまではね。それまでの間、この世の全ての毒を予防しなければならないが、それも不可能。出来るだけ早く、何の毒か検査しないと』
最悪だ。何かに刺されたのが18時10分くらい。あと30分安静にして、それから明日の18時までに病院に行かなきゃならない。そんな大事だとは思いもしなかった。首はとても痛い。切り落としてしまいたいくらい痛い。
なぜこんなことに、なんて考える余裕もなかった。
ジェイがわたしの髪を撫でた。アリーにやるみたいに。ジェイを見た。
「……ジェイ……痛い。すごく」
「あ、ごめん」
撫でるのをやめちゃった。そうじゃないのに。
「……違うの……やめないで。撫でてくれると……少しだけ、痛くなくなる」
ジェイは再び撫でてくれた。とても優しく。気を使って。ノンデリとかばか男とか。ごめんなさい、わたし……でも、痛い。とても。
「ヴィ。眠れないのか……眠らせようか?そうすれば、その間は——」
「嫌よ」
「ヴィ?」
「……絶対……嫌。わたしが眠っちゃったら……誰があなたの心臓を動かすの。絶対、嫌。そんなの……ごめんなさい。痛くても大丈夫。わたし……我慢強いの」
【18時43分 モンセギュール教会】
「Le pain de Montségur……Le Four à Pain……」
「サラ。準備は出来ているな?」
「もちろんです、マリア様」
アンジーは驚愕していた。なぜ。なぜサラがここに。
「……お嬢様。これは、どういう……」
「何を驚いている?全て予定通りだ」
「それは……ヴェシレ・クルチュは、予定通りですが……しかし、それで終わりのはずでは?」
「アンジェリック・ヴェスパー。おまえは黙って見ていろ。昨夜も言ったな?離れていろと」
アヴィエルはそう言うと、イザベルを押し除けて祭壇跡に一歩、上がった。
「Le pain de——」
『兄さん!』「兄さん!」
アヴィエルが叫んだ。天井に向かって。
激しい音と共に、天井の一角が崩れた。四角い穴。スリットが飛んで、木のベンチに激突し壊した。そして——灰色のものが飛び出し、大きく広がった。灰色の翼。
『アヴィエル。わかっていたのか、俺がいることを』
「兄さん。ここには人間もいるわ。声を聞かせて?」
サマエルは銃を下げたまま、ゆっくりと舞い降りた。
「妹よ。久しいな」
「そうね。800年ぶり。同じ場所で。懐かしいこと」
「よく覚えているようだな。ならば、俺が何をしに来たのかもわかっているだろう」
「もちろんですとも!でもね、兄さん……昔とは違うのよ」
アヴィエルは吐き捨てるように言うと、スッと横に動いた。
サラがそこに立っていた。
【18時52分 クレデンテス宿舎】
ヴィ。
ダークブラウンの髪は、汗で濡れている。顔だけでなく全身に汗をかいて、目にも涙を溢れさせて。
右手で髪を撫でながら左手でヴィの手を握っていたが、その手も小刻みに震えている。
「……ジェイ……痛い……痛い……」
眼球が熱かった。堪えるのは厳しかった。視界が涙で歪んだ。
ヴィ。
こんなに……痛がって。苦しんで。我慢して。
約束。守れていない。おれは……何もできない。こんなに……こんなにヴィが苦しんでいるのに。何もしてやれない。
「ジェイ……わたし、大丈夫。我慢強いから……泣かないで?わたし……大丈夫だから」
ヴィ。
おれは……間違えているのか。不自由な思いをして、役に立たなくて、ヴィを守れないなら、この依代を……そう思うのは間違いなのか。
『私たちにとって、死は絶対。そして永遠のものなのです』
ヴィ。
こんなに辛くて、苦しくても、屈しない。休もうとしない。おれのために。
今。
ここにある、命。
【18時57分 モンセギュール教会】
「なんだおまえは。どけ」
(サラ、ラ…………ラ……ラ……)
サラはどかなかった。前に出て、サマエルの眼前に立つ。
「私はサラ・ラ・カリ」
右手がワンタッチシャツを勢いよく開いた。三角巾で吊った左腕と、裸の胸があらわになり——そこに、ブラックマンバがいた。
乳房とアームスリングの隙間で、それは既に口を大きく開けていた。死をもたらす、黒い口を。2本の毒牙がぬめり、鈍く光った。
マウティ。
私達の命を届けましょう。
マリア様への、愛。
マウティが飛び出すために身体をくねらす。
銀の矢が放たれる、その寸前。音。
大理石を蹴る連続音。
サラは一歩、前へ……踏み出そうとした刹那。
何かが足元に。
サラはバランスを崩して、身体が揺れ——倒れた。
マウティは前ではなく上に跳ね上がった。サマエルの血ではなく虚空を呑み、空中で鞭の先端のように踊った。そして……落ちた。
倒れたサラの胸に。
マウティは混乱した。パニックを起こし、本能が逃げろと叫んだ。安全な場所へ。
サラの胸へ。
口を閉じるのも忘れ、毒牙を剥き出したまま。
その鋭い先端が、サラの固く尖った乳首を掠めた。
それが触れあい、電流のような——快感。サラの全身が悶え、震え。
サラの乳首の表面の無数の感覚神経が切り裂かれ、傷からデンドロトキシンが侵入した。凄まじい快感。痙攣が起き、α-ニューロトキシン、ファシクリン、カルシセプチンといった毒素を激しく吸収した。サラの性的興奮が、血流を加速していた。
マウティのパニックは、サラの痙攣によりさらに膨れ上がった。マウティは死にものぐるいで、その柔らかい乳房に噛みついた。何度も、繰り返し。
痛くない。
マウティ。
待っていた。この快感。喜び。もっと……もっと。もっとちょうだい。
コーヒーを。
コーヒー?
違う……私は/死/生/マウ/ジャ/誰/
ケイ/サラ/ケイ/サラ/ケイ/サラ/ケイ/サラ/ケ
狂気が、マウティの毒素の効果を異常なほど加速した。通常でも恐ろしく速い死の唾液が、乳房から瞬時に心臓に流れ込み、その毒素は致死量の数十倍に達し、性的快感で加速した血流に乗って全身を駆け巡った。
濡れた唇が震え、舌が痺れて麻痺した。背中が弓なりに反り、マウティを激しく揺さぶった。マウティは噛みつくのをやめ、乳房とアームスリングの隙間に隠れるため、のたうちながら頭を潜り込ませた。
サマエルはこの全てを同時に見た。
見たが、理解を超えていた。
あらわになった褐色の胸。
飛び出した銀色の鞭。
飛び込んできた水色と茶色い塊。
スリエルは待っていた——その瞬間を。
アヴィエルが横に動き、サラが胸を開いたその時。
(ピエール!今だよ!)
脱兎の如く。
ヤブノウサギの瞬発力は、ブラックマンバのそれを上回る。
小型の芝犬ほどもあるピエールが、飛び跳ねてサラの足元に駆け込んだ。
マウティが鞭のようにしなってサラの胸元から飛び出したのとほぼ同時に、サラはピエールの突進に足を取られた。
サラの身体が仰向けに倒れた時、ピエールは既にドタドタと大理石を蹴り、礼拝堂を突っ切って、飛び跳ねながら外の雪の中へ消えていった。
スリエルは見た。サラが快感の海に溺れ、死の渦に呑まれ、その身体を興奮にうち震わせ、全身で愛を叫ぶのを。
愛。そうなの。苦しみは、愛なの!
あたしの愛!最……高ッ!これ。これっ!
あたしが見たかったのは、これッ!
キャハハハハッ!
アヴィエルは愕然として、倒れるサラを、その胸でのたうつブラックマンバを、突然現れて消えたヤブノウサギを、その中心で立ち尽くすサマエルを見た。
兄さん……なぜまだ、立っているの?なぜ……何が起きた?なぜマウティは——私は失敗した?
800年前、ここで。いや、このずっと上、あの石の城壁で、私のボディを切り裂いた兄さんの剣。私の望みを、蟲螻どもの崇拝を、この地上の支配を切り裂いた兄さん。
復讐。
今日この場所で遂げるはずだったのに。
アヴィエルは踵を返すと、呆然としているアンジェリック・ヴェスパーの腕を引っ掴み、礼拝堂を出て行った。雪の中へ。
その全てを、礼拝堂の天井の梁、12メートルの高みから、アリーは見ていた。
(ジェイ!
"ぶろんどおんな"、"ちゃいろおんな"、はいいろ、つばさ、"きざおとこ"、うさぎ、へびかいじゅうきばくろいくちうさぎへびちゃいろおんなうさぎへびちゃいろおんなうさぎぶろんどおんなくろいめおんなへびかいじゅうころす!)
【18時59分 クレデンテス宿舎】
「アリー?!」
わたしの手を握っていたジェイの手が、ビクッと跳ねた。
「ジェイ……?」
腰をあげようとする。だめ。わかる。
ジェイの手を握り返した。強く。
「……嫌。行っちゃだめ……」
「アリーが!」
「だめ。あなたを……守る。わたしが」
「ヴィ!はな——」
親指で、ジェイの手首の神経を探る。
「離さない……あなたは、わたしが。アリーは……大丈夫。信じて。見ててあげて……」
【18時59分 モンセギュール教会】
一連の突然の出来事に一瞬慌てたが、アリーはすぐに冷静さを取り戻した。
ヘビ怪獣。許さん。
アリーは梁から落ちた。狙って。
"ちゃいろおんな"の上の、銀色の筋めがけて。
今度は嘴からじゃない。脚からだ。ヘビ怪獣。私の翼を。許さん。
急降下はしない。必要ない。白い布に頭だけ突っ込んでもがいている、バカなヘビ怪獣。"ちゃいろおんな"の胸の上で。
翼を広げて減速。左に傾かないよう右翼の面積を調整して。ゆっくり。正確に。ふわりと。
"ちゃいろおんな"。このままだと、"ちゃいろおんな"の裸に着陸か。傷つけちゃうな。どうしよう?
さっきまでピクピクしてたけど、もう動かない。息の音もしない。死んだか。じゃあいいや。仲間じゃなかったし。
鉤爪全開。うごめくヘビの背中に。同時に鉤爪を握り締め、ヘビの腹を突き破り、背骨をへし折った。命を奪ったのを感じる。
ざまあみろ。仕返しだ。私の勝ち。
"ちゃいろおんな"の上でバランスを取りながら、ヘビの背中に嘴を振り下ろす。これは1本目の羽根のカタキ。ブラックマンバの背中が潰れ、それを貫通して下の肉塊まで達した。"ちゃいろおんな"だった肉塊だが、今はただの食事用のテーブルだ。頭を振り上げ、もう一度。これは2本目の羽根のぶん。
復讐は成された。
ヘビの血と肉の匂いが、アリーの胃袋を刺激した。
ごはんの時間だ。
ヘビの刺身。
美味しそう。
【19時02分 クレデンテス宿舎】
「アリーはご飯だ」
ジェイはアリーの映像を切り、目を開けた。
「……ご飯。言ったでしょ……アリーは大丈夫だって……」
「うん」
「……マドレーヌは?」
「無事だ。よく見えなかったけど」
嘘をついた。アンジェリック・ヴェスパーとどこかへ行ったのは見えた。アリーがブラックマンバに集中していたので、マドレーヌがついて行ったのか、連れていかれたのかまではわからない。
サマエルとケイト・カプランも見えた。ケイト・カプランは仰向けに倒れて、胸にたくさんの咬み傷があった。ブラックマンバに噛まれた。あれだけ噛まれたら、たぶん生きてはいないだろう。サマエルはそのそばにただ突っ立っていた。銃を持って。
そして、ブラックマンバだ。あの温室のブラックマンバ。
教会で何が起きたのか。
マドレーヌはケガはしていないようだった。ヴィには言わないほうかいい。
今はただ安静にさせておきたい。
『サマエル。何があった。何をしている』
『ジェイエルか。おまえこそ何をしてるんだ』
ヴィのイメージを送る。
『……ヴェシレ・クルチュ。怪我したのか。毒か。たぶん——いや、推測は危険だな。俺は蛇には詳しいが、確かだとは言えない。人間に毒を調べてもらわないと』
『お前じゃないんだな?そのブラックマンバはなんだ』
返信がない。
『サマエル。答えろ』
『悪いが忙しい。また今度な、ジェイエル』
【19時03分 モンセギュール教会】
アヴィエルを追わなければ。
ジェイエルが動けない。アヴィエルがジェイエルのところへ行ったのなら——いや、殺すのはだめだ。計画が変わった。
サマエルは礼拝堂を出るため歩き出した。
『サマエル!待って待って?約束したじゃん!』
『約束?なんのことだ、スリエル』
スリエルが小走りで追って来た。
『あたし、もう帰るからさぁ?お願い!』
『お前は何しに来たんだ』
『ん?そりゃもちろん、おもしろいショウを観るためだけど?ついでにあんたこのこと助けてやったじゃん?なぁんて、ホントは——』
銃声が礼拝堂にこだました。
こいつのおしゃべりにはうんざりだ。それ以上聞く耳を持たず、グロックを抜いて額を撃ち抜いた。
あのウサギはこいつの使い魔か。
礼拝堂を出る。雪か。翼を広げると、サマエルは舞い上がった——アヴィエルを探すために。
【19時05分 クレデンテス宿舎】
銃声。
(アリー!)
(きざおとこがうった
こどもをころしたよ
なんでかわからない)
(子ども?マドレーヌじゃないよな?)
(ぶろんどおんな
さっきでてった
うたれてないよ)
『サマエル!何をした!』
「……いま……銃声?……なにが……」
「わからない。アリーとマドレーヌは無事だけど」
『サマエル!返事をしろ!』
返事はない。外で何が起こっているのか、全くわからない。
「おねえさま!」
マドレーヌが泣きながら飛び込んできたかと思うと、真っ直ぐヴィの傍らにしゃがみ込む。
「……おねえさま……大丈夫?」
「マドレーヌ……大丈夫、ちょっと……痛いだけ」
「お医者さまがどこにもいらっしゃらなくて……ペルフェクタスさまにも伺ったんですけど……」
「マドレーヌ。アンジェリック……アンジーはどこに?」
「ジェイさま……わかりませんわ……教会に入っていくのを追って……そこで……ケイトが……」
マドレーヌはベッドに泣き崩れ、ヴィが叫んだ。
「ケイト?どういうこと?なんでケイトが——」
「ケイト・カプランは死んだ」
「ジェイ!なに言って——」
「ブラックマンバに噛まれた。アリーが見た」
「……意味がわからない。安静は終わりよ」
【19時12分 モンセギュール教会】
「Le pain de Montségur………………Le Four à Pain………………」
イザベルは激しいショックを受けていた。まだパン屋の宣伝を口走っていることに、自分で気づかないほどに。
悪魔……灰色の悪魔だ。この……聖なる館の天井を……突き破って現れた。私の目の前に……そして……。
足元に横たわるソール。蛇と烏。悪魔の使いたち。
身廊に横たわるクレデンテスの少年。
血。血。血。そこらじゅうに血が。悪魔の……偽の神の穢れが。
蛇で……悪魔の使いでペルフェクティを殺し……少年を撃ち殺して……。
終わりだ。悪魔が……偽の神が降臨した……この聖なる地に……この世の終わりだ。
「Le pain de Montségur……Le Four à Pain……」
私は……ペルフェクタスだ。琥珀の輝きを守る者。穢れを……清めなければ。私の務め。
浄化。そう……穢れを浄化しなければ。それが私の、真の神から託された務めだ……。
浄化……穢れを洗い清めるのは……
火だ。




