86.帰りたい
*
「アイリーン」
…………あ、この声。
口数の少ない父が、わたしを呼ぶときの声。低くて落ち着いた、あの声が好きだった。あったかくて、くすぐったくて、心地よくて。
わたしのすべてだった。
母はいない。わたしを生んで間もなくして亡くなった、らしい。体がもともと弱かったらしいけど、……顔も覚えていない母のことで寂しい思いをしたことはなかった。昔から、母の存在を羨んだことすら。
……お父さんがいたから。
「アイリーン」
「なに?おとうさん」
お父さんしか好きじゃなかった。
「……おまえは見えていない」
「? なにが?」
「周り」
「まわり?よく見えるわよ」
顔を上げて室内を見渡す。カーテンが窓の側で揺れ、すきま風が吹き込んでいた。開いていた絵本のページを指で押さえながら、そっとその場に裏返す。立ち上がり、窓を閉めようと足を向けた。
けど、
「開けておこう」
それを父は遮って、
「……外は暖かい」
なんて。遠くを見ながら、含みを持たせるように言うものだから。ついひねくれて、可愛げのない態度で、言葉で、わたしは―――
「……そとでお友だちとあそんできなさいって言いたいの?」
最近よく顔を出すようになった、あの子と。 目を細めて問いかけても、父は口を閉ざすだけだった。おとうさんが望むなら、仲良くはするけれど。
「イヤよ。そとはつかれるしつまんない」
唇を尖らせ、ぷくっと頬を膨らませる。あの子――名前はなんていったっけ。にぎやかで人懐っこくて元気な男の子。教会の神父さまの息子らしい。なんでか近ごろよく遊びに来るのだ。
「子どもはげんきでいいわよね。わたしは本のほうがすき」
あのとき……ちょっとだけウソをついた。ほんとは、あの子と話したり遊んだりするのも、ほんの少し楽しかった。同い年くらいの友達なんて1人もいなくて、暇さえあれば絵本を読んでばかりいたから。もっと話してみたい。遊んでみたい。
……でもそれ以上に、お父さんと離れたくなかった。
「わたしはずっとこの家にいてあげるわ。だからお父さんも、――――――――――――――――――――――。」
つん、と顔を背けて言うわたしに、父は苦笑いしていた。わたしの強がりなんて、きっと父もわかってたのだ。
――ああ、そっか。
もっと、素直に言えばよかった。
わたしがもっと、かわいげのある子どもだったら。せめてそう振る舞えたら、父は喜んでくれただろうか。笑ってくれただろうか。
いなくなったりしなかったのか。
今度会ったら、聞いて――、
――会ったら。……会ったら?
いつ会えるのだろう。少しずつ未来は変わってきているのに。
わからない。………本当に会えるの?
『わたしはずっとこの家にいてあげるわ』
いまどこにいるの
『だからお父さんも、』
会いたい
『勝手にどこか行ったらダメだからね!』
会いたいよ
「おとうさん」
ぴくり、と指が震える。指先に布の感触。
ゆっくりと意識がもどってきて、細く目を開けた。見たことのない天井がある。
霞んだ目を擦ろうと手に力を入れてみれば、ひどく重だるい。あげ損ねた手は途中でバタリと落下した。
ずいぶん眠っていたらしい。声を発してみようと口をあければ、
「……ぉ、と、……さ……」
カラカラになった喉から漏れた、弱々しい音。
辺りを目だけで見渡してみれば、ここが広い場所らしいことはわかった。そして自分がものすごく豪奢なベッドで寝ていることも。
「アイリーン」
近い位置からぽつりと声がして、反射的に目を向けた。ベッドの側に佇む2つの影。
彼らは、
呼び掛けるまえに、2つの強い衝撃が降ってきて、わたしの体をベッドへ沈めた。ずっしりと重みがかけられ、身動きがとれなくなる。
「アイリーン!!!!」
「ッよかった……!!!!」
頬に伝う水滴が誰のものなのか、このときはわからなかった。
「どれだけ、心配したと………!!!!」
「ご、めん」
「許さない、もう。勝手にどっか行ったら、許さないから……ッ!」
「ごめ、なさ、い。ごめん、なさ……っ」
ボロボロと目から溢れてくる雫が次から次へと頬を濡らす。喉が干上がり、声がうまく出てこない。それでも彼らの背中に腕をまわし、爪を立ててすがり付いた。首もとにまわされた腕にさらに力が込められる。
セドリック。心配かけてごめん。
ハンス。泣かないで。もう大丈夫だから。
(――あぁ、わたし)
熱を帯びていく顔とは裏腹に、冷えた頭で考える。理解する。ここに来るまで何度も気付き、知っていた、はずだったのに。
――――もう、ひとりじゃないのだと。
***
バルコニーから外を眺め、ぐっと大きく伸びをした。腕を広げて、全身で風を感じる。
見下ろすと、城下にはすでに以前のような活気が戻ってきているようだった。街も人も無傷ではないはずだが、さすがは王都といったところか。あんなことがあった後だというのに。
オズバン研究所の爆発。
朝起きた瞬間、世話役のメイドさんみたいな人がいたので大急ぎで問い詰めてしまった。あれからどのくらいたった?何が起きた?被害の状況は?矢継ぎ早の質問にも、丁寧に答えてくれた話の内容はこうだ。
オズバン湖の方で事故があった。幸い死者はおらず、怪我人のみ。わたしは一晩気を失っていた。翌朝には目を覚ましたが、ご友人方に付き添われ、泣き疲れてまた眠ってしまった。それが昨日のこと。そして今日、気持ちよく朝日を迎えられたようで心からほっとしている……と。
妙に冷静になった。ぺたぺたと自分の身体を触る。そういえばどこも痛くない。治療を受けたのだろうか。だとしても。
「……怪我人だけですか?研究所は爆発したのに?」
「? 爆発のような音はありましたが、軽い事故だったようですよ。大した被害はなかったそうです」
意味がわからない。
「あ、被害といえば……その事故の音に驚いたのか、王都に攻めてきていた魔物が次々と逃げていったのですよ」
こちらは被害が少なくすんで、不幸中の幸いだったかもしれませんね、と。微笑んでくれる彼女に、わたしは呆然とするしかなかった。
全部上手くいったってこと?
バルコニーから城下を眺めながら、小さく息を付いた。どうにも釈然としないが、兵器は破壊されたと思うし、魔物たちも退けたらしい。
(……軽い事故なんかじゃなかった)
空音。あのとき、わたしが手を触れた瞬間。なにかが引き金となって、爆発を……引き起こした。だってわたしの身体は爆風に打ち付けられ、気絶までしたのだ。
エリサの無効化の力が発動したのだろうか。けど、いくらあの子でもすでに起こった爆発を無かったことにはできないと思うのだが。
「………帰りたい」
うーんと唸りながら、軽く現実逃避してしまう。……ぼーっと街並みを眺めていると、あまりにも故郷と違う景色だった。急速に懐かしさが込み上げてくる。……ほんとに帰りたい。考えがまとまらない。難しいことは家で考えたい。また空き家と間違われてごろつきに住みつかれそうになってるかもしれない。あのときはびっくりした。ディーノとヴィオレットがきて、フランを疑ってて、子どもたちには内緒で、セドリックたちにも言わずに隣町のミッドガフドまで歩いて、港町から船に乗って――
考えてみたらわたし、結構な冒険をしてきたのかも。村を出るときはまさかこんなことになるなんて思わなかった。
コンコンコン
小気味良く響いた音に反射的に返事をする。来客らしい。そういえばこの部屋、ずいぶんと広いけれど、おそらく城の客室なのよね。
「アイリーン様、御友人方がお見えです」
「あ、「「アイリーン!」
返事を終える前に、部屋へと入ってきたのはやっぱりな2人だ。険しい顔をしているけれど、見慣れた顔にホッとする。
「どれだけ心配したと思ってるんだ」
強めの口調で、けれど心配したのだとストレートにわかる表情はセドリックで。
「ほんとだよ。無事でよかったけど」
穏やかに、けれど確実に心配の表情を浮かべているのはハンスだ。
「……わかってる。ごめんなさい、ふたりとも」
頭を下げて、もう一度謝ると、セドリックは罰が悪そうに目をそらした。
「………謝ってほしいわけじゃない」
「うん。心配かけたわよね。わたしもまさかこんなに長く村を離れることになるなんて思わなかったから。メモを残してはきたけど」
「ちょっと出かけるだけでも!教えてほしかった。村の外は危ないんだから。魔物も出るし」
「うん。ごめん。でもここに来るまではディーノがずっと一緒だったし、途中まではライたちもいたから、怪我とかはしてないわ。ほんとよ」
「…………。もう二度とオレから離れないことと目の届かない場所へは行かないこと、もし万が一どうしても離れないといけない状況になったら必ずその3日前までには報告することを約束してほしい」
…………いや、確かに悪かったとは思ってる。けど、さすがに過保護すぎない!? 保護者か!父親か!!
とは言えず、神妙に頷いた。わたしは空気の読める大人だ。
「まあまあ、アイリーンもさすがに反省してるみたいだし」
味方を見つけ、すがるように上目で見る。目が合うと、ハンスはにこりと微笑んだ。まさに一点の曇りもない笑顔。
「お城に長い間留まっておくのも迷惑だよ。僕たちはそろそろフィーネの村に帰ろう。ね?」
……全然味方じゃなかった。ハンスも見た目よりお怒りらしい。だってさすがのわたしにもわかる。まだ帰れない。帰してもらえない。まだ今回の件について事情聴取も受けてないし、逆にわたしが気を失ってからの事情も説明してもらってない。このまま手放しで「それじゃまた後日」と送り出されるほどフィーネの村は近くないのだ。
「そうだな。ヒルデなんか今ごろカンカンだろうし」
「僕らもろくに挨拶もできずに出てきちゃったもんね」
「父さんから事情は聞くと思うけど、早く帰ってやらないとな」
「そうだね。アイリーンは行方不明になってるし」
「せめて居場所がわかったってだけでも知らせてやりたいよ」
グサリグサリと言葉でわたしの良心を突き刺していく。まだまだ子どもの彼らに正論で殴られることのなんと情けないことか。
「ほ、ほんとにごめんって!でもまだここを離れるわけには――」
「その通りでございます。アイリーン様」
急にセドリックたちの背後から発せられた声にビクリと肩を揺らした。見上げると扉の外から声をかけてくれた彼女が音もなく近づいてくる。懐かしい顔に思わず目を見開いた。
「ヴィオレット……!」
「アイリーン様は殿下の大切な御方。丁重にお迎えするようにと陛下より仰せつかっております」
「え、ヴィオラ?」
「御友人方はこちらから馬車を手配しますので、今日にでも故郷へお戻りくださっても結構とのこと」
「なに言ってるの?」
背中に冷たい汗が流れた。セドリックとハンスが間抜けな声をだして呆気にとられている中、わたしは顔を青ざめさせた。
『殿下の大切な御方』
あああああ!!!!そういえばわたし、陛下にディーノと付き合ってるって思われてるんだった!!!!
これはマズイ、と一気に冷や汗をかく。城を出る適当なタイミングで別れたことにすればいいかと簡単に考えてたけど、早急に撤回しないと!!!!
「ヴィオレット、そのことで陛下にお話しなきゃいけないことが……!」
「存じております、アイリーン様。婚儀の日程ですね。正式な婚姻は先になりますが、婚約者には早急になられた方がよいかと。殿下が皇族となれば、引く手あまたとなりますから」
「ならないから!!!! あ、いや違う、ディーノは引く手あまたになるかもしれないけど!わたしは婚約者になんて」
絶対ならない!と言い放つ絶妙なタイミングで、扉がバタン!と音を立てた。今度は何事かと反射的に目を向けると、またもや見知った顔がふたつ。
「アイリーーーーーーン!!!」
声をあげる前に正面から衝撃をうけた。タックルである。
「ちょ、エリ、サ」
「よがっだ~~!!ぶじで!!ほんどに!!よが……っ」
ほとんど嗚咽で聞き取れないが、心配をかけたことは十分伝わってくる。……毒気を抜かれてしまった。
「おー、思ったより元気そうじゃん」
はは!と笑い声がつきそうなほど軽い足取りでやって来たのは、エリサと対照的に一切まったく何の心配もしてなさそうな男。先ほどまで話題の中心にいた重要人物だ。そんな彼を横目に、ヴィオレットが口を挟む。
「……ディーノ様。目の下に隈がございます」
「へぁ!? うそ!?」
「はい、嘘です」
さらりと放たれた軽口っぽい言葉に、ディーノは取り乱す。ふたりともこんなやり取りするタイプだっけ?なんかちょっと見ない間に性格が変わった気がする……。良い変化なのかそうでないのか。焦った様子のディーノが咳払いしながら話題を変えようとしていた。
「と、ところで、なんの話してたの?」
その話題は良くない。