087.奉還の儀
三人が会話を聞いて満足したのかは定かではないが、現在は奉納式の途中である。
心の中で話せる内容も、わざわざ人形を作ってまで彼女らに聴かせた効果は絶大だった。
良い印象操作になっただろうと確かな手応えを感じていた二人であるが、その行いも、準備が整いましたと知らせに来た城の文官によって中断させられる。
聖泉の間に入ると、アーシェの身体は急な温度変化にこわばった。
本来、城内の温度は年間通して一定で、常に快適な温度に保たれているはずだった。
しかし、この聖泉の間はとても快適な空間とは言い難い。
部屋の中央には全体面積の半分を占める泉があり、それでもなお、全貴族が余裕を持って入れる巨大空間は、白く光る霧が蔓延し、足下を淡く照らしている。
室内は異様に寒く、アーシェの吐く息は白煙となって霧の中へと姿を消す。
吐息は不思議と上へは行かず、下に向かって落ちていった。
その霧の正体は励起状態からの遷移を起こした魔力である。
体内にある魔力のうち、体外に漏れ出すような比較的不安定な強い魔力が、聖泉の力によって安定性を取り戻す。
そして安定した魔力は神に捧げられるわけでもなく、魔法に使われるわけでもないため、自身で発光しながら徐々に消費されるのを待っているのだ。
前回アーシェが初めて訪れた時は、まだ魔力の制御がままならず、全身から湯煙を出して非常に目立ち、恥ずかしい思いをしていたのだが、それは彼女にとって封印したい過去の汚点であり、当然茜の知るところではなかった。
泉の中央には円形の舞台が設置されており、そこに繋がる花道には、既に公族たちが座して並んでいた。
中央に領主を据え、両脇に夫人が二人。
そこから公室序列順に花道に並び、公族が終わったら次は領内の全属性持ちを年功序列で並べる。
ほぼ全ての人間が正座で儀式を進めるが、一部の老人たちには椅子が用意され、近くに侍官を侍らせることも許していた。
全属性持ちの貴族群が終わると、そこからは花道の根元から順に、泉を囲むように家の格式ごとに整列する。
例外的に未成年の子どもは全員が一箇所に集められているが、その理由は儀式が始まったらすぐに分かることだ。
大小混じり、これほど大勢の人間がいるのに、歩行者の足音が聞こえるほどの静寂に包まれた空間は、神秘的と言う言葉が場よく似合い、その神聖さを穢すことは許されざる行為なのだと、本能的に理解させられた。
アーシェが入場すると、会場の全員が彼女の存在に気付く。
なまじ周囲の魔力が落ち着いているからこそ、そこに生じた小さな波紋を敏感に感じ取り、普段では考えられないほどの感知力へと繋がる。
奇跡の子が発する魅惑の魔力は、全属性持ちですら目を離すことが出来ない。
いつも以上に強く注目されているアーシェは、どこか居心地悪そうにスタスタと花道を進み、ミリアシルたちの元へと合流を果たす。
彼はアーシェに気付いてはいるものの、儀式の下準備として、日の出前から休むことなく黙祷を捧げている。
彼の周囲には魔力により具現化した新芽が萌え、少しずつだが今なお成長していることが伺えた。
――茜。何があっても絶対に喋ってはダメよ。
――はいよ。打ち合わせ通りだね。
エルミニクがアーシェの背に触れ誘導する。
この場では、魔力の強い者の行動や感情が周囲に直接的な影響を及ぼす。
そのため、アーシェが言葉を発すれば、その言葉は安定している魔力を一気に刺激し、空間そのものに作用してしまう。
この場にいる貴族が私語をしないのもそのせいだ。
例えば言葉が魔力に乗って聖泉の間全体へと音が伝わると、雑談が周囲どころかこの場にいる貴族全体へ伝わってしまう。
それだけならまだ良いが、それで公族らが気分を害した場合、もしも彼等が言葉を発した貴族に対して悪いイメージを一瞬でも思い浮かべてしまったら、それが現実となって対象者に襲いかかってくるかも知れないのだ。
言葉が言霊となり、想いが現実となるこの空間は、ひとたび間違えれば危険な虐殺現場へと早変わりする。
それを抑えるためにも、成人を迎えた公族嫡流が数時間に及ぶ黙祷をし、場の魔力を安定化させているのだ。
公室序列でアーシェよりも高い地位を持つ者は、ミリアシルとアーシェの祖父、ギュスターヴしかいないため、二人が祈りを捧げている今、この場の序列最高位はアーシェとなる。
黙祷を捧げる公族に加わり、中心地を拝むような配置を取る座布団の一つに腰を下ろす。背筋を伸ばして合掌の姿勢にはいると、アーシェと茜は何かに繋がる感触を得た。
目を閉じても周囲の光景が鮮明に感じ取れ、意識を向けると聖泉の間全体を見渡せる。それはさながら幽体離脱のような感覚であり、アーシェと茜はその感覚をよく知っていた。
――精神空間とこの部屋が連動しているのか。
――始まるわよ。
直後、床に芽生えていた数々の新芽が急激に成長を始め、瞬く間に舞台を飲み込んでいった。
泉に根を張り天高くそびえ立つ大樹にまで成長した魔力は、蒼々たる樹冠を誇らしげに広げ、大気の魔力を吸収して更なる成長を遂げる。
それに応じるようにして、全ての貴族の身体から白煙が放たれた。
白霧が空へと舞い上がり、大樹の緑葉へと付着し、雫となって聖泉に垂れ落ちる。
恵みの雨が泉に降り注ぐが、泉に満ちる透き通った水は、一向に増える気配がない。
聖泉内には特殊な液体が満ちており、いくら魔力を溜めたところで溢れることはない。
しかし、その泉には確かな変化が起き、今まで透明だった液体が、少しずつ、少しずつ色を帯びてゆき、次第に光り輝く純白の液体へと姿を変える。
祈り続けること数分。直階貴族の学院生に、最初の脱落者が現れた。
姿勢を正して黙祷を続けていたところ、突如うずくまり、苦しそうに肩で息をする。
その瞬間、付近で待機していた城の従者が足音一つ立てずに子どもに近寄り、介抱されながら聖泉の間を退出した。
奉還の儀における介抱役の三官は、皆領地内でも最高峰の魔力を持つ浄階貴族の従者たちだ。
自身も祈りを捧げ、その上で周りに気を配る余裕を見せて、担当範囲内に魔力枯渇を起こした貴族が出たら、すぐさま外で待機している侍官に引き渡す。
魔力の納税量は、一族ごとに決まっている。
そのため、一家に体調が悪い人間がいる場合、それ以外の貴族が肩代わりすることになるのだが、唯一の例外として在学中の貴族にはその制度が設けられていない。
納税量は成人の人数と家の格などから算出され、その値を最低限とし、その規定値を超えると、聖泉の間からの退出が可能となる。
ただし、入学直後の子どもは、まだ魔力量が少ないこともあり、ある程度奉納が済んだら近くの従者を呼んで退出して良いことになっている。
しかし元気旺盛な子どもは学院内で妙な対抗心を燃やしており、限界ギリギリまで魔力を出そうとするので、多くの場合、気付いた時には既に自分で立ち上がる気力もなくなっている。
もちろんそのまま続けると最悪命に関わるため、決して推奨されることではないのだが、それでもある種の伝統、もしくは肝試しとして根強く行われていた。
たとえ途中退室となったとしても、少なくとも表向きには責められることはない。
魔力納税は正当な理由を以て申請すれば、事前、もしくは事後にずらすこともでき、税金を納めた者に、言葉を含めて私刑を行った場合、未成年であろうとも厳罰に処されることになるからだ。
一〇分が過ぎた辺りで浄階貴族の子どもらもうずくまり始める。
家の格式がどうであろうと、子どものうちは大して魔力量の開きはない。もちろん一番低い者と高い者では二倍三倍程度はあるが、元が低いため、大人たちからすれば微々たる量だ。
子どもたちが概ね退出してしばらくすると、直階貴族の若い者たちから順に汗をかき始めた。
そうして儀式開始から小一時間経過した時、初めて下位の家々が退出の許しを得て、従者の力を借りながらも聖泉の間を退出する。
――公族って何時終わるの?
――具合が悪くなるまで出し切るのよ。
――……子どもたちが誰を真似しているのか良く分かったよ。
確かに子ども同士の対抗心もあるのだろうが、普通、初参加の子どもまでもが学年で対抗心を燃やすだろうか。
もしかすると、自分よりも幼い公族が、身の危険を感じるほどに魔力を出し切る姿を目にし、それに少しでも近付きたいと願う少年少女の夢なのではないだろうか。
それがやがて伝統となり、領地のため、家のために神に祈りを捧げ続け、代を重ねるごとに、少しずつ魔力の質を高めていったのかも知れない。
多くの浄階貴族を抱える公爵領は、最初から浄階貴族が多かったわけではない。
直階が正階となり、正階が明階となり、明階が浄階となり、一族内で魔力の開きが大きくなった浄階の分派が各階の家として分家される。
長い歴史を持つ家は、その繰り返しにより貴族の数を増やし、家を増やし、魔力を増やし、質を高めてきた。
彼等にとって、家の魔力を増やすという行為は、ただ家の格を上げるだけではなく、歴代家長の悲願を果たすための第一歩でもあるのだ。
それから数時間後、聖堂の間に残った者も、残るは公族のみとなった。
元領主であらせられる御歴々は、もはや慣れたもので、この数刻一切の邪念を抱かず、ただただ神へと祈り続ける。
それはいつか見た祈祷師たちの祈りを彷彿とさせ、彼等もまた寿命を逸脱する領域へとつま先を突っ込んでいた。
茜がいつまで続くのかとのんびり構えていると、不意に魔力を通してミリアシルから思念が送られてくる。
それを受け取った公族たちは、一斉に魔力を解放する。
今までは流れに身を任せ、身体から出る魔力を注ぐだけだったものが、今度は自ら余った魔力を吐き出すように、全身の感覚を使って放出した。
今までの公族の役目は大気にある魔力を制御することにある。
万を超える貴族が集まるこの場は、空間がねじ曲がるほどの魔力を常に有しており、公族の制御下に置かねば何が起こっても不思議ではなかった。
そのため彼等の意識はそちらへ向かい、満足に神に祈ることも侭ならない。
尤も、その量ですら既に浄階貴族並みの魔力は出しているはずなのだが、彼等は貴族とは一線を画する存在であるからこそ、領主の世襲権を有しているのだ。
たった二〇人足らずの公室が放つ魔力は、その実数万人の貴族のそれに勝るとも劣らない輝きを持っていた。
今この場に残っているのは全属性持ちの中でも更に特殊な、全ての祭神より寵愛を授かった選ばれた者たちだ。
魔力の奔流がミリアシルへと集まり、神域へと導く大樹が木脈を通じて神世へと送り届ける。
天高く、浩々たるは、三輪国。
神の世界へ足を踏み入れる資格を持った者だけが集う時、薄暗かった聖泉の間には三つの輪が出現し、周囲を神々しき光で包み込む。
「――。――」
不意に、誰かの声が耳を撫でる。
音の出所を探ろうとするが、空気が粘着くように身体に纏わり付き、思うように動かせない。
加えて意識も霞がかかったように朦朧とし、混濁する思考では、考えることも億劫になって、心地よい感覚と共に、ただひたすら魔力を捧げることに専念すべきだと、本能が訴えかけてきた。




