灰色の壁を越えていく/創作百合
文学フリマ東京42にて販売する月×クソデカ感情×SFオムニバス短編集「月からかえり君に会えたら」の第六話です。
〝あの探検家の佐藤〟の娘である綾香は、恋人の紗世と遭難していた。
紗世の身の上話を聞いたことで、綾香は生き残るために行動することを決意する。
父はよく探検に出る人だった。山にも、海に浮かぶ孤島にも行ったし、月の地面も踏んだ。
民間人である父が様々な場所に訪れる様子は目立ち、テレビでも多く取り上げられた。それなりに資産があったらしい父の実家は父の探検に付き合うお金があったし、父が月渡航に成功してからは話題性でさらに金銭を得ていたようだ。父は得られたお金で、さらに様々な土地へと足を延ばした。
父の月渡航は世間的なエンターテインメントだった。アクロバティックな空中散歩、秘められた遺跡への探検、切り立った崖を登りきるパフォーマンス……。私が生まれる前から私の家は探検、そして月の話題でいっぱいだった。探検家・佐藤は日本のみならず世界に名前を轟かせていた。
兄、そして私が生まれてからも佐藤家はメディアで取り上げられていた。〝あの探検家・佐藤の息子〟と冠されて、兄がインタビューを受けたことは一度や二度ではない。その兄は生まれつき身体が弱く、月どころか山を登る事さえもできないほどだったのだが、テレビの画面越しに期待を一身に受けていたのは確かだ。目を輝かせて興奮気味で話をする兄、その後ろで父は何とも言えない穏やかな表情でその姿を見つめていた。
私が父と共にクライミングに行ったとき、山頂で私は父に言った。
『いつか私がお父さんみたいに月へ行くよ』
父は兄のことを諦めていたようで、私はそんな父を元気づけたかったのだ。兄と違って私の身体は丈夫で、こうして父と一緒に野山を歩き回ることもできる。私もいつか月に行けると信じていた。
父は私ににっこりと笑った。
『綾香は女だからなあ』
父は私の頭を撫でて言った。
女は探検家にはなれない、そう言われた気がした。
探検家・佐藤の息子として兄が取り上げられているのを私は羨ましく思っていた。兄なんかより私の方が探検家にふさわしい。登山に同行させてくれる父も一緒の思いだと、そう思っていたのに。私は父に失望した。
父に拒絶されたような気がした私は家を離れた。探検家・佐藤の娘として栄誉を求めるのではなく、ひっそりと月を目指すことにしたのだ。
***
目が覚めると薄暗かった。眠ってしまう前と何も変わりがない、灰色の壁が目の前にある。
私は父の夢を見ていた。子供の頃に体験した山での出来事は幾度となく繰り返された情景だった。大変にショックを受けたことだったし、父の言葉は私の身体に呪いの楔のように打ち付けられていた。こうして月に来るようになってからもそれは変わらない。
月は山よりも険しい。男でも辛いのだから、女ならなおさらだという意味だったのだと思う。今ならそうだとわかる。しかしながら、父の言葉はしこりのように私の身体の中で幅を利かせている。女だからという理由で先駆者の後に続く者にはしてもらえなかった。
わだかまりが消えないまま父は突然死んだ。
「どうしたの」
傍に寝ていた紗世が私に無線で話しかけた。身体を起こそうとしている彼女を見て、慌てて制止する。
「動くと身体に触るよ」
「大丈夫だよ、そこそこ良くなった」
紗世は仰向けにしていた身体をもぞもぞと動かして私の方に向いて横向きに寝た。宇宙服のヘルメット越しに紗世の顔が見えるようになった。心配そうな顔で私を見ている。
「なんか寝言を言ってたよ」
「寝言?」
「お父さんの夢、見てなかった?」
紗世が私に聞いた。私は頷く。
「ちょっと昔の夢を見てただけ」
「綾香のお父さんって月の探検家だったんでしょ? 今はどうしてるの?」
紗世と付き合ってから一年になる。する必要がない……と、避けていた家族の話題だ。父については特に彼女に話すのが気が引けた。紗世も私と一緒に月に来ている女だから。嫌な思いはさせたくなかった。
「お父さん、急に死んだんだよね。お酒を飲んでる最中に心臓発作で」
紗世がそうなんだと頷く。私は父に関するできるだけ良いエピソードを掻い摘んで紗世に話した。探検家・佐藤と言えば紗世もわかると思うけど、私はあえてその話はしたくなかった。
「──お父さんは私が月に来るなんて思いもよらなかっただろうな」
私は紗世に言った。父は、女は月に行けないと思っていた。
でも、今、私は紗世と一緒に月にいる。
そして、月の裂溝に落ちて、二人で救助を待っているのだった。
私は時計を見た。亀裂に落ちてから九時間は経っている。
「日付が変わった」
「じゃあ、十九日?」
紗世の問いかけに私は頷いた。
「じゃあ、今日は満月なんだ」
「満月かどうか、ここからじゃわからないけどね」
紗世がそうだね……と、小さく返事をした。それから黙り込んだ後、話しておくことがある、と続ける。
「どうしたの、急に改まって」
紗世が私に向き合おうとして少し身体を起こす。
「今まで独身だって言ってたけど、ごめん。私、子供がいるんだ。今、八歳になってる。名前は賢人。前の彼氏との子供なんだけどさ。施設にいる」
私は紗世の話の唐突さに驚いた。紗世の言葉は耳をすり抜けていっただけで、私は彼女の話の内容を上手く掴めなかった。
「急にどうしたの?」
もう一度同じ話をしてほしいという意味で、私は紗世に返事をした。
「落ちた時、わりと身体をぶつけたじゃない? それは大丈夫だったんだけど、酸素がだめっぽいのね。綾香が寝てるときに気が付いた。急に苦しくなるより、先に言っておいた方がいいと思って」
紗世の顔が険しくなる。彼女が言うのだから、予備も確かめた上での話だろう。生憎、私の酸素を紗世に渡す装備はここにはない。
「だからごめん。黙って付き合うのフェアじゃなかった」
私は紗世の身の上話よりも、紗世が使っているボンベの酸素が無くなりそうなことの方が衝撃的な話だというのに。紗世としては、地球に残してきた子供について私に伝える方が重要な話題だったらしい。彼女は話を続けた。
「賢人と、今日は月にいるよって話をしてたんだよね。そしたらさ、施設で満月の日にお月見するんだって。私が見えるかもしれないねって言ってた」
紗世は淡々と話しているが声が震えている。急激な湿気でヘルメットのガラスが曇り紗世の表情は見えない。どんな土地でも明るく前向きな紗世が私に見せた初めての動揺だった。
紗世の話を半分ほども咀嚼できないまま、でも言いようのない衝動に駆られて、私は思わず立ち上がっていた。
「……綾香?」
「行こう、上」
紗世の話が私を奮い立たせたのかどうかはわからない。何か勝機という物がある確信もなかった。けれど、私が一瞬で考えついたのは、紗世と共にこの裂溝から脱出することだった。崖の上に登って戻れば装備が残っているかもしれない。運良く行けば月探査チームに見つけてもらえる可能性もある。
私は自分の装備を整理して必要最低限にした。クライミング装備は一式転がっている。マルチピッチをするか、あるいは私が紗世を引き上げながら登るかのどちらかは出来そうだ。
「紗世、起き上がれる?」
シールドの向こうで目を潤ませていた紗世が驚いた顔を見せた。
「待って、登るつもり?」
「ここにいても仕方がないからね。起きれないなら背負って運ぶよ」
紗世は一瞬言葉を詰まらせ、それから、自分の傍にあった装備の中身を探り始めた。
「本当に、綾香行くの?」
「大丈夫。やってみよう。それに、賢人君が月を見てるんでしょう?」
きっと、紗世のことを応援してるよ、と私は続けた。賢人君が実際どういった子供なのか私は知らない。けれど、紗世が月にいることを彼は知っているのだ。私はそれだけで彼女とその息子の間には信頼関係があるのだと感じていた。
紗世は少し鼻を啜ったあと、自分の装備の中からロープやカラビナを出し始めた。
灰色の月の壁を見て、私は父と登った崖を思い出す。
『綾香は女だからなあ』
穏やかな拒絶が聞こえたが無視した。
私は女だけれども、確かにあの時、父と岩壁を登り切ったのだ。その結果は変わらない。男でも女でも、やれるときはやれる。
***
マルチピッチクライミングは慣れている。地球の上でなら、私は父と一緒にどんな険しい壁でも登った。昔は父の背を追って切り立った壁を登っていたのだけど、今は私がリードだ。紗世は私の後をついて登った。
お互いに裂溝に落ちて怪我をしている。おまけに紗世の酸素は残り少ない。慎重に、そして何より早く裂溝の上に辿り着かなければならなかった。道を切り開くという緊張が私を包んでいた。
月の壁は地球にいる時とは違って地質がわかりづらかった。支点のボルトが入り込む余地や脆く崩れやすい場所を見極めるのは至難の業だ。おまけに宇宙服が邪魔をした。だけど、最低限にした装備をこれ以上は捨てられない。実際に岩を触れないクライミングがこんなに難しいことだなんて、私は思ってもみなかった。
上手く進まない登攀に、私は少し焦っていた。
『大丈夫? ゆっくりでいいから確実に行こう』
紗世の声が無線で聞こえる。今はもう紗世の方が冷静に思えた。
「大丈夫。すぐにここから脱出しよう」
私は紗世に返事をしながら次の支点をつくる場所を探す。灰色の壁は砂でざらついている。ここじゃない、とさらに上に手を伸ばしたその時だった。
ざり、と足裏が滑り、私は浮遊感に襲われていた。目の前の岩壁が霞む。足を滑らせたのだとわかると同時に、喉の奥から空気が漏れて耳に響いた。
「ひっ」
悲鳴が無線を通じて紗世に聞こえたに違いない。綾香! という紗世の叫び声が聞こえた。
紗世を巻き込む! 脳に浮かんだのは最悪の事態だった。二度目の落下だ。落ちれば再び上がれないだろう。私はそれに抗うように宙に向かって手を伸ばして掻いていた
──お父さんっ!
声にならない叫びと共に、私は暗闇に手を伸ばす。私は父の背をそこに見ていた。
──綾香。
父に名前を呼ばれて、私は死んだと思った。
ぐん、と身体に衝撃を受けて、落下が止まった。気が付くと私は宙に浮かんでいた。ブランコに乗った時のように身体全体が揺れている。紗世の確実なビレイのおかげで、私は裂溝に落ちなかったのだ。
『綾香! 大丈夫?!』
紗世が無線で呼んでいる。
「生きてる」
私は呆然と声を出した。
身体全体がぶるぶると震えている。落下は一瞬だったが、恐怖はそのあと何分も続いた。
『こっちは大丈夫だから。取り付ける?』
次の行動にすぐ移れない私に対して、紗世がテキパキと指示を出す。頼もしい探検パートナーの姿がそこにはあった。
「大丈夫。いける」
私は近くにあった岩に取りつく。紗世の合図を受けて体勢を立て直し、私は慎重に崖を昇り直す。
紗世のいる地点まで戻ると、支点にあったのは父からもらったボルトだった。紗世からそれを受け渡される。
名前を呼ばれたのは幻だったかもしれない。だけど、私は父に登れと言われた気がしていた。
「それじゃ、先に進もう」
私は再び崖と向き合う。登り切って、紗世とこの灰色の壁から抜け出すと決意しながら。
お読みいただきありがとうございました!
いつも閲覧、評価ありがとうございます!
とても嬉しいです~☺




