088.普通の貴族
突如水をかけられたような感覚――いや、突如水をかけられた感覚をきっかけに、全身の五感が修復され、アーシェの意識は覚醒する。
重い瞼を開けると、目の前には柄杓を持ったミリアシルがいて、その一切の感情を抱かせない瞳は、アーシェを正面からまっすぐ捕らえていた。
「おとうさま……?」
「引きずり込まれるな」
辺りを見渡すと、既に奉還の儀は終わっており、アーシェは公族たちに取り囲まれるようにして、一人座っていた。
すぐさま起立しようと試みるが、どうにも足に力が入らない。
足だけではなく、全身に未だ怠さが感じられ、腕も、首も、呂律も全てが回らなかった。
「ふむ……そうか」
「ふあ」
その事を伝えると、ミリアシルは濡れた服を気にもせず、横抱きの状態でアーシェを抱え込む。
元はと言えば濡れた原因は彼にあるのだが、そんな考えはアーシェの頭にはなく、彼の衣服に液体が付着しないように必死で身体を丸め込んだ。
アーシェに浴びせられた液体は、聖泉に貯めてあるものだった。
その液体には魔石のように魔力を封じ込める特殊な性質があり、自身の体調を顧みず無闇矢鱈に放出していると知ったミリアシルは、その性質を用いて魔力の流出を防いだとのことだった。
アーシェに起こった精神的な症状は、俗に神祇症と呼ばれるものらしい。
信仰心が強く、魔力の高い者が、神に祈りを捧げると神域へと精神が引っ張られ、一時的に肉体と精神が分断される。
その後も魔力は神へと奉納され続けているので、放っておけば肉体が朽ちて精神が神域に囚われると言うものだ。
それだけ聞くと恐ろしい症状だが、その症状は聖泉の間でしか見られることはなく、気付いた者が聖泉の水――聖水――をかけてあげれば問題なく帰還できる。
それ故に聖泉の間には領主の許可がなければ入れないのだ。
加えて、神祇症が出るときは天に三つの輪が現れたときのみ。
それはつまり、公族とそれに準ずる魔力の持ち主が全身全霊をもって祈りを捧げたときと言う、ごく限られた条件での話だ。
あまりにも限定的な話故に、多くの貴族の間では認知もされていないし、その現象を目撃することもないだろう。
「……声が、聞こえたようです」
「声?」
「詳細は後ほどに」
ミリアシルにだけ聞こえるように、彼の胸の中にて呟いた。彼はそれだけ聞くとアーシェの意図するところを察し、アーシェを聖泉の間から連れ出した。
部屋から出たアーシェは側近たちに取り囲まれる。
彼女たちにとっては久しぶりに家族に会える機会だったのに、それを不意にしてしまったことに後ろめたさを感じながら、三人に手伝って貰い、身体を清めに行く。
奉納式後の立食会は、城で働く仕官たちが家族と再会できるイベントでもあるのだ。
実家を離れて城で寝泊まりする城官らは、有給を含めなければ、年に四回しか家族に会うことが許されない。その四回がまさにこの奉納式の日であり、側近三人衆も、普段であれば奉納式のあとは決まってアーシェの周りを離れていた。
セリアの場合は家族と会うために、メリッサとレオノーラの場合は亭主と過ごすためにと聞いている。
「……そう言えば貴女たちのことをあまり詳しくは知らないわね」
「職務とはあまり関係ありませんでしたから」
別に隠しているわけではない。実際二人の契夫の名前は知っていたし、護衛中に顔を見たこともある。
しかし裏を返せば、側近たちのことはそのくらいしか知らない。
今までは、領主になるのに必要のない知識だと興味を示さなかった。少しでも早く、少しでも多くの教養を身につけるべきだと考えて、脇道に逸れる暇なんてなかった。
しかし、今なら何となく分かる。
貴族たちの生活を知ることも領主の義務である。彼女たちはアーシェにとって貴族代表であり、三人の生活を知ることで、貴族のことを考えない夢見がちな領主になってしまうことを回避できるかも知れない。
「貴女たちのこと、もっと詳しく知りたいわ。家庭訪問とか出来ないかしら」
「……姫様がいらっしゃるのですか?」
「難しいかしら」
「実家に聞いてみなければ何とも……ただし少なくとも一ヶ月は前に言って頂かなければこちらもお出迎えの準備が出来ません」
そうではなくて貴族たちが過ごす日常的なものを見たいと伝えると、アーシェの真意を察した三人は、それは少し難しいと言った。
セリア、つまりペールマン家は代々本家から分家まで城の侍官を務めてきた由緒正しい家系なのだ。
三人の家でなくとも浄階貴族の中でも殿上人を多く輩出している家は、いつ公族付きとなっても良いように、幼少期から公族の生活に寄せ、それを踏まえて三官の仕事も教育させる。
そのため決して貴族の生活に近いとは言い難く、それならば蔵人宮で働いている役人の家に行く方が、より貴族の実態を理解できるだろうと伝える。
しかしアーシェの周りは全員が全員殿上人であり、良家以外の家なんて宛てもない。
「ならばお忍びで――」
「なりません」
公族と貴族の接触は――公族側がどう思っていようが――常に公の場で行われる。
それ故に、家の体裁、外聞、個人の矜持、私的な時間を侵すことは推奨される事ではなく、お忍びで内を覗かれるとあらば、印象は悪くなってしまう。
――どうすれば良いのかしら。
――あーちゃんが行かなければ良いじゃない。
茜が提示した条件は二つ。
一つは家々に使いを出し、官吏による対面取材。
利点は相手の顔を見て判断するため、真偽が分かりやすく、加えてその場その場に応じた問答ができるため、より詳細な情報が得られる。
欠点は人海戦術じみた行動になるため、人手やらが嵩み、城官たちを大量に使うことになる。
もう一つが用紙を用いた意識調査だ。
利点は主催側の手間が掛からず、箱を用意すれば設置回収が楽なこと。調査時には人手も取らないために、少ない人数で行うことができ、城への負担も最小限に抑えられることが挙げられる。
欠点は紙の値段がお高いこと。五百枚近くの用紙をどうやって量産するかと言うこと。
どちらにも一長一短があり、アーシェの知識だけでは判断することが出来ない。
「御御足失礼致します」
「ん」
身体を洗われながら考える。
頭の中で計画書を作成し、より良い結果をもたらせるよう、二人で思案を巡らせる。
アーシェは結果を素直に受け入れても、努力に妥協をすることは決してしない。
あくまで目標は高く。以前の自分より今の自分。今の自分より未来の自分が優れるように、毎日の研磨を欠かさない。
才能と環境、その二つを手にしたからこそ、アーシェはそれに見合い、それを超すほどの努力をする。
努力が必ず報われるとは言えないし、過去に無駄になったことだって何度もある。しかし、努力をすれば未来の自分は納得し、努力をすれば神が齎した幸運を無駄にすることも減らせる。
そんな考えを持って、アーシェは自分より優れている者に教えを請う。
――ご尊父様なら後者を選ぶんじゃないかな。
――何故?
――だって、あーちゃんが下手に動いてもしも失敗した時、リスクが少ない方、と言うより失敗を隠蔽しやすいのは後者でしょ。
今のアーシェは兎に角目立つ。
どんな些細なことですら失敗は許されず、万が一汚点が露呈しようものなら思わぬところで足を掬われる可能性があった。
ミリアシルはセリアの報告により、逐次アーシェの行動を監視している。
そして今まで監視してきた中でも特に肝が冷えたのが、秋期会議にてマルティナへ回復魔法を教えようとした事だった。
どちらかと言えばそれはアーシェの失態ではなく、教育係であるロベルティーネの失態なので、その日の夜は、保護者たちで反省会が開かれるに至った。
双方の側近が未然に防いでくれたから良かったものの、学院入学前の子どもが《大治癒》なんていう上位魔法を扱えるはずがなく、制止が一歩遅ければ、命は落とさずとも昏倒していた可能性は十分あった。
そんな失態は二度と冒すわけにはいかない。公姫アーシェリットは一切の汚点がなく、完璧で清らかな人間でなければならないのだ。
それが領主になるための最短経路であり、彼女の父の期待に最も添う未来であると、アーシェは信じて疑わなかった。
――二人とも微妙にかみ合ってないんだよねぇ。
――では茜はお父様のことを分かっているというの?
――全ては分からないけど、親としての気持ちくらいなら。あーちゃんも親になってみれば分かるかもね。
貴族の結婚適齢期は十代の後半である。
それに準じるのであれば、アーシェも学院を卒業して五年以内に結婚することになるのだが、そうは言ってもまだ五年と少ししか生きていないというのに、十年先の事なんて想像すら付かない。
「メリッサ。貴女、五つのときの思い出って何か残っていまして?」
「五歳ですか」
無意識に異嚢から取り出した扇子を顎に当て、唸り声を出して記憶を掘り起こす。
どうやらこの世界の扇子は防水のようだ。
「あったかわんわん……フランマカニスという魔物を五歳の奉納式にて父から頂きまして、それがとても嬉しく、良く覚えています」
「あったかわんわん?」
「フランマカニスです」
愛玩目的で動物を飼育するという文化があることを初めて知った。
それはアーシェも同じであり、城を出るまで窓越しに点のような鳥くらいしか見ることがなかった彼女も、人間以外の動物と共存するという考えはなかったようだ。
「わたくしも申請すれば魔物を飼育できるのかしら?」
「姫様はウサギにのしかかられただけで倒れてしまいそうですし、申請は通らないかと」
「そんなことは……」
ないとは言い切れないアーシェだった。
ジルがまだ生後五ヶ月あたりのころ、アーシェは彼と初めて出会った。
アーシェを見たジルが、アーシェに目掛けてはいはいを始めた時は、アーシェの乳母も、ジルの乳母も大変驚いていたものだ。
しかしそんな保護者らの感動は子どもには伝わらず、当時のアーシェはジルを見ると駆け寄って、そのまま弟に抱きついた。
その瞬間、体勢を崩したジルに引っ張られ、二人は抱きついたまま半回転して今度は逆にアーシェが下に、ジルが上に乗って、その場でしばらく硬直していたのだ。
アーシェは間接的な水子病の影響により未熟児で、病が通り過ぎた後に妊娠して生まれたジルは成熟児として生まれたため、体幹が完成していないアーシェでは、弟の全体重を振り払うことなど到底出来なかった。
生後五ヶ月の幼児に組み伏せられた二歳の幼女を見た当時の従者たちは、すぐさま二人を引き剥がしたが、セリアはその時、何があっても主人の前には重いものを置かないようにしようと心に決めたらしい。
「そんなことがあったのね」
三年前の事なんて覚えているはずもなく、アーシェはどこか他人事のように、一言そう呟いただけだった。




