18 兎の耳
【2025年12月11日05時00分 トゥールーズ、ホテル・デュー・サン=ジャック】
ヴィはいつものように5時に目覚め、ジェイの胸を確認した。静かに規則的に上下し、パッチAEDもきちんと着いている。日の出まではまだ3時間以上あり、真っ暗だ。
絡んでいるマドレーヌの腕をどかす。
20日前からこのホテルで毎晩キングサイズのベッドでジェイにしがみつき、マドレーヌに抱きつかれて寝ている。最初は暑くて寝苦しかったが、慣れたのと冬になって気温が下がった最近では安眠できるようになった。室温は20℃に設定されているので寝ている間はTシャツ1枚で十分だったが、マドレーヌの体温から逃れると毎朝寒さを感じる。
2人を起こさないよう気をつけてベッドから抜け出し、ブランケットを掛け直してやってから、時間をかけてシャワーを浴びる。トレーニングウェアを着て寝室を覗くと、2人はまだ眠っている——真ん中に、ヴィが寝ていた空間をポッカリ開けて。
寝室の扉を静かに閉めるとリビングからテラスに出た。
ガロンヌ川に面したこのテラスは毎朝、川霧に覆われていたが、今朝は濃霧で真っ白だ。テラスの手摺から先は何も見えないほど。そんな幻想的な濃霧の中でヴィはタリームを始めた。
ルーティンにそって身体を動かしながら、今日これからのことを考える。
この霧。何時頃まで続くだろう?朝いちで出発の予定だったけど、霧が晴れるまで待った方がいいかも。天気次第か。霧のせいで肌寒いけど10℃以上はありそう。雪は降らないかな。
モンセギュール村。山奥の村。ここから120キロ、車で順調に行って1時間半くらい。大旅行ってわけじゃないけど、やっぱり雪が心配。ピレネー山脈を登り始めたら雪はあるだろうし、大雪になったら通行止めとかになるかもしれない。行く途中なら引き返せばいいけど……着いてからだと閉じ込められる。ジェイが発作を起こしたら病院に行けない。
ドクター・セレンのキットだけが頼りだ。パッチAEDのスペアやスプレーとかの薬品類の予備はローマを出る時に持たされている。
ドクターには電話してアドバイスをもらった。停電に備えての予備の電源。王室公用車がPHEVなので確保できる。寒さ対策。アルミのサバイバルシートを多めに買ってきた。あとは非常食。ラーメンとか食べといて今さらだけど、一応減塩のを用意した。
用意周到。万全だ。でも不安だらけだ。
雪が降らなかったとしてもどのくらい山にいることになるのか、全く予想できなかった。ジェイの次の検診は15日。それまでに降りてこられるだろうか。
【同日06時25分 モンセギュール村】
サマエルは6時少し前に目を覚ました。
雲は依然として厚いが、雪はまだ降っていなかった。キャンプ用品一式を城に隠し、朝飯のために村へ舞い降りる。空はまだ真っ暗で人目を気にする必要はなかった。
ガスパールが寝ているコテージは食事はでないが、村に数軒あるベーカリーの煙突からは早朝から煙が立ち昇っている。タクティカル・ブリーフからマドラスチェックのネルシャツを出して着込み、パンを焼く香ばしい匂いに惹かれて近づくと、クレデンテス達が行列を作っていた。
サマエルも素直にその最後尾に並ぶ。
並んでいる人々の顔ぶれは様々だった。老若男女。いかにも信心深そうな地味な服装の者が多いが、中には観光客風の外国人も少なくない。『いにしえの琥珀』ではなく、アルビジョア十字軍やカタリ派の歴史探訪が目的の観光客だ。彼らは日が昇るとモンセギュール城に登り、記念写真を撮って帰っていく。サマエルが暗いうちに降りてきたのは彼らを避けるためでもあった。
「おはようございます。城へ登るのは初めて?」
直前に並ぶ初老の観光客が振り返って声をかけてきた。
「今、降りてきたところですよ」
男は目を丸くして驚いた。
「それはすごい!私は何度か登ってるんですが、明るいときだけで。夜のモンセギュール城か!今度チャレンジしてみます……いや、軽装なのでアドバイスしようかと思ったんですが、お恥ずかしい」
「景色もなにも見えませんでしたよ。晴れてれば星空くらいは」
「いやいや!800年前のクレデンテス達の気分を味わうために来てるので。良かったらこの後、彼らについて語りませんか?」
そうか。ならお前も炎の中に飛び込んでみたらどうだ、とは言わず、笑顔を返す。
「是非と言いたいところですが、予定がありまして。ここのパンはうまいですか?」
「残念。パンは最高ですよ!いつも並ぶんです。クロワッサンがおすすめです」
「ママ!クロワッサンがおすすめなんだって!」
後ろから性別不明の上ずった声がして振り返る。親子連れ。あどけない、そばかすが目立つ10代の少年。長めのブロンド。背は高くはない。
「楽しみね、トマ」
母親、その隣の父親もまだ若い。30代後半か。モローと同年代だろう。
「クレデンテスになったけど、クロワッサンは食べてもいいんだよね?たくさん食べとかなきゃ」
『サマエル。城壁、寒くなかった?キャハッ!』
驚きのあまり声が出そうになった。
『お前……スリエルか?なぜいる?』
「お肉とか、もう食べちゃダメなんでしょ?我慢するよ、ボク!」
『ヒマだったからぁ、来ちゃった!人間になるの、初めて!』
「おじさん。前進んだよ?」
「あ……ああ、ごめん」
どういうことだ。まさか……いや、そうかも知れない。
『お前も計画のうちか?』
『え?なにそれ。たまたまアザズェルと見てたらさぁ、おもしろそうだったから来ただけだよぉ?ちょうどいい木偶もあったし』
今や、少年の済んだ青い瞳が地獄のダイヤモンドに見えた。
『この木偶は、ちゃんと自然に死んだ木偶だからね?あんたと違って。1週間くらい前にさぁ、近くの山で遭難しちゃって、人間が助けようとしたんだけど心臓止まっちゃったんだよねこの子。だからあたしが動かしてあげたの!心臓!パパとママも大喜び!琥珀の奇跡だって!いいことしたでしょ?キャハッ!』
『お前が人間を助けただと?笑わせる。なにを企んでる?』
『キャハハッ!まあ飽きたらすぐ帰るけどさ。人間の体ってめんどくさくて。あたしが転生してもすぐは動けなくってさぁ。帰る時は頼むね?アザズェルにやったみたいに、1発で頭ぶち抜いて!』
スリエル……こいつは地獄の面々の中でも飛び抜けてイカレてる。筋の通った説明など望むだけ無駄か。
『いいだろう。スッキリしそうだ。ただし、俺の邪魔はするなよ?』
『だぁいじょぶ!あたしは見てるのが楽しいの!近くで見たらもっと楽しそうって思っただけ!……あ、ジェイエルも来るんだよねぇ?あいつには内緒ね?クソマジメだからうるさそう。キャハッ!』
「いらっしゃい。何にしますか?」
気がつくとパンの順番が来ていた。クロワッサンをガスパールの分も買うと、パン屋から離れる。スリエルはもう俺のことなど忘れたかのように、パンを選ぶのに夢中になっていた。
スリエル。地獄でならまだしも、慣れない地上でひ弱そうな少年の木偶に転生したあのイカレ女が脅威になるとは思えない。使い魔がいるとしても、ウサギか?
肉が喰いたくなったら、ちょうどいい。
【08時17分 トゥールーズ、ホテル・デュー・サン=ジャック】
トゥールーズはやっと日の出を迎えたが、まだ濃い霧に覆われていた。太陽は姿を見せず、空は霧の乱反射で白く光っていた。既に多くの人々が仕事場につき、まだの者も通勤途上にあった。
ヴィは、ジェイとマドレーヌと朝食を済ませたところだった。レストランの窓際、普段ならポン・ヌフが見渡せる席で。
「すごい霧……雪かと思いましたわ」
「外は暖かいわ。雪は大丈夫そう」
ケイトなら気温と湿度と川による影響とかを正確なデータとともに語り始めたに違いない。カプランペディアがもう懐かしい。
「この霧なら、今日はやめたほうがよさそうだ」
「ええ……でも雪よりはましかも知れませんけど……」
マドレーヌはいつもの明るさを霧に吸い取られたかのようだった。目が充血して赤い。寝不足なのかも。
ジェイはもしかして、行きたくないのかも知れない。またなんか直感?でも……マドレーヌの言う通り、雪よりはましだ。日にちを遅らせればその分、雪の確率は高くなる。
「そうね……少し待ちましょ?予報だと、お昼からは晴れるみたい」
「運転手と話してまいります」
マドレーヌの後ろに控えていたアンジーが、離れた席で食後のコーヒーを飲んでいる運転手の方へ歩き去った。ジェイがわたしを見て頷く。
「マドレーヌ。どう思う?」
マドレーヌはアンジーの後ろ姿を見ながら、声を落として言った。
「昨夜のお話ですわね?……ええ。おねえさまのおっしゃったこと、よく考えましたわ……遅くまで眠れなくて。おねえさまとジェイさまがお休みになった後も、ずっと考えておりましたの……」
マドレーヌはうつむいて言葉を探している。マドレーヌらしくない、でも少しだけ、大人になろうとしてる。
「思い当たることが何かあるのね?」
「そんなこと……わかりませんわ。確かに、昔のアンジーは……でも私、アンジーが大好きで……いつも、世話をやいてくれて……」
「ごめんね、マドレーヌ。変なこと言っちゃって……」
マドレーヌが顔を上げた。その緑色の瞳に、涙を溜めて。
「私……アンジーのこと……でも……わかりませんわ!ママが……アンジーを、ママだと思ってって……」
涙がこぼれた。手元のナプキンを差し出すと、マドレーヌは小さく嗚咽しながら受け取った。
昨夜。わたし達はベッドに入っていつもの体勢になってから、少し話をした。その前にマドレーヌがお風呂に入っている間にジェイと2人で話したことを。
20日間。480時間だ。それだけの時間、ほとんど離れることなく一緒に暮らした。アンキュラ、そしてジェイはニースでも、マドレーヌという少女を見てきた。近くでずっと。途中3ヶ月のブランクはあったが、マドレーヌは何も変わっていない。ほんの少し成長しただけ。お母様を亡くして。
もう信じてもいいと思った。わたしも、ジェイも。それどころか、家族のように思えた。
だから。モンセギュールへ行く前に話しておきたかった。
アンジーが見かけとは違う人間かも知れないということを。
マドレーヌはベッドの中で、わたしの背中に抱きついたまま黙って聞いていた。寝ちゃったのかと思うくらい、静かに聞いていた。でも眠れなかったんだ。マドレーヌ……。
「私……お手洗いに。カラコンが痛くて」
マドレーヌが急に席を立った。アンジーがこちらに戻ってこようとしている。
「マドレーヌ……大丈夫?」
わたしも腰を浮かせかけたがやめた。アンジーに気づかれるかも。
マドレーヌと入れ違いに戻って来たアンジーは、少しの間マドレーヌの背中に心配げな視線を送っていたが、すぐに普段の有能なメイドの顔を取り戻した。
「運転手も同じ意見でした。霧が晴れるのを待ちましょう」
トイレの鏡に映ったその顔は、泣き腫らした18歳の少女の顔だった。
完璧だ。
昨夜、ベッドであの婢女の咽せかえるような体臭に耐えながら話を聞いている間は、笑い出すのを堪えるのがとても辛かった。
温室での失敗を糧として練り直した計画。あやつらの信用を、これ以上ないほど完璧に手に入れた。じっくり時間をかけた成果だ。
もうモンセギュールに行く必要すらないかも知れない。今から朝食の席に戻って、あの善人ぶった顔にコップの冷水を浴びせてやっても、私はあやつらの信用を失わないだろう。
まあそれでも、ここまで周到にやってきたのだ。最後まで手綱を緩めはしない。
それに……やはり、舞台はモンセギュールでなければならない。もうひとつの復讐を為すためにも。
アンジェリック・ヴェスパーにはしばらくは盾になってもらうとしよう。私の知謀を疑った罰だ。
霧は、直に晴れる。
【09時45分 モンセギュール村】
下界に厚く立ち込めた濃霧は標高900メートルまでは達していなかった。朝まで星を隠していた雲も綺麗になくなり、嘘のように晴れ渡っていた。太陽光が城壁やその下の岩壁に反射し、夏のように眩しく輝かせていたが、気温は7℃だった。
イザベルは教会の正面の広場に整然と並んで植えられたリンデンの木陰に立ち、朝の祈りに訪れた人々を眺めていた。
いや、眺められていた。イザベルは今や、このモンセギュール教会に据えられた聖像のようなものだった。呼吸して、ぶつぶつと聞き取れない言葉を漏らす聖像。クレデンテスたちが頭を垂れると会釈することもできる。それがイザベルの役割だった。
「Benedicite……」
村に来て間もないクレデンテスがイザベルに話しかけることもあった。ほとんどは見よう見まねで。イザベルはニコリともせず、ただ会釈を返すだけだ。
「Benedicite.Benedicite.Benedicite」
そのアフリカ系女性のペルフェクティは、正規の儀式に乗っ取り3回繰り返してお辞儀をした。イザベルもこれには同様に3回のお辞儀を返す。
「お怪我をなさったのですね。肉体からの解放が近い兆しです」
「はい、ソール」
イザベルはペルフェクティの三角巾を見るたびに同じ言葉を繰り返していた。ペルフェクティは初めのうちは戸惑ったが、すぐにこの老婆の病に気づき、それを指摘もしなかった。脳内では記憶の扉が勝手に開き、医学用語が溢れ出していた。だがそれを口に出すのはペルフェクティとしては不適切だとわかっていた。
「Benedicite!」
少年が元気に叫びながら駆け込んできた。イザベルは羽虫でも見るような目で少年を見て、会釈もしなかった。ペルフェクティはそんな2人を見ても、無言で微笑むだけだった。
「トマ!いけませんよ、お辞儀をしなくては!……Benedicite」
母親か。あなたも礼を失していますよ。でも構いません。私には関係のない事。
ペルフェクティは改めて少年を見た。女の子みたいに長いブロンド。マリア様のお髪よりは濃いブロンド。青い眼。そばかす。まだ子どもだ。
子どもの表情はくるくる変わる。
コーヒー。
コーヒーが飲みたい。
スリエルはケイト・カプランを観察していた。母親に嗜められ、子どもっぽい文句をぶーぶー言いながら。
賢そうなお顔だねぇ。夜になったらヘビを巻きつけてハァハァ言ってるくせに。こいつにはどんなおうちを創ってあげよかなぁ?毒蛇の沼?大蛇の森?まだ決められないけど。罪を裁くのはあたしの仕事じゃない。
【12時14分 アリエージュ県フォワ、ル・フェビュス】
霧が晴れ、視界がクリアになったのは11時過ぎだった。ジェイたちは王室公用車のプジョー5008PHEVで、20日余りを過ごしたホテルを出発した。チェックアウトはせずに。
助手席にアンジー、2列目に左から、地味な茶色いドレスのマドレーヌ、いつものパンツスーツのヴィ、おれ。おれの膝の上にはアリーが座っている。3列目のシートはフラットにして、運転手の分も含めた5人分の荷物が満載されていた。ほとんどはマドレーヌの服だが。
モンセギュールに直行せず、途中でランチにするらしい。店はフォワ城の傍らの高級フランクレストラン。アンジーが前日から予約していた。
「マドレーヌ様。ようこそいらっしゃいませ」
プジョーが駐車場に入ると、店の前で数人が出迎えていた。
「マドレーヌ様をお迎えできるのは、当店といたしましても大変な名誉でございます。どうぞ、お食事をお楽しみくださいますよう。アリー様のお食事もご用意いたしました」
ヴィは笑ったが、マドレーヌはにこりともしなかった。ここに着くまでの1時間、笑顔がない。
支配人がうやうやしく一礼し、入り口を促した。入ると受付らしいカウンターがあり、その横にクラシックなオーク材の階段がある。こういう店では大抵、地上階は受付のみで階段でメインフロアへ上がらなければならない。
ヴィがおれの左腕を強く引き寄せた。
「だめよ」
「大丈夫。気をつけてゆっくり上がるよ」
「だめ!」
階段は特に急というわけではなさそうだが、ヴィはおれが階段を上がるだけで命に関わると思っている。この4ヶ月、一度たりとも階段に近づくことさえ許さなかった。またアスラン道の技を喰らうよりはマシだが。
「ジェイさま……大丈夫ですわ。ねえ、アンジー?」
いつもの傲慢さもない。
アンジェリック・ヴェスパーが頷くと、支配人が奥の扉を開けた。
「伺っております。こちらに、特別なテラス席をご用意いたしました」
そこはアリエージュ川の河岸に張り出したガラス張りのベランダだった。メインフロアの席が用意できるまでのウェイティングルームらしい。
流れが速く水量も豊富で、トゥールーズでガロンヌ川に合流する、自然の雄大さを感じさせる渓流と、その対岸の奥にそびえる岩山の上のフォワ城の3つの塔を眺めるビュースポットとなっていた。
ここをマドレーヌのために貸切にして、立派なテーブルなどもわざわざ運び込んだようだ。
フランクではマドレーヌはそれだけの待遇を受けて当たり前の存在なのはわかっていた。しかしこれは——マドレーヌのためというより、おれの心臓のためだ。
そこまでしてもらう価値がある心臓だろうか。
昨日のチャットを思い出す。この心臓が止まればジェイ・ロルトは死ぬ。そうなったらおれは、ただ次の依代を探せばいいだけだ。
自分自身が不自由な思いをする分には構わない。だが、他人の手をわずらわせるのはどうなのだ。
ヴィはガラスの壁にかけられている肖像画の説明を読んでいた。
「このレストランの名前。あのお城の有名な城主の渾名から取ったんですって。フェビュス。この絵の人。まさか、会ったことないよね?」
「ない」
「……。あっそ」
会ったことはない。だが、自ら輝きと名乗ったこの男、ガストン3世のことは知っていた。まだ18歳のひとり息子を殺した王として、当時話題になっていたからだ。
詳しいことは知らない。おれはその頃ヴィルヌーヴで、80歳を超えて老衰で死にかけていた。"狩り"に失敗した後の40年近く、ただ下手な絵を描いて過ごした。おれを看取ってくれたエスという名の女性が、寝たきりのおれの耳に世間の出来事を教えてくれた。
18歳で父親に殺された王子。
80過ぎて死を待っていた絵描き。
40歳で心臓が止まりかけのジェイ・ロルト。
何の役にも立たない男という共通点がある。
『末永く生きながらえるよう、
見守ってやってくださいな』
おれの今の使命はヴィを守ることだ。早くこの役立たずの依代を捨てて、新しい健康な肉体を探すべきではないのか。
ヴィを守ることができる肉体を。
おれにとって最優先すべきなのは何か。
約束だ。
いにしえの琥珀も、ローマもサマエルもアヴィエルも、どうでもいい。
ヴィを守る。
【15時52分 モンセギュール村】
太陽はピレネー山脈に沈んでいた。空はまだ青く明るいが、村はすっぽりと山影に入り、明るさだけではなく気温も急激に下がり始める。モンセギュール城とその岩山だけがまだ、銀色に光っていた。
「あれです。正面の山の頂上」
2時間のコースランチを終えてフォワの街を抜け、細い田舎道を20分ほど走った頃、それまで無口だった運転手が突然言った。緩い左カーブを曲がった時だった。
ヴィは少し身を乗り出して、前方の不自然に盛り付けられたみたいな三角の山を見た。それまで景色は濃緑の森と青空だけだったのに、それはいきなり、灰色の岩肌を晒して現れた。頂上に小さな、四角い影。
「あれがモンセギュール城?運転手さんは来たことあるんですか?」
「トゥールーズの運転手なので。クレデンテスですし」
「私達の聖地ですから」
当然だ、という口調のアンジー。もちろんわかってはいたけど、アンジーがはっきりと口にするのは初めてだ。信徒だってことを。
「ペルフェクティですものね、アンジーは」
マドレーヌの声には棘がある。ライトブラウンのハイネック、サンドベージュのショルダーレースのドレスで、いつもより大人びて見える。
「お休みの日には、毎回行ってたんでしょ?あそこへ」
「私の勤めですので」
「まあ!そうでしたの?あなたのお勤めは私の——」
「お嬢様。お誘いはいたしました」
ランチの間も決して和やかじゃなかったけど、今や険悪。聖地に近づいて、アンジーは本性を現したってわけ?ジェイの左腕に絡めた手に力が入る。
マドレーヌも、わたしの肩に頬を寄せた。
車は山道に入り、車内は沈黙した。
フォワに着く少し前から車はガソリンを焚いて走っていた。その吸排気音が気になり出す。
「ガソリンスタンド……一番近いのは、さっきのとこ?」
運転手が答えた。
「いいえ。フォワよりずっと近くにあります。村から10キロ。でもそこまで行かなくても大丈夫ですよ。村で備蓄してますので」
その間にもモンセギュールの岩山はどんどん大きく迫っていたが、車が急な右ヘアピンを折り返し下り始める。
「左に明かりが見えたら、それがモンセギュール村です」
明かりはすぐに見えた。眼下には同時に、立ち並ぶ家々、集落も突然現れた。ほとんどは低い三角屋根の一軒家だが、その真ん中にひとつだけ異質な四角いビルのような建物が、周囲から浮いていた。
「あれが宿舎?」
「はい。新築ですからとても綺麗ですよ。屋上にはシド・ネクサスもあるし」
アレね。アンキュラではすぐ壊れちゃったけど、ここは寒いから大丈夫か。ネット環境は心配なさそう。
「ここは、お墓かしら」
一番左に座っているマドレーヌが、わたしから少しだけ離れて道路の左下を覗き込むように見てる。
800年前に炎にのまれた250人にはもちろん、お墓なんてない。あの岩山の頂上の石城が彼らの墓石だ。
坂を下り公営墓地を回り込むと、そこはもう村だった。コテージやホテル、記念の品や小物のお店が多い。典型的な観光地の村。車は墓地に沿って村の外縁を直進、直角カーブを右に曲がったところで停車した。
見覚えのある太った男が手を振っている。ガスパールだ。
「……パパ?」
マドレーヌはすぐに降りようとはしなかった。明らかに様子が変……ガスパールが。
いつものように高そうなスーツを着ている。だが前を開けて、シャツの裾が片方だらしなく垂れてる。寒いのに第二ボタンまで開けて……いえ、違う。ボタンを掛け違えてる。髪は乱れてるというほどじゃないけど、寝ぐせがあるみたいだし……ヒゲも剃ってない。
「ロクツィオだ」
ジェイが耳元で囁いた。
「壊れかけてる。サマエルだろう」
「……見ただけでわかるの?」
「ああ」
「パパ!」
マドレーヌがドアを開けて飛び出した。アンジーは先に降りていた。運転手も。
「ガスパールもアヴィエルじゃないってことね。サマエルも来てるってこと?」
「それはわからない。サフィの話からすると、たぶん何度もやられたはずだ。積み重なると壊れる」
「……マドレーヌ!」
車を降りて追う。
「……パパ?どうしちゃったの?」
「……マド。マドか?……私のマド?」
「パパ!具合悪いの?大丈夫?」
涙声。お母様を亡くしたばかりなのに。
「大丈夫だよ、マド。何も心配ない。全部……」
ガスパールも泣き出した。感動してとかじゃなく、制御できない感じ?
「……マド、マド……私は……なんてことを……ゆる」
マドレーヌと見つめあっていたガスパールが、一瞬固まった。
「パパ?パパ!?」
「——ああ、マド。どうしたのかね?」
ガスパールは急に無表情になった。
「やっと着いたか。待っていたぞ。さあ早く宿舎に行きなさい。荷物を降ろしに。私は——」
また変わった。泣き顔に。
「……すまん、マド……手伝えない。私は……眠らないと。3分」
すがりつくマドレーヌを振り払い、ガスパールは建物の方に。コテージらしい。すぐ右に玄関があるのにふらふらと通り過ぎ、壁伝いに歩いてそこにあったドラム缶にぶつかる。
「旦那様……いかがなさいました?」
アンジーが手を差し伸べて、転びそうなガスパールを支えた。
「……アンジェリック。私は……寝たいんだ。寝させてくれ」
「……旦那様……かしこまりました」
ガスパールはアンジーに支えられ、コテージに入っていった。
「パパ……」
マドレーヌも後に続こうとした。
「待ってマドレーヌ。行かないで」
「おねえさま?……パパが。パパまで!」
「マドレーヌ……大丈夫、アンジーが——」
「アンジーのせいかも知れないんでしょう!?パパ!助けなきゃ!」
「マドレーヌ、お願い……落ち着いて?大丈夫、大丈夫……」
「パパ!……いや。パパ……パパ……」
マドレーヌを抱きすくめる。こんなに……震えて。マドレーヌ……。
「……座りましょ?マドレーヌ……車で……」
「おねえさま……ジェイさま……」
「——どうしたんだろ?なんかあったのかね?」
「知らない……ママ!ボクこれ欲しい!」
道の向かいの雑貨屋の奥でキーホルダーを選びながら、スリエルは全部見ていた。
アヴィエル……大したもんだねぇ。あのいじめられっ子のヘビ女が。あんなに芝居が上手だとはねぇ。楽しくなってきちゃう。
「あ!ママ!見て見て!このリボン、ピエールに似合うかな?」
「どうかしら。ピエールは嫌がるんじゃない?」
ジェイエル。だめだありゃ。コロっと騙されてる。あんなんじゃすぐ……あたしが殺してあげたら、もうちょいマシな木偶見つけられるかも?キャハハッ!
「——あら、これはどう?水色のスカーフ」
「いいねそれ!絵本みたい!買って買って!」
「もう、トマったら。元気になったら、まるで子どもに戻ったみたいね」
母親が嬉しそうに笑ってる。ぶっちゃけ、このくらいの年の男ってどんなふうに喋るのかよくわかんないけど、うまくできてるみたいだからいっか。どーせすぐ死ぬし?
まあとりあえず役者は揃った。今夜はどんなショウが観られるかなぁ?ワックワクぅ!
【17時18分 モンセギュール村】
「Merci beaucoup.よく考えて、また連絡します」
サマエルは礼を言うと宿舎を出た。入居を検討中のクレデンテスと偽って、内部構造を詳細に把握し終えたところだった。
ちょうど入れ違いに、ガスパールをコテージに置いてきたアヴィエルたちのプジョーが駐車場に入ってきた。
ガスパールは役目を果たし、時間を稼いでくれた。あとはことが終わるまで寝かせておこう。万一失敗したら、あの男はまた必要になる。
西の空、ピレネーの山々は漆黒の切り絵、その稜線は金色に縁取られている。雲ひとつない夕焼け。ピンクやオレンジから天頂の濃紺へのグラデーション。村には既に、夜が訪れていた。
サマエルは宿舎の玄関前に停まったプジョーに背を向け、夜に紛れて150メートル北へ——モンセギュール教会へ向かって歩いた。
リンデンの並木の広場にはクレデンテス達がたむろしていた。街灯はなく、クレデンテス達はiPortaのライトや懐中電灯などを頼りにしている。ランプや蝋燭を持っている者も数名。ペルフェクタス・イザベルの姿は見当たらない。18時からのコンベンタスに備えているのか。アヴィエルたちもおそらく顔を出すだろう。もちろん俺も参加する。特等席で。
明かりは持たず、教会の壁沿いを歩く。ライトを向けられない限り見えないだろうし、照らされてもコソコソする必要はない。同じようなことをしている観光客も数人、いるからだ。そのまま歩いて東角から北側に回る。
この教会には窓がない。壁一面、石灰の漆喰で塗り固められ、一枚の切り出された岩肌のようだ。明るい時間に確認しておいた周囲の建物の死角になっている所までくると、フランネルのシャツを脱いで上半身裸になる。左脇にPGMウルティマ・ラティオが差し込まれたケースを吊り、右腰にタクティカル・ブリーフ、左腰にはグロック。
もう一度周囲を確認すると、サマエルは静かに翼を広げて舞い上がった。
そのまま教会の屋根に上がる。この瞬間が一番目撃されやすかった。背後にモンセギュール城の岩山があり、それを背景にシルエットが浮かんでしまうからだ。姿勢を低くし、素早く鐘楼の裏に隠れた。
鐘楼は壁式で、ただの石壁に穴を開けて鐘を吊ってあるだけで、鐘室から教会内に降りるのは物理的に不可能だ。鐘楼の影で屋根の瓦を何ヶ所か触り、ガタ付きのある瓦を数枚剥がした。ここから屋根裏へ降りる。
この教会が建てられたのは、公式の記録では1685年。アルビジョア十字軍の時代から数百年後で、カタリ派とも何の関係もないカトリック教会として建築された。
最近『いにしえの琥珀』が買い取り、教義に合わせて十字架や聖像、祭壇などを撤去したのだ。鐘楼の鐘も鳴ることはない。外観が飾り気の全くない無機質な見た目なのはそのせいだったが、礼拝堂のドーム型の天井や、祭壇だった場所の真上の、意匠を凝らした天井画などはそのままになっていた。
天井画といっても宗教画ではなく、幾何学模様のカラフルなデザインで、遠目にはそれと気づかない換気口のスリットが隠されている。
そのスリットの裏がサマエルの特等席だった。明るい礼拝堂からこのスリットを見ても黒い闇にしか見えないが、裏から礼拝堂を覗くと、来堂者たちは全員がこちらを向くことになる。
PGMウルティマ・ラティオをケースごと、タクティカル・ブリーフも降ろすと、サマエル自身も屋根裏の梁に腰を降ろした。
腕時計を見る。17:44。
あと15分ほどで、コンベンタスが始まる。
【同時刻 モンセギュール教会】
トマ・ランベールは30分前から、両親と共に午前中にペルフェクタス・イザベルやアフリカ系女性ペルフェクティと会ったリンデンの並木広場に来て、コンベンタスが始まるのを待っていた。水色のスカーフを巻いたピエールも一緒に。
ピエールはその長い両耳を細かく動かし、人間の倍以上の高周波可聴域、4倍以上の可聴距離で、周囲のありとあらゆる音に文字通り聞き耳をたてていた。180度ずつ左右別々に向きを変えられるその長い耳は、音のした場所を立体的に把握できる。
サマエルの翼の羽ばたき、屋根の瓦を剥がす音、さらには屋根裏の中で荷物を降ろした音、歩き回る足音。石壁の遮音効果も、ヤブノウサギの聴力にとっては意味をなさなかった。
スリエルはその全ての音を脳内でイメージし、サマエルがどこで何をしているかを正確に知ることができた——使い魔との精神リンクを通じて。
兎の耳から逃れる術はなかった。




