第八話 あなたを守りたい
「お、泣き止んだか」
彼は店に入るなり、私の顔を見てそう笑った。
カウンターの席に座って真正面からの私の顔を見る。
「臨時休業の看板があったぞ。ここで朝食をとろうと思ったのにな」
からかうように彼は言う。
もはや、定位置となったカウンター席に腰を掛け、長い脚を組んで私を見上げる。
いつもの日常が戻った。それだけで、嬉しい。
このまま時が止まればいいのに。
「トーストとコーヒーでいいですか?」
「ああ、それで。君のコーヒーも深い味で好きだ」
「カフェオレにするのもおすすめです」
「悩むがブラックで。コーヒー単体の味を楽しみたい」
「わかりました」
いつもの会話だ。
けれど違うのは、彼がじっと私のことを待ってくれていること。
何から話そうか昨日からずっと考えていた。
回帰してから、頭にもやがかかって……すべて思い出せはしなかった。けれど、狩猟パーティで事件が起き、その一件からすべてがあなたの敵に回ったのは確かだ。
侍女頭オクタヴィア・ローゼンフェルト、騎士団長ディートリヒ・エーヴェル。
そして……第二皇子ロラン。
優しそうな青い目がいまだに脳裏に焼き付いている。
敵の名前だけは、忘れはしない。
彼らがあなたを死に追いやった!!
焦っているのはわかっていた。
だけど、時間がない。
あなたは死ぬ。
あの朝を、私は知っている。
ただの公女のままでは、オクタヴィアを殺せない。騎士団長を殺せない。ロランなどまだ夢のまた夢だ。
あなたの隣……皇子妃という地位に立ってこそ、初めて彼らに手が届く。
だから。
「殿下をお慕いしていたと……私はようやく気づきました。殿下、どうか私を妃にお迎えください」
私は彼にカーテシーをした。カフェオーナーと客ではなく、公女から第一皇子への挨拶を。
彼は驚いた顔をした。
「どうしたんだ?……昨日から様子がおかしいぞ?」
「……事実と向き合っただけですよ。あなたが好きなのだと今さらながらに気づいたのです」
やつれていくあなた。
そして二度と帰らなかったあなた。
助けられなくてごめんなさい。
無理に出した声は掠れて笑顔を作ろうと思ったのに、今にも泣きそうになってしまった。
セドリックは小さく笑った。だが、痛みをこらえるかのように眉間にしわを寄せて。
「……君が俺を慕ってくれていると聞いて嬉しかった。だが、今の君は……何かを決めた貴族の顔をしている」
彼は吐き出すように言った。まるで悲鳴のように。
「……君を好きだからこそ、怖い」
彼は目を伏せた。
「急に優しくなる人間を、俺は信じきれない」
「それは……!!」
あなたを助けたいの。
私は言おうとした。言おうとして、言葉が出てこなかった。
未来から来たと、セドリック信じてもらえる……?
私は彼に信頼してもらえるものを、何一つ持っていない。
セドリックは立ち上がると私に背を向けた。
「ま、待って!!」
彼は振り向かなかった。
かすかに彼の肩が震えた。
「君を好きなのは本当だ。それだけに残念だな」
彼の言葉が震えている。
── 失敗した。
裏切られてきたあなたが、今の私を警戒して当然だ。
ああ、どうやって信じてもらえばいい。
私は指先が冷えていくのを感じた。
あの惨劇を繰り返したくないの。
脳裏に、あなたの死を祝福する記事がちらついた。
足音が止まった。
振り返った彼の目が揺れる。
泣き崩れる私を見て、一瞬だけ苦しそうに目を伏せた。
「泣くくらいなら、政治に近づくな」
言葉とは裏腹に、言い方はとても優しかった。
そう。
あなたは、そういう人だ。
優しくて、誰より人を守ろうとして——
そして、殺された。
それを思い出したとき、頭がすっと冷えていった。
きっと今の私は、あなたの嫌いな貴族の顔をしている。
思わず笑みが漏れる。なんて私は愚かなんだろう。
今さら彼に好かれたいなど、虫がいいにもほどがある。
嫌われるならそれでいい。
私の目的はあなたを守ることだから。
「……嫌です」
「なんだと?」
「信じてもらえなくても構いません。私はあなたを二度と……失いたくない。それを証明して見せる」
未来から来たなんて今の彼に信じてもらえるはずはない。疑いがもっと濃くなるかもしれない。
だから、あなたが信じたくなるカードを切る。
「……殿下の侍従の方、今のままでは近いうちに倒れます」
足音が止まった。
初めて、彼の空気が変わった。
ほらね。あなたは優しい。
自分のことではなく、仲間のこととなると危険と分かっていても踏み込むの。
ああ、本当に嫌な女になったものだ。
次の日の夜遅く、臨時休業した私の店に彼はやってきた。
「……」
無言で入った来た彼は私をじっと見ている。警戒しているというよりは、私の顔から腹を読もうとしている顔だ。
「こんばんは、いつものでいいですか」
「……ああ」
「……飲んでいただけるのですね」
避けられると思っていた。
「……毒なら耐性がある。それに、君はそんな愚かな真似をしないだろう」
「それはどうも……それで、いかがでした?」
「念のため確認させた」
彼は難しい顔で椅子へ腰掛ける。
「お前が言った通り、アルノーは限界寸前だった。侍医に叱られていたよ。『あと 数日遅ければ倒れていた』と」
「……間に合ってよかったです」
以前の世界、アルノーは夜会で倒れた。
あなたはひどく自分を責めていた。
『気づいてやれなかった』と。
「なぜわかった?」
彼の赤い瞳が探るように見つめてくる。
「……お話しても信じてもらえそうにないので。私が言えるのは、あなたを守りたい。……あなたの周りも含めて。それだけです」
「君を疑っているというのに?」
少し自嘲気味に彼は言った。
「……あなたを失いたくないから」
セドリックは答えなかった。
赤い瞳がわずかに揺れ、何かを飲み込むように唇を閉じる。
私は自然とうつむいてしまう。
あなたがいなくなった世界を私は知っているから。
「公女……君が悲しい顔をすると俺は堪える。君に笑っていてほしい」
彼は小さく、落ち着いた声で呟いた。優しい声だった。
……カードを切るような私に、あなたはまだ優しさを見せてくれる。嫌われる覚悟はすでにしているけれど、あなたの心に私がまだ少しでもいるのなら、嬉しい。
「理屈では疑うべきなんだろう」
彼は小さく笑った。
「……だが、アルノーを救われて、それが揺らいでいる」
彼は自嘲気味に笑った。
「君が何を隠しているのかはわからない、だが、この件は感謝する」
私は返事の代わりにこくんと頷いた。
今の私はきっと、声がかれているだろうから。
彼は私が落ち着くまで側にいてくれた。そして、いつものように私の目を見て扉を開けた。
「また……来る」
彼のその言葉だけで、私は胸がいっぱいになる。
また来る。
その当たり前の約束が、どれほど尊いものだったのか、私は知っているから。




