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あなたを救うための嘘をつこう

文学フリマ東京42にて販売する月×クソデカ感情×SFオムニバス短編集「月からかえり君に会えたら」の第一話です。


研究室で肉の味を研究している加藤千春はかつての恋人笹岡望からの手紙を受け取る。望が直面した事故、千春に向けた思いを読み、千春は過去の出来事を反芻する。

 ウミガメのスープを食べられると聞いて、私はそのレストランを訪れていた。ウミガメは絶滅危惧種に指定されているのだからスープが本物かはわからない。しかし、ウミガメのスープを食べることで、私は私の空想の世界に浸れると思っていたのだ。水平思考クイズと同じようなシチュエーションであるし、少なくとも、私が知りたい答えに近づくことはできる。


 ──あっさりしてたな。


 ウミガメかウミガメではないか。どちらかというと貝出汁に近くはないだろうか。程よい塩辛さが身体に染み渡る。スープの味に満足した。しかし、答えに近づけたかについては疑問に思いつつ、私はレストランを出た。


 身体は温まっていたが、冬空の下は寒い。ファンデーション以外何も纏っていない頬を冷たい空気が撫でた。風が吹いて、一気に冷気に巻かれる。紺色の空を見上げると吐いた息が白く昇っていく。空気は澄んでいた。レストランの中で感じていた温かさが瞬時になくなり、私は急に別世界に放り込まれたようだった。


 視線を前に戻すと若い男が私と同じように月を見上げながら立っていた。いくらか幼い感じの顔だ。私に気が付くと、男はウミガメのスープ食べました? と話しかけてきた。


「えーと。はい。スープ目当てで」


「すみません。注文してるのを聞いちゃって……。あの、俺もです。ウミガメのスープ」


 私よりも若そうな男ははにかんで言った。


 嘘か真かわからないウミガメのスープなんて代物を飲みたいと思うのは同士かもしれなかった。すなわち、水平思考クイズを頭に強く印象付けられた者だ。ウミガメのスープよりも、その〝答え〟である人間のスープの味に惹かれた存在である。


「ウミガメのスープと人間の味、どう違うのかを考えていました」


 男の人懐っこさに釣られて、私は余計なことを言ってしまった。良い歳して大人になっても厨二病な奴だ。そう思われたかもしれない。私は口をつぐんだ。


 男はあっけにとられたような顔をして、しかし、笑顔になっていった。


「俺も同じことを考えていました」


 月明かりで異世界にいるような夜。そして、コートにマフラーを付けていても寒い夜の出来事だ。


 笹岡望(ささおかのぞむ)との出会いはそれが最初だった。


 望とはそれがきっかけで会うようになった。最初の話題は人間の味の話だ。私たちが食べたウミガメのスープの味とは何が違うのか。筋肉、コラーゲン、脂の量と質、食感から後味まで私たちは人間とウミガメの味について盛り上がった。


 二人で会うようになってしばらく経ってから、お互いの境遇を話したり、手を繋いだり、セックスをしたりもしたが、微睡んでいる最中でも、私と望の話題は変わらなかった。


 私たち二人は人間を食べるという空想的なことに夢中で、その材料の調達方法から料理の方法まで一通りの流れを夢想して楽しみ、そして、現実にはそんなことは叶わないのだけど、と笑いあったのだった。


 ある夜のことだ。私の家へと向かう途中、月明かりに照らされている舗装された土手をどんどん歩きながら、でも私に聞こえるような大きな声で望は話を続ける。


「俺はどうしても、ウミガメのスープと人間のスープの味の違いを考えてしまって、じゃあ、人間を食べればいいんじゃないかという考えが抜けなくて、ただ実行しない小心者なだけな奴なんだ。機会があれば俺は人間を食べたい。食べて、ウミガメのスープとは全く別の物なんだと実感がしたいよ」


 私はうん、と望に相槌を打つ。


 望が何を言いたいのか、彼の中でまとまっていなくてもそれでいい。私は望の空想的な話を聞くのが好きで、私自身も彼と同じ願望を持っていると考えていた。自分よりも十歳も若い男の話に浪漫を感じて、私自身も浮かれていた。


「私もウミガメのスープと人間のスープ、人間の方が匂いが強そうだと思ってるよ!」


 先に歩いて行ってしまった望の背中に私は大きく叫んだ。周囲を歩いていた人がぎょっとした顔で私を見る。


 望が振り返った。


「俺も千春(ちはる)さんと同じ説だよ!」


 望は満面の笑顔だった。二人で笑った。


 ***


 望と別れて数年が経つ。私は三十六歳になっていた。大学の研究室に残って肉の研究をしている。肉の味が含有するうまみ成分、つまりタンパク質の組成によって変わるであろうという予測の元、新たに価値のある味を見出すことができないかの思考を現実にしようとしているのだった。うま味の成分であるアミノ酸の一部は人間の中にも豊富に含まれている。アミノ酸の組成を解明すればいずれは人間の肉の味を再現することも可能になるだろう。……その味を知っているのならば。


 望と別れたきっかけは私の研究室内での昇進だった。企業との共同研究を掴んだ私は当時激務で、家に帰って休むこともままならない生活を送っていた。


 肉の味の研究は私のライフワークともいえる。それで身を立てることができるのは私にとって願ってもないことだ。望と会う時間をも削って研究に勤しんだ結果、私は研究室内でポストを得た。


 望は私が家庭に入ることを望んでいた。しばらくは共稼ぎだろうが、いずれは子供が欲しいと望は私に話していた。それはきっと私の未来を閉ざすことになる。私は望と何度も話し合って、その全てが平行線に終わった。


 望のことは好きだが、年若く未熟な人間と家庭を築けると思えなかったのも別れの理由の一つだ。誰かを支えて生きるよりも、一人で生きていく方が気楽な私にとって、望は嗜好が合う人間ではあったけれども、共に生きる存在ではなかった。


 研究を我が子のように思っている私と、家庭と子供を望んでいる望との関係はすれ違いに終わった。


 望と分かれてから私の生活は静寂が続いたがそれもしばらくすると慣れた。


 望は彼が所属していた研究室で、月探査チームに抜擢されて月に行ったと聞いていた。


 ***


 その人がやってきたのは私が研究室から帰る途中のことだ。


「加藤千春さんですか」


 研究所の前で私を呼び留めたのは若い男の子だった。学生服を着ていれば高校生にも見える。こちらを伺う様子で声をかけてきたその子を見て、誰かに似ていると私は感じた。


「僕、望の弟です。笹岡望の。兄を覚えていますか?」


 その言葉を聞いて私の中で男の子と望の面影が重なる。引き締められたような薄い唇が望にそっくりだ。目は父親によく似ていると望は話していたから、じゃあ口元は母親似だ。そう望と話した他愛もない会話が蘇る。親しみのある顔と話題を思い出して、私は懐かしい気持ちになる。


「これ兄からの手紙です。読んでもらえませんか?」


 男の子が差し出してきたのは一通の手紙だった。私は望との関係はとうに終わったことだという理由で、それを受け取るのを断る。望の弟は緊張した面持ちで食い下がってきた。


「は、話を聞いてください」


 大人相手にしどろもどろになりながら彼が口に出したのはあるニュースについてだった。


 数か月前、世間的に大きく報道されたけれども、その詳細が伏せられた月での重大な事故の話だ。そのニュースなら私も耳にしたことがあった。月の探査に関する情報は公開されていないことは多いから、詳しいことが報道されないのは珍しいことではない。月の探査についての話題だったものの、私はそのニュースに望を関連付けはしなかった。


 ──そうか、あのニュースでやっていた事故の現場は望もいたのか。


 月での事故は多いと聞く。私は大した実感もなく望も大変だな、と思った。


「望さんと会ったのはもう何年も前の話で、手紙を読んでも力にはなれないと思う」


 私は必死そうな目をした少年にそう念を押した。すると、望の弟はある言葉を口に出したのである。


「ウミガメのスープ」


 思いがけない言葉に私は面食らう。


 その言葉は私と望を明確に繋ぐ単語だったからだ。


「兄は月から帰ってきてから、ずっとウミガメのスープのことを話しているんです。それから、千春さんのことだ。うなされるようにして、兄は千春さんの名前を呼んでいます。何か知りませんか?」


 私は望との会話を思い出していた。


『人間の味ってどんなだろう。僕は人間を食べてみたい』


 私は望がいつも口にしていた言葉を反芻する。


「望はどんな事件に巻き込まれたの?」


 ウミガメのスープを想起させるなんて、と思いながら私は望の弟に聞いた。


 望は月で遭難したのだという。


 ***


 千春さんへ


 この手紙を読んでいるということは少しは俺のことを覚えていてくれているのだと思います。俺は今書いている最中、千春さんがこの手紙を受け取ってくれるのも、捨ててくれるのも怖いと思っている。


 俺がこれから書くことを知って欲しい。でも知らないままでいて欲しい。その二つの感情がせめぎ合っています。ここまで読んで俺がうざいなと思ったらすぐにこの手紙を破棄してください。うじうじとした男の後悔に付き合うなんて千春さんには似合わないと思う。


 でも、もし、読み進めてくれるのであれば俺の話を聞いてくれると嬉しいです。


 あなたもニュースでも見たかもしれません。俺は何か月も前に事故に遭いました。俺は月探査で月の基地にいた。そこが何かの衝突で破壊されました。原因は現在調査中ですが、とにかく事実として俺たちは月に放り出された。


 幸いにも避難先として逃げ込めるところはありました。俺たちのチームは六人。すぐに移動することができて、近くにあるという基地へと身を寄せることにしました。


 助かったと思ったのは一瞬でした。そこは何年も前に開発が止まっていた月の廃墟だった。


 そこには何もありませんでした。外部に発信できる機器も俺たち以外のチームの状況を把握できる物もなかった。


 そして、水も食料もありませんでした。


 ただ、酸素と熱源があるだけ。何年も前から引き払われていた基地だったんです。


 後から、再開発の予定があったと聞きました。もう少し時期がずれていれば人もいて機材もあったかもしれません。


 でもそれはただのイフの話です。俺たちはそこで過ごすことになりました。いや、そこに留まる事しかできなかった。俺たちが最初にいた基地から他の基地までは月面車を使っても時間がかかります。そして、爆発をした基地からは何も信号が出ていない。俺たちの事故は誰も知ることができない状態になっていました。そう、俺たちと連絡がつかなくなったことを発見して、別のチームが俺たちを探しに来ない限りは。


 水も食料もなく助かる見込みもなく、ただ座り込むか寝るかの時間が続きました。動いてもいないのに体力を削られていく状況が一番つらかった。


 最初はどうにかして外部との繋がりを作りたくてそれぞれ奮闘していましたが四日目で皆、根を上げました。急な無力感に襲われて何もできなくなった。俺も八つ当たりで壁に殴りかかりました。痛みがじんわりと身体に広がるだけで何の解決にもなりませんでした。


 そのうち、誰かが死ぬかもしれないといううすら寒い共通の考えが俺たちの間に流れ始めていました。


 すでに俺の恋人である美恵は動くこともできずに寝ていた。俺は彼女が最初に死ぬと予感していました。


 そして美恵は最初に死んだ。


 俺はショックを受けましたが、周りの人間はそうではないようでした。美恵が動かなくなっても返事をしなくなっても虚ろな顔で何も考えていないようでした。


 ただ、メンバーのうちの一人が言いました。非常事態の時は、緊急の目的で人間を食べることが許されているんだ、と。目にギラリと光が灯っていました。一週間も何も食べていない極限状態で、俺はメンバーの頭が狂ったのだと思いました。


 ただ、その妄想は俺の脳に一つの明かりを灯したんです。


 今なら、人間を食べることができる。


 俺のなかに美恵を食べるという選択肢が生まれました。その考えは俺の中での一筋の希望だ、と思いました。


 しかし、それもすぐ消えた。美恵は俺の恋人だったから彼女を誰かに食べさせたくはないという感情もありました。冗談であってもその時の俺には認められない事だった。一瞬でも美恵を食べるだなんて思ったことで俺は動揺した。


 だから、俺は彼女の身体を運んで宇宙に葬った。美恵の身体は今、ゆっくりと宇宙を漂っているはずです。


 誰も俺の行動に言及しませんでした。美恵と俺が付き合っていると知っていたから。美恵の遺体はここにはなくなったと言うと、そうかとだけ返事がありました。あの目の異様な光はもうメンバーにはありませんでした。


 しかし、美恵を食べられなかったことは俺に大きな後悔をもたらしました。もしも、美恵の身体を宇宙に捨てずにおいたならば、もしかしたら、人間の肉にありつけたかもしれない。そんな後悔でいっぱいになっていました。自分で美恵を葬ったのに、です。


 だから、そのあと、俺は次のチャンスを待つことにした。美恵以外の誰かならば、自分とは関わり合いの浅いただの同僚なら、もしかしたら……。他の人間だって、人間を食べることを思いついているのだから、生き残るための行動をとっても良いだろうと思ったのです。


 しかしながら、その時の状況は自分もまな板に乗せられているのと同じことでした。俺が誰かを食べるという可能性があるのと同時に、同じ条件下で死にそうになっている俺も誰かに食べられる可能性があるという事です。


 俺は死んだらメンバーに食べられるのではないかという疑念を持ち始めることになりました。俺も狂い始めていたのだと思います。


 俺は早く死んでくれという痛い視線を感じていた。それは俺の錯覚だったのかもしれません。だけれども、美恵を食べ損ねたのだから、代わりにお前が食べられるべきだという圧がかけられているのだと思った。人間を食べたい。そう思っているのに、自分は食べられるのは恐ろしい。おぞましいことを考えているにも関わらず、嫌悪感で吐き気がする。


 俺は得体のしれないその場の空気が怖くなってメンバーがいる部屋から逃げました。基地は広かったから、俺はその部屋の一つの隅に逃げ込んで縮こまって過ごしました。俺と同じようにメンバーも体力がなくなっていたのだから探すのにも探せなかったに違いない。俺は誰にも見つからずに過ごした。逃げた俺を追ってくる仲間の夢をうっすらと見ました。


 何日過ぎたかもうわからない時の事です。メンバーもどうしているかわからなかった。俺の口は乾ききって上と下がくっつき、喉からは詰まるような咳が出ていました。水が飲めないだけであんなにも呼吸が苦しくなるなんて初めて知ったことでした。


 人が入ってきた時、俺は見つかったと思った。メンバーが俺が死んだのを見に来たのだ、と。


 俺はまだ死んでない! と叫びたかった。しかし、乾燥した口は言葉を紡ぐことができませんでした。


 生きながら食われるかもしれない、そう思って俺は抵抗しました。でも、手足をじたばたさせても全く動かせやしないんです。食べていない、そして動いていないだけで俺は動けなくなったんです。


 そのうちに相手がメンバーではない事がわかった。


 俺は別のチームに身柄を保護されました。そこからあまり記憶がないのは安心しきってしまったからかもしれません。


 俺は自分が回復した後に、事情を説明して欲しいと求められました。


 俺は事故のこと以外、何も知らなかった。だから、逆に事情を聞く羽目になりました。


 俺がメンバーの前から姿を消した後、一人ずつメンバーは死んだ。そして──、最初のやつから一人ずつ、食べたという話でした。


 あの月の廃墟で俺以外の人間は人間の肉を食べました。食べて生き残ろうとして、腹を壊して死にました。生き残ったのは俺一人だった。


 その話を聞いた時、俺はまたやってしまったと思いました。


 無事に生き残った俺に生まれたのは衝動的な後悔でした。


 食べ損ねた。俺はまた食べ損ねたんです。


 手を伸ばせばあった人間の肉を俺はまた食べることができなかった。あの時と同じです。千春さんが俺に人間の肉を食べないかと聞いてきた時と同じように、俺は目の前で人間の肉を食べる機会を逃したんです。


 不甲斐ないと自分のことを思う俺はどうかしているのでしょうか。俺は忘れ始めていた人間の肉への興味と、それを口にできなかった自分の愚かさを今恥じています。


 千春さん、あの時の人間の肉の味はどうでしたか。


 俺は今、あなたの口から人間の話が聞きたい。


 ***


 空にはまん丸の月が浮かんでいる。まるでウミガメの卵のように見えた。ウミガメが産卵している時に月の光が輝くと幻想的で美しい、と公共放送の動物番組で流れていたのを私は思い出した。


 私は望の弟と別れて一人歩いている。


 ぐしゃぐしゃになって書きなぐられた手紙は、望が混乱しながらも自分を引き千切るようにして書いたのが痛いほどわかった。望と別れてからどんな暮らしをしていたのか全く分からないが、彼なりに幸せで充実した日々を送っていたのだと思う。


 それが一つの事故で一瞬にして狂わされた。死ぬことと生きることを目の当たりにして、自分の中の後悔と不安に向き合ってしまったがための、私への手紙に違いなかった。


 望は二度も人間を食べる機会を逃したと書いていた。一つは事故の話、もう一つは私と人間の肉を食べる機会を得た時の話のことだ。


 私は望に人間の肉を食べないかと提案したことがある。


 あの時というのは、私と望がまだ付き合っていた時だ。私が望に一緒に食べようと言ったのは、私の中にいた私と望との子供のことだった。


 私は何年も前に望の子供を妊娠した。産むか産まないか、研究はどうなるのか、望と結婚することになるのだろうか。戸惑いと混乱の中で思いついたのが、死産した子供を食べることだった。月での事故にあった時の望と同じように、私も妊娠という未知のことにパニックになっていたのだ。


 堕胎した子供をソテーにしてみよう。私の真剣な提案に、望は怖気づいたのがわかった。食べる対象が私たちの子供だったからかもしれない。顔をこわばらせて明らかに嫌悪感を示した望に失望して、私たちの関係は本当に終わった。


 もしもあの時、一緒に人間を食べていたらどうなっていただろう。今の望の後悔は半減くらいしていただろうか。


 私は一人首を横に振った。どうもなっていない。私たちは一緒に人間を食べず、望は二度も人間を食べ損ねた。それだけの話だ。


 私は地区の区民センターに来ていた。


「ママ!」


 小さな女の子が私に駆け寄ってくる。


「お腹すいちゃった! 今日の夕飯何食べる?」

「そうだなあ。何かスープでも作ろうか」

「私、シチューがいい」

「じゃあ、それにしよう」


 私は少女の小さな手を引き家に帰るために歩き出す。


 目の前にいる娘を私は結局食べることができなかった。堕胎のために病院を訪れたその日、私はどうしても分娩台に上ることができなかったのだ。


 ──食べ損ねたのは私も同じか。


 人間の肉の味には未練があるが、私はこの娘を食べなかったことに安堵していた。望と同じく、私も土壇場で怖気づいたのだ。


 だけどそれでよかったと思っている。理由はわからない。一生、私は私の選択について理解ができないかもしれない。だけど、それでいい。私はこの小さな手と共に生きていく。


 望は私が人間の肉を口にしたと思っているに違いない。そして、そこに強く憧れているのだ。彼が私に会いたいのは、私の記憶を追体験したいからだ。


 私は娘のことを望に話すかどうか迷っていた。話せば今の彼はきっと失望するに違いない。それを考えると、私は望に嘘をつき続ける方がいいのではないだろうか。


 ママ、ママと話し続ける小さな女の子の手を引いて家路を辿る。


 私はいつか望にも心の平穏が訪れるように、と祈る事しかできなかった。



お読みいただきありがとうございました!

いつも閲覧、評価ありがとうございます!

とても嬉しいです~☺

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