019.優遇された者の孤独
「ん、ふあぁぁ……」
アーシェの朝は、一つの大きな欠伸と神への祈りから始まる。
「家族に癒やしと祝福を」
――祝福を。
お祈りすれば魔力が増えると聞いてから、茜は熱心に神に祈りを捧げている。
現金な人だと想いながらも、アーシェは同じ神々を信仰する仲間が増えたと、表には出さずに喜んでいた。
神々は祈る人間を選定する。
人はそれを適性と呼び、適性がない人間は、いくらその神に祈ったところで、後天的に適性を授かる事はあまりない。神の寵愛とも言われるその許しは、上位の神になればなるほど選ばれる人間も少なくなる。
大抵の貴族の婚姻はその適性で決められ、例えば直階貴族の家の者が、より上位の適性を持って生まれた場合、一つ上の正階貴族や、更に上の明階貴族に召される事もある。
エルミニクもロベルティーネも、共に浄明正直の最上級である浄階貴族の娘だったが、領主の夫人たり得る素質を持っていたからこそ、公爵の公妃として籍を入れることができたのだ。
裏を返せば、神々の寵愛を受けられなければ、たとえ領主の長男だろうと公室ではいられない。
適正は、生涯を費やすほどの長い年月をかければ、後天的に芽生えさせることもできるが、ほとんどのものは先天的に決まる。適性を増やせると言っても、凡そ元の数から一割程度と言われており、あまり期待はされていない。
元から多くの適性を持ち、穴埋め程度に適性を埋めるならまだしも、九割以上の貴族は生まれながらにそこまでの適性を持っていない。それがあるからこそ領主の子なのだ。
全ての祝福を薄く受けるより、一部の神から格別な寵愛を受ける方が良い。大抵の貴族はそう考えているし、実際にその方が現実的である。
それ故に、アーシェが信仰を許された神と、周囲の人間が信仰する神には開きがある。アーシェの知る限り、アーシェと同等の祈りを行える人物は、公族以外では乳母の一族だけであった。
保護者との交流は言わずもがな、アーシェの乳母や、三年間愛しく交流を深めていた弟も、先日アーシェの私室の移動と共に、会わなくなってしまった。
アーシェは公爵家の名に恥じぬ寵愛を受けていた。
世に生まれ落ちたときから、余すことなく受け取った祝福は、彼女を孤独に追い込んだ。周りにいる従者は等しく神を信仰しているのに、同じ神に祈りを捧げることができない。
そして寂しさが芽生え始めていた頃に、茜という存在が現れた。
彼女は何気なくアーシェと同じ神に祈り、神から祝福を授かっていたのだ。
同じ神を信仰できる他人に初めて出会ったアーシェは、言葉が出なくなるほどに驚愕し、大いに興味を引かれた。
――茜。もっと魔力を抑えなさい。
――はい。
これにも規定量とかあったんだ、と呟きながら茜は放出量を徐々に少なくしていく。ある程度まで小さくして、アーシェのお許しが出たらそのまま祈りを続け、止めの号令が入るまで神に祈り続けた。
「お着替え」
「畏まりました」
魔法の衣で全身を隠し、長い髪を結って整える。
今日は鐘が鳴る前に食堂に行く。理由は言わずもがな、祈りのためである。
アーシェの私室と食堂の間には洗面所が位置しており、アーシェはそこで毎日三回歯を磨く。
本人は知らないが、彼女は城内では特に綺麗好きな姫として有名だった。
子ども部屋にいたときは、毎日最低二回湯に浸かり、汚れを落とす。そしてその度に召し物を交換し、常に清潔を保っていた。
最初は肌が弱く、かぶれ防止のためにミリアシルが命じたことなのだが、それがすっかり定着してしまって今に至るというわけだ。保護者との朝食を義務付けられてからは、朝風呂の時間は比較的短くなったが、毎日三回の歯磨きや、物を素手で掴もうとしない癖は健在である。
――不潔恐怖症?
――そう。汚いと思うことを極度に避ける精神障害の一つ。
――汚いのを避けるのは当たり前ではなくて?
いわゆる潔癖症は、清潔観念の妥協点が一般人のそれよりも遥かに高いことを言う。例えばゴミ屋敷を見ると多くの人間が不潔と思うだろうが、それは潔癖症とは言わない。誰しも不潔に対する嫌悪感を備えているからだ。
しかし、他人と一緒に食事ができない等と言った、日常生活に支障を来すまでの清潔感は不潔恐怖症と呼ばれることがある。
アーシェはその不潔恐怖症にあたるのではないかと申し出たところ、茜の予想に反しアーシェは首を横に振った。
――わたくしは、恐らくそれには該当しないわ。
アーシェ曰く、素手で物に触れないようにしているのは、過去に銅器を掴んだときにかぶれが生じ、それ以来従者の判断で、不用意に物に触らせないためであるかららしい。
現在では、金属に触れるためには、保護者か側近の許可が必要なのだが、それ以外は肉体的にも精神的にも問題ない。
しかし、それに加えて、この世界の貴族社会には過剰なまでの貞操観念が存在する。
例えば貴族の子息令嬢は、成人するまで、側近以外に顔以外の素肌を見せてはならない、などである。
他人がいなければ良いので、自室では手袋を脱ぎ、部屋着に着替える者も多いと聞くが、アーシェの場合はそれを着たままにしているのだ。
――素手でも触ろうと思えば触れるから違うと思うわよ。
――あーちゃん本当に体が弱いんだね。
シャカシャカと口内に摩擦音が響く。もちろん自分では磨かず、アーシェは口を開けているだけだ。ブラシの持ち主は扈従のセリアであり、アーシェの綺麗好きの被害を最も強く被っているのも彼女だ。
アーシェの綺麗好きを他の側近が止めようとしないのは、セリアが苦に思っていないからである。
セリアにとって、アーシェの身の回りの世話は職務であり、権利であり、娯楽だった。アーシェのために他の全てを捧げた彼女には、正真正銘アーシェしか残っていないのである。
「『い』にしてくださいませ」
「いー」
――この歯ブラシの素材って何だろうね。結構固いみたいだけど何かの繊維かな。
――魔物の体毛と聞いたことがあるわ。
この世界に合成樹脂なんてあるはずもなく、持ち手は見た目木製で、毛は銀色だ。
アーシェにとっては日常風景でも、茜にとってはどれも新鮮なものだった。面白いことに、同じ目で同じものを見ているはずなのに、着眼点や記憶の残り方に差異があるのだ。
最後に口を漱いで食堂へと向かう。
食堂では城の侍官たちがせっせと掃除をしていた。アーシェが入室するのを目にした侍官は次々と頭を垂れて挨拶を交わすが、アーシェが続けなさいと制すると、再び作業に戻っていった。
しかしその動きは先ほどよりぎこちなく、アーシェの様子を窺いながらよそよそしく作業をしている。
――お邪魔だったかしら。
――まあ職場にいきなり会長の愛娘が来てたらねぇ。
――愛娘……!
セリアが侍官に指示を出して、アーシェの席だけ優先的に掃除をさせた。元々汚れもなく、清潔に保たれている椅子を引いて腰掛ける。
アーシェの体格では、一人で大人用の椅子に座ることは難しい。
一人で座る場合は、魔法を使わないのであれば、手を使ってよじ登る必要があり、それは貴族がやってはいけない行為として教育されている。そのためアーシェは椅子に座る際は、必ず従者の手を借りねばならない。
魔法を使えるのなら魔法でも良いのだが、マナーや法の都合上、魔法を使えない場所もあるのだ。
――ここでお祈りするだけで良いのかしら。
――そうなのかな。
聖泉にて神々に祈りを捧げた場合、魔力の大半が最高神格の六柱に集まる。何故それが分かるのかというと、祈りを捧げた者にはどの神に祈りが届いているのか感覚的にわかるのだ。その感覚を頼りに本当にここが聖堂なのかを確認する。
――神に祈りを。
――大地に実りと祝福を。
神への祈りは祈祷師の身体に一種の快楽作用を齎す。魔力が体から抜けていく感覚は、疲労感と共に暖かい心地良さと開放感を与えてくれる。
例えるなら、それは疲労困憊している中で、乾燥機から取り出したばかりの新品毛布に包まれているような感覚である。アーシェは生まれたときからその感覚を知っている故に、何とも思わないのだが、茜はその快楽に恐怖した。
これは言わば後遺症がなく依存性がそこそこ高い麻薬だ。浸かりすぎては廃人となり、適量を用いれば強力な薬となる諸刃の剣だ。自我を強く持たなければ神に、魔力に飲み込まれる。
――これいつまで続けるの?
――……疲れるまで、かしら?
一度受け取り側に接続すると、その後は体勢を保って魔力を放出するだけで良い。姿勢を変えることができないと言うのは一見何もできないように見えるが、アーシェの場合は精神空間で茜と読書と勉強会ができる。
いつの間にか精神空間に現れていた様々な家具を活用しながら、茜の膝上で読書をするアーシェ。
昨夜からアーシェは自重と遠慮を捨てた。
ついでに茜への迷惑を考慮することも、魔力と一緒に神に捧げる。茜のことはまだ分からないけれど、茜はどんなアーシェも受け入れて認めてくれる。茜は貴族とは違うのだ。弱みを見せても叱責されたり、つけ込まれたりしない。
そんな安心感とも似た気持ちが、彼女の中に生まれていた。
――これはどういう意味?
――たぶんこれと同じじゃないかな。
茜は教えるのがとても巧みである。
茜の教育理念は特定の理念にとらわれない理念といった、ある意味矛盾をはらんだものだった。実際その通りで、茜は要所要所で教育方法を変えて、その場に合った、最適だと思う学習法を選択している。
アーシェは思う。自分が、いやこの世の人が茜のように振る舞えるまでに一体何年かかるのだろう。どれだけの知識と経験が必要になるのだろう。それはきっと両親保護者、教育係にだってできないことだ。
子ども部屋時代、アーシェたちには教育係がいた。その者は子どもに基礎知識を教える事に秀でた才能を持ち、アーシェもそれによって語学の習得や貴族の常識を身につけた。
しかし茜は文字通り見ている世界が違う。まるで局所的に人格を入れ替えているかのように、思想がコロコロと変化するのだ。
結局二の鐘が鳴ってもアーシェは疲労感を持たなかった。
茜が来る前に行ったとされる奉納式で出したものと、同程度の出力で放出したはずだが、彼女が来たせいで魔力量が上がったのか、大して魔力を流した感じはしなかった。
――次はもっとたくさん魔力を出すわよ。
――無理しない程度にね。
その後は保護者も続々と集まり、いつもの朝食風景になった。
朝のミリアシルは忙しい。アーシェが半刻かけて食べ終わる量を、彼は八半刻未満で食べ終わるが、行動に反して彼の仕草はその忙しなさにまで品がある。
その仕草に見とれていたのも、食事が遅い原因だったのかも知れない。




