044.やくそくごと
「おかあさま?」
「お身体に異常はありませんか、アーシェ」
「……!?」
逃げるように飛び上がるアーシェを、持ち前の腕力で押さえ込む。
しかしその力加減は絶妙で、アーシェの身体を痛めることなく完膚なきまでに封じ込めていた。
もう少し寝ていなさいと膝枕を続けさせる彼女の行動は、最愛の娘を想ってのことであるが、やられたアーシェは堪ったものではない。
憧れ慕う母親の膝という高天原に、頭を乗せるなんて畏れ多きことこの上なく、アーシェは緊張故に口元が痙攣していた。
「そのままで良いから聞きなさい」
「……ぁぃ」
今にも消え去りそうな声で返事をするアーシェを、気にすることもなく話を続ける。
今回の件でアーシェの身を案じた保護者たちは彼女に一つ条件を付け加えた。それは小国へ行ったら必ず毎日帰ってくるようにと言うものだった。
そのためミリアシルは、貿易都市カスタレアについたら真っ先に別荘へ行き、セルヴィスの古城直通の転移魔法陣を設置するように娘に命じる。
国内外を一瞬にして行き来できる魔法陣を設置するのは、領地防衛上宜しくないのではないかと茜が聞くと、どうやらそうではないらしい。
まず魔法陣とは魔力がなければ通ることができず、平民には決して起動することはできない。
一定以上の魔力がなければ、そもそも転移対象と認識されないため、平民が転移魔法陣出移動するためには、対象物だと認識されるまで身体に魔力を注入する必要がある。
しかし、そんなことをすれば過剰な魔力に耐えられず確実に命を落とすため、平民が生きて魔法陣をくぐることはやはり不可能なのである。
では、もしもあちらに魔力を持った者がいた場合。それも問題なく、魔法陣は双方で魔力が登録されていなければ起動できない。
初めての場所へ転移魔法陣で行く場合は、事前に登録のあるものが魔石を預かって、出口となる場所で登録をする必要があり、転移魔法陣には必ず見張りが数人はいるため、登録が許されると言うことは通行が許可されているのとほぼ同義であろう。
最後に、転移魔法陣は維持するだけでも魔力を消耗する。
城に備え付けられているものであれば、聖泉から自動的に補充できるのだが、そうでない場合は、全属性の魔力を毎日十アルテほど供給する必要がある。
十アルテとは、病気にかからない健康な貴族が毎月支払う、生活費の最低水準と言われており、その金額からしてもどれだけ燃費が悪いか分かる。
因みに一度機能を失った魔法陣は、内部に登録されている情報も消失し、再び起動しても前回と同じようには使えない。
「わたくしは造幣局のお世話になったことはないのですが、わたくしの魔力量で維持できるのでしょうか」
「余裕だ」
アーシェの魔力は奉納式の時点で毎月万近く回復することが分かっている。アーシェほどではないにしても、全属性持ちの貴族であれば、毎日十アルテを納めることなど容易である。
そもそも貴族とは、本来労働をせずとも身から出る魔力を売りさばけば、生きてゆける生き物だ。
しかしそれは魔力を授ける神への冒涜であり、神から授かった魔力は神へ返さねばならないというのが貴族と宗教の倫理観である。
日常生活だけでは到底使い切れない魔力を、国のため、領地のために神へ捧げ、そのほんの一部を私生活に用いることで世を豊かにする。それが貴族の善行だ。
対して平民は赤子の時から老いて死ぬまでの間、休みなく魔力を搾り取っても一アルテ分の魔力にも届かない。
それ故に平民と貴族は明確に区別されているのだ。
本来であれば、平民から税を取ることすら必要ないことなのだが、賢者曰くそれでは家畜を飼っているのと同じであり、平民にも労役を与えることで、生きる目的を与えなければならないとの事らしい。
――金の生る木だね。
――……わたくしは樹木ではないわよ。
――たとえだよ。
膝上で頭を撫でられながらも、しっかり応答するあたり、正気は保てているようだ。
実のところ、エルミニクが頑なにアーシェを話そうとしないのは、何だか最近アーシェへの愛情が出遅れている気がしたからであり、言ってしまえば妹分であるロベルティーネや小姑たるエリザベートへの対抗心だった。
彼女は聞いてしまった。
毎日のように愛娘と仲睦まじくお勉強をする義妹。愛娘を膝に乗せて密着しながら雑談をする義姉。
おかしい。自分の娘だというのに、義理の姉妹に先んじられて、かく言う自分は夫の護衛だ。わたくしもアーシェを愛でたい。抱きしめたい。撫で回したい。
そんな欲望が積もりに積もっていた矢先に、ミリアシルからの緊急指令。彼女の命が脅かされていると聞いた時は全身から血の気が引いた。そして無事だと知ったら安堵が駆け巡り、介護という名の独占を宣言したのだ。
「お母様。そろそろ……」
「ダメです。倒れる際に頭を打っていたら大変だもの」
起き上がろうとしたアーシェを再び身に寄せる。
彼女は隠忍自重という言葉がよく似合う性格で、普段はとても我慢強く、何をされようと鋼の意思を以て静観に徹する。しかし彼女の場合は我慢した分だけ、後の反動が凄くなる。
この一週間、彼女は職務のために我慢を続けた。
いかなる時も、アーシェの母であることよりも、ミリアシルの護衛という立場を護り、その姿勢を崩したことはない。
会議の時も、もっと色々話したかったが、文官である義妹と領主である夫にほとんどを任せた。
それは主人の決定に、近衛が口を挟むべきではないと判断したからだ。主の判断を一々吟味していたら、いざというとき咄嗟に動けない。近衛とは主人の命令を一切疑わない忠誠心と、身体を動かすことだけに専念する才能が必要なのだ。
そんな彼女の反動は、たった数分アーシェを愛でるだけでは到底足りず、何なら貴族の矜持を無視して一晩共に床に就きたいと思うほどだった。
「今晩共に祈りを捧げてくださるのでしたら解放してあげますわ」
共に祈りを捧げるという言葉は、要は長い時間共に過ごすとか、前後の句を参照し祈りを捧げるような特定の時間帯に共にいる、などという意味が含まれている決まり文句である。
後者の場合は、その前後の句というのが非常に重要であり、今回の台詞の場合、二人が親子ではなく男女の仲であれば、誘っていると捉えられても仕方がない。
もちろん、エルミニクは単に「添い寝しましょう」と言っているだけなのであるが、淑女、特に既婚者が口にして良い言葉ではなく、その事から彼女が娘に対してどれだけ溺愛しているのかがわかる。
因みにこの貴族社会において、親子で添い寝をするという文化はあまりない。しかし、家族愛の度合いによっては、子どもの晴れ舞台の前や、長期外出の前夜に一緒の布団で寝ることもある。
「宜しいのですか……?」
アーシェにとって自分の肉体を創り、命を授けて下さった両親は現人神に等しい。
そんな存在と食だけでなく寝も共にできると言うのは、桃源郷に迷い込んだのかと思わせるほど昂ぶらせる出来事だった。そんな条件を出されてしまっては、間髪入れずに承諾してしまうのは仕方の無いことだ。
「話を遮るものでない」
娘と妻を窘めると、ミリアシルは明日からの注意を確認する。
まず、領地を出たら妄りに自分を公室関係者だと言いふらしてはならない。貴族関係者であるとは言っては良いが、万が一露呈してしまった場合は即刻帰国すること。
小国において貴族と領主はほぼ同義であり、貴族のほとんどが領地を持っているのだとか。では貴族の数が極端に少ないのではないかというと、そうではない。
貴族が持てる領地はせいぜい都市一つか二つ程度であり、村一つだけの領主もいるのだとか。
規模だけで言えば、大国の上位領地が小国の国に匹敵することもあり、実際に領主が小国へ赴いた際は、王族待遇とされたこともある。
つまり、アーシェは外国では王女に匹敵する身分であり、知られたのなら目的の魚以外の雑魚も釣れてしまう可能性があるのだ。
次に魔法を使わないこと。使う場合は決して気付かれないようにすること。
魔法を使えると言うことは、大国の貴族であると豪語しているに等しい。緊急時には使っても良いが、その場合は祈りの魔法は使ってはいけない。
用いるのは魔法陣を介したものか、祝詞の魔法のみである。
アーシェが国外で神に祈ると、十中八九大半の魔力が神に届かず、大地や大気に吸収される。神への祈りとは世に魔力が満たされている場合のみ届くのであって、数ある国々の中でそれが実現できているのは三大国の領地のみなのだ。
「魔力が吸収されるとどうなるのですか?」
「動植物、鉱石、河川、地脈、天候、その他多くの自然現象に良い影響が出る」
「良い影響、ですか」
草木に吸収されれば季節に関わらず花が咲き、山に吸収されたら魔石を始め様々な鉱石が出現する。大地は肥え、水は浄化され、干ばつ地域に雨を降らす。
良いことだらけであるが、それはやってはいけないことなのだ。
「貴族は世に漂う魔力を神に還すのであって、人のために魔力を使ってはならない。と言うのが建前だ」
「実際はお国の優位性を護るためですね」
答えたのは茜だった。
もちろん信仰的な意味もあるのだろうが、やはり汚い時代を生きた茜にとってはそちらの事情が透けて見えてしまう。しかし、茜はそれを間違っているとは思わない。資源が有限であるのなら、一部の人間が正しく使うこともまた、一つの道なのだろう。
最後の注意は全身を特殊な衣で包むこと。魔力を通さない白装束を纏い、白の仮面をつけて一切の露出を禁じる。
魔力の高いアーシェはそこにいるだけで影響を与えてしまう。アーシェが歩いた道に季節の花々が咲き乱れていたら大事件である。
カスタレアで仮面を脱いで良いのは指定した屋敷の中でのみ。それ以外は何を言われようとも決して外してはいけない。
その白装束はいわば三大国共通の外交正装である。それを着ていると言うことは、いずれかの国の関係者。それも国士である可能性が非常に高く、その事実を知っている者への牽制にもなる。
そんなこんなで何度も念押しをされ、危なくなったらすぐに帰ってくることを約束した。
万が一アーシェの身に傷がついてしまったら、ミリアシルは怒り狂い自分を責め続けるだろう。それでなくても、後に残るような傷でもしてしまった暁には、アーシェへの婿入り候補が一気に減ってしまい、子どもが少ないご時世、さらにお婿さん候補が減ってしまうのだ。
そう言えばミリアシルはアーシェを領主にすると言ったが、彼は入り婿候補にも目星をつけているのだろうか。法律としての制限はないが、彼が嫡流に拘るのであれば、その問題は必ずやってくる。
――と言うか、この子に貰い手がいるのかね。
――よく分からないけれど、さては貴女とても失礼なこと考えているわね?
性格は一先ず置いておくとして、今でさえ大人顔負けの魔力にこれ以上磨きが掛かったら、魔力的に釣り合う人間がおらず、結婚しても子どもに恵まれないことになるのではないだろうか。
まあ、さすがにそのあたりの対策はしっかりしているだろうと、ミリアシルに期待を寄せ、茜は彼等の会話を傍観する。
今は会議でも勉強会でもない、家族水入らずの時間である。
そのような中に茜という存在は不要であり、本人もそれを自覚しているため、意識的に気配を消していた。
ミリアシルとの話が終わり、今夜は早く寝ましょうねと就寝の話をしていると、不意に七の鐘が鳴り、大砂時計が彼等に夕食の知らせを運ぶ。
この後は成人問わず一族全員による立食会だ。懇親会という名の試験場とは違い、こちらは正真正銘気軽に飲み会できるもの――であると聞いている。
アーシェは面倒くささをおくびにも出さず、立食会に臨むのだった。




