032.素描練習
アーシェの正面にある画架の高さを調整している間、レオノーラは彼女に変哲もない小さな木箱を渡していた。
ただ一言どうぞと渡された木箱は、アーシェでも抱えることが出来るくらいの大きさで、訳も分からず受け取ったアーシェは、目をぱちくりしながら重さや大きさを感じていた。
――中は空洞なのかな。
――大きさほど重さを感じないわね。
高さの調整が終わると、アーシェに預けていた木箱を回収して、卓上に白い布を敷き、その上に設置する。どうやらあれが今回の素描対象らしい。
「もっとよく観察しておけば良かったわ」
「仰るとおりです。被写体を間近で観察する機会はそう多くありませんので、もし今後も美術を続けるのでしたら、観られる時に観る、を心がけて下さいませ」
そして大きな筆箱を開き、順に並べられている木炭の説明をする。
最初はあまり意識せずに、濃くて軟らかい木炭は最初に使い、薄くて硬い木炭は仕上げに使うと心に留めておけば良い。まずは何よりも楽しいと、興味を持って貰うことが重要だと伝えた。
「観察して、表現の仕方にお困りでしたら仰って下さい。わたくしも誰かの師になれるほど巧みではございませんので、概ね口を出すことはありません」
それを聞いて早速アーシェは一番濃い木炭を持って線を書く。曲線が殆どない木箱は、輪郭だけならそれほど難しくはないが、奥行きや全体的な比率を考えられる良い教材だ。年輪まで描き込めば滑らかな曲線も表現できる。
――茜、茜。木炭はどう持てば良いの?
――あーちゃんの力だと強く握っても大丈夫だと思うから、真ん中あたりを人差し指と親指で摘まんで、中指や薬指で力加減を調整するように持てば大丈夫。
アーシェは既に不機嫌だったことも、不機嫌だった理由も忘れて目の前の画材に目を輝かせる。アーシェは利口な子だが、それと同時に子どもの思考も持ち合わせていた。
特に嫌なことがあったとき、新しく嬉しいことがあると、その記憶は完全に消え去って、過去の経験の一部となる。子どもとは斯くも純然たる生き物なのだ。
木炭で書く黒い線は、アーシェの目には新鮮に映る。今までの彼女にとって、何かを書くということは、黒板に白墨で文字を書くことを意味していた。白い帆布に描く、いつもと真逆な色彩は、世界の彩りを反転させる。
――……直線を書くの、考えていたより難しいわね。
――それは慣れだねぇ。
試行錯誤を繰り返し、不慣れな手つきで線を加えていく。
アーシェは空間把握能力に長けている。ものの距離感を目で見る以上に感じ取れ、この部屋の中だけで言えば目を瞑ってでも生活できるくらいだ。
経験がない今は、線が歪んでいたり、長い線を一本で描くことができなかったりしているが、きっと将来は素晴らしい写実的な絵画を描いてくれるだろう。茜はそう思ってアーシェに知識を授ける。
茜は絵らしい絵を一世紀近く描いていない。教員時代は黒板に図形や表を作っていたが、そんなものは描くと言うより書くだろう。
それ故に、自分が描けと言われても描けないが、過去には最低限の教養としてピアノ、ヴァイオリンと共に指導を受けていたこともあって、それらの教師が言っていた、覚えている限りのことを、右から左へそのまま伝える程度のことはできた。
観察し、線を引き、消しパンで修正し、観察を繰り返す。アーシェが分からないことは茜に聞き、茜も分からないことはレオノーラに教えて貰った。
――ねぇ、茜。
――何かな。
徐々に線引きのコツを掴んできたアーシェは、余計なことを考えられる程度には余裕ができていた。
本当は余裕があっても全力で素描に取り組みたいのだが、茜が並列思考の訓練と称して、同時に別のことを教えてきたりするため、余裕ができた途端に余裕が埋まるようになっていた。あまりにもしつこく話しかけてくるので、アーシェはついに諦めて、茜の訓練とやらに付き合うことにしたが、思ったよりも難しく、気を抜いていると、あらぬ問答をしてしまう可能性があり、思考力よりも集中力が試される試練だった。
そんなアーシェは父から頂いたご褒美について考えていた。側近三人衆曰く、この画材はミリアシルがアーシェに与えたご褒美なのだとか。
しかし、アーシェ自身には、彼のお方から褒美を授かるような偉業を為した覚えはない。あるのは茜の魔力制御の件なのだが、あれは尊きお三方とのお話で完了しているはずだ。
ではこの画材は茜が欲した物かと尋ねると、それもどうやら違うらしい。
――つまりこの画材は二重領収なのでは……?
――そんな言葉、どこで覚えたの。
だとすると随分拙いことになる。アーシェは既に木炭と帆布を使用してしまっている。この画材が易しいものであれば、アーシェの貯蓄から弁償できるのだが、領主たるミリアシルがそんなところに手を抜くはずがない。
――そんなの気にしないで素直に受け取りなさい。
――しかしもしお父様がこれを必要としていたら。
――贈り物を返品するのがあーちゃんの礼儀なの?
その言葉を聞いてアーシェの頭に雷が落ちる。
その通りだ。アーシェはいつ何時であれ高貴でなければならない。それは親に対しても同じであり、些細なことであれば、同等以上の相手が間違えたのなら、相手が名乗り出るまで気付かぬふりをするのが礼儀というもの。
アーシェにとっては慌てふためくことであっても、ミリアシルにとっては一つの褒美なんて記憶に留めておく価値すらない、矮小な出来事だ。茜は自分の愚かしさを悔い改め、せめて二度と同じ過ちを繰り返さないように心に刻み込む。
――ありがとう、茜。二重領収であっても、こちらの利益になるのなら、気付かずに受け取っておくべきなのね。
――うーん。違うけど立ち直ったのならまあ良いや。
何故か茜が黙ったところで今度こそ素描に集中する。
そして一刻が過ぎ、三の鐘がなってしばらく経つだろうと思われたとき、アーシェの腕がピタリと止まった。
――……分からないわ。
「レオノーラ。これは未完成なの」
「はい」
「でもこれ以上どこを改善すれば良いのか分からないわ」
その帆布に描かれた絵は、誰がどう見ても木箱だった。
しかし、輪郭は所々歪みがあり、少しばかり奥行きも合っていない。陰の濃さが違っていたり、木箱の模様が異なっていたりと些細な違いがあって、どこが違うのかもおよそ見当が付く。
見当は付くが、それが直せない。今でさえ、この絵がこの状態になっているのはただの偶然であり、同じものを描けと言われても全く描ける気がしないのだ。迷子の状態で無我夢中に進んでいたら、偶然ご近所さんに着いたような気分だった。もちろん茜の感想であるが。
「素晴らしいです姫様」
「全く素晴らしくなんてないわ。この木箱の全てが間違っており、実物とはかけ離れているのよ」
「確かに全てを写生できているわけではありません」
しかし、木箱に象られている模様に大きさそのもの。アーシェの目線から移る角度や奥行きはきちんと表現できており、初めてにしては驚異的な上手さだ。
レオノーラは、その素描が少しずつ完成する様を見て興奮を抑えきれなかった。たった今し方、初めて画材に触れた少女が、ここまで写実的なものを創ることができるのだろうか。
確かに最初の一線は筆の持ち方すら儘ならない普通の初心者だった。しかし二本目には持ち方を工夫し、三本目に正解にたどり着く。それと同時に一筆ごとに長く、正確な線を引けるようになり、一回一回を反省し学習する恐ろしいまでの精神力。
これを天賦の才と言わずして何と呼ぶ。
アーシェの後ろに付き添うレオノーラはいつしか護衛の立場を完全に忘れて主人の成長を食い入るように観察していた。
「初の取り組みに対して本当に素晴らしいできでございます。わたくしのような素人ではなく先生をお呼びしましょう」
アーシェは冗談でしょうと上を見上げるが、にっこりと微笑む彼女の目は全く笑っていなかった。それはまさしく肥えた好物を見つけた女豹の目だ。何故だか背筋が冷える感覚に陥り、アーシェはふいっと目をそらした。
「先生をお呼びしても日中常に絵画のお勉強ができるわけではないわよ」
特にアーシェの場合は、これから外国へ見聞を深めに行く。そうでなくても、本格的に領主として必要な知識を培うために勉強しなければならない。
アーシェには既に異邦遊学について知らせている。
行き先は貿易都市カスタレアという都市国家で、セルヴ商会の大輸送団に紛れ込み、秘密裏に出国することになっている。幸いなことに、本日正午に大輸送団本隊がこのセルヴィスに到着し、そして明後日の朝まだきに、出立する予定だ。
出立後、国境付近の都市までは本隊に護衛して貰い、国境を越えたら、本隊とは別れて、貿易部門の隊と行動を共にすることになる。
大輸送団本隊には商会統括エリザベートがいる。
彼女は貴族の中では珍しく、日々国内領地を渡り歩く生活を送っていた。職業が職業なだけに、領主である弟から魔力の納税猶予を得て、四半期に一回は領内に帰ってくることを条件に、貿易条約締約領地国家間を自由に行動できる権利を得ていた。
しかし、締約国の中には今回遊学する小国は含まれておらず、条約内の、内国民待遇は有効でないため、本隊を派遣する利益がない。よって一般の貿易商と同じ経路を使う貿易部門が、アーシェを無事カスタレアまで送り届ける手筈になっている。
「失礼致します」
小国のことを脳内で話し合いながら、レオノーラのデッサン講義を受けていると、城内の侍官が一人アーシェの部屋を訪ねてくる。アーシェが室内にいる内に、普段とは違う侍官が訪れることは珍しい。
アーシェの部屋掃除や着替えの入れ替えは、アーシェが食事にでている間に全て終わらせるため、基本的に、アーシェの目に付くところで作業することは滅多にない。
そんな、アーシェにとっては城の妖精のような彼女たちが、アーシェの前に姿を現したと言うことは、そのように命令されたか、そうせざるを得ない時に限る。
「如何しましたか?」
侍官たちの訪問にメリッサが応じる。
城内の一部の侍官たちはアーシェと直接言葉を交わすことができない。それはアーシェがやんごとなき身分であることもあるが、魔力制御が不安定なアーシェと言葉を交わし、万が一アーシェの魔力に当てられたら困るからだ。
普段であればアーシェへのお遣いは正階貴族以上の従者の役目なのだが、今回は余程人手が足りないらしい。この時期にこの騒がしさでは、考えられる理由は一つしかない。
「姫様、大姉院様が御座し着かれたようです」
「そう」
セリアを呼んで足の着かない椅子から降りるとアーシェは入浴を所望した。
朝食前、ミリアシルたちと契約魔法を行使した後に、エリザベートのことを聞かされた。彼女は明日開催される、一族四半期会議に出席するために、この城へやって来たらしい。
一族四半期会議とは領内外に存在する、セルヴの血を引く者たちが集う会議である。領内からは地方都市統治を任されている首長が、領外からはセルヴ公爵領の付庸領とされている領主が集まって、四半期決算を執り行う一族にとって最も重要な会議の一つだ。
そして今日、明日の会議のために分家の当主たちが次々とこの城に集結し、日暮れから夜にかけて親睦と簡易報告を兼ねた立食会が行われる。
ミリアシルはその立食会にアーシェを参加させたいらしく、その打診が今朝彼女の耳に入った。もちろんアーシェは父の希望を断るはずもなく、一も二もなく打診を承諾し、立食会に出席することとなった。
実は、アーシェは密かに毎期の懇親会を楽しみにしていた。それはこの二日間だけは、たった二人だけだった子ども部屋に、たくさんの同年代の子らが遊びに来るからだ。
本家と分家という身分の違いがあり、中々思い通りに話題が進むことはないのだが、それでも遠目から和気藹々としている姿を見聞きするのは、とても楽しかった。
炭で汚れた身体をきれいに洗い流し、きれいな御髪を乾かすと、アーシェは人生二度目の正装を身に纏う。普段の純白とは違い虹色に染められた衣はアーシェの絹肌を強調し、より一層白く表した。
「姫様、玉瞼をお閉じ下さいませ」
セリアが塗るのは軟膏だ。アーシェはもとから肌が弱く、低品質な衣服を纏っただけで炎症を起こすほどの虚弱体質だ。それ故に、先ほど――セリアの――袖を濡らしたアーシェの瞼辺には仄かに赤みがかかり、そのままでは親族に不要な憶測を生んでしまう可能性があった。
「本日も雲鬢極まるお姿です」
「そう」
化粧もしていないのに美しいはずがないと思ったアーシェは、いつもの世辞だと断定し、彼女の言葉に適当に返事をつける。
この世界には現代のような高品質な鏡は存在しない。自分が美人かそうでないかの判断は他人の評価から決めなければいけない。しかし、身分の高い者の周りには、主人を持ち上げる者が多いと聞いたアーシェは、彼女たちのかわいい、美しいと言う言葉を真に受けてはいなかった。
特にセリアとメリッサはことあるごとに言っているため、彼女たちの真意とは関係なく、完全にアーシェの信用を損ねていた。




