op.1「しあわせなおしごと」
春の光
桜が咲いていた。
どこまでも白い歩道の両脇で、淡い桃色の花びらが春の風に揺れている。
空は高く、青い。
その下を、ナギ--並木ナギは小走りで駆けていた。
「わわっ、遅刻、遅刻じゃないですよね!? まだ大丈夫ですよね!?」
誰にともなく言いながら、慌てて腕の端末を確認する。
入社式開始まで、あと十五分。
十分余裕がある。
なのに胸はばくばくしていた。
昨夜はほとんど眠れなかった。
嬉しくて。
楽しみで。
そして少しだけ怖くて。
幸福機構。
子供の頃から憧れていた場所。
今日から自分は、その一員になる。
そう思うだけで、胸の奥が熱くなる。
「よしっ……!」
気合いを入れ直し、白い建物を見上げる。
巨大だった。
雲に届きそうなほど高いわけではない。
けれど、どこまでも洗練されている。
白。
銀。
ガラス。
緩やかな曲線。
まるで未来そのものを形にしたような建築だった。
ナギは思わず立ち止まる。
「すごい……」
来る前から知っていた。
映像でも何度も見た。
それでも実際に目の前にすると全然違う。
ここで働くのだ。
ここから幸福を届けるのだ。
そう思うだけで泣きそうになる。
「だめだめ! 入社初日から泣いてどうするんですか!」
自分で自分にツッコミを入れながら再び歩き出す。
そして。
三分後。
盛大に迷った。
「えっ」
立ち止まる。
左右を見る。
同じような通路。
同じような壁。
同じような案内表示。
「えっ?」
もう一度見る。
やっぱり分からない。
さっきまで確かに案内表示を追っていたはずなのに。
いつの間にか知らない場所へ出ていた。
「ど、どうしよう……」
端末を開く。
閉じる。
開く。
地図を表示する。
余計に分からなくなる。
「ええぇ……」
入社初日に迷子。
あまりにも自分らしい。
いや、自分らしくてはいけない。
今日から社会人なのだ。
ちゃんとしなければ。
「たぶんこっちです!」
根拠なく決断する。
そして勢いよく走り出す。
結果。
「きゃっ!?」
曲がり角で足をもつれさせた。
視界が傾く。
床が近付く。
終わった。
入社初日に転倒。
あまりにも格好悪い。
そう思った瞬間。
ふわり、と。
身体が支えられた。
「大丈夫?」
優しい声だった。
驚くほど静かな。
春の日差しみたいな声。
ナギは目をぱちぱちさせる。
細い指が肩を支えている。
柔らかな香りがした。
石鹸のような。
花のような。
どこか安心する香り。
「あ、あの、すみません!」
「ううん」
顔を上げる。
そこにいたのは、一人の女性だった。
桜色の髪。
光を受けて柔らかく揺れる切りっぱなしのボブ。
白い制服。
優しい藍色の瞳。
まるで春の妖精みたいだ、と。
ナギは本気で思った。
女性は少しだけ首を傾げる。
「入社式?」
「は、はい!」
「会場は反対ですよ」
「えっ」
反対。
「えっ!?」
ナギの声が廊下に響いた。
女性はくすりと笑う。
その笑顔が綺麗で。
一瞬だけ見惚れる。
「あっ、ありがとうございます!」
「頑張ってね」
「はいっ!」
勢いよく頭を下げる。
そして全力で走り出した。
今度こそ間違えないように。
今度こそ遅れないように。
胸を弾ませながら。
白い廊下を駆け抜ける。
その途中で。
ふと思った。
――名前、聞けば良かったな。
けれど立ち止まる余裕はない。
ナギはそのまま会場へ飛び込み、指定された席へ滑り込む。
肩で息をしながら前を向く。
巨大な講堂。
真新しい制服。
並ぶ新卒たち。
そして、これから始まる新しい人生。
胸の奥が高鳴る。
幸福機構。
憧れ続けた場所。
今日からここが、自分の職場になる。
ナギは背筋を伸ばした。
まだ知らない。
あの春の妖精みたいな女性の名前も。
その人が、自分の人生を大きく変えることも。
まだ、知らなかった。




