第一章 朝食と姉と、いつもの世界
目を覚ますといつも、卵焼きの匂いがした。
甘くて、少しだけ醤油の香りがして、それに混じってバターのコクがある——フランの作る卵焼きはそういう匂いがする。
朝ごはんのラインナップとしては地味かもしれないが、カークスにとってはその匂いこそが「今日も世界は正常に動いている」という証明だった。
卵焼きの匂いがすれば、世界はまだちゃんとある。
そう思ってから起き上がる、というのが、カークスの朝の始まりだった。
カークス・ピコピコドリル——本名だ。
変な苗字だとは自分でも思う。学校に入学したばかりの頃、クラスメートが出席簿を見た先生の声を聞いて笑ったのを覚えている。
「ピコピコドリル、カークス」と呼ばれたとき、教室がちょっとざわついた。
笑い声が出たわけではない。でも、すこし空気が変わった。
みんなが「何それ」という顔になった瞬間があった。カークスはそのとき机の木目を見ていた。
でも親はとっくにいないし、今さら文句を言える相手もいない。
学校でからかわれたのは最初の一週間だけで、あとはみんなどうでもよくなったらしく、今は単純に「カークス」と呼ばれている。
苗字で呼ばれることはほとんどない。
たまに先生が名前を読み上げるときだけ、ピコピコドリルという音が教室に出てくる。
そのたびに誰かが「あ、そういう苗字だったっけ」という顔をする。カークスはもう慣れた。
苗字のことをしつこく言ってくる子が一人だけいたが、カークスは三日間完全に無視し続けた。相手はそれに飽きて、別のことに興味を移した。人間の注意力というのは、そんなものだ。
布団の中でもう少しだけ意識を漂わせてから、カークスはのろのろと起き上がった。
十四年間使い続けた感覚で、手が自動的に枕もとの眼鏡を探す。
フレームに指が触れたとき、ようやく世界がはっきりした。
眼鏡をかけると、部屋の輪郭がくっきりする。
本棚と、机と、床に脱ぎっぱなしにしたままの昨日の靴下と。窓際に置きっぱなしの石のコレクション——川原で拾った平たい石や、山道で見つけた赤みがかった石英、色の変わった小石が十数個——が朝の光を受けてぼんやりと光っている。
フランに「片付けなさい」と何度も言われてきたが、カークスはその石たちが窓際にあることが好きで、一向に動かす気にならない。石は動かない。石はどこにもいかない。
石は黙っていつでもそこにある。それが好きだった。
最初の石は、父が生きていた頃に一緒に行った川原で拾った。
父はよく休みの日に「どこかに行こう」と言った。遠くではなく、町の外れにある川原だったり、山の麓の林だったりするくらいだったが、カークスはそういう小さな外出が好きだった。
その日、川の中に赤みがかった石を見つけて、持って帰った。父は「珍しい石だ、大事にしなさい」と言った。その石が今も窓際にある。一番端、一番最初の石。
窓の外は曇りだった。秋の初めの空は低くて、鉛色の雲がのっそりと流れていく。
この街——ヴェルテ——は海から遠い内陸の町で、秋になると毎年こんな空が続く。
観光地でもなく、特産品があるわけでもなく、歴史的な遺跡があるわけでもない。
商店街があって、学校があって、市場があって、小さな公園がある。
ただ人々が住んでいるだけの、ありふれた町だ。
カークスはそれが好きだった。何も起こらないことが、一番安心できる。
何かが起きると、それまで当たり前だったことが崩れていく。
崩れたあとでどう生きるか——それをカークスはもう一度学びたくなかった。
五年前に十分すぎるほど学んだ。
「カークスー、起きてるー?」
廊下の向こうからフランの声が飛んできた。少し間延びした、でも耳に通りの良い声だ。
家の古い木の壁を抜けても、この声はよく通る。
「起きてる」
「ご飯できてるよー。冷めないうちに来てー」
カークスは返事をして、靴下を探した。引き出しを開けると、一番上に灰色と紺色の靴下が重なっている。左右で色が違うやつだ。
なんとなくそれを取り出して、でも左右が違うことに気づかずに履いた。それから部屋を出た。
二階から階段を降りると、キッチンから温かい空気がふわりと押し寄せてきた。バターと醤油が混じった甘い匂いが廊下に満ちていた。この匂いが好きだ。朝起きるたびに「ああ、今日も始まる」という気持ちになる。正確には「ああ、まだ今日がある」という気持ちかもしれない。今日もフランが立っていて、卵焼きを作っていて、世界が続いている。
キッチンの入り口で少し立ち止まった。
フランが卵焼きを皿に移しているところだった。フランは背が高い。カークスよりも頭一つぶんは余裕で高くて、ポニーテールにした亜麻色の髪が肩のあたりで揺れている。今日はエプロンをしていて、その柄はなぜか巨大なカブトムシだった。
緑のカブトムシが白い布地いっぱいに広がっている。
誰がそんなエプロンを作ったのか謎だが、フランはとても気に入っているらしく、週に三回は着けている。
一度だけ「そのエプロン、どこで買ったの」と聞いたことがあった。フランは「もらった」と答えたきり、それ以上を言わなかった。
誰にもらったのか、なぜもらったのか、それを知らないカークスは、カブトムシのエプロンをつけたフランを見るたびに少しだけ謎めいた気持ちになる。
「おはよ、寝ぼけ顔」
「おはよう」
「靴下、逆」
カークスは自分の足元を見た。確かに左右が違う。灰色と紺色だ。
「……知ってた」
「嘘つき」
フランは笑いながら、焼きたての卵焼きを皿に盛りつけた。きれいな黄色だった。
端がほんの少しだけ焦げているが、それもまた好きだった。その焦げた部分は少し香ばしくて、甘い本体とのコントラストがちょうどいい。焦げ具合は毎回少し違う。今日は端の端、一番隅だけが少し茶色くなっている程度だ。
テーブルに着くと、向かいにフランも座った。
味噌汁と、ご飯と、卵焼きと、それから漬物。品数は少ないが、カークスはこの組み合わせが一番落ち着く。余計なものが多すぎる食卓は、なんとなく落ち着かない。
たくさん並んでいると「どれを先に食べればいいのか」という妙な焦りが生まれる。シンプルな方がいい。
「今日、学校は?」
「午後から。フランは?」
「私は午前中に市場に行ってくる。夕方には戻るから、夕ご飯は一緒に食べよう」
「うん」
それだけの会話で、カークスは満足していた。フランとの朝の会話はいつもこれくらいだ。
長くはないが、短すぎるわけでもない。
お互いの今日を確認して、夜にまた顔を合わせることを確かめる。それで十分だった。フランも多くを話さない。朝の食卓は基本的に静かだ。でも、静かであることが居心地悪いわけじゃない。
むしろ、そういう静けさが好きだった。
姉のフランは十六歳で、カークスより二つ上だ。
両親が五年前に立て続けに亡くなったあと、フランはあらゆることを切り盛りしてきた。
仕事もして、家事もして、カークスが学校に行ける環境を保って、それでも朝には必ず卵焼きを作った。
カークスが九歳の頃——父親が事故で亡くなった年の冬——フランは毎朝泣いていたが、食卓には卵焼きがあった。
翌年、母親が病気で亡くなった時も、フランの目が腫れていた日が何週間も続いたが、朝には卵焼きがあった。
カークスはそのことに気づいてから、卵焼きというものが「フランが生きている証拠」のように感じるようになった。フランが泣いていても、卵焼きは出てきた。
フランが苦しそうでも、匂いはした。だから目が覚めたとき、匂いがすれば、まずフランが今日も立っていると分かる。
なんでそんなことができるのだろう、とカークスはよく不思議に思う。
自分には無理だ。自分はフランがいなければ、きっとすぐに空中分解してしまう。
靴下の左右も揃えられないのに、生活なんてできるわけがない。
誰かのために食事を作り続けるなんて、もっとできない。
自分のために何かをするのでさえ、フランがいないと後回しにしてしまう。
宿題、着替え、洗い物——全部フランに言われてからやる。
でも、フランは一度も「面倒くさい」という顔をしなかった。カークスが靴下を逆に履いていても、「逆」と言って笑う。怒らない。溜め息もつかない。ただ笑う。それがフランという人間だった。
そういうことを、カークスはちゃんと知っていた。知っていて、でも考えないようにしていた。
考えると、怖くなるからだ。フランがいなくなったら自分はどうなるのか、という問いは、頭の端に常にあった。でも答えを出す必要がないうちは、出さない方がいい。
フランはここにいる。毎朝卵焼きを作っている。だから今は、そこだけ見ていればよかった。
「ねえ、カークス」
フランが味噌汁を一口すすって言った。
「なに」
「最近、変な噂があるじゃん。魔法使いの話」
カークスは卵焼きを噛みながら、少し顔を上げた。
「……聞いた。人を液体にするやつ」
「そう。人工培養液とかいうらしいよ」
フランはどこか遠い目をした。心配そうというよりは、考え込むような顔だった。人差し指を唇の端に当てている——考えるときのフランの癖だ。
その噂は半月ほど前から、ヴェルテの町でもちらほら耳に入るようになっていた。東の方の街で何人かの人間が「液体になった」という話だ。
具体的にどういう状態なのかはよく分からないが、消えたわけではなく、生きたまま液体の形になって、誰かの手に持たれているらしい。
最初にその話を聞いたのは、学校だった。
隣の席のセリが「ねえ知ってる? 培養液ってやつ、容器の中に入れられて永遠に出られないんだって」と言っていた。
そのとき、カークスはあまりぴんと来なかった。人間が液体になるというのが、どういうことなのか、うまく想像できなかった。
液体になっても意識があるというのも、どういう感覚なのかが分からない。でも噂は毎日少しずつ大きくなっていった。三日前には、東の街の商人がヴェルテに来て「知り合いが消えた」と言っていたという話を聞いた。
二日前には、ヴェルテの外れで青白い光を見たという人がいた。昨日には、自警団が「不審な人物の目撃情報がある」と立て看板を出したらしい。
「魔法使いなんて本当にいるのかな」とカークスは言った。
「さあ。でも世の中には不思議なことはあるからね」フランはあっけらかんとした口調で言う。「気をつけて損はないよってことだけ、言いたかった」
「気をつけてって、どうやって」
「人通りの少ない場所に一人でいかない。知らない人についていかない。そういうやつ」
「小学生みたいな話だ」
「まあね」フランは笑った。
「でも案外そういうので防げることって多いんだよ。難しいことじゃなくて、基本的なことを守るだけで、世界のほとんどの嫌なことは避けられる。難しそうに見えることでも、大体は単純なことが原因になってる」
フランがそういうことを言うとき、なんとなく自分の経験から来ているんだろうな、とカークスは思う。
両親が続けて亡くなって、十四歳でひとりで家を切り盛りするようになって、フランは何か「生き延びるための知恵」みたいなものを自分で積み上げてきたのだと思う。いつも少し先を見て、起きていないことを想定して、そのための準備をしている。それがフランという人間だ。
「それ、市場でも話題になってたの?」
「うん。おばちゃんたちが心配してた。子どもが一人でいるところを狙うんじゃないかって」
「なんで子どもを?」
「さあ。体が小さい方が培養しやすいとか、そういう話じゃないかな」フランはあっけらかんとした口調で言う。「まあ根拠はない噂だけどね」
カークスはそれを聞いて、少し背筋が寒くなった。
「ねえ、フラン」
「なに」
「なんで魔法使いって、人を液体にしたいんだろう」
フランは少し考えた。考えるときに人差し指を唇の端に当てる癖があって、今日もそれをやっていた。少しの間、宙を見てから答えた。
「うーん……自分の思い通りにしたいからじゃない?」
「思い通りに」
「人って、自分の意志があるじゃん。好きなものも嫌いなものも、やりたいこともやりたくないことも。そういうのがある限り、完全には操れない。どんなに力があっても、人間の心の中まで入っていくことはできないから。でも液体にしちゃえば、そういうの全部なくなるでしょ。形もなくなる。自分の意志を形成する器そのものがなくなるんだから」
「……気持ち悪い」
「そうだね。気持ち悪い」フランはあっさりと同意した。でもその声には、何か別の重みがあった。「人を自分の思い通りにしようとするやつは、最後には何も手に入れられないよ。手に入れたと思っても、それはもう人間じゃないんだから。そんなものに意味はない。人形を集めても、それはただの人形だ」
「じゃあ何がしたいんだろう、その人は」
「……それが分からないよね」
フランは少し目を細めた。
「たぶん、自分でも分かってないんだと思う。何かがすごく悲しくて、すごく怖くて、それで変なことを始めちゃう。そういうことって、あるんじゃないかな。本当に手に入れたいものは別のところにあるのに、それを直接取りに行く方法が分からなくて、代わりのものを手に入れようとする。でも代わりでは満たされないから、もっと集める。それが続く」
その言葉は、静かにカークスの中に落ちた。
大事なことを言っているのかもしれないな、と思ったけれど、朝ご飯の席でそこまで考えを広げるのは面倒だったので、カークスは「そうだね」と短く答えて卵焼きの最後の一切れを食べた。
甘くて、少しだけ醤油の香りがして、バターのコクがある。
いつもの味だった。
*
午後の授業は退屈だった。
カークスが通うヴェルテ中等学校は、町の北側にある古い建物で、廊下の床がところどころ軋む。
建物の隅に苔が生えていて、窓枠が少し歪んでいる。でも不思議と嫌いじゃない。
古い建物には、長い時間が積み重なった感じがある。この廊下を何十年分もの人が通ってきた。
その足跡が、軋みになっている。
授業内容は可もなく不可もなく、歴史と地理は好きで、数学はそこそこ。
国語の時間に先生が「この主人公の気持ちを書きなさい」と言ってくるのは苦手だった。
登場人物の気持ちが自分には分からないことが多い。なぜその行動をとったのか、なぜそこで泣いたのか、なぜその人を好きになったのか。説明してほしい、といつも思う。
文章の行間というのが、カークスには読みにくい。
友達は数人いるが特別親しいわけでもない。
隣席のセリはよく話しかけてくるが、カークスはあまり深い話をしない。
悪い子じゃないと思うが、どこまで話していいのか分からない。
「親が死んだ」「姉と二人で暮らしている」「毎朝卵焼きの匂いで目が覚める」——そういうことを話す相手が、学校にはいなかった。
別に話したいわけでもなかった。ただ、そういう話は自分の中にあって、外には出てきていない、ということだった。
学校という場所はカークスにとって「過ごす場所」であって「好きな場所」ではなかった。
今日の午後の授業は、歴史と自然科学と体育だった。歴史は先生の話が面白かった。百年前にこの地方で起きた水害の話で、当時の人々がどんなふうに対処したかという内容だった。川の水が増えたとき、何を優先して何を諦めたか。そういう話は、カークスは聞いていられる。
自然科学は植物の細胞の構造についてで、教科書に細胞の図が載っていた。透明な膜の中に、様々な小器官が浮かんでいる。液体の中に、機能を持ったものが浮かんでいる——それを見て、カークスは朝のフランの話を思い出した。人間が液体になるというのは、もしかしてこういうことなのだろうか。細胞が液体になって、意識だけが残る。意識は何かの中に浮いている。目に見えないが、確かにそこにある。想像したら、少し気持ちが悪くなった。
体育は外でのランニングだった。秋の空気が冷たくて、走るとすぐ息が切れた。カークスは体力がない方ではないが、ランニングは好きではない。どこかに向かって走るなら意味があるが、ただグラウンドを周回するだけというのは、何のためにやっているのか分からなかった。グラウンドを走りながら、カークスはぼんやりと考えた。フランはどこかに向かって走ることがある。市場に急いで行くとき、カークスを呼ぶとき。それは分かる。でもグラウンドの周回は、始まりと終わりが同じ場所だ。走っても戻ってくる。そういう走り方の意味が分からない。
放課後、帰り道を歩きながらカークスは空を見上げた。午後になって雲が少し薄くなり、灰色の向こうにぼんやりと光がある。町の電柱の上で鳥が一羽、羽を膨らませて座っている。寒そうだ。
学校の近くで、隣のクラスのユーリに会った。
「なあ、さっきの噂聞いたか」
「何の」
「液体人間の魔法使いだよ。昨日、ヴェルテの西の農家で牛が消えたって。青白くてどろどろした液体になって、大きな瓶に入ってたって話だ。農家のおじさんが半泣きで自警団に届けたって言ってた。牛って大きいじゃん。あの大きな牛が瓶に入ってたって、どういうこと?」
「それ、ヴェルテに近づいてるってこと?」
「そういうことになるよな。西の農家って、町からそんな遠くないし。気をつけろよ。学校の帰りとか特に。明るいうちに帰れって言ってた」
カークスは頷いた。でも正直なところ、気をつけろと言われてもどうすればいいのか、よく分からない。魔法使いを相手に、気をつけるとは何をすることなのか。
電柱の角を曲がったところで、立て看板が目に入った。
〈注意:この地域で不審な人物の目撃情報あり。夜間の単独外出は控えてください――ヴェルテ自警団〉
さっきフランが言っていた話だ。魔法使いの噂は、もうここまで来ているのか。看板の文字は手書きで、急いで書いたような跡がある。でも「夜間の単独外出は控えてください」という言葉だけはしっかりと書かれていた。
カークスはその看板の前で少し立ち止まった。不審な人物、という言葉が引っかかった。どんな人物なのか。見た目で分かるのか。普通の人間に見えるのか、それとも何かが違うのか。もし普通に見えるなら、どうやって気をつければいいのか。
カークスは少し足を速めた。
家に帰ると誰もいなかった。フランはまだ市場から戻っていないらしい。靴が玄関にない。
カークスは鍵を開けて中に入り、学校の荷物を置いて、制服のまま机に向かった。宿題は少ないが、やらないより早めにやった方が気が楽だ——これはフランに何度も言われてきたことで、今ではもう習慣になっている。フランは「後でやろうと思ってることは、だいたい後でやらない」と言う。「今の自分と後の自分は別の人間だと思った方がいい。後の自分を信用しすぎるな」とも言う。それは正しいと思う。カークスの「後でやろう」はだいたい実現しない。
地理のプリントと、数学の小テストの直し。三十分ほどで終わった。
でもフランはまだ帰っていない。
カークスはそのことに気づいてから、ソファに座って本を読んだ。冒険小説だ。主人公が砂漠で道に迷う場面だった。でも気がつくと同じページを三回読んでいた。文字が目に入っていても、頭に入らなかった。主人公が砂漠で迷っているのに、自分は卵焼きのことを考えていた。
外が暗くなりはじめた。
玄関の時計を見ると六時四十分だった。市場は普通、夕方の五時頃には閉まる。「知り合いに会った」くらいなら、遅くても六時には帰ってくるはずだ。七時近くになるのは、普通ではない。
カークスは少し立ち上がって、窓から外を見た。通りに人が少なくなっていた。ヴェルテは夜が早い町だ。暗くなるとみんな家に入ってしまう。今日はその傾向がいつもより強い気がした。立て看板の効果か、それとも単なる気のせいか。
通話水晶を手に取ってフランに声を送ろうとした時、玄関のドアが開く音がした。
「遅くなった!」玄関から元気な声が飛んできた。「市場で知り合いに会っちゃってさー、話が長くなっちゃって」
カークスはソファから立ち上がった。玄関まで行くと、フランが荷物を下ろしているところだった。顔は普通だ。特に変なことはない。少し疲れた様子だが、それだけだ。
「ご飯、どうする」
「作る作る。待ってて」
それから三十分で、フランはスープと焼き魚と野菜炒めを食卓に並べた。なんでそんなに速いのか、毎回不思議に思う。野菜を切って、肉を焼いて、スープを温めて、全部同時に進行させて三十分で三品。カークスには到底できない芸当だ。
夕飯を食べながら、カークスはさっき聞いた牛の話をフランにした。
「知ってる」とフランは言った。「市場でそれも出てた。でも、今日会った知り合いに別の話も聞いてね」
「別の話?」
「東の方から来た行商の人が言ってたんだけど」フランは少し声を低くした。「液体になった人を、その魔法使いは集めてるらしい。容器に入れて持ち歩いてるって。何人も」
「集めてる」
「そう。何かのために集めてる。目的は分からないって」
カークスはその言葉を聞いて、自然科学の授業で見た細胞の図を思い出した。もしかして、液体にした人間から何かを吸い上げているのだろうか。そういう使い方があるのかもしれない。
「怖いな」とカークスは言った。
「怖いね」フランは頷いた。「でも、まだここには来てない。気をつけてれば大丈夫だよ」
フランはそう言ったが、その目がどこかに向いているような気がした。遠い何かを見ているような。カークスはそのことが少し気になったが、言葉にできなかった。
夕飯を食べて、お風呂に入って、カークスはまた部屋に戻った。
ベッドに転がって、天井を見た。
平和な夜だな、と思った。本当に、なにも起こらない夜だな、と。
窓の外からかすかに風の音がした。秋が深まっている。窓際の石が、暗い中でぼんやりと形を作っている。いつものように、そこにある。一番端の赤い石を、暗がりの中でじっと見た。父が生きていた頃に拾った石。「大事にしなさい」と言われた石。大事にしている。ここにある。
でもそれは、この夜が最後だということを、まだ知らなかったからだ。
*
深夜の二時過ぎ、カークスはふと目が覚めた。
なぜ目が覚めたのか分からなかった。夢を見ていた気もするが、内容は覚えていない。ただ、胸の中に何かひっかかるようなものがある。不快ではない。でも何かが引っかかっている感じがした。
喉が渇いていた。水を飲みに行こうとして立ち上がり、廊下に出たとき——フランの部屋のドアが少し開いていることに気がついた。
いつもは閉まっているドアだ。フランは就寝中は必ず閉める。
ノックしようとして、手を止めた。
声が聞こえたからだ。
フランの声ではなかった。
低くて、静かで、まるで水が流れるような声だった。単語が滑らかに溶け合って、意味を成す前に流れていくような、不思議な音の並び方をしている。何を言っているのかは聞き取れない。ヴェルテで使われている言葉ではないのかもしれない。あるいは、言葉ですらないのかもしれない。でも確かに、誰かがフランの部屋で話していた。
カークスは廊下に立ち尽くした。
心臓が、いつもより少しだけ速く動いていた。
部屋の中に人間が入り込んでいるということは——玄関から? それとも窓から? 窓は二階だ。外から入れるような足場はないはずだが。
もう一度、声がした。今度はフランの声だった——でも、どこか遠いところから聞こえてくるような、奇妙な響きを帯びていた。夢の中で話しているみたいな、輪郭のぼやけた声だった。
「フラン……?」
カークスは小声で呼びかけながら、ドアを少し押した。
部屋の中は暗かった。
でも窓から入る外の光の中に、フランの姿があった。ベッドに座って、何かを持っていた。小さな瓶のような形のもの。その中に、青白く光る液体が入っていた。
液体は自分から光っていた。外の光を反射しているのではない。内側から、青白い光を放っていた。その光は揺れていた。ゆっくりと、呼吸でもするように。
フランはその瓶をじっと見つめていた。表情は見えない。暗くて、横顔しか分からない。でも、見つめ方が普通ではなかった。まるで引き込まれているような。
「フラン」
少し大きな声で呼ぶと、フランはビクッとして振り返った。
「……カークス」
「何してるの、こんな時間に」
「あ、えっと」フランは笑った。でもその笑い方はいつもと少し違った。口角は上がっているが、目が笑っていない。口だけで作った笑顔だ。「喉渇いてたから、水を……あれ、水はキッチンか」
「その瓶は?」
「え?」
「持ってるやつ」
フランは少しの間、手の中の瓶を見た。自分が持っていることを、あらためて確認するような目の動き方だった。瓶の光が、フランの指先を照らしていた。青白い光が指の間から漏れている。それから笑顔を作り直して言った。
「なんでもないよ。もう寝な、カークス。明日も学校でしょ」
それだけ言って、フランは瓶を引き出しの中にしまった。
カークスは何か言いたかったけれど、言葉が見つからなかった。あの液体が何なのか。なぜフランが持っているのか。なぜ深夜に一人でそれを見ていたのか。でも、フランの「なんでもない」という声が、あまりにも平静すぎて、それ以上踏み込む隙がなかった。
「……おやすみ」
「おやすみ。ちゃんと水飲んでよ」
フランの最後の言葉だけが、いつも通りだった。
自分の部屋に戻って、ベッドに横になった。
しばらく眠れなかった。
青白い光の残像が、まぶたの裏にある気がした。ゆっくりと揺れる光。呼吸するみたいな光。
聞けばよかった、とカークスは思った。「その瓶は何」「どこから持ってきた」「町の噂と関係があるのか」——全部、聞けた。フランは「なんでもない」と言ったが、それで引き下がらないこともできた。自分には、それができた。
でも、しなかった。
フランが「なんでもない」と言った。だから、なんでもないことにした。知らなければ、何も変わらない。変わらなければ、怖くない。明日も卵焼きの匂いで目が覚める。そう思うことにして、目を閉じた。それが——自分に正直に言えば——逃げだということは、分かっていた。
でもいつの間にか意識が薄れて、朝になった。
そして朝になったとき、フランはいなかった。
カークスが卵焼きと向き合い始めたのは、父が死んだ翌年の春だった。
フランに「料理を覚えなさい」と言われて、最初に試したのが卵焼きだった。なぜ卵焼きかといえば、毎朝食べているから手順が一番イメージできたから、というだけの理由だった。でも実際にやってみると、全然うまくいかなかった。
卵を割るのは大丈夫だった。でも混ぜ方が分からなかった。どのくらい混ぜればいいのか。醤油はどのくらい入れるのか。砂糖は? フランはいつも目分量でやっているが、カークスには量が分からない。
フランに聞いたら、「感覚だよ」と言われた。
「感覚って何」とカークスは聞いた。
「ちょっと甘くて、ちょっとしょっぱくて、美味しい感じ。それが感覚」
「それを最初から知ってたの」
「知らなかった。失敗しながら覚えた」
フランも最初は失敗したのか。そのことが、カークスには意外だった。フランが何かで失敗しているところを、見た記憶がない。
「フランが失敗した卵焼きって、どんなの」
「焦げすぎたり、火が通ってなかったり、ぐちゃぐちゃになったり」フランは笑った。「最初の一週間は毎朝失敗してたよ」
「いつ上手くなったの」
「気づいたら上手くなってた」
その日、カークスは卵焼きを三回作った。最初は卵が固まる前に崩れた。二回目は焦げた。三回目は形は一応できたが、中が半熟すぎた。フランは三回とも「おいしい」と言って食べてくれたが、カークスは納得できなかった。
でも、フランの卵焼きの匂いを嗅ぐたびに、自分ももう少し上手くなれるかもしれない、と思った。
そういうことが、この家にはある。
失敗しながら覚えて、気づいたら出来るようになっていることが。
*
学校の帰り、カークスはいつも少し回り道をする。
パン屋の前を通って、花屋の前を通って、古い時計屋の前を通る。時計屋のショーウィンドウには、ずっと同じ古い時計が飾ってある。動いているのか止まっているのか分からないが、ずっとそこにある。カークスはその時計を見るのが好きだった。理由はよく分からない。ただ、ずっとそこにあるということが、なんとなく好きだった。
今日は時計屋の前で少し立ち止まった。
時計の針は、いつもの位置にあった。動いていた。少なくとも、今は動いている。
ヴェルテという町は、こういう町だ。パン屋と花屋と時計屋が並んでいて、みんなが何十年も同じ場所に店を開いている。変わらないことが、この町の特徴だ。
変わらないことが、好きだった。
でも——変わることを怖がっていたのかもしれない。変わることで、また何かが崩れるのが怖かった。両親が亡くなって、世界が変わった。だから、変わらないことにしがみついていた。
カークスはそのことに、この日初めて気づいた。
変わらなければいい、ではなく——変わった後でも、また作っていける。フランはそれを証明してきた。毎朝、卵焼きを作ることで。




