第三章 道中、ロッタの話
ヴェルテの町を出て東に向かう道は、思ったよりも荒れていた。
舗装路が途切れると、砂利と草の混じった細い道になる。左右に木立が続き、空が狭くなる。ヴェルテは内陸の盆地にあるので、少し郊外に出るだけで山の気配が強くなる。秋の木の葉はまだ緑が多いが、ところどころ黄色く色づきはじめているものもあった。落ち葉が風に押されて、道を横切るように転がっていく。
カークスは歩きながら、町がだんだん遠くなるのを感じた。後ろを振り返ると、ヴェルテの屋根が木立の向こうに見えていた。古い町並みが、遠くなっていく。自分がここを離れるのは、両親が亡くなった年に遠くの親戚の家に一時的に預けられて以来だった。その時も怖かった。でも今の方が、もっと怖かった。あの時はフランと一緒だったから。
今はロッタと一緒だ。ロッタを信頼していいのか、まだよく分からない。でも一緒にいる。
「ロッタって、ここらへんの出身?」
「違う。南の方。コヴァルという小さな町だよ。知らないと思うけど」
「知らない。どのくらい遠いの」
「ここから馬で三日くらい。歩けば一週間以上」
「そんな遠くから来たの」
「来た。マリウスを追ってたから」
二人は黙って歩いた。道の脇に小さな川があった。水量は少なく、石と石の間を細く流れている。秋の川だから冷たいだろう。
「川を見ると、川に飛び込んだときのことを思い出す?」とカークスは聞いた。
「思い出す。でも、不思議と嫌じゃない」ロッタは川を見ながら言った。「あの時生きてたんだって、水を見るたびに思う」
「それ、良かったということ?」
「そう。良かったということ。生きてた方が良かった。それは確かだ」
また少し沈黙した。
「マリウスとの因縁って」
「あとで話す」
「何か話してくれないと心細いんだけど」
ロッタは少しだけ苦い顔をして、それからため息をついた。歩きながら、前を向いたまま。
「……マリウスに一度やられかけた。培養液にされる寸前だった」
「え」
「逃げた。一人で。それだけ」
「すごい」
「すごくない。運が良かっただけだ」ロッタは前を向いたまま続けた。目が遠くを見ている。「あの時は本当に、もうだめかと思った。培養液に少しだけ触れた瞬間、全身に冷たいものが流れた感じがして……でも当たったのが指先だけだったから、変換が完全には進まなかった。服を脱いで、川に飛び込んで、水で洗い流した。それで済んだ」
「川に飛び込んだの?」
「秋の川だった。死ぬかと思ったよ」ロッタはさらりと言った。「でもそっちの方が助かった。冷たい水が、培養液の浸透を止めたんだと思う」
「その後どうしたの」
「河原で震えながら乾かした。夜だったから寒かった。でも、生きてた」ロッタは少し笑った。本当に「生きてたな」という感じの笑いだった。「その後でいろいろ調べて、マリウスのことを知った。止めたいと思った。でもどう止めるかは、まだ完全には分からないまま来た」
「なんで自分でやろうと思ったの。誰かに頼れば」
「誰が信じる?」ロッタは少し笑った。苦い笑いだった。「人が液体になる、なんて。証拠もなかったし、ただのおかしな子扱いされて終わり。実際に一度、村の長老みたいな人のところに行って話したことがある。最後まで話を聞いてはくれた。でも終わった後に、『怖い思いをしたんだね。ゆっくり休みなさい』と言われた」
「信じてもらえなかったのか」
「信じるっていう概念が、そもそもなかった。ちょうど、空が青いことを信じるかどうかを聞かれたときみたいな顔をされた。前提がそもそもないんだ」ロッタは肩をすくめた。「だから自分でやるしかなかった。それで一人でここまで来た。二年かかった」
カークスはロッタの横顔を見た。疲れた顔だった。でも折れていない目をしている。何度も同じ壁にぶつかってきたけれど、そのたびに別の道を探してきた人間の目だ。
「僕に教えてくれてよかったの」とカークスは言った。「信じてもらえないって言ったのに」
「あんたは信じるでしょ、フランの弟だから。あんたには理由がある。理由がある人間は信じる」
「それに」ロッタは少し間を置いた。「フランに言われたんだ。もし弟を見かけたら、何が起きているか話してやってくれって。あの人は、あんたに知らないままでいてほしくなかったんだと思う」
それを聞いて、カークスは少し俯いた。
フランは一人でやろうとしていた。自分に知らせないように。でも、もし自分が先に見つかったとき——知らないままではいてほしくなかった。それがフランの考えだ。フランらしいな、と思う。先を読んで、準備をして、自分が抜けた時の穴を埋めておく。そういう人だ。
しばらくして、ロッタが何かを言いかけて止まった。
「どうした?」
「……あんたに聞いてもいいか」
「何を」
「フランはどんな人なんだ。あの人と話したのは、ほんの少しだから」
カークスは少し驚いた。ロッタが何かを聞くというのが、想像していなかった。
「フランは……」カークスは考えた。どう説明すれば正確なのか。「すごい人だよ。でも、それを本人に言っても『そんなことない』って言う。両親が死んでから、何でも自分でやってきた。仕事も、家事も、僕の学費も。でも、そのことを大変そうにしてるのを見たことがない。少なくとも僕の前では」
「大変そうにしないのは、本当に大変じゃないから?」
「違うと思う」カークスはゆっくりと言った。「たまに夜に、一人でいるときに泣いてることがあった。僕が気づいてないと思ってたんだろうけど、壁越しに聞こえることがあった。でも朝になると、何もなかったみたいに卵焼きを作ってる」
ロッタは黙って聞いていた。
「だから僕は——フランのことが心配で、でも何もできなくて。靴下の左右も揃えられないのに、フランを守るとか、役に立つとか、そんなことは考えたことなかった。でも今は」
「今は?」
「役に立てなくても、行く。それしか分からない」
ロッタはしばらく沈黙した。
「……そういう人が帰ってくるのを待ってる人間がいるなら」ロッタは静かに言った。「そっちの方が、ずっといい」
「どういう意味」
「私は帰るところがない。帰ってくるのを待ってる人がいない。一人で動いてきた。それは楽な部分もある。でも——」ロッタは先を続けなかった。続けなかったが、言わなかったことは分かった気がした。
カークスはその言葉の意味を、歩きながらゆっくりと考えた。
帰ってくるのを待ってる人がいない。
それがロッタの二年間だ。どこかに向かって歩いているが、帰る場所がない。目的はある。でも、帰り着く場所がない。そういう歩き方は、どんな感じがするんだろう。カークスには分からなかった。自分にはいつもフランがいた。どんな時でも、ヴェルテの家にフランがいた。
また会話が途切れて、今度はしばらく続いた。
木立の向こうから鳥の声がした。風が葉を揺らした。秋の匂いがする。枯れ草と、湿った土と、少しだけ木の実の甘い匂いが混じったやつ。
二人は歩き続けた。
しばらくして、ロッタが革袋から何かを取り出した。小さな瓶だった。
「なに?」
「傷薬。山道を歩くと、足首をやることがあるから。先に塗っておいた方がいい」
「今は痛くないけど」
「今じゃなくて、先に。予防だ」
カークスは靴を脱いで、足首に薬を塗った。清涼感のある匂いがした。
「ロッタはいつもこういうの持ち歩いてるの」
「持ち歩いてる。二年間で色々覚えた。薬は早め早めに使う。食べ物は見つけたら食べる。水は飲める時に飲む。靴の中の石はその場で取り出す。後回しにしない」
「後回しにしない、フランも言ってた」
「そうか」ロッタは少し考えるような顔をした。「似てるかもな、私とフランは」
「そう?」
「自分でやるしかない、という状況にいた。だから似たような考え方になったのかもしれない」
カークスは靴を履き直しながら、その言葉を考えた。
フランとロッタは似ているかもしれない。でも、全然違うとも思う。フランは一か所に留まって、カークスのためにいた。ロッタは動き続けて、一人でいた。同じ「自分でやるしかない」が、違う形になった。
「ロッタ」
「なに」
「ヴェインのこと、さっき『あんたも本当はそのはずだ』って言ったよね」
「言った」
「あれは、ヴェインがまだ人間だと思ってるから言えたの?」
「そうだな。命令に従うだけの影だと思ったら、ああいう言い方にはならない」ロッタは足元を見ながら歩いた。「でも、半分だけ培養液になっていても、人間だった部分が残ってると思った。だから話しかけた」
「届いたと思う。一瞬、止まったから」
「そうだといい」
しばらく沈黙が続いた。木の根を踏んで、カークスはよろけた。ロッタは振り向かなかったが、少しペースを落とした。カークスがついてきているのを、音で確認していたのかもしれない。
日が傾きはじめた頃、ロッタが立ち止まった。
「ちょっと待って」
小声で言って、右手を上げた。カークスも止まった。
道の先に、人影があった。
人影、というよりは——形がおかしかった。輪郭がぼやけていて、影が地面に落ちていない。そういう存在だった。秋の夕暮れの光の中で、その形だけが光を正常に反射していない。透明なのでも、暗いのでも、白いのでもない。ただ、「そこにいてはいけない何か」としか言いようのない存在感だった。
「ヴェイン」とロッタは小さく言った。
「誰」
「マリウスの使い魔。元人間だったらしい。今は……何か別のものになってる。培養液の処理が途中で止まって、どちらにもなれない状態のまま固定されてしまったと聞いた。苦しいのかどうかも分からない」
「苦しくないのかな」とカークスは思わず言った。
「分からない。でも——人間だった記憶はあると思う。そういう気がする」
その影はゆっくりとこちらを向いた。顔があった。でも目がなかった。目があるべき場所に、青白い光が揺れていた。そこだけ、培養液の色をしている。
「フランの弟」
声が来た。水の中から聞こえてくるような、低くて湿った声だった。人間の声ではなかった。でも、確かに言葉を使っていた。言葉を知っている存在だった。
「マリウス様が、お待ちです」
「断る」ロッタが前に出た。「退け、ヴェイン」
「マリウス様の命令には従わないと」
「私は従う理由がない」ロッタは静かに言った。「あんたも本当はそのはずだ」
その言葉に、影が一瞬止まった気がした。青白い光が揺れた。でもすぐに動いた。
次の瞬間、ヴェインの身体が揺れた。影が広がって、道を覆うように広がっていく。液体のように——でも影のように。根っこのない影が地面を這う。
カークスは「走って!」というロッタの声を聞いた瞬間、考えるより先に走っていた。
道を外れて、木立の中に入る。枝が顔に当たった。葉が引っかかった。足元が暗くて木の根が見えない。一度躓いて、膝をついた。でも止まらなかった。すぐに立ち上がって走った。
ロッタが隣を走っていた。彼女は革袋の中から何かを取り出して、後ろに向けて投げた。白い粉のようなものが散って、ヴェインの影に当たると、ジュ、という音がして影がひるんだ。焦げるような匂いがした。
「塩と特殊な薬草の混合」ロッタは走りながら言った。「完全には止められないけど、少し時間を稼げる」
「どこに行くの」
「とにかく離れる。今夜は野宿になるかも」
「野宿……」
「文句は後で」
二人は木の中を走り続けた。影の気配は、少しずつ薄れていった。ロッタが二度目の粉を投げたあと、完全にひるんだらしく、気配が止まった。
完全に消えたと確信したのは、あたりがすっかり暗くなってからだった。
木立の中の開けた場所に腰を下ろして、カークスとロッタは肩で息をした。カークスは膝が笑っていた。怖かったのかもしれない。それとも単純に走り慣れていないせいかもしれない。
「あれが使い魔……」
「そう。大したことはできないけど、偵察と足止めには使える」ロッタは水筒から水を飲んだ。「明日、ルートに着く。そこで何か分かるはずだ」
カークスは膝を抱えて、夜の木立を見た。
フラン。今どこにいるんだろう。寒くないだろうか。怖くないだろうか。
——怖くないわけがない。
カークスは目をつむった。泣きたい気持ちがあったが、泣いたら動けなくなる気がして、奥歯を噛んだ。
隣でロッタが革袋を枕代わりにして横になった。
「寝な。明日早い」
「……うん」
カークスは横になって、目を開けたまま木々の向こうの暗い空を見た。星が一つ、雲の切れ間から見えた。行くしかない。それだけ分かっていた。
「眠れない?」ロッタが小声で聞いた。
「うん」
「フランのことが心配で」
「そう」
しばらく、二人は黙っていた。
「私も最初は眠れなかった」ロッタは言った。「マリウスを追い始めた頃。怖くて、不安で、自分が何をしているのか分からなくて。毎晩、眠れなかった」
「今は眠れるの?」
「慣れた。眠らないと動けない、ということを覚えた。怖くても、不安でも、眠れなくても、朝になれば動かなきゃいけない。動くには体力が要る。体力を保つには眠らなきゃいけない。感情と身体を少し切り離して考えるようになった」
「ロッタって、怖くなかったの。一人で追い続けて」
「怖かった。ずっと怖かった」ロッタはあっさりと言った。「怖くないふりをしていたけど、ずっと怖かった。でも、怖いことと、やることは別だと思った」
「どういう意味」
「怖くなければやる、怖かったらやらない——という考え方が間違ってると気づいた。怖くてもやる、というのが正しい。怖さは消えない。でも、怖さと一緒に動くことはできる」
カークスはその言葉を聞いて、少し考えた。
自分は今、怖いのだろうか。怖い、と思ったことはなかった。フランを助けに行かなきゃいけない、という気持ちしかなかった。でも、それは怖くないということではないかもしれない。怖さと「行く」という気持ちが、最初から一緒にあって、怖さを認識する前に「行く」が勝っていただけかもしれない。
「ロッタ」
「なに」
「明日、上手くいくと思う?」
「思う」ロッタは言った。「でも思うだけで、保証はない」
「怖い?」
「怖い。でも眠る」
ロッタはそれだけ言って、目を閉じた。
カークスも目を閉じた。
眠れないと思っていたが、いつの間にか眠っていた。
*
翌朝、カークスは夜露で濡れた草の上で目が覚めた。
体が冷えていた。制服は野宿向きじゃない。上着一枚分の違いが、夜通し床に横になっていると大きく響く。背中と腰が痛かった。地面というのはこんなに固いのか、と改めて思う。
ロッタはもう起きていた。革袋を漁って、乾燥した果物と堅いパンを二人分取り出した。
「食べな。動けなくなる前に」
「……ありがとう」
二人は無言で朝食を取った。堅いパンは噛むのに力が要った。乾燥した果物は甘かったが、量が少なかった。木漏れ日が少しずつ差してきて、地面の霧が薄くなっていく。遠くで鳥が鳴いていた。
「ルートまでどのくらい」
「歩いて二時間くらい。急げば一時間半」
「急ごう」
カークスは立ち上がった。ロッタが少し驚いた顔をしたが、何も言わずに革袋を肩にかけた。
山道を歩きながら、カークスはロッタの歩き方を観察していた。
ロッタの歩き方には、無駄がない。一歩一歩が確実で、足の置き場が計算されている。斜面でも、石が多い場所でも、歩幅が変わらない。これは練習した歩き方だ。二年間歩き続けた結果がこの歩き方だ。
「ロッタ、歩き方を教えてもらえる?」
「歩き方?」
「こういう道での歩き方。滑らない歩き方」
ロッタは少し考えた。「見て真似るのが一番早い。でも、一つだけ言うなら——次の一歩を置く場所を先に見ること。今踏んでいる場所じゃなくて、次に踏む場所を見る」
「次の一歩を先に見る」
「そうすれば、踏む前に不安定な石かどうか分かる。踏んでから気づくんじゃなくて、踏む前に選ぶ」
カークスはそれを意識して歩いてみた。今踏んでいる場所ではなく、次の場所を見る。確かに、少し歩きやすくなった気がした。
「……なるほど」
「先を見ることは、山道だけじゃない。何でもそう」ロッタは言った。「今のことだけ見てると、足元しか見えない。少し先を見れば、もっとうまく動ける」
「フランもそういうことを言ってた」
「似てる、って言ったでしょ」
「そうだった」
二人は少し笑った。
木立の中に、鳥の巣があった。空の巣だった。今の季節、雛は巣立っているのだろう。巣だけが枝の上に残っている。
「あの巣、来年も使われるのかな」とカークスは聞いた。
「鳥によるよ。同じ巣を使う鳥もいるし、毎年新しく作る鳥もいる」ロッタは言った。「どっちが賢いとか、そういうことじゃなくて、それぞれのやり方があるだけだ」
「同じ場所に戻る方が好きそうだな」
「そうか。あんたは?」
「僕は……同じ場所に戻りたい。ヴェルテの家に、フランがいる場所に」
「だったら、早く終わらせて帰ろう」
その言葉は、短かったが、確かだった。カークスは頷いた。
歩き続けた。




