057.出勤前のサラリーマン
素晴らしい朝だ。
少女は起床して一番にそう思った。この一ヶ月の長旅によって、アーシェは自分の境遇がどれほど恵まれているものなのかを理解した。
もちろんそれを知って、日々の生活を質素なものにしようなどと考えるつもりは毛頭無い。
この生活は父が決めたものであり、そこにアーシェが口を挟む権利はないし、こうして上質な日常を送ることで、将来領地のためになるのだと確信しているからである。
豊潤な魔力が周囲に溢れ、空気は軽く、水は透き通るように美しい。衣食住のあらゆる質が最高の出来であり、お国の重鎮たる内務卿の城に相応しい環境だ。
諸外国での活動が憂鬱に思える。息苦しい仮面を付けなければ、生活すらもままならない。そんな世界でどうして気楽に過ごせようか。
――おはよう、あーちゃん。
――おはよう存じます、茜。
気軽な挨拶にも慣れたもので、茜の言葉を自然に流してアーシェは朝風呂を所望した。
長旅の中での風呂は酷いの一言に尽きた。
仮面を取った瞬間に感じる屋敷の悪臭に、衣を脱ぐと、気を引き締めねば魔力が外に流れ出てしまう緊張感。
外気に晒された身体を清めようと、楽しみにしていた風呂も、そんな環境下ではまったく楽しめなかった。
更に追い打ちをかけるように、水に新鮮さはなく、薪を熱源としているため、魔力による温度調節もまともにできない風呂なんて、予想だにしていなかった。
城に焦がれ、焦がれ、焦がれ、ようやく手にした幸せは、もう二度と手放したくはない。そんな思いが彼女のきれい好きを加速させ、これからは、毎日最低二回は風呂に入ると心に誓うアーシェだった。
食事中にミリアシルからくれぐれも慎重に行動せよとのお言葉を頂き、アーシェは魔法陣で小国の屋敷に飛び立つ。
「姫様、もう仮面をお取りになっても構いませんよ」
どうやら暴走した侍官たちは、広大な私有地故に、周りに迷惑が掛からないことを良いことに、一晩中環境作りに熱中していたらしい。
その結果もあってか、屋敷の至る所に魔法具が配備され、敷地内は魔力で満たされていた。
その魔力をめぐり、動物たち――主に鳥類――が早速庭の木々に巣を作り始め、中秋の月というのに中々に騒がしい朝となっている。
今後の侍従たちの活動目標は、完璧な環境維持に加えて、足りない家具の買い出しなどである。
アーシェがこの街から城へ帰っていることは、当然極秘事項である。それ故に、彼女がこの屋敷で生活をしていると言う虚像を崩さないために、生活感を損なわせてはいけないのだ。
もしもアーシェが長期間この屋敷に滞在するのなら。その条件下で、予算を割り当て、必要物資を調達する。
そうすれば、万が一客を招く事態になっても問題なく対処が出来る。
貴族、それも浄階貴族が多くを占めている彼等が、平民を接客する。
普段ではあり得ないことではあるが、アーシェが招いた客であるのならば話は違う。
次期領主最有力候補である彼女は、いわば領内での地位は次席に当たり、その彼女の客に対して失礼を働いたのなら、それは主人であるアーシェの品位を貶める行為となるのだ。
減俸懲戒ならばまだマシだ。
それがもし解雇に繋がってしまえば、その家は没落の一途を辿るだろう。なまじ魔力ある家柄故、社会から弾き出されたら嫁婿の候補がいなくなり、簡単にお家断絶になってしまう。
「お帰りなさいませ、姫様」
魔法陣を出た先には一部の侍従を除いて全ての従者が一堂に会していた。
わかりやすく白装束と黒装束。正式にアーシェと共に来た従者の人数は三五名、しかしこの場には六〇名以上の貴族たちが集まっていた。
その理由は黒装束だ。彼等は実のところ、アーシェが城から出たときからずっとついてきていた。それどころか、彼女が生まれた直後から二四時間三六〇日常に身を潜め、側にいるアーシェの護衛だ。
彼女の護衛と言えばレオノーラだが、彼女はあくまで表の近衛。
彼女の務めはアーシェの身を守り、時に命を張って庇うことであり、敵を排除することではない。そもそも護衛なんてものは一人でやるものではなく、大抵は主人を囲えるほどの人数で壁を作る。
しかし目的地が決まっているならば良いものの、アーシェのように自由に行動する場合は邪魔で仕方が無い。
そこでレオノーラを敵の標的、いわば囮として時間を稼ぎ、その間に黒装束たちが敵を制圧する。
彼等は皆レオノーラの部下だ。彼等がやっていることは全て彼女の指示である。しかしその本当の意味は、純粋なアーシェには分からない。
「姫殿下に、拝」
少しの狂いもなく、皆が合掌し、頭を下げる。皆が伏している内に入室し、彼等の前に立った。
職務中はいついかなる時も仮面を付け、姿を隠している黒装束も、この時だけは姿を見せる。
仮面は取らないものの、同じアーシェの部下であっても、普段ならば同じ主を持つ従者にも姿を見せない彼等を、初めて見た者も多いようだった。
黒装束は職務の都合上、周りに他人がいる時は、たとえ主の前ですら仮面を取らない。
公族と同僚、そして直属の上司であるレオノーラにだけは顔を見せるが、セリアやメリッサにすら素顔は隠している。
従者たちの男女比はアーシェの入浴中や、寝室内での護衛のために女性は数人いるが、大半は男性だ。因みに全員が既婚者であるため間違いが起こる心配は無い。
彼等は官報の人事異動には掲載されていない。そもそもアーシェの護衛としてすら、貴族たちには知らされていないのだ。
黒装束の多くはそう言う仕事を家業としている家が大半であるので、公の発表がなくとも伝わっているはずである。
「わたくしのことは外ではお嬢様と呼びなさい」
レオノーラ曰く、領地を持たない貴族の令嬢はお嬢様と呼ばれているらしい。
それはつまり、姫と呼ばれていたら領主の娘とばれてしまうと言うことだ。それを知ったアーシェは三人衆の反対を押し切り、お嬢様と呼ばせることにした。
最初は屋敷の中でもお嬢様と呼んで欲しいと言ったのだが、彼女たちが猛反発して、外だけの呼び名となった。
彼女たちにとっては、どうやら相手の呼び名というのはとても重要らしい。
確かに、頑なにアーシェのことを名前で呼ばない文化があるのだから、それは本当のことなのだろうが、任務と体裁どちらを取るのかと問われ、彼女らは渋々お嬢様呼びを承諾した。
城で決まったことを色々と伝えるこの場は、茜が過去に聞き及んだ光景と酷似していた。
――何だか朝礼みたいだね。企業に勤めたことないけど。
とは言ったものの、彼等はどちらかというと御百度参りをする参拝者のようだった。アーシェの挨拶が終わると、セリアが号令をかけて、皆散り散りに活動を開始する。
彼等はどうやら朝食の鐘が鳴ったときからずっと、アーシェの到着を待っていたらしい。
もはや本当に宗教なのではないかと思うが、権力と宗教が魔力により密に関わっているので、アーシェの背後に神を見ていても何も不思議ではない。
「獣車の用意を」
「御心のままに」
仮面を付けて獣車に乗り込む。
向かうはもちろん冒険者組合だ。商人組合にも興味があったのだが、エリザベート曰く依頼を先に片付けた方が良いと言うことで、そちらは後回しとなったのだ。
人の歩きより少しばかり速く走る獣車の中から楽しげに街を見ていると、成人平民に混ざってちらほら見窄らしい身なりをした人間がいるのを発見した。
まるでボロ雑巾を継ぎ足して作ったような衣服を纏い、首には鎖が、肩には痛々しい焼き印が押されている。
貧しい身分なのかしら。そんな気持ちで眺めていると、何人かいる集団の内、一人が躓き倒れてしまった。それがきっかけに、鎖で繋がれている集団は雪だるま式に転けて、鎖人間の大渋滞を起こす。
しかし次の瞬間、アーシェには信じられない光景が目に入ってきた。




