013.義母とお稽古
――どどどどうしましょう、茜。ロベルティーネ様にお呼ばれされてしまったわ!
自室に戻った瞬間、アーシェの緊張が決壊した。
ロベルティーネは常にアーシェの先を歩んでいる。それは人生経験の差であり、今のアーシェでは決して敵うことはないだろう。
――とりあえずいつ行くのかとか何を持って行くのかとかを決めたら良いんじゃないかな。私とではなく側近の人たちとね。
――そ、そうね。
「セリア、メリッサ、わたくしは何を為せば良いのでしょうか」
「まずは落ち着いてくださいませ」
深呼吸を促し落ち着かせるセリアは、どこか微笑ましい顔でアーシェを見守っていた。
彼女は懐妊の時からアーシェに仕えることが決まっていた、最古の従者の一人である。
セリアなら何でも知っている。セリアなら何でも答えてくれる。そんなアーシェの期待に応えようと必死に正しくあり、正しくあろうと努力していた。
「姫様は既に一つ過ちを犯しました」
犯した過ちは、ロベルティーネにどのような目的の会合か聞かなかったこと。茶会なのか、稽古なのか、どのような空気であれ、聞くべきところは聞かなければならない。
「今からでも尋ねに行くべきかしら……」
「いいえ、今から行くのでは失礼ですし、姫様自ら出向いては品が疑われてしまいます」
この場合は従者を通して裏で調整するのが最良であるらしい。互いの右筆を遣わして連絡を取り合い、主人が赴いてははしたないのが淑女のマナーであるという。
「今回は初めてと言うこともあり、わたくしとメリッサが聞いて参りました」
去り際にロベルティーネの右筆に予定を聞き、アーシェの予定とすりあわせを行った。アーシェの場合は未就学児と言うこともあり、右筆が担当する予定よりも、扈従が把握する体調などが優先されることもあるため、調整にはセリアも関わったのだ。
「姫様は今回の会はどちらと存じますか」
「扇の扱いを教えて下さるのなら稽古でしょう」
「では、そのように手配致します」
実のところ、アーシェがどのように捉えても問題ないように、ロベルティーネはあらゆる事態に備えていた。今回アーシェに選択をさせたのは、彼女の性格を調べるためでもあったのだ。
「三の鐘からお待ちしているとの言伝を頂いております。それまでに扇子の基本を軽くお伝え致しますね」
そう言ってセリアとメリッサが自身の扇子を取り出した。どれもがアーシェが授かった扇に引けを取らない素晴らしい作りであり、その華やかさにアーシェは羨望の息を漏らした。
「隣の花は赤いものですよ。むしろ成人していない姫様が、それほどまでに立派な御御扇を頂けることの方が、よほど羨望の対象になり得ます」
扇とは自身の分身であり淑女の命である。扇を授かるという事は、その人から見て、自分がどのように映っているのかを知らしめる行為でもあるのだ。
普通であれば成人後、その者の為人が知れた後に評価と褒美を兼ねて与えられるものであり、このように出会って数日で贈られるものではないし、ましてや浄階貴族の成人女性に贈られる扇子と同等か、それ以上の品位を備えたものを贈るなんて聞いたことがない。
それが意味するところは、今後アーシェがどのように育っても、どんな事をしても、責任を取り、アーシェの身を守ると言う固い意志。そして彼女の将来に期待する、類い稀なる愛情が籠もっていると言うことに他ならなかった。
ロベルティーネがその事を伝えなかったと言う事は、そうすべきではなかったと判断したからだろう。アーシェの側近はそう解釈し、主人には黙って座学としての扇の意味を教えるのだった。
「扇子を所持するときは主に三通りの持ち方があります」
「一つは手持ち、一つは腰差し、一つは内隠しでございます」
手持ちは己が代わり身である扇子を手に持つ事で、我が身を隠し、公の場に臨む意を持つ。
腰差しは扇子を小刀に見立てて腰に差し、決死の覚悟などの意を表す。
そして内隠しは見えない場所に扇子を隠し、相手に自らの全てを見せるという親愛や誠実、忠誠の意を示す。
「私的な場で手持ちをしていれば相手に失礼と取られ、同じく公の場で内隠しをしていたら、親しい仲ならまだしも、裏を疑われてもおかしくありません」
「故に扇子を与えられた貴族は扱い方を正しく学び、送り手の品位を保つためにも、美しく、華やかに振る舞わなければならないのです」
そうして三の鐘が鳴る頃、そこには立派な淑女にまた一歩近付いたアーシェがいた。扇を腰に差し、側近を連れてロベルティーネのもとへ向かうアーシェの顔は、まさに覚悟のついた凛々しい表情だった。
結末から論じると、アーシェとロベルティーネの稽古は二人の仲を深めた。
一刻弱に及び、側近の二人から知識だけの教えを受けたアーシェの飲み込みは早い。
ただ作法を鵜呑みにするだけではなく、貴族が扇子を持つようになった時代背景や、淑女が禁忌とする振る舞いを考慮することで、作法の奥にある行動の意義を正しく理解する。
そんな姿勢を苦もなく続けられるアーシェは、生まれながらの勉強上手だった。
「もう少し上げなさい。公の淑女は鼻頭を見せるものではありません」
「はい」
扇子の構えは相手との身長差によって位置が異なる。
背丈の違う従者で繰り返し試し、アーシェの感覚をつかませる。淑女は自らの肌に扇面を当ててはならない。紳士以上に化粧をする機会が多い淑女は、肌に付くギリギリの間隔を、学院の下級生のうちに身体に叩き込まなければならないのだ。
「貴女は本当に飲み込みがお早いこと」
「過分な評価、恐れ入ります」
「アーシェリット様」
ロベルティーネは頭を抱えたい気持ちを努めて隠す。
アーシェはどんな子どもより賢く、そして盲目的なまでに、近しい者に敬意を抱いている。アーシェの義母としてはこれ以上幸福なことはないのだが、それは領主の姫が為すべきことではないのだ。
「貴女からの敬意は嬉しく存じますが、貴族たるもの自らを卑下するものではありません」
高貴であれ。
その一言はアーシェに重くのしかかった。自らを据え置き、他人を高める。それこそが高貴なる一族の社交である。
アーシェは己が高貴を見いだせず、それでも自問自答を繰り返しながら稽古を続けた。
四の鐘が鳴り響き、アーシェたちは食堂へ移動する。高貴とは何か、それを考えながら歩く歩調は、いつもよりさらに遅く、それを見守るロベルティーネの目には慈愛の情が垣間見えた。
「アーシェ」
この国において、公爵家の長女アーシェリットを、アーシェという愛称で呼び捨てることができる人間は、決して多くない。この城の、さらには公の場とあれば、たった四人に限定される。
「お父様、お母様」
二人の姿を見るとアーシェの歩調は速さを増す。そのときには既にアーシェの頭からは悩みの種など消えていた。子どもの思考回路はかくも単純なのである。
「今朝は失礼しましたね」
アーシェとの数少ないふれあいの場を、自分たちの都合で提供できず、エルミニクは謝罪した。しかしアーシェはロベルティーネと一緒にいたことを告げ、寂しさは無かったと伝えると今度はエルミニクが寂しそうに眉を顰める。
どうやら彼女はアーシェに寂しがる姿をしてほしかったらしく、それが義妹に取られたことに嫉妬の念を抱いているようだ。
「ロベルティーネ様、わたくしのアーシェと何をなさっていらしたのですか」
「扇子のお稽古ですわ。エルミニク様」
「扇子……?」
アーシェが嬉しそうに扇子を取り出すと、エルミニクが絶句する。アーシェの取り合いに敗北し、気を病んでいる彼女を見かねたミリアシルが仕方が無いと言った態度でロベルティーネを窘めた。
「ロベルティーネ。戯れも良いが、其方も来なさい」
いつもながらの無感情が張り付いた表情の裏に何かを感じ取り、ロベルティーネは扇子を広げて口元を覆う。その流れるような素振りは自然体そのもので、身体に染みついた動作そのものだった。
「畏まりました。内務卿閣下」
アーシェの元から離れ、二人と合流する。その瞬間、アーシェの心に理解できない不安がよぎり、その感情を隠すために拳を強く握った。
「アーシェ」
何を言われるか、全身全霊細心の注意を払って父の声を聞く。
「其方自身の扇を手に入れたのなら、これからは片言隻句に気を付けなさい。一族の一員として相応しい言動を心がけよ」
「……拝命致しました」
アーシェの望んでいた言葉とは少し違うが、それでも尊敬して止まない父の言葉は確かにアーシェの活力となり心に残り続ける。
──お父様からの新しい課題よ。
──あ、これ課題なのね。
アーシェは三人と別れた後、やる気と覚悟に満ちた眼差しで独り昼食を済ませた。




