040.読書のすゝめ
「ウリナトル侯爵姫殿下が参り着きました」
「お通し下さい」
長いスカートを摘まんで歩く少女の姿は、生まれついての大貴族。どことなくアーシェに似ている彼女には、城の従者も親近感を覚え、側に仕えても全く違和感がなかった。
ごきげんようと挨拶を交わし、公爵領の食事はどれも絶品ですねと世辞を言う。
「賓客への御持て成しです。普段はもう少し質素なものもありますよ」
一族会議が行われるこの二日間は、安心と信頼の料理よりも、一風変わった新メニューが出されることが多い。珍味とまではいかないが、アーシェですら普段食べないような、贅沢に贅沢を重ねた料理が惜しみなく振る舞われる。
特定の魔物から採れる最高級の肉や、地に根を下ろさず、大地ごと浮遊する樹木の果実など、おとぎ話にでも出てきそうな品々が陳列する昨夜の夕食は、さながら競売会のようだった。
「貴領こそウリナトル産の果実と言えば世界中で高く取り引きされる銘柄ではありませんか」
「そう、なのですか?」
こくりと首をかしげるマルティナに、何故かアーシェが彼女の領地の特産品を教えることになった。
ウリナトル侯爵領は国内有数の果実酒名産地である。彼の地は醸造用の果実と食用の果実の二種類を区別しそれぞれに適した品種を作ることにより、世界的に有名となった。
葡萄酒だけでもその銘柄は五十を超え、ウリナトル産の某果実酒と言えば献上品の代名詞とまで言われているほどだ。
もちろんアーシェは飲酒なんてしたことがないので、ウリナトルと聞けば概ね食用果実の方を思い浮かべるのだが、世の権力者は皆多くが成人済みで、大抵の場合酒豪であることが多い。
そうなるとやはり世間的には果実酒の方が有名となってしまうのだ。
「ウリナトル閣下が襲爵なされてからは、より一層味に深みが増したと伯母様も仰っていました」
「アーシェリット様の伯母様、とは、商会の統括様ですか?」
セルヴ商会の統括と言えば小さい子どもでも知っている有名人だ。
特にマルティナの場合は侯爵領を出るときに、城の従者からセルヴ公爵領の重要人物を、耳にたこができるほど言い聞かせられていた。
もしも出会ったのなら決して粗相のないように、可能であれば名前を売っておくようにと言われ、その重要人物の中にはもちろんアーシェも含まれている。
しかし、いくら英才教育を施されていると言っても所詮五歳児。セルヴィスという新天地に足を踏み入れた瞬間、従者の小言など記憶から消し飛び、目新しいものに占領された。
その中で辛うじて覚えていたものが唯一の同い年であるアーシェのことと、美味しいお菓子と言えば真っ先に名前が挙がる、セルヴ商会のことだった。
「アーシェリット様は、商会統括様にお会いになるのですか?」
「年に数回程度ではありますが、懇意にしておりますよ」
下手なことを言って、万が一、一族不仲説でも出たのなら堪ったものではない。エリザベートとは天地の差があり、親しいという対等な言葉遣いでは相手に失礼であるとは思うのだが、仲が悪いと思われるよりかは幾分かマシである。
そう考えての発言だったが、マルティナは目を輝かせ、アーシェを見つめていた。
聞けばマルティナは流行に敏感な性格であり、外に出られない分室内で楽しめるお茶や衣服に興味があるらしい。そしてそれらを扱う筆頭店舗こそ彼の商会であり、彼女にとって商会の最高権力者は、いわばアイドル的存在だった。
「アーシェリット様、すごいです」
「マルティナ様こそ多趣味でとても素敵でしてよ」
アーシェは今まで理性を超えて趣味に没頭したことがない。
少なくとも記憶には残っておらず、最初は趣味で始めたことも、いつもこれは本当に必要なことなのかと、理性が待ったをかけるのだ。
振り返ってしまうと情熱とは冷めるもの。それを自覚してからは始めることすら少なくなった。
その結果、情熱の捌け口となったのが知識欲。知識、情報はいくらあっても損をすることはなく、不必要とは言われないのである。
そのアーシェからすれば、趣味に走れる人間は尊敬に値する。
「アーシェリット様には何かご趣味はないのですか?」
「趣味ですか」
うーんと内心唸るアーシェ。昨日から始めた素描は、他人に言えるほど昇華できてはいない。勉学を趣味というのは、無趣味と捉えられる可能性があるので却下だ。衆芳苑は営んでいるが、管理を三人に任せ、アーシェはその場に赴いたことすらない。
――趣味、読書で良いのでは?
アーシェの思考が空回りし、ついには趣味の定義まで考え始めたところで茜の制止が入る。嘘は言っていない。文学を愛するだけでなく、理工学書、技術書、歴史書も立派な書籍。
読み漁った知識教本の数で言えば、同年代でアーシェの右に出る者はいないだろう。自己研磨が目的だとしても、それはもう立派な趣味と言えるのではないか。
世の中には、まったく趣が異なる自己啓発本を読み漁っている人間だっているのだ。
それに一体何の意味があるのか、茜には理解できないが、趣味とは意味を求めない物なのである。
そもそもこの世界には文学書が浸透していない。
紙は動物性から植物性まで豊富に発展しているのだが、印刷技術が領主一族によって厳しく管理されているこの世界において、同じ内容の書籍を何冊も作るというのは莫大な資金を必要とする。
故に、本と言えば、己が知識や技術を子孫へ残すために書き記した教本のことを言い、それらは大抵、先祖代々受け継がれてきた個人所有の書庫に収められる。
娯楽としての書籍を製本するよりも、戯曲脚本を数冊作り、劇団を建てた方がよほど安上がりである。
実際、貴族の鑑賞娯楽と言えば演劇か演奏、個人出資の美術展であり、全国共通の書籍として認知されているものは、よほど有名な叙事詩か神典くらいであろう。
「読書、でしょうか」
「本を好んでお読みになるのですか?」
目を丸くして驚かれる姿に、アーシェは気恥ずかしさを覚えながらも肯定する。本が好きかと言われるとそうでもないのだが、読書をして知識を蓄えることは好きなので半分は合っていると言えるだろう。
とりあえず自分の趣味らしい趣味を見つけたアーシェは、ここぞとばかりに念押しをし、信憑性を高める行動に出た。
「本とは過去の偉人が残した英知の結晶。頁を捲るごとに教養を深め、一冊読み終え、その後、自身のできることが増えたと実感した時の感覚は、素晴らしいものです」
本の厚さは研究の深さ。
背表紙から読み取れる一冊の情報量は手に取る前から読み手を魅了し、本棚に戻した時は読んだ分だけ自身の知識に深みが増す。特に技術書は研究者が生涯に亘り追及し続けた集大成だ。その成果を後世に残してくれた者は誰であろうと偉人と呼べる。
「自身の財産を割いてまで後に続く者に道を示しているのです。差し詰め書籍とは人生の灯火でしょう」
「アーシェリット様は聡明なお方ですね」
あら、もしかしてと思い、アーシェは一言マルティナに尋ねた。「お勉強はお嫌いですか」その言葉を聞いた途端、彼女は耳まで真っ赤に染めてこくりと頷く。
曰く、本を読んでも文字の羅列に集中できず、休み休みに読んでいたら読み終わった頃には冒頭の内容を忘れてしまう。そんなジレンマに苛まれ、いつしか勉学自体に苦手意識を持ってしまったらしい。
「書物に慣れるのなら建領記などがお勧めでしてよ」
パール王国建国当時から現存する貴族は御三家と配公しか存在しない。尤もその三家は建国以前から存在するので、公爵ではなく、家として見るのであれば、王家よりも歴史は永い。
言い換えれば御三家以外の家は、何かしらの理由があって叙爵されたのであって、その功績は家が続く限り、永遠に語り継がれるべき物語なのだ。
もしも建領記が途絶えたのなら、何のために領地があるのか、己が存在理由を証明できないことになる。建領の理由が定かでないのに、無理に世襲をするのなら、領主一族から領主を選出する意味が無くなり、世襲というシステムを根本的に覆してしまう。
何故その家が必要なのか。それが分からなければ、幾度となく繰り返された政変に、どうしてその領地が必要だったのかを示せなくなる。
故に全ての領地に建領記は必ずあり、ある意味では聖典にも似た扱いをされることもある。初代が何をして、どのような功績を称えられたのか。そしてそこから今に至るまで、歴代領主は何をしてきたのか。
史実に忠実なものもあれば、物語のように誇張されているものもあり、アーシェも最初はセルヴ建国記から入った。
「アーシェリット様は魔法の心得もおありですし、わたくしとはとても……」
「マルティナ様も習えばすぐに上達しますよ」
別に世辞を言っているつもりはない。
魔法は理屈を理解すれば簡単に扱える技術であり、数学や物理のようなものだ。祝詞に関して言えば問われるのは完全に才能のみであり、領主の娘たるマルティナの才能は言うまでも無い。
問題は魔力と適正なのだが、前者に関しては、最悪魔石に溜めることで、個人の魔力量が低くとも問題にはならず、後者に関しては侯爵家の姫であれば何の憂いもないだろう。
それよりも大事なことは知識や思考力であるとアーシェは考える。才能でしか扱えないものより、努力で伸ばせるものを伸ばせば、自分のように身体が弱くとも立派な領主になれるかも知れない。
身体が弱いという共通点があるマルティナとは、是非この考えを共有したいものだ。
「あの、アーシェリット様……!」
一世一代の決意を灯した表情で紡いだ言葉は、魔法を見せて欲しいという願いだった。昨日怒られたのに、見せるのは大丈夫なのかとセリアに問うと、祝詞を教えなければ問題ないとのことだった。
何を見せようかと己が引き出しを吟味する。しかしアーシェとて自身が扱える魔法は決して多くない。その中でも尤もマルティナの印象を挙げる魔法となると、やはりあれしかないだろう。
「少し違和感があるかも知れませんが、悪いようにはなりませんのでご安心下さい」
そう言い残し、アーシェは心の中で祝詞を唱える。祈る相手は癒神。願うは少女の健康長寿。魔法の名前は《大治癒》。対象は彼女の喉だ。
「《大治癒/大いなる癒やしを》」
一度祝詞を覚えれば、祝詞は省略もできるのだが、祝詞を知らなければ魔法を唱えても何も起こらない。
尤も、神に祈る力が強ければ、その神と魔力に応じた別の魔法が出る可能性があるのだが、同じ効力が出るとは限らないところは、何だか確率的なものがある気がする。
魔法が効果を発揮したのはすぐに分かった。マルティナが喉に刺激を感じ、咄嗟に首元を抑える。その刺激は発作が出た時に苦しみを和らげてくれる優しい感覚。
アーシェが選んだその魔法は、炭化した下半身をも再生する治癒の最高位魔法。微々たる魔力で彼女のご機嫌を取れるのならば、いくらでも貢いでやろう。そんな打算を孕んだ魔法は、アーシェの意のままに彼女の喉を癒やし、一時的に炎症を抑えた。
「これは……」
「治癒魔法の一種です。お加減はどうでしょうか」
「は、はい……とても楽になりました」
とりあえず一安心である。
そろそろ彼女との会話も飽きてきた。顔には出さずにそう考えていると、茶会の終わりを告げる四の鐘が鳴り響く。
ようやくこの少女から解放される。そんな思いから満面の笑みを浮かべるアーシェは、内を知らない者からすれば、慈愛に満ちた振る舞いをする聖母のようだった。




