024.環境という名の洗脳部屋
「お気持ちは存じ上げますが、貴女の歳でそのお考えはまだ早いです」
精一杯絞り出した案を一蹴されたアーシェは、仕方が無いので茜に頼った。
茜は基本的に、アーシェが頼らない限り、自ら意見を言うことは無い。それは、なんでもかんでも自分が出しゃばると、アーシェの教育に悪いと考えていたからだ。
結果が失敗に終わるにせよ、成功を収めるにせよ、それらの経験は、今後のアーシェの人生において必要なものとなるはずだからだ。
――茜は分かるかしら?
――この世界の遊びかぁ。前世ならぴこぴことかケータイとかなのだろうけど。
ただ、今回に限っては、茜も答えなんて得られない。そもそも茜はこの世に生まれついてまだ数日である。この世界の常識は、むしろ茜の方が教えて欲しいくらいだった。
――紙とか貴重だろうし、あーちゃんの精神年齢を基準として、そこからさらに二歳成長させたお貴族様の遊びと言ったら……芸術関係かな?
――それなら心当たりがあるわ。
「素描会や音合わせでしょうか」
――楽器はまだ持てないけれど、筆なら扱えるかしら。
答えを聞いたロベルティーネがため息を漏らした。表情を隠している成人貴族にしては随分なオーバーリアクションである。
それはつまり、未熟なアーシェに何か伝えたい事があると言うことであり、それを気付いて欲しくて、アーシェにも分かるように、表情に出しているのだ。
「確かに美術や音楽を嗜む令嬢は少なくありません。しかし、わたくしがお聞かせしたいことはそうではなく、より単純なことなのです」
それは何だろうと二人は考える。しかし予測できた答えに反し、ロベルティーネが言った言葉は、本当に、単純かつ原始的なものだった。
「会話……?」
「そうです。親子の団欒、友との能辯。人とのふれあいと言う、ありきたりなことが貴女には欠けているのです」
「しかしロベルティーネ様。わたくしにはお友達はいませんし、お父様もお母様もお忙しく、とてもわたくしに構っていられるようなお時間はございません」
「その遠慮は不要なことです」
ロベルティーネが子どもは親に迷惑をかけるものだと説くと、アーシェは故意に邪魔をするのは間違っていると答える。
親は子どもに頼られることが幸福であると説くと、頼っているばかりでは、不自由をかけるだけでなく、自分自身も成長できないと答える。
「わたくしは一人では何もできません。多くの従者たちの力を借りねば生活すら儘ならないのです。そのような居るだけで周りに不自由を与えている者が、如何なる理由がありましてこれ以上の迷惑をかけられましょう」
その言葉を放ち終えた直後、それ以上言わせまいと言わんばかりに、ロベルティーネは乱暴に音を立て、己が扇を閉じた。
アーシェは敵意を向けられたことがない。
それはそうだ。城内で、領主の長女に対して、あからさまに敵意を晒すなど、不敬罪を疑われても文句は言えない。そんな温室育ちのアーシェが初めて感じた大人の敵意は、彼女を萎縮させるのに十分な効力を持っていた。
レオノーラが袖内に隠した扇子に手を添え、セリアとメリッサはいつでもアーシェを守れる位置へと素早く移動した。それに対し、スヴェンが腰を落としたところで主からの制止が入る。
「アーシェリット様。以前もお聞かせ致しましたが、謙遜と卑屈は全く異なるものです。ミリアシル様やエルミニク様をご覧なさい。あのお姿のどこに卑しさがあるというのですか。先日お父上に仰せつかった、一族として相応しい立ち振る舞いができているとお思いで?」
そうだ。
アーシェは思い出す。つい昨日ロベルティーネにもミリアシルにも言われたばかりではないか。
高貴であれ、言動に気をつけろ。再三言われてきたことが何一つできていない。今までの会話の中にもそれを思い出すヒントはいくらでもあったのに、ここまでハッキリ言われないと察することさえできない自分に恥ずかしさすら覚える。
せっかくロベルティーネ様が直々に教えて下さったのに。
せっかくお父様が道を示して下さったのに。
わたくしは何も応えられていない。
「わ、わたくしは……」
大粒の涙がぽろぽろと零れる。泣いてはダメ。そう自分に言い聞かせるほど嗚咽は激しさを増して呼吸を乱す。
これは決して高貴な姿ではない。人には見せられない姿だ。目をきつく絞り、唇を噛んで痛みに耐えた。口内に鉄臭さが充満しようと、その不快さすらも我慢の糧にする。
目の前に居るのは親族だが、それと同時に貴族でもある。
二つの面を有する、これ以上のない教育係だ。初めて言葉を交わしたその日から、分かっていたことでは無いか。
彼女は実子でもないのに教育係を任されて、立場上断れず仕方なく引き受けているだけだ。
アーシェは知っていた。
城の廊下で使用人の閑談を耳にしたとき、五年前の大災厄の存在を知り、当時はただ記憶するに留めていたことを、成長とともに深く考え、奉納式の直前には理解できるようになった。理解できてしまったのだ。
それでもロベルティーネ様は真剣にわたくしを指導して下さった。雑に扱うわけでもなく、目の敵にするのでもなく、ただただ職務を全うすべく、己を殺して不出来なわたくしに教えを授けて下さった。
ならばわたくしはそれに応える義務がある。
アーシェはまだ幼く、ロベルティーネの内面を知る術はない。
二人はお互いに寄り添いながらも、決して交わることの無い道を築き、そのすれ違いを今はまだ認知できていなかった。
「今ならまだ子どもに戻れます。成長は五年先でも遅くはないでしょう」
「……嫌でございます」
ここで折れたら、今まで培った彼女の教育が無駄であることを認めてしまう。
それは他の誰が何と言おうと、アーシェ自身が許さない。未だに高貴が何かは分からないし、領主の長女に相応しい立ち振る舞いができているとは、口が裂けても言えやしない。
しかし、たった今、アーシェには、小さくも爛々と光る貴族の矜持が芽生えていた。
幼い胸に抱いたその覚悟は、他人から見れば一つの選択しにすぎないのかもしれない。しかしアーシェにとっては人生を左右する大きな分水嶺となった。
「申し訳ございません。しかしわたくしもここで引くわけには参りません」
「意地で務まるほど貴族の道は優しくありませんことよ」
「意地も貫けば矜持です。領主の子、貴族の一人、そして貴女の娘である矜持を捨てて生きてゆくなど、わたくしにはできません」
嫌いになれたらどれだけ楽だろうかと思うところもあった。
しかしアーシェは自らこの道を選び、国のため、領のため、家族のために成長することを決意したのだ。
ロベルティーネはアーシェが領主になることも可能であると、無闇矢鱈にそのような危うい発言をする人ではない彼女が、教え子であるアーシェに言った。
それはアーシェが領主になっても恥ずかしくないような立ち振る舞いを教育していると暗に示唆しているに等しい。
この数日で教えられた内容は、少ないようで非常に濃い。何せ社交界の基盤となる立ち振る舞いの基礎なのだから。
ハンカチで目元を拭い、優雅さの欠片も無い仕草で紅茶を飲み干して、身体に熱を取り込む。口内がヒリヒリと痛むことで意識がハッキリと覚醒し、過去の自分との決別を果たす。
――どうせ五年しか生きていないのだし、去年より前の事なんてあまり覚えていないのだから、惜しくも何ともないわ!
――もうヤケクソだね。
未だ目元が紅いアーシェだが、勇ましく扇子を広げて微笑みを返す。その顔には、既に自身の非力さを嘆く少女の面影は無く、ただ実直に前を見据えている、貴族の表情が張られていた。
「……その負けず嫌いは一体誰に似たのでしょうね」
ちょうどその時城内に七の鐘が鳴り響いた。
七の鐘は夕食の知らせである。ロベルティーネは茶会のお開きを宣言して立ち上がる。そして部屋の棚から小瓶を一つ持ち出しアーシェに退室を促した。
その後二人はアーシェの歩みで洗面所へと向かった。口内を切ったアーシェの手当のためである。
「まあ、このようになるまで強く噛むなんて……」
口をあんぐりと開けて、ロベルティーネに視診してもらったアーシェは、己が口内が悲惨になっている事をようやく自覚し、それと同時に、今まで気付かなかった痛みがじんわりと這い上がってくるのを感じていた。
口を漱ぎ血潮の味を消し去ると、次いで彼女は持ってきた小瓶から、コップに一滴だけ液を垂らしてアーシェに差し出した。
「こちらで濯いだらまた吐き出しなさい」
「ひゃい」
「奇妙な味になりますが、驚いて飲んではいけませんことよ」
言われた通りに口に含んで、くにゅくにゅとかき回す。その味は忠告通り何とも形容しがたい味であり、渋みの中に、無理やりドロドロとした甘い液体を混ぜ込んだような、アーシェが今まで感じたことの無い味だった。
そして高さが届かぬ洗面器へと、セリアの力を借りてペッと吐き出し、口の中から奇妙な味の液体を取り除いた。
「そのまま先ほど教えた魔法で傷を癒やしなさい」
祝詞を唱えて魔法を使うと口の中から熱を感じる。体温よりもほのかに暖かいそれは、徐々に局部へと集まって、次第に人肌と同調していった。
もう一度、今度は普通の水を使って口を漱ぐと再びロベルティーネの視診が入る。
「もう傷口は塞がったようですわ。舌を当て痛みがないのなら成功です」
「ん、ん……大丈夫そうです」
無事魔法が成功したと伝えられたアーシェは胸をなで下ろした。
口にあった違和感もなくなり、改めて魔法と神の偉大さに心を打たれる。今度は些細な傷でも積極的に魔法を使ってもっと練習をしよう。そう心で誓いを立てると、それを見越したようにロベルティーネが忠告を発する。
「あの液体がなければ魔法での治癒はとても痛いですよ」
それを聞いた瞬間、先ほど立てた誓いは撤回され、やはり神のお力を借りるよりも、自分で治した方が良いと舵を切った。見事なまでの手のひら返しである。
「ふふっ」
一瞬だけ、作り笑いではないロベルティーネの笑顔が、アーシェの瞳に映る。
その表情を今のアーシェは知らない。それは言うなれば慈愛に満ちた笑顔であり、今までアーシェに面と向かって向けられることのなかった、人の優しさだ。
一寸の迷いを見せて、ロベルティーネが手を差し出す。アーシェは最初、その意味が分からず、彼女の顔を見上げるが、その表情はにこやかに微笑んでいるだけだった。
どうしたら良いかあたふたしながら、メリッサに目線で助けを請うと、彼女は微笑みながら小さな声でお相伴ですよと返事をした。
アーシェは恐る恐る手を出して、ロベルティーネの手袋に触れた。
貴族の文化では、主人が側近以外の人間に触れることは珍しいといえる。それは必要がないこともあるが、一番の理由は防犯目的だからだ。
親子であっても取り上げられた直後に部屋を分かち、隔絶された空間へと運ばれるため、もしもこれが他人の男女で、もっと言うと素手であるのなら、男女の肉体関係を結んでいるのだと捉えられてしまうほどだ。
親子の場合は親愛の証しである。
尤も、貴族は基本寝台以外では手袋をしているので、素手を掴むことはしないのだが、こうして間接的であれ、手を握るという行為は、格別の情を抱いていると周りに示す行為でもある。
そうして二人は横に並んで食堂へと向かう。その間、手袋越しの義母の手からは、従前において未知なる心地良い温かみを感じていた。




