第十話 偽りの姿で、あなたの側に
濃紺の侍従服に袖を通し、分厚い眼鏡をかける。
鏡に映るのは、公女エリーザではない。
少し痩せた線の細い少年。
長めの茶髪を無造作にまとめれば、なおさらだ。
エリアス・ヴァン。
アルノーの従兄弟でヴァン子爵家次男。
第一皇子付き臨時侍従。
── 今日から、それが私。
「エンリヴァー卿、どうでしょうか。少年に見えますか?」
切れ長の青い目が、私を上から下まで静かに観察する。
騎士が武器を値踏みするような視線だ。
「ええ、十五歳の少年には見えますね」
「良かったです。偽装身分とばれたら殿下に迷惑が掛かりますから」
私はほっとする。
「ただ」
エンリヴァー卿は一瞬だけ言葉を選ぶように間を置いた。
「……殿下の周囲が少し騒がしくなるかもしれません」
「え?」
「顔が良すぎます。侍女たちが騒ぎそうなほどに」
困ったように彼女は眉を寄せた。
「変装失敗ということですか?」
むしろ、エンリヴァー卿の方が侍女たちの人気が高そうな気もする。
「いえ、成功です。ただ、不用意に愛想を振りまかないのがよろしいかと」
「なぜでしょう? 侍女と仲良くなるのは何か問題が?」
この姿が有利に運べるのなら、使う価値は十分にある。
オクタヴィアの情報を少しでも集めたいから。
「……まず、侍女たちがあなたに首ったけで仕事にならなくなるかもしれないこと、次に縁談が舞い込むこと。最後に……殿下の機嫌を損ねることですかね」
「機嫌を損ねます……か?」
長い付き合いだけれど、セドリックから想像できない。
「損ねると思いますよ。最近の殿下なら、眼鏡を外すなと言いそうですね」
「殿下はそんなことおっしゃらないかと」
少なくとも私の知るセドリックは、人のセンスに文句はつけない。
「……そうですね。私も少し前まではそう思っていましたよ」
ため息交じりでエンリヴァー卿は言う。
彼女の様子から、完全な冗談ではないらしい。
彼女がここまで言うのだから、眼鏡は重要なんだろう。
「……ご忠告、肝に銘じます」
「それと」
「はい?」
「ときおり、あなたは怖い顔をしますね。侍従にそんな顔は不似合いですよ。まるで、闘技場にいるような顔つきですよ」
「……!!」
指摘されて、思わず顔を覆った。
「何の目的でここにいるのかはお聞きしませんが、力を抜いてくださいね。障害は私が排除しますから、安心してください」
「排除」
言葉が物騒なのに、その声音は妙に頼もしかった。
だけど、完全にエンリヴァー卿を信じきれない自分がいる。
この名前を聞いたのはどこだったのか。
そして……彼女はオクタヴィアをどう思っているのか。
少しだけ手が震える。
「行きましょう、エリアス」
名前を呼ばれて、気を引き締める。
あの女への怒りは……抑えなければ。
できるだけ楽しいことを考えよう。
今の私は第一皇子付き臨時侍従。
エリアス・ヴァンなのだから。
■
エンリヴァー卿の背を追って本館の長い廊下を歩く。せわしなく走り回る官僚たちはみな大量の書類を抱え、宮殿というよりは官庁だ。
そして、アルノー・ベルクレイン卿の部屋はより一層それが濃かった。
積み上げられた書類や資料。いくつも積み重ねられたコーヒーカップ。抜け殻のような毛布が椅子にあった。
これでは倒れるのも無理はない。下手をしたらまともな食事すらとっていなかったかも。
冷え切ったスープ皿。
食べた形跡はほとんどない。
代わりに、見覚えのある包み紙が積まれていた。
── 私の店のビターチョコだ。茶葉缶もある。
「エリアス。何か気になることでも?」
「あ、いえ。この茶葉がたくさんあるもので、つい気になりました」
「ああ、これですね。眠れないときにいいと殿下が用意したものですが、エリアスも不眠症を?」
「いえ、ただ香りが好きなだけです」
私が作ったから当然なんだけどね。
「わかります……いい香りですよね」
エンリヴァー卿は少し目を細めた。それは警戒というよりも、優しげなものに思えた。
このお茶が好きなら、あのお茶も好きかなとか、そんなことを考えてしまうくらい、素敵な笑顔だった。
……エンリヴァーが味方であればいい。そう思ってしまうくらいに。
「……どうかしましたか?」
「いえ、いつかエンリヴァー卿とカフェに行くのもいいなあって」
私が言うと彼女はくすっと小さく笑った。
「それは楽しそうですね。夜会が終わったら、行きましょうか」
「いいんですか?!」
「もちろんですよ。きっと楽しいお茶会になります」
エンリヴァーは穏やかに笑む。
夜会後の約束を取り付けた私たちは、さっそく仕事にとりかかた。
侍従の仕事のメインは今月末に開催される夜会の準備だ。料理やワイン、装花、調度品に招待客の選定、やることは多岐にわたる。
名簿にあるのは中立派の貴族たち。
……ラングレール伯爵。
その名前が目に入ったとき、視線がその名前から離せなかった。
私の脳裏に、あの日の広場がよみがえる。
あのときの、悲鳴じみた声が耳から離れない。
「エリアス、何かありましたか?」
「……ああいえ、たくさんの方が招待されているのだなって。夜会が楽しみですね」
私はエンリヴァー卿に向けて微笑んだ。
「ええ、中立派の貴族たちを中心に招待していますから。殿下の交渉術があれば彼らも支持に回ってくれます」
エンリヴァーは確信したように言う。そこには誇りを感じられた。
「……それじゃ、ダメなんです」
私は思わず叫んだ。
「エリアス……?」
エンリヴァー卿が不思議そうに名前を呼ぶ。
「え、あ……」
口を手で覆う。
証拠も何もないのに。エンリヴァー卿が味方かどうかもわからないのに言ってしまった。
「顔が真っ青ですよ。すぐに医官を呼びます」
けれど、エンリヴァー卿の目があまりにも優しくて。
「違うんです。…東館。点検を……まだ私が確認してませんから。不備があれば……貴族の支持を得られませんから、それが……怖くて」
うまく言葉がつながらなかった。
けれど、エンリヴァーは、最後まで私の言葉を聞いてくれた。
「わかりました。東館を点検しましょう」
「い、いいんですか?」
「点検は仕事の一つですし。それで、エリアスが落ち着くのなら」
エンリヴァーは微笑んだ。
彼女の言葉が、とても心強かった。
「ありがとう……ありがとうございます」
何としても止めないと。
あの悲劇を。




